毎話の文字数は多めです。その方が私が好きなのとじっくりと描けるので。
苦手だったら申し訳ありません。
王都第三工業区は、ノル・エルセインが普段歩く街とは、同じ王都の中とは思えないほど様子が違っていた。
王宮と中央官庁の集まる北区では、通りは淡い灰色の切石で舗装され、建物の高さも軒の位置もおおよそ揃っている。
朝になれば清掃夫が石畳を洗い、街路樹の枝は季節ごとに刈り込まれる。
昼には官吏や商会員を乗せた魔導軌道車が大通りを往復し、日が落ちれば等間隔に並んだ街路灯へ白い光が入る。
王国には、およそ千五百万人が暮らしている。
そのうち王都の行政区だけで百四十万を超え、途切れず連なる近郊市街まで含めれば、人口は二百万近くになる。
王宮、議会、中央官庁、王立学院、大商会、銀行、新聞社、劇場、印刷所、工場。国の制度を作る者も、それを紙へ刷る者も、機械を設計する者も、その機械を実際に動かす者も、相当な数がこの巨大な都市圏へ集まっていた。
もっとも、二百万人が同じ王都を見ているわけではない。
北区から南東へ馬車で一時間も走れば、街の表情は大きく変わった。
第三工業区には、北区の整然さがない。
煉瓦と石を継ぎ合わせた建物の外壁を、後から増設された蒸気管や導魔線が何本も這っている。
二階の窓から隣の工房へ直接渡された細い配管もあれば、何の用途なのかノルには判別できない銅線が軒下を束になって走っているところもあった。
鍛冶場から鉄を叩く音が響き、その向こうでは蒸気機関が一定の間隔で低い唸りを上げる。
荷役夫が声を張り、荷車の鉄輪が濡れた石畳を軋ませていた。
昨夜から降り続いた雨は、昼前になってようやく上がった。
道路の窪みには煤の混じった黒い水が残っている。
馬車が一台通り過ぎ、歩道まで細かな飛沫を跳ね上げた。
ノルは自分の革靴の先を見下ろした。
薄い泥が付いている。
今朝、使用人が磨いてくれたばかりだった。
ほんの一瞬だけ眺めてから、鞄から白いハンカチを取り出す。
「ノル補佐官。裏手へ車を回しましょうか」
隣で声がした。
同行している王国中央記録院・記録規格課の主任、ハロルド・ネイスだった。
四十代半ば。ノルより二十年以上年長だが、今回の公的光像記録規格の改定では実務案をまとめているノルに同行する立場にある。
「そこまでしなくて大丈夫です」
靴先を一度だけ拭った。
今日の服は、伯爵家の礼装ではない。
濃紺の細身の上着。同色のパンツ。襟の高くない白いシャツ。装飾と呼べるものは、左胸に留めた指先ほどの銀章だけだった。
翼を閉じた梟と巻物が浮き彫りになった、中央記録院の職員章。
それでも、ノルはこの街では多少目立った。
肩には届かない程度に整えた髪は、金とも茶とも違う、くすんだピンクベージュ。曇天の下では灰色が強く見えるが、毛先には薄い薔薇色が残っている。
前髪は目にかからないよう斜めに流し、耳の周囲だけ少し軽くしていた。
瞳は青紫。陽のある場所では青が浮き、光が落ちると紫の方が深くなる。
エルセイン家には、数代に一度ほど同じ色の瞳が現れるという。
幼い頃、母に歴代の家族肖像を見せられて、「曾祖母によく似ている」と言われたことがあった。
ノル自身は、自分の色を特別だと思っていない。生まれたときからある。それだけだった。
「今日は官吏として来ています」
ノルが言った。
「伯爵家の人間としてではありません」
ハロルドが少し困ったように笑う。
「ノル補佐官がそう考えていても、先方まで同じとは限りませんよ」
反論はしなかった。
それも分かっている。この国で家名を持つ人間は、多くない。
王族。その下に、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の五爵。さらに、古い騎士家や、王から特許を受けた一部の大商家、学術家系。それらをすべて合わせても、人口全体では少数だ。
王都でパンを焼く者も、港で荷を運ぶ者も、工房で機械を直す者も、役所で帳簿を写す下級吏員の大半も、ただ一つの個人名だけを持って生きている。
家名は単なる呼び名ではない。
少なくとも貴族にとっては。土地。相続。課税。家産。地方行政。それらを一つに束ねる法的な器でもある。
エルセイン伯爵家は、王国西部に三つの都市と四十余りの農村、それにいくつかの市場町を抱えていた。
領民はおよそ十七万人。伯爵領としては中上位の規模になる。
最大の領都には四万人余りが暮らし、領政府、地方裁判所、上級学校、病院、大手銀行の支店が集まっている。
第二都市は河川交通と製粉業、第三都市は羊毛と染色で栄え、その外側には小麦と大麦の畑が広がっていた。
豊かな土地ではある。だが、エルセイン家が中央で知られている理由は、領地の広さではなかった。
曾祖父は財務卿の補佐。
祖父は王国会計院長官。
父も若い頃には法務院に勤めていた。
地方領主でありながら、代々中央官庁へ人材を送り込んできた家だった。
『剣より帳簿を持つ家』
そう称されることもある。
ノルはわりと正確な表現だと思っていた。
現在、領政の実務を最も多く担っているのは兄のアレクだった。ノルより五つほど年長で、父の後を継ぐ嫡子。
十七万人分の道路、水利、徴税、治安、学校、医療、農業、商業を、父と領政府の官吏たちとともに回している。
三つ年上の姉セレネは王立学院に籍を置き、古文書と文化史を研究している。
そしてノルは末娘だった。
十七で成人を迎えた後、王立行政学院の実務課程を経て中央記録院へ入り、今は三年目になる。
同じ頃に成人した者の中には、すでに婚姻して世帯を持った者も珍しくない。
ノルにとって、それは今のところ他人の生活の話だった。
兄ほど領地へ縛られない。
姉ほど研究の世界へ惹かれたわけでもない。
だから官吏になった。
制度を読むことも、数字を整理することも嫌いではなかった。自分で選んだ仕事だ。少なくとも、本人はそう考えている。
「行きましょう」
濡れた路面の向こうに掲げられた看板を見る。
《ラウエン光像工房》
雨に晒された木製の看板は、角のところだけ黒く変色していた。工房主のラウエンは、五十代ほどの大柄な男だった。
「ようこそお越しくださいました」
両手を前で合わせ、やや深めに頭を下げる。
上着だけは着替えてきたらしい。ただし袖口には黒い薬液の染みが残っている。
「急なお願いですみません」
ノルが返す。
「いえ、とんでもない。中央記録院から直接見に来ていただけるなら、こちらとしても助かります」
受付は狭かった。
木製の机。帳簿。壁には家族肖像や、成人記念らしい写真が何枚か掛けられている。
その奥に、天井の高い作業場が続いていた。
ノルは自然にそちらを見る。
正面には大きな窓。壁際には乾板棚。薄い硝子板が一枚ずつ木枠へ収められ、番号順に並べられている。
作業場の中央には、大きな箱型の撮影機が二台あった。
一台は比較的新しい。暗色の木箱から太い鏡筒が前方へ伸び、その先端に手のひらほどの硝子レンズが嵌め込まれている。レンズの周囲には、銀白色の金属環が三重に重ねられていた。
もう一台は、それより一回り大きい。
木部には何度も補修した跡がある。角を保護する金具も左右で材質が違う。三脚の一本だけ色が新しい。
ノルはそちらを少し長く見た。
「実際の作業工程を、最初から最後まで見せてもらえますか」
ラウエンが少し驚く。
「最初から、ですか?」
「撮影、現像、定着、複写まで。新しい機械と古い機械、両方で違いが分かると助かります」
ハロルドが横で手帳を開く。
「そのために三時間取っています」
「三時間」
ラウエンが繰り返した。
視察というものは、もっと短いものだと思っていたらしい。
ノルには、その感覚がいまひとつ分からない。現場を見ないなら、わざわざ来る意味がない。
ラウエンは少し考え、それから作業場の奥へ声を張った。
「ミオ!」
返事がない。
「ミオ!」
今度は少し大きい。黒い遮光布の向こうから、若い女性の声がした。
「聞こえてます」
布が持ち上がる。
一人の女性が、両腕に木製の乾板箱を抱えて出てきた。
ノルは最初、髪を黒だと思った。しかし窓の近くへ出た瞬間、その認識が変わった。
濃紺だった。黒の底に藍を沈めたような色。
腰近くまで伸びた髪を、作業の邪魔にならないよう低い位置で一つに束ねている。
結び目から下だけでも長く、歩くたびに背中でゆっくり揺れた。光が当たったところだけ、黒の表面に群青が浮く。
瞳は灰青。晴れた空の青ではない。曇りの日の海に近い。正面から見ると灰色が強いが、窓側へ顔を向けると、その奥に青が現れる。磨かれた灰色の石を傾けたとき、表面の内側だけに冷たい光が走るような色だった。
右頬には黒い薬液の点。
白いシャツの袖は肘まで捲られ、右手にだけ厚い皮手袋をしている。袖口の少し上には、淡い茶色の薬品染みが残っていた。
「こちら、中央記録院のエルセイン補佐官だ」
ラウエンが紹介する。
「導入予定の新規格について、現場を確認される」
ミオと呼ばれた女性は、ノルの顔を一度見た。
次に胸元の銀章。
そして、もう一度顔へ戻る。ほんのわずかに表情が固くなった。
「……そうですか」
愛想がないわけではない。ただし、歓迎しているようにも見えない。
ノルはその態度を不快とは思わなかった。むしろ分かりやすい。
「ミオさん?」
確認すると、彼女は抱えていた乾板箱を机へ置いた。
「ミオで結構です。家名はありませんから」
「では、ミオ。お願いします」
「私が?」
「お前が一番分かるだろ」
ラウエンが言う。
ミオは工房主を一度見た。明らかに少し面倒そうだった。それでも、
「分かりました」
と答えた。ノルは頭の中で一つ仮説を立てた。
貴族が嫌いなのかもしれない。あるいは官吏が嫌いなのか。
両方という可能性もある。判断材料はまだ足りない。
「何から見ます?」
ミオが尋ねる。
「ボクは撮影技術そのものにも詳しくありません」
「そこから?」
灰青の目が少しだけ大きくなる。
「はい」
「新規格の担当なのに?」
「撮影機を設計しているのは技術局です。ボクの担当は導入制度と予算、地方運用なので」
「ああ」
ミオが少し納得したように頷いた。
「機械屋ではないんですね」
「専門ではありません」
「じゃあ、本当に最初から説明します」
「お願いします」
声から、最初のわずかな棘が少し減った。
魔導写真という名前から、ノルはもっと魔法そのものに頼った技術を想像していた。
景色へ術式を掛け、その姿を結晶の中へ直接封じ込めるようなもの。
実際には、かなり違った。
「これが乾板です」
ミオが棚から一枚取り出す。
縦二十センチほど。横十五センチほど。一見すれば、ただの薄い硝子だった。片面だけ、乳白色に曇っている。
「普通の硝子に見えます」
「元は普通の硝子です」
ミオが窓へ透かした。
「片側に感光乳剤を塗ってあります」
「感光乳剤」
「光へ反応する薬です」
そこで一度、ノルを見る。
「専門用語、そのまま使って大丈夫ですか」
「分からなければ聞きます」
「じゃあ、そうします」
乾板の端を持ち直す。
「銀塩と膠、それから細かく砕いた魔晶粉を混ぜた乳剤です。光が当たると、中の銀塩の状態が変わる」
「魔晶粉は何のため?」
「感度を上げる補助」
「魔法で像そのものを作るわけではない?」
「違います」
ミオは撮影機を指した。
「写真の基本は光です。前のレンズで外の光を集めて、その像を乾板の上へ結ぶ。乳剤は、当たった光の量に応じて反応する」
「魔法は?」
「補助です」
短い返事だった。
「純粋な魔導記録もありますけど、公文書には向かない」
「なぜ?」
「長持ちしないから」
「どれくらい?」
「数年なら綺麗です。十年、二十年になると像が少しずつ崩れる。強い魔場の近くに置くともっと早い」
「百年保存したい文書館では使えない」
「使いたくないですね」
ミオは乾板を木枠へ戻した。
「硝子と薬品の方が信用できます」
その答えが、ノルには少し面白かった。
魔法を信用しすぎない。
それが光像技師の感覚なのかもしれない。新しい撮影機の前へ移る。
「ここがレンズ」
それは見れば分かる。
「その周りが集光環です」
銀白色の輪が三重に重なっている。
「これは魔導部分。レンズを通った光が必要以上に散らないよう補正します」
「レンズそのものの代わりにはならない?」
「なりません。悪いレンズは、魔力を流しても悪いレンズです」
「全部魔法で補正することは?」
「できますよ」
意外な答えだった。
「でも、そんな装置を作る金で高級レンズが十枚は買えます」
ノルは少し考えた。
「それは無駄ですね」
「でしょう」
ミオの返事に、初めてほんの少しだけ親しげな響きが混ざった。
集光環へ流す魔力は、撮影機下部に収めた規格魔石から供給する。規格魔石は地下の魔晶鉱脈から採掘した鉱石を砕き、不純物を除き、結晶構造を整えて作る工業資源だった。
出力と安定性によって一等級から四等級まで分けられ、撮影機のような精密機器では、高出力よりも弱い魔力を一定に出せることが重要になる。
この工房で使うのは、最も安価で流通量の多い四等級。
工場の補助機械や家庭用加熱器、街路灯にも使われる種類だった。
「使い切ったら捨てる?」
ノルが尋ねる。
「回収です」
「再利用できる?」
「結晶が完全に崩れてなければ。出力が落ちたものを低負荷機器へ回したり、粉砕して再精製したりします」
「王都だと回収業者が来る?」
「週二回。地方は場所によりますけど」
その言葉の最後に、わずかな含みがあった。
ノルは気づいたが、まだ聞かなかった。
「実際に撮ります?」
「お願いします」
若い助手が呼ばれた。
木製の椅子へ座る。その背後に、灰色の布が下ろされる。
「どうして灰色?」
ノルが聞く。
「白だと光を反射しすぎて、顔の方が暗く出やすい。黒だと濃い服の輪郭が消えやすい。灰色が一番扱いやすいから」
「人によって変える?」
「服や肌、髪色で」
「細かいんですね」
「写真は、光が全部なので」
その言い方は短かったが、妙に残った。
ミオは撮影機の背面へ回る。
まだ乾板は入っていない。代わりに、半透明の磨り硝子が嵌められていた。
ミオが黒い布を頭から被る。
「今は何を?」
「焦点合わせ」
「見ても?」
一瞬だけ間があった。
「どうぞ」
ミオが遮光布の端を持ち上げる。
ノルも頭を入れた。
布の中は暗い。目の前の磨り硝子だけが、ぼんやりと光っている。
そこに、逆さまの世界があった。椅子に座った助手が、天井からぶら下がって見える。窓も逆。床も上。
「全部逆なんですね」
「レンズを通った光は途中で交差するので」
ミオの声が近い。
「撮影機の中で戻さない?」
「鏡を入れれば戻せます。でも光量が落ちる。この型ではそのままです」
ノルは磨り硝子を見る。
助手の顔が少しぼやけている。
ミオが鏡筒横のねじを回した。
レンズが、ごくわずかに前へ出る。輪郭が締まる。頬。髪。襟。ぼんやりしていた境目が、一つずつ形を持つ。
「これが焦点」
「分かりやすい」
「被写体との距離が変われば、毎回合わせます」
「毎回?」
「毎回」
「面倒ですね」
「仕事なので」
返しが少しだけ自分に似ていて、ノルは口元を緩めた。
磨り硝子から顔を上げる。すぐ横に、ミオがいた。
近い。二人とも同じ遮光布の下へ頭を入れているのだから、当然ではある。さっきより近い距離で見る灰青の瞳は、遠目で見た色より複雑だった。
虹彩の外側は灰色が濃い。中心へ近づくほど青が増し、窓から入る白い光を拾った場所だけ、細い銀色の筋が見える。宝石のように均一ではない。むしろ、均一ではないから目に残る。
ミオもノルを見ていた。
磨り硝子の白い光が、青紫の瞳へ映っている。遠くでは淡く見えた髪も、この距離では一本ずつ色が違う。根元には灰色があり、毛先へ行くほど薄い桃色が混じっていた。
どちらも、そのことを口には出さなかった。ミオの方が先に布から出た。
「乾板、入れます」
声は普通だった。
「はい」
ノルも普通に答えた。
磨り硝子を外す。代わりに、乾板を収めた木製のケースを背面へ差し込む。薄い遮光板を引き抜く。
「これで乾板がレンズ側へ出ました」
レンズの前には、まだ黒い蓋がある。
「この蓋を開けている時間が、露光時間です」
「今日は?」
ミオが小さな露光計を見る。
「窓際で明るいので、一秒半くらい」
助手へ声を掛ける。
「顔はそのまま。瞬きはしていいけど、首を動かさないで」
助手が頷く。ミオがレンズ前の蓋へ指を掛けた。
外す。集光環に淡い青白い光が走る。一。少し。戻す。
「終わり?」
ノルが聞いた。
「撮影は」
「まだ写真は見えない」
「何も」
乾板ケースを抜く。
「暗室へ行きます」
そこまでして、ようやく一枚だった。
ノルは、写真を撮るという行為が、自分の想像よりずっと手間の多いものだと知った。
暗室には赤い魔導灯だけが点いていた。
「なぜ赤?」
「今の乳剤は赤い光への感度が低いので」
「全く反応しない?」
「長く当てればします。だから明るくしすぎない」
作業台には浅い陶器皿が三つ並んでいる。
一つ目は透明に近い液体。
二つ目はわずかに黄色い。
三つ目は、鼻の奥へ残る独特の匂いがした。
ミオが乾板を最初の皿へ沈める。
「現像液です」
最初は何もない。ただの硝子。
数十秒。黒い影が浮かび始める。ノルは無意識に少し身を寄せた。
人の顔。椅子。背景布。暗闇の中から、一つずつ輪郭が現れてくる。
「面白い」
小さく言った。ミオが横目で見る。
「初めて見ます?」
「はい」
「官庁だと完成したものしか見ない?」
「ほとんど」
「じゃあ、結構知らずに規格作ってたんですね」
棘はある。けれど、最初のものとは少し違った。
ノルは否定しなかった。
「だから来ました」
ミオが一瞬、何も言わなかった。
乾板に現れた像は、普通の写真とは明暗が逆だった。肌は暗い。影は白い。
「これで完成ではない?」
「原板です」
「なぜ逆になる?」
「光を多く受けた場所ほど、乳剤中の銀が黒くなるから」
ノルは少し考える。
「白い服は、光を多く反射する」
「はい」
「だから原板では黒くなる」
「そう」
「これを別の感光紙へ焼き付けると」
「もう一度反転して、普通の明暗になります」
「なるほど」
ミオは乾板を二枚目へ移した。
「停止液。現像反応を止めます」
三枚目。
「定着液。まだ光に反応できる銀塩を落とす」
「これをしないと?」
「明るい部屋へ持って出した瞬間、全部黒くなります」
「怖い」
「見習いのとき、何度かやりました」
「何枚?」
ミオが少し遠い顔をした。
「……百枚ほど」
ノルの口元がわずかに緩む。
「笑わないでください」
「まだ笑ってないです」
「顔が笑ってる」
「すみません」
「反省してない」
「しています」
「してないでしょう」
自然に会話が続いた。それが少し不思議だった。
工房へ入ったとき、ミオはもっと話しにくい人間だと思っていた。たぶん向こうも似たようなことを考えていた。
一枚の写真が完成するまでには、まだ工程がある。
現像。停止。定着。水洗。乾燥。さらに原板から紙へ複写するなら、もう一度露光し、現像し、定着する。
一枚だけなら一時間ほど。大量の仕事なら、半日が消える。
「ここまでは新しい機械の話です」
ミオが手袋を外しながら言った。
「次が、今回の仕様書の話」
声音が変わった。
作業場へ戻る。古い撮影機の前で、ミオが止まった。
近くで見ると、新型との差は大きい。木箱そのものが厚い。鏡筒も太い。集光環は一重だけ。脚部には別の木材を継いだ修理跡があり、側面の金具には細かな傷が重なっている。
「何年前の型です?」
ノルが尋ねる。
「製造は二十六年前」
「二十六」
数字を聞いて、少しだけ考える。
「兄上と同じくらい」
「お兄さん?」
「そのくらいです」
ミオは機械の側面を軽く叩いた。
「じゃあ、私たちよりずっと先輩ですね」
「機械にも先輩って言うんですか」
「私は言います」
「そうですか」
「少なくとも、私が見習いで入ったときにはもう古参でした」
ミオの指が、木箱の角をなぞる。その動きだけは丁寧だった。
「何度も直してます。導魔線も、焦点送りも、集光環も。純正部品は十年以上前に終わったので、今は似た規格の部品を加工して合わせてる」
「それでも使える?」
「使えます」
返答は早い。誇張も迷いもなかった。
「ちゃんと手を入れれば」
ミオが続ける。
「まだ十分働きます」
ノルは古い撮影機を見る。
傷。継ぎ足された木。色の違う金具。北区の中央庁舎なら、とっくに備品更新の対象になっているだろう。それでも、ここではまだ仕事をしている。
「それが、新規格で問題になる?」
ノルが聞いた。ミオがこちらを向いた。灰色が勝っていた瞳へ、窓の光が入る。奥から青が浮いた。
「はい」
それまでより、声が少し硬くなる。
「仕様書には、『旧式機でも使用可能』って書いてありますよね」
ノルは手帳を開いた。その文言なら覚えている。
技術局から上がってきた適合試験の結論。新規格乾板は、現行登録機の九割以上で使用可能。だから、移行上の大きな問題はない。そういう前提で制度案を組んでいる。
「書いてあります」
ノルが答えた。
「間違ってはいません」
ミオは古い撮影機へ手を置いた。
「使えます」
一拍。
「ただ、使えることと、使い続けられることは別です」
工房へ入ってから。初めて聞く種類の言葉だった。
ノルのペン先が、紙の上で止まった。
ミオは作業台の奥に置かれた二種類の乾板を取りに行く。
旧規格。新規格。見た目にはほとんど変わらない、二枚の硝子板。
その二枚が、何を変えるのか。ノルはまだ知らなかった。