二枚の乾板は、見た目だけならほとんど同じだった。どちらも薄い硝子板で、片面に白く曇った感光乳剤が塗られている。
並べて光へ透かしてみても、ノルには一方が導入予定の新規格だと見分けることは難しかった。
違いがあるとすれば、硝子板の厚みだった。横から見ると、新しい乾板の感光層がほんのわずかに厚い。
「一割くらいです」
ミオが言った。
作業台には旧規格の乾板と新規格の試験乾板が一枚ずつ置かれている。
「硝子板そのものを厚くしたわけではありません。乳剤の密度と、混ぜてある魔晶粉の量が増えてます」
ノルは腰を少し屈めた。
「保存性を上げるため?」
「はい。光で変化した銀塩の層が厚い方が、像が崩れにくい。あと、細部も拾いやすいです」
「画質も上がる」
「上がります」
そこだけ聞けば、悪いことは何もない。中央記録院へ提出された技術局の報告書にも、同じことが書かれていた。
長期保存性、従来比およそ二割向上。高精細複写時の階調保持性能、改善。規格寸法の統一により、文書館の保管棚や複写器も共通化できる。
ノル自身、それらの利点には納得していた。だから導入案を作った。
「でも」
ミオが新しい乾板を持ち上げる。
「光をたくさん欲しがる」
そのまま、古い撮影機へ向き直った。
「こっちは、その光をうまく集められない」
二十六年前に製造された機械。
ノルの兄とほとんど同じ歳月を過ごしている。
新型より木箱が厚く、鏡筒も太い。レンズ周囲の集光環は一重だけで、その表面には長年の使用で細かな傷が残っていた。
「光量不足?」
ノルが聞く。
「不足というより、効率が悪いです」
ミオは集光環の横へ指を置く。
「新型は三重環で、レンズを通った光を乾板の全面へかなり均等に補正できます。でもこれは一重。しかも二十六年使ってる」
「新品時より性能が落ちている」
「当然」
返事が早い。
「導魔線も交換してるし、集光環の内側にも微細な歪みがある。撮影できないほどじゃない。でも、新品と同じ数字は出ません」
ノルは手帳を開いた。
「技術局の試験結果だと、旧式機の露光時間増加は平均一・三倍程度です」
ミオが一度こちらを見る。
「試験機、何年前のものです?」
「同型の保存機。未使用に近い状態です」
「それは旧式機じゃなくて、古い型の新品です」
ノルのペン先が止まった。
言葉としては単純だった。けれど、確かに意味が違う。技術局が試験に使った機械は、型式としては古い。
しかし二十年、三十年と毎日動かしてきた機械ではない。摩耗も、修理も、部品交換もない。
「全国の登録機って、平均使用年数分かります?」
ミオが聞く。ノルは少し考えた。
「型式別の登録台数はあります」
「年数は?」
「……ないですね」
「でしょうね」
責めるような言い方ではなかった。むしろ、予想通りだという響きだった。それが少し悔しい。ノルは手帳の余白へ、
《登録機の実使用年数》
と書いた。
「実際に比較できますか」
「できます」
ミオはすぐに動いた。
まず、新型機。最初の視察で助手を撮ったものと同じ機械を、窓際へ少し移動する。空はまだ曇っている。雨は止んだが、雲が厚い。
ミオは窓の外を一度見てから、小さな露光計を手に取った。
真鍮製の丸い器具。上部の乳白硝子へ光を当てると、内部の感応片が動き、文字盤の針が現在の明るさを示す。
「露光計も魔導式?」
ノルが聞く。
「半分だけ」
「半分?」
「光を測るところは感応薬です。針を安定させるのに小さい魔晶片を使ってる」
ミオは文字盤を見た。
「今日は暗めですね」
「どれくらい?」
「窓際で、旧乾板なら二秒少し」
助手をもう一度椅子へ座らせる。
背景布。焦点。乾板。遮光板。前の視察で一度見た工程なので、今度は何をしているのか少し分かる。
「同じ条件で撮ります」
ミオが言う。
「服も位置も変えない?」
「なるべく。人間なので完全には無理ですけど」
助手が苦笑した。
「また僕ですか」
「一番暇そうだから」
「忙しいです」
「今日はマシでしょ。いいから座って」
「はい」
ノルは少し笑った。
まず旧規格乾板。新型撮影機。ミオがレンズ前の蓋を外す。一。二。戻す。次に新規格乾板。露光時間は少し延びた。それでも大きな差ではない。
「新型なら?」
ノルが聞く。
「今の光なら、旧規格が二・一秒くらい。新規格で二・四から二・五秒」
「一・二倍もない」
「だから新型なら問題ないです」
ミオは乾板ケースへ印を付けた。
「むしろ新乾板の方が細部は綺麗に出ると思います」
「じゃあ中央が問題なしと判断した理由も」
「新しい機械だけ見れば正しい」
そこは否定しない。ミオは新規格そのものを嫌っているわけではない。それがノルには少し意外だった。
次に古い撮影機。三脚の固定具を確認する。
ミオは脚の一本を軽く蹴るようにして位置を確かめたあと、木部へ手を添えた。
雑に見える動きなのに、扱いは丁寧だった。
「これ、癖があります」
「癖?」
「焦点送りを一度行き過ぎてから戻さないと、歯車が噛みません」
そう言いながら鏡筒を動かす。一度、焦点を遠くへ外す。それから逆方向へ戻す。
「あと、右上が少し暗く出ます」
「なぜ?」
「集光環の歪み」
「直せない?」
「直すと環ごと交換になる」
「部品がない」
「そう」
修理できないわけではない。ただ、修理費が機械の価値に見合わない。だから、癖を理解したうえで使う。
「道具って、そういうもの?」
ノルが聞いた。ミオが少し考える。
「古いものは」
「新しいものなら?」
「新しいものにも癖はあります」
「結局あるんですね」
「人が作ってるので」
その答えが妙に気に入った。
同じ助手。同じ背景。旧規格乾板を入れる。露光計を見る。ただし、ミオは計器が示した数字をそのまま使わなかった。
「今、何を計算してる?」
「この機械分を足してます」
「露光計は機械ごとの差までは分からない?」
「光しか測れません」
「なるほど」
ミオは少し指を折った。
「旧乾板で三秒半」
蓋を外す。
三秒半。助手は動かない。撮影終了。
次。新規格乾板。
ミオは露光計を見る。
今度は少し長く考えた。
「五秒くらい」
ノルが顔を上げる。
「一・四倍」
「この機械なら」
撮影。五秒。新型機の二秒台と比べれば、同じ室内でも倍近い。ただ、五秒なら大人の肖像にはまだ使えそうだった。ノルはそう思ったらしい。ミオがそれを察した。
「今、五秒なら大丈夫そうって思いました?」
「……はい。少し」
「今日は窓際です」
ノルは周囲を見る。大きな窓。
昼。
曇ってはいるが、自然光は十分ある。
「奥の撮影室でやります?」
ミオが言う。
撮影室は建物の中央にあった。
窓が小さい。日中でも魔導灯を点ける。ここでは、家族肖像や商品撮影をすることが多いらしい。
ミオが椅子を移す。
助手がため息をつきながら再び座った。
「すみません」
ノルが言う。
「エルセイン補佐官が謝ることじゃないです」
助手が笑う。
「ミオさんに捕まったのが運の尽きなので」
「聞こえてるよ」
「聞こえるように言いました」
工房の日常らしいやり取りだった。ノルは少しだけ肩の力が抜ける。
灯具を一基。新型機。旧乾板。
「新型なら、七秒」
ミオが言った。新規格。
「八秒半くらい」
撮影。大差ではない。次に旧式機。旧規格乾板。
「十一秒」
ノルは少し眉を寄せた。
「長いですね」
「まだ普通です」
助手が姿勢を整える。十一秒。一。二。途中で瞬きをする。ただし首は動かさない。九。十。十一。蓋が戻る。
「これでもしんどい?」
ノルが助手へ聞く。
「まあ、できなくはないですが」
「毎日慣れてるからね」
ミオが言う。
「一般客なら?」
「もっと動きます」
そして新規格。ミオが数字を出す。
「十六秒」
ノルの視線が上がる。
「一・四五倍くらい」
「はい」
助手が、
「長いなあ」
と呟いた。
実際に撮る。十六秒。時間そのものは短い。ただ、動くなと言われて待つ十六秒は思ったより長かった。
ノルは無意識に数えていた。
一。二。三。四。助手の喉が一度動く。七。八。九。途中で眉が僅かに動く。十二。十三。十五。十六。終了。
「今、動きました?」
助手が聞く。
「眉が少し」
ミオが答える。
「写る?」
「顔全体がぶれるほどじゃない。でも拡大したら分かるかも」
「十六秒」
ノルは手帳へ書く。
「子どもなら」
「かなり難しいです」
「乳児は?」
「無理」
即答だった。
「成人記念とか婚姻なら大丈夫です。でも、家族写真は子どもが入る」
「高齢者も」
「首を固定できれば。でも嫌がる人もいます」
「固定する?」
ミオは部屋の隅を指した。木製の椅子。背後に細い支柱がある。先端には革張りの半円形の受け。
「頭支え」
ノルは少し嫌そうな顔をした。
「痛くない?」
「痛くはないです。でも気持ちのいいものでもない」
「でしょうね」
「昔はもっと普通でした」
今は機械の性能が上がり、使う頻度が減ったらしい。技術の進歩とは、画質が上がるだけではない。動かずにいなければならない時間が短くなることでもある。ノルは少しだけ、それを実感した。
比較撮影を終えると、ミオは八枚の乾板を暗室へ運んだ。
同じ現像液。同じ温度。同じ時間。条件をできるだけ揃える。
ノルも再び暗室へ入る。
赤い光。薬液の匂い。もう二度目なので、最初ほど奇妙には感じない。
「並べると分かります」
ミオが言う。
乾板を一枚ずつ現像していく。まず新型機。旧規格。新規格。どちらも綺麗。新規格の方が髪や服の繊維が細かく出ている。
「確かに画質はいい」
ノルが言う。
「でしょう」
ミオの声が少し得意そうになる。
「好きなんですね、新しい乾板」
「嫌いならこんなに文句言わないです」
「逆では?」
「良くなりそうだから腹が立つんです」
その言葉に、ノルは少し考えた。
次。旧式機。窓際の写真。どちらも撮れている。ただし新規格は、画面右上の陰りが少し目立つ。最後。暗い撮影室。十六秒露光した新規格。助手の顔は写っている。けれど、目元だけ僅かに柔らかい。動いたのだ。
「失敗?」
ノルが聞く。
「納品できなくはない」
ミオは乾板を光へ透かす。
「でも私はやり直します」
「なぜ?」
「お客さんがこの一枚を何十年も持つかもしれないから」
声は淡々としている。技師として当然のことを言っているだけなのだろう。それでも、ノルはその言葉を手帳には書かなかった。
仕事上の数値ではない気がした。
「じゃあ、中央の仕様書にある『使用可能』は」
ノルが言う。ミオが乾板を置く。
「可能です」
「嘘ではない」
「はい」
「でも、撮影時間が延びる」
「はい」
「失敗率も上がる」
「特に人物は」
「一日に撮れる件数が減る」
「それもあります」
ミオは手袋を外した。
「あと、魔石」
ここから費用の話になった。
旧式機は、集光効率が低い。同じ光量を乾板へ送るため、集光環へ長く魔力を流さなければならない。
ラウエン工房で使う四等級魔石は、魔晶鉱から精製された標準的な工業資源だった。
王都では四等級魔石一個で銅貨八枚前後。
パン一斤が銅貨一枚。この辺りの食堂なら昼食が銅貨四枚から六枚。だから魔石一個は、安い食事なら一日半から二日分ほどになる。
「今の旧式機なら、四等級一個でどれくらい?」
ノルが聞く。
「旧乾板で、平均四回ちょっと」
「新乾板は?」
「三回から三回半」
「一回の差?」
「一個だけなら」
ミオは棚から使用済み魔石を一つ取った。
親指ほどの大きさ。淡い灰色の結晶。新品なら内部に薄い青白い筋が見えるらしいが、これはほとんど濁っている。
「例えば一日二十件撮る店なら」
「単純計算で」
ノルは頭の中で計算する。旧規格なら魔石五個程度。新規格なら六個から七個。
「一日一個か二個増える」
「はい」
「銅貨八枚から十六枚」
「毎日」
一か月二十五日営業なら、銅貨二百枚から四百枚。銀貨に直せば十六枚余りから三十三枚余り。幅はあるが、小さくはない。
「専門技師一人の月給に近づく場合もある」
ノルが言う。
「地方ならもっと」
「魔石が高いから?」
「それも」
魔晶鉱の主要産地は北東部と南部山地に偏っている。王都へは鉄道と河川輸送で大量に入るため、比較的安い。しかし支線から外れた地方では、輸送費が乗る。王都で銅貨八枚の魔石が、山間部では十枚、十一枚。冬に街道が閉ざされれば、それ以上になることもある。
「エルセイン領は?」
ミオが聞いた。唐突に実家の名前が出て、ノルは少しだけ目を上げた。
「西部なので、王都より少し高いですね。領都なら九枚くらいだったと思います」
「鉄道通ってる?」
「本線から支線が一本」
「じゃあまだ安い方」
「たぶん」
ノルは実家の領政報告を思い出す。魔石購入費。街路灯。製粉所。病院。学校。領内の公共施設だけでもかなりの量を使う。今まで数字としてしか見ていなかった。
「使用済み魔石は回収しますよね」
「王都は週二回」
「地方は?」
「月一回の地域もあります」
「再精製まで運ぶ費用も」
「かかります」
一つの規格変更が、別の産業へ繋がっていく。
撮影機。乾板。魔石。鉄道。回収業者。精製所。
全部が線で繋がっている。
中央記録院の会議室で見ていた仕様書は、そのうち乾板と撮影機の線しか描いていなかった。
「新型に替えるなら?」
ノルが聞いた。ミオが苦笑する。
「そこが一番簡単です」
「値段は」
「標準機で金貨七枚」
ノルは知っている数字だった。新型撮影機の平均市場価格。金貨一枚は銀貨二十枚。つまり銀貨百四十枚。ラウエン工房くらいの規模なら、決して買えない金額ではない。しかし、専門技師の月給が銀貨四十枚前後。見習い技師で二十枚前後。機械一台で、働き手数人分の数か月の給与が消える。
「補助金は五割あります」
ノルが言う。
「はい」
ミオの返事は短い。
「残り金貨三枚半」
「本体だけなら」
「他にも?」
「乾板受けの規格が変わる店があります。現像槽も新乾板に合わせて少し大きいものが必要。複写器が古ければ、それも」
「全部で?」
「この工房なら金貨九枚弱」
補助対象は撮影機本体だけ。周辺設備は一部しか対象にならない。ノルは計算した。
「実負担、金貨五枚以上」
「はい」
銀貨百枚を超える。
「王都の大きい工房なら」
「払えます」
ミオは否定しない。
「うちも、無理ではないです」
ラウエン工房には複数の技師がいて、法人や役所の仕事も受ける。問題はそこではない。
「地方ですね」
ノルが言う。ミオが頷いた。
「人口一万人くらいの町なら、写真工房が一軒か二軒です」
作業台へ手を置く。
「夫婦でやってるところもあるし、親子三人とか、技師一人と見習い一人とか」
「年間売上は?」
「店によります」
「大体で」
ミオは少し考えた。
「銀貨七百から千枚くらい?」
「売上ですよね」
「はい。そこから乾板、薬品、魔石、家賃、人件費」
「利益は」
「百枚残れば悪くないところもあります」
銀貨百枚。金貨五枚。設備一式の自己負担額とほとんど同じだった。
「一年の利益が消える」
「だから替えない店も出ます」
「……低利融資制度があります」
ハロルドが、ここで初めて口を挟んだ。
ミオが彼を見る。
「知ってます」
「設備更新費を五年返済にすれば、一年分を一度に払う必要はありません」
「借金ですよね」
空気が少し止まった。工房の奥で帳簿を整理していたラウエンが顔を上げる。
「ミオ」
低い声。
言い方を考えろということだろう。ミオも意味は分かったらしい。口を閉じる。
ノルはハロルドを見る。ハロルドは不快そうではない。ただ、官吏として説明しただけだ。
融資制度は現実に存在する。金利も市中銀行より低い。間違った制度ではない。だからこそ、ノルはミオへ言った。
「続けてください」
灰青の瞳がこちらへ向く。
「いいんですか」
「低利融資があることと、借金であることは両立します」
ミオが少しだけ目を細める。
「……はい」
「その上で、何が問題?」
ミオは一度ラウエンを見た。
工房主は肩を竦める。もう好きに言え、という顔だった。
「地方の小さい工房って」
ミオは少しゆっくり話し始めた。
「儲かってないから古い機械を使ってるところが多いんです」
ノルは黙って聞く。
「儲かってない店に、『新しい規格に合わせるなら借りてください』って言う。借りれば毎月返済が増える。でも規格が変わっても、客が増えるわけじゃない」
「画質が上がれば」
「それで婚姻写真を二倍撮る人はいないでしょう?」
ノルのペンが止まった。
「……そうですね」
「都会なら高画質を売りにできます。新聞社とか商会とか、仕事もある。でも農村相手の店なら、成人記念も婚姻も家族写真も、一人が何回も撮るものじゃない」
ミオは新規格乾板を指す。
「良くなる。でも売上がその分増えるとは限らない」
これも、技術局の報告書にはなかった。
制度を考える側は、新技術を入れれば生産性が上がると考える。
実際、上がる。
でも需要が増えなければ、設備投資を回収できるとは限らない。ノルは手帳へ、
《設備更新による売上増を前提にしない》
と書いた。
「廃液の話もしていいですか」
ミオが言う。
「お願いします」
そこから、さらに話が広がった。
新規格乾板は、乳剤層が厚い。そのため現像液と定着液の消費も少し増える。現像液そのものは、それほど問題ではない。
問題は定着液。使用済みの液には銀塩が残る。下水へ直接流せない。王都では専門の回収業者が週に二回巡回する。
桶一つにつき銅貨二枚。回収した液から銀を再生し、一部を薬品原料へ戻す。
「地方だと?」
「主要都市ならあります」
「小さい町は?」
「月に一回ほど」
「それなら保管すれば」
「保管容器が要ります」
「容器代?」
「それも。あと夏」
「臭います?」
「かなり」
ミオが少し顔をしかめる。
「冬では?」
「北部なら凍ります」
「定着液がですか?」
「薄めた廃液は」
ノルはまた書く。
一つ一つは小さい。容器代。回収費。魔石代。露光時間。失敗率。設備更新。どれも単独なら、制度を止めるほどの問題には見えない。全部を一つの工房へ積めば、違ってくる。
「中央の試算だと」
ノルは資料を出した。
「新規格移行後の年間運用費増は、平均一二・四%」
ミオが資料を見る。
「平均でしょう」
「はい」
「平均って、王都の大工房も入ってます?」
「入ってます」
「じゃあ小さいところはもっと上」
「可能性はあります」
「平均って便利ですね」
少しだけ皮肉。ノルは怒らなかった。
「便利だから使います」
ミオがこちらを見る。
「認めるんですね」
「平均そのものが悪いわけではないです」
「じゃあ何が?」
ノルは少し考える。
「平均しか見てなかったことが問題かもしれない」
それを口にすると、思っていたより素直な言葉になった。
「一二・四%って」
ミオが言う。
「はい」
「書類で見ると、大したことないように見えません?」
「一割以上なので、普通に大きいと思います」
「補佐官はそう思うんですね」
「予算担当なので」
ミオが少し笑った。
「じゃあ言い方変えます」
作業台に腰を軽く預ける。
「王都の職人街で、昼食いくらくらいか知ってます?」
「銅貨五枚前後」
「そうです」
ミオは指を一本立てた。
「小さい工房だと、新規格の追加費用だけで、一日ごとに職人一人分の昼食代くらい消えることがあります」
ノルのペンが止まった。
一日。
昼食一回。銅貨五枚。
突然、数字の形が変わった。
一二・四%より正確な表現ではない。
工房によって違う。地域によって違う。本来なら、行政資料としては使いにくい。
それでも。朝働く。昼になる。食堂へ行く。銅貨五枚を払う。それが毎日一つずつ消える。
数字より先に、光景が浮かぶ。
「その言い方」
ノルが言った。
「何?」
「分かりやすいですね」
「現場はそっちで考えるので」
「ボクたちは年額で考える」
「だから噛み合わないんですよ」
言った直後、ミオが口を閉じた。また言いすぎたと思ったらしい。ノルは少し考えてから、
「そうかもしれません」
と答えた。ミオが眉をわずかに上げる。
「怒らないんですね」
「なぜ怒るの」
「中央の仕様書、朝からかなり酷く言ってますけど」
「事実なら」
「『雑』とも言いました」
「まだ言ってないです」
「思ってます」
「思ってるんですね」
「はい」
ノルは少し笑った。
「じゃあ、一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「ミオなら、新規格そのものをやめます?」
返答はほとんど間を置かなかった。
「やめません」
ノルは少し意外だった。
「そこは反対しない?」
「しません」
「なぜ?」
ミオが新規格乾板を一枚持ち上げた。
赤い暗室灯ではなく、窓から入る白い光へ透かす。薄い乳剤層が、わずかに曇って見える。
「写りが綺麗だから」
あまりにも単純な答えだった。ノルは思わず笑った。
「何ですか」
ミオが眉を寄せる。
「もっと理念があるのかと」
「写真の規格なんだから、写真が良くなるのは大事でしょう」
「それはそうですけど」
「保存も良くなる。乾板の大きさが統一されれば、工房側も在庫を減らせる。複写器も共通化できる」
話し始めると、やはり具体的だった。
「じゃあ、良い規格?」
「規格は」
ミオが言う。
「入れ方が雑です」
今度ははっきり言った。ノルも否定しなかった。
「どこを直せばいいと思います?」
ミオが一瞬止まる。質問されると思っていなかったらしい。
「私に聞くんですか」
「ここまで聞いたので」
「中央の制度ですよ」
「だから?」
「……変な人ですね」
「よく言われます」
「職場で?」
「実家で」
ミオが声を出して笑った。初めてだった。
笑うと、想像していたより表情が柔らかい。
灰青の瞳が細くなり、窓の光が虹彩の奥へ入る。先ほどまで薄い石のように見えていた色が、一瞬だけ澄んだ青へ変わった。
ノルはそれを見ていた。
見ていたことに気づいて、手帳へ視線を落とした。
「補助率」
ミオが言った。もう仕事の顔へ戻っている。
「地方の小工房だけでも上げる」
ノルが書く。
「今の五割から?」
「七割くらいならだいぶ違います」
「条件設定は?」
「年間売上か、従業員数」
「売上の方が公平かな」
「でも帳簿が雑な店もあります」
「登録工房なら提出義務がある」
「地方は?」
「……確認します」
「あと移行猶予」
「今は一年」
「短い」
「何年?」
「最低二年。できれば三年」
「長いですね」
「機械一台買うんですよ」
確かに。
「廃液回収」
「国で?」
「地方自治体でもいい。でも回収先を作らないと、規格だけ変えても現場で困る」
「魔石価格差は」
「そこまで面倒見ます?」
「問題なんでしょう」
「そうだけど」
ミオが少し笑う。
「本当に全部拾うんですね」
「拾えるかはまだ分からないです」
ノルは正直に答えた。
予算がある。他部署との調整。技術局。財務院。地方政府。全部がノル一人の判断で動くわけではない。
「でも、持って帰ります」
それだけは言える。視察を終えた頃には、予定していた三時間を一時間近く超えていた。
ハロルドは途中で次の訪問先へ連絡し、日程を翌週へ動かしている。
ラウエンは恐縮していたが、ノルは気にしなかった。鞄へ手帳をしまう。二十ページ以上増えていた。
「今日はありがとうございました」
ノルが言う。ラウエンが頭を下げる。
「こちらこそ。好き勝手言いまして」
「助かりました」
ミオは少し離れたところで、試験に使った乾板を片付けていた。ノルはそちらを見る。
「ミオ」
名前を呼ぶ。彼女が振り向く。
濃紺の髪は作業の途中で少し乱れ、耳の横に短い毛が落ちていた。
「はい」
「一つだけ」
「まだあるんですか」
「最後です」
少し考える。
「この古い機械、もし新規格になっても使います?」
ミオが二十六年物の撮影機を見る。
「たぶん」
「新型を買っても?」
「仕事次第」
「なぜ?」
少し考えたあと。
「この子の方が綺麗に撮れる光があります」
ノルには意味が分からなかった。
「光?」
「新型は何でも平均点が高い。でも、柔らかい窓光とか、古いレンズの方が好きなときがあります」
「性能は新型の方が上でしょう」
「性能だけなら」
ミオは古い機械の木箱へ手を置いた。
「写真って、それだけじゃないので」
ノルは、それ以上聞かなかった。今聞いても、たぶんまだ分からない。
「では、また」
「また来るんですか」
「制度が変われば確認に」
「ああ。仕事で」
なぜか、最後の二文字だけ耳に残った。
「仕事です」
ノルが答える。
「そうですね」
ミオは乾板へ戻った。
工房を出る。
外は明るくなっていた。雲の切れ間から薄い午後の日差しが落ち、濡れた石畳が白く光っている。
馬車へ乗る。ハロルドも向かいへ座った。
「どうでした?」
走り出して少ししてから、彼が聞く。
ノルは手帳を開いた。
露光時間。魔石。設備費。廃液。地方物流。補助率。移行猶予。かなりの量だった。
「仕様書は間違ってないです」
ノルが言う。ハロルドが少し意外そうな顔をする。
「では、このまま?」
「いいえ」
窓の外を見る。第三工業区の煉瓦建築が後ろへ流れていく。
「間違ってないことと、十分なことは別みたいです」
自分で口にしてから、どこかで似た言い方を聞いた気がした。
使えることと、使い続けられることは別。
たぶん、それだ。
ハロルドが資料を閉じる。
「規格改定、荒れますよ」
「でしょうね」
「導入延期も?」
「必要なら」
「財務院が嫌がる」
「知ってます」
「技術局も」
「それも」
ノルは膝の上の手帳を見る。最後のページ。
《規格そのものではなく、移行設計に問題》
その下へ、一行だけ追加した。
《全国平均ではなく、規模別・地域別試算が必要》
そこまで書いてから、ペンを止めた。そして少し離れた余白に。
《一日で、職人一人の昼食代》
行政文書には使えない表現だった。それでも消さなかった。
その日の夕方。
ラウエン光像工房では、ミオが試験乾板の整理を続けていた。
古い撮影機で撮った四枚。新しい撮影機で撮った四枚。露光時間。魔石消費。失敗箇所。すべて紙へ記録する。
「中央の人、帰った?」
奥から別の技師が聞く。
「帰りました」
「どうだった?」
「長かった」
「そっちが喋ったんだろ」
「聞かれたから」
乾板を棚へ差す。最後に、十六秒露光の一枚。助手の顔。目元が少しだけ柔らかい。失敗と呼ぶほどではない。でも、客へ渡すなら撮り直す。
ミオは《試験用》と書いた札を付けた。そのとき、午前中の光景を思い出す。
黒い遮光布の中。磨り硝子。
すぐ隣にあった青紫の瞳。暗室では紫が深かった。窓際では青が多かった。同じ色のはずなのに、光が変わると違って見える。
光像技師としては、珍しいことではない。
人の瞳も髪も、光源によって色が変わる。ただ。今日の相手については、妙によく覚えていた。
「ミオ」
ラウエンが呼ぶ。
「何ですか」
「手止まってるぞ」
見る。確かに止まっていた。
「考え事です」
「珍しい」
「しますよ、それくらい」
「中央の仕様書?」
ミオは少し間を置いた。
「たぶん」
嘘ではなかった。
その夜、工房を閉める前。
ミオは二十六年物の撮影機の集光環を布で拭いた。
古い。重い。効率も悪い。新しい乾板には向いていない。
それでも、明日も使う。
木箱の角には、自分が見習いだった頃につけた小さな傷も残っている。
その頃、まだ成人前だったミオに、ラウエンは機械へ触るだけで何度も注意した。今では一人で分解して直せる。
機械は何も言わない。ただ、使った年数だけ癖が増える。人も似たようなものかもしれない。そこまで考えて、ミオは首を傾げた。今日会ったばかりの官吏について、なぜそこまで考えているのか。分からない。
集光環の布を置く。灯りを消す。暗くなった工房の中で、窓から入る街路灯だけが古いレンズへ淡く映った。
明日になれば、また普通の仕事が始まる。
今日の話が中央でどう扱われるのか。
本当に何か変わるのか。ミオはまだ、あまり期待していなかった。