ラウエン光像工房から戻った翌朝。
ノルの机には、前日より紙が増えていた。
王国中央記録院の本館は、第三工業区とは対照的に静かだった。
厚い石壁は通りの音をほとんど通さず、長い廊下には靴音だけが乾いて響く。
記録規格課の執務室には十数人分の机が並び、壁際の書架には各地方から送られてきた統計年報と規格書が隙間なく収められている。
窓の外には北区の白い建物が続いていた。
昨日の工房にあった煤の匂いも、薬液の匂いもない。
ノルは席へ着くと、まず視察記録を開いた。
二十数ページ。自分でも少し書きすぎたと思う。
《登録機の実使用年数》
《規模別・地域別試算》
《設備更新による売上増を前提にしない》
《廃液回収網》
《地方魔石価格》
最後の方には、
《一日で、職人一人の昼食代》
とまで書いてある。行政資料の下書きには見えなかった。けれど、消す気にはならなかった。
「昨日の件、朝からやるのか」
隣の机から声を掛けられた。
同じ課の書記官、ヨハンだった。ノルより少し年上で、統計集計を担当している。
「やります」
「主任から聞いた。予定より一時間延びたって」
「話が多かったので」
「先方が?」
「ボクが」
ヨハンが笑う。
「だろうと思った」
ノルはヨハンを少し無視して、全国光像工房登録簿を棚から引き出した。
重い。
机へ置くと、木板が低く鳴った。
中央記録院が把握している登録光像工房は、王国全体で千八百余り。王都だけで三百を超える。
人口数十万の地方都市なら数十軒。一万から三万人ほどの地方都市では、一軒から数軒。それより小さな市場町や農村になると、常設工房を持たず、近隣の町から写真師が巡回してくる地域も多い。
ただし、登録簿から分かるのは所在地、代表技師、従業員数、公的記録受託資格、保有撮影機の型式までだった。
何年使っているか。どれだけ修理しているか。
月に何枚撮るか。
一枚撮るためにどれだけ魔石を使うか。
そこまでは載っていない。ノルはページを捲った。
製造終了から二十年以上経つ型式に、小さく印を付けていく。想像より多かった。
「ヨハン」
「ん?」
「旧式登録機のうち、製造終了から十五年以上経っている型式だけ抜けます?」
「台数?」
「地域別。あと工房の従業員数と重ねたい」
「今日中?」
「できれば」
「できればって言う人は大体今日中なんだよな」
「急ぎではないです」
ヨハンがノルを見る。
「本当に?」
「明日の昼まで」
「ほら急ぎじゃないか」
嫌だねえと文句を言いながらも、ヨハンは登録簿を一冊持っていった。ノルは別の紙を引いた。
《公的光像記録規格改定に伴う移行費用試算》
すでに技術局と財務院を通った案だ。
新型撮影機への更新補助、購入額の五割。
移行期間、一年。
新規格乾板は公布から六か月後に推奨規格、十二か月後に公的記録の標準規格となる。
制度としては整っている。数字も合っている。
対象工房の推計。予算上限。乾板メーカーの供給能力。技術局の適合試験。どれも確認されている。
それなのに、昨日見た二十六年物の撮影機を思い浮かべると、紙の上だけで話が終わっているように感じられた。
午前十時。
ハロルドが席まで来た。
「ノル補佐官」
「はい」
「昨日の視察報告、午後までに簡単にまとめてください」
「もう作ってます」
「貴女ならそうでしょうね」
少し笑いながらそう言うとハロルドはノルの机に積まれた登録簿を見た。
「ただし、すぐ制度案をひっくり返そうとしないように」
ノルは顔を上げる。
「ひっくり返すつもりはありません」
「顔がそう言っています」
「どんな顔ですか」
「数字が足りないときの顔ですよ」
否定できなかった。ハロルドは机の端へ軽く手を置いた。
「一工房の視察で全国制度を変えるのは、それはそれで雑です」
「分かっています」
「分かっているならいいですが……」
ノルは少しだけ間を置いてから聞いた。
「追加調査はしても?」
「そうですね。それはしてください」
「どこまで?」
「ノル補佐官の仕事が止まらない範囲で」
曖昧な許可だった。つまり、止めなければいい。
その日の午後には、調査票の原案ができていた。
質問は十一項目。
保有撮影機の製造年。購入年。主な修理履歴。一日平均撮影件数。人物撮影比率。四等級魔石の地域購入価格。使用済み魔石の回収頻度。定着廃液の回収方法。新規格試験乾板を使った場合の露光時間変化。設備更新予定。現行の五割補助を利用して更新可能か。
最後の質問だけ、ハロルドに消された。
《制度移行に必要だと思う猶予期間》
「誘導的です」
「でも現場の希望を」
「希望を聞けば、長いほどいいに決まっています。何年必要かではなく、何年なら実際に更新できるかを聞いてください」
ノルは少し考え、書き直した。
《現在の年間設備積立額を前提とした場合、自己資金のみで更新可能となる時期》
「こっちなら」
「いいでしょう」
紙が返ってくる。厳しいが、理由がある。そういう訂正は嫌いではなかった。
すべての工房へ送れば時間がかかる。まずは標本調査にした。
王都。地方大都市。中規模都市。市場町。鉄道沿線。山間部。港湾部。
従業員十人以上。三人から九人。一人または二人。
条件が偏らないよう、登録簿から八十四工房を選んだ。
翌日、調査票が発送された。
遠方には電信で主要項目だけを先に問い合わせる。
返答を待つ間、ノルは通常業務へ戻った。
公文書用紙の寸法統一。地方裁判所から提出された保管箱の例外申請。洪水被害を受けた北東部文書庫の保存環境報告。光像規格だけをやっているわけではない。それでも、調査票が届き始めるたび、先に封を開けた。
最初の十件だけなら、大した差はなかった。
王都の大工房。従業員二十七名。
旧式機はすでに補助用。新規格対応機を二台導入予定。魔石価格、銅貨八枚。廃液回収、週三回。現行制度で問題なし。
第二都市の新聞社系列工房。従業員十八名。
全面更新可能。問題なし。
主要港湾都市の大型工房。
機材更新済み。問題なし。
ノルは少しだけ不安になった。
ラウエン工房で聞いた話を、必要以上に大きく捉えたのかもしれない。十五件。二十件。二十五件。そこで数字が変わり始めた。
西部の人口一万八千ほどの町。従業員二名。
主力機、二十一年使用。新規格乾板で露光時間約一・五倍。新型機への更新は、五割補助でも当年中は困難。
南部山間の市場町。代表技師一名、見習い一名。
魔石一個、銅貨十一枚。冬季は十二枚以上。廃液回収、月一回。撮影機、十九年使用。
北部の小都市。三人。新型機購入予定なし。理由欄には、
《現在の撮影件数では返済原資なし》
とだけ書かれていた。四十件を超えた頃、傾向が見えた。
規模が大きいほど問題は小さい。交通の便が良いほど問題は小さい。新しい撮影機を持つ工房ほど当然、小さい。逆に、小規模で、王都から遠く、古い機材を使うところほど負担が集中する。
全国平均にすると、やはり運用費増は一割強だった。
しかし従業員二名以下の工房だけを抜くと、二割を超える。山間部ではさらに上がる。
新規格そのものへの反対は、意外なほど少なかった。
画質。保存性。寸法統一。そこはほぼ全工房が評価していた。
問題は移行だった。ノルは机の上へ三枚の紙を並べた。
一枚目。全国平均。
二枚目。工房規模別。
三枚目。地域別。
同じ制度を、違う切り方で見た数字だった。
「ヨハン」
「今度は何だ」
「平均って便利ですね」
ヨハンが怪訝そうに見る。
「今さらか?」
「便利すぎる」
「何か嫌なことでもあったのか?」
ノルは三枚を差し出した。ヨハンは順に眺める。
「ああ」
それだけで意味を理解した。
「潰れてるな」
「何が?」
「小さいところの負担が、全体平均に」
「うん」
「それで?」
ノルは資料を取り戻した。
「会議に持っていきます」
「やっぱりそうなるのか」
三日後。
中央記録院、技術局、財務院の合同会議。長机の片側に記録院。向かいに技術局。奥に財務院。窓際には書記が二人。
ノルの席はハロルドの一つ隣だった。
最も若い。それ自体は珍しくない。ただ、自分が作った資料について説明する以上、黙って座っているわけにもいかなかった。
技術局の主任技師が資料を捲る。
「まず確認したいのですが」
五十代の男だった。
「本規格の技術的妥当性について、記録院は疑義を示しているのですか」
「いいえ」
ノルが答える。
「保存性、画質、寸法統一のいずれも、導入自体には賛成です」
「では」
「移行方法について再検討を求めています」
財務院の男が眼鏡を上げる。
「五割補助は、相当手厚い制度ですが」
「中規模以上の工房には十分です」
「小規模は?」
ノルは資料の二枚目を開いた。
「従業員二名以下の登録工房では、回答四十一件中二十六件が、現行補助率では二年以内の設備更新が困難と回答しています」
「標本数が少ない」
「はい」
先に認める。
「なので、制度を止めろとは言っていません。少なくとも一律五割が最適という根拠も弱い、と言っています」
向かい側で、技術局主任が腕を組む。
「旧式機でも新乾板は使えます」
「使えます」
「であれば、設備更新は任意です」
ノルは一瞬だけ、第三工業区の古い木箱を思い出した。
使えることと、使い続けられることは別。
その言葉をそのまま使うのはやめた。
「技術的な適合と商業的な運用可能性は、分けて評価した方がいいと思います」
「具体的には?」
「旧式機の実使用環境では、露光時間が一・四から一・六倍になる例があります。人物撮影では失敗率が上がる。さらに魔石消費、現像薬品、廃液保管費も増えます」
「それでも撮影できないわけではない」
財務院側から言われる。ノルは頷いた。
「撮れます。ただ、一日二十件だったものが十七件になるなら、それは営業上の差です」
「三件?」
「毎日です」
少し間を置く。
「小規模工房では、追加費用だけで一日ごとに職人一人分の昼食代に近い負担になる例もあります」
資料の数字ではない表現だった。
ハロルドが横でこちらを見た。止めはしなかった。
「昼食代?」
財務院の男が少し眉を寄せる。
「あくまで比喩です」
「行政資料としては曖昧ですね」
「はい。なので資料本文には入れていません」
ノルは淡々と答えた。
「ただ、銀貨換算の年額だけだと、現場の負担感を見誤るので」
それ以上は言わなかった。
会議は二時間続いた。すべてが通ったわけではない。
ノルは小規模工房への補助率七割を求めた。財務院は六割を主張した。
最終的に、従業員三名以下かつ一定売上以下の登録工房について、本体購入費の七割補助。ただし上限額あり。周辺設備については、ノルが求めた五割補助は通らなかった。乾板受けと現像槽についてのみ三割。複写器は対象外。
移行猶予は三年を求めた。技術局が反対した。
乾板製造を旧新二規格で三年間維持すると、メーカー側の生産効率が落ちる。結局、公的記録の完全移行は公布後二年。一年目は旧規格も正式受理。二年目は原則新規格だが、登録済み旧式機を使用する小規模工房には例外申請を認める。
三年目から完全統一。廃液回収は、記録院単独の制度では作れなかった。代わりに地方政府へ対し、登録光像工房から出る定着廃液の共同回収拠点を少なくとも郡単位で整備するよう通達。初年度の保管容器購入費は国が半額を負担。遠隔地については、既存の薬品回収便との共同輸送を認める。
魔石価格への直接補助は通らなかった。財務院が強く反対した。写真工房だけを対象にエネルギー資源へ補助金を出すと、他業種との均衡が崩れる。ノル自身も、そこは反論しきれなかった。代わりに地域別の魔石価格を、今後の制度評価項目へ追加することになった。完璧ではない。七割になったところで、買えない店はある。
二年あっても、設備更新できないところもある。
廃液回収拠点を地方政府が本当に予定通り整備するかも分からない。
それでも、最初の案とはかなり違う。
会議が終わる頃には、窓の外が暗くなっていた。
技術局の主任が資料を束ねる。
「エルセイン補佐官」
「はい?」
「次から、試験条件に実使用機を入れます」
ノルは少し意外に思った。
「ありがとうございます」
「礼を言われることではないです」
男は立ち上がる。
「こちらも試験室の機械ばかり見すぎた」
それだけ言って出ていった。
財務院の担当者は、最後まで補助率七割に納得していなかった。退室際に、
「来年度の実績で利用率が低ければ戻しますからね」
と念を押された。
「分かっています」
ノルが答える。
たぶん来年度には、また別の数字を持って会うことになる。
ハロルドと二人になった。
机の上には空の茶器と、修正だらけの資料。
「どうでした」
ハロルドが聞く。
「疲れました」
「珍しく普通の感想ですね」
「普通に疲れるので」
「全部通らなくて不満ですか?」
ノルは少し考える。
「少し」
「全部通る制度案なんて、だいたい最初から誰も困っていない案ですよ」
「慰めですか」
「私の経験談です」
ハロルドは上着を整えた。
「今日のところは十分でしょう」
ノルも資料を集める。最後に残った自分の手帳を閉じる前に、一行だけ見る。
《一日で、職人一人の昼食代》
その横へ小さく、
《七割》
と書いた。
視察から二十二日後。
改訂された移行通達が、王都と各地方政府へ発送された。
ラウエン光像工房にも、昼過ぎに一通届いた。
厚手の封筒。
王国中央記録院の朱印。
ラウエンが受付で開封し、ざっと目を通す。
「ミオ」
暗室から声だけ返る。
「何ですか」
「お前、ちょっと来い」
「現像中です」
「終わってからでいい」
「じゃあ呼ばないでください」
「中央から来たぞ」
遮光布の向こうが静かになった。
少しして、ミオが手袋を外しながら出てくる。
「何が?」
「例の規格」
ラウエンが紙を渡した。
《公的魔導光像記録用乾板規格 移行措置改訂通知》
ミオは立ったまま読む。
新規格自体は予定通り導入。
小規模登録工房の設備更新補助を、条件付きで五割から七割へ拡充。一部周辺設備も補助対象。
旧規格の受理期間を延長。
地方政府による廃液共同回収網の整備。使用済み薬液保管容器への補助。
地域別の魔石価格・回収頻度を次年度の運用調査へ追加。
「……変わってる」
小さく言った。ラウエンが横から覗く。
「結構変わったな」
「三年は取れなかったか」
「二年あれば、まあ」
「うちは買えますね」
「元々買うつもりだったからな」
ラウエン工房の場合、新型機本体の更新は現行制度でも可能だった。改訂で直接救われる店ではない。
それでも、ミオは紙をもう一度最初から読んだ。
自分が話したことが、ほとんど入っている。
全部ではない。
魔石そのものへの補助はない。猶予も、ミオが口にした三年より短い。
それでも。廃液。保管容器。小規模工房。地域別価格。
あの日、作業台の横で話した細かなことまで、何らかの形で残っている。
「ちゃんと聞いてたんだ」
口に出したつもりはなかった。ラウエンが聞き返す。
「何だ?」
「何でもないです」
ミオは紙の最後まで目を通す。
下部には発令責任者。記録院長。規格課長。技術局との共同番号。
そして、そのさらに下。小さな活字で、
《実務担当 記録規格課補佐官 ノル・エルセイン》
と印刷されていた。
ミオはそこだけ少し長く見た。
エルセイン。
工房へ初めて来た日、最初に耳へ入った家名。
伯爵家の名前。
それまでなら、そちらの方が先に目についたはずだった。
今は、その前にある二文字の方がよく見えた。
ノル。
「ミオ」
「はい」
「また止まってるぞ」
顔を上げる。ラウエンが笑っている。
「最近多いな」
「何がですか」
「手が止まる」
ミオは通知書を彼へ返した。
「読んでただけです」
「そういうことにしとくか」
「そういうことです」
暗室へ戻る。
途中で、ふと思い出す。視察の最後。また来るのかと聞いたとき。
制度が変われば確認に来る、とノルは答えた。
仕事で。自分から念を押して。
あれから二十二日。本当に制度が変わった。なら、また来るのだろうか。
赤い灯りの下で現像皿を見ながら、ミオはそんなことを考えた。
その三日後の午後一時を少し回った頃。
工房の扉が開いた。受付にいたラウエンが、
「いらっしゃい」
と声を掛ける。
外は初夏らしい強い日差しだった。
入口から差し込んだ光の中に、薄い影が伸びる。
「こんにちは」
聞き覚えのある声。
ミオは乾板棚の前で顔を上げた。
ノルが立っている。今日は一人だった。
濃紺の上着。白いシャツ。銀の職員章。
前回とほとんど変わらない格好なのに、光だけが違った。
雨上がりの曇天では灰色に見えた短い髪へ、夏の白い光が直接落ちている。ピンクベージュの毛先が淡く透け、灰色の中に薄い桃金が混じって見えた。
瞳は、暗室で記憶していた紫よりずっと青い。
「エルセイン補佐官」
ミオが言う。
「はい」
ノルがこちらを見る。
「通知、届きました?」
「届きました」
数歩近づく。
「読みました」
「何か抜けてました?」
挨拶より先にそれを聞く。
いかにもこの人らしい、とミオは思った。
「あります」
ノルの表情が少し変わる。
「どこですか」
「三年取れなかった」
「……そこですか」
「そこです」
「……二年で勘弁してください」
「ボクに言われても、って言うと思ってた」
「ボクも三年で出したので」
ミオは瞬きをした。
「出したんですか」
「財務院と技術局に負けました」
「負けたって言うんですね」
「負けたので」
ラウエンが受付の奥で笑いを噛み殺している。
ノルは鞄から数枚の紙を取り出した。
「今日は、新規格で実際に一日の業務を回した場合の記録を取りたいです」
「また三時間?」
「今日は夕方まで空けてます」
「長くなってる」
「前回足りなかったので」
「主任さんは?」
「別件です」
「一人で来たんですね」
「はい」
ミオは少しだけ迷ってから、作業台の空いている椅子を引いた。
「じゃあ、そこに荷物置いてください」
「ありがとうございます」
「今日は汚れますよ」
「前も汚れました」
「靴だけでしょう」
「見てたんですか」
「泥ついてましたから」
ノルが自分の靴を見る。今日は乾いている。
「靴ではありませんが、替えの上着持ってきました」
ぽんぽんとノルは自分の鞄を軽く叩く。
「準備いいですね」
「前回学んだので」
その言葉に、ミオは少しだけ口元を緩めた。
前回学んだ。たぶん、それは服のことだけではない。
「じゃあ」
ミオは新規格乾板の箱を持ち上げる。
「今日は、本当に一日分やります?」
「お願いします」
「二十件近くありますよ」
「見ます」
「途中で飽きても知りませんから」
「飽きたら言います」
「言うんだ」
「嘘ついても仕方ないので」
また少し笑う。それから仕事が始まった。
特別なことは、何も起こらなかった。
婚姻記念の若い二人。
商会の新入社員証。
子どもを連れた家族写真。
修理に出す時計を撮ってほしいという職人。
依頼票。料金。乾板。露光。現像。洗浄。乾燥。
一件ごとに数分。場合によっては数十分。
ノルはほとんど黙って見ていた。
時々、時間を測る。魔石交換の回数を書く。失敗が出れば理由を聞く。
昼過ぎ、子どもが十秒も座っていられず、二度撮り直した。
ミオは叱らなかった。
「もう一回だけね」
そう言って、小さな木製の鳥を撮影機の上へ置く。
「これ見てて」
子どもが鳥を見る。
その隙に撮る。
撮影が終わると、木の鳥を渡した。
「持って帰っていいの?」
「いいよ」
「ミオ」
ラウエンが奥から声を掛ける。
「それは工房の備品だ」
「銅貨一枚でしょう」
「数の問題じゃない」
「あとで買います」
子どもの母親が恐縮しているが、ミオは気にせず、次の乾板を片付けた。
ノルはそれを手帳には書かなかった。
昼になった。ラウエンが、
「休め」
と言った。ミオは現像中の一枚だけ片付ける。
ノルは時計を見る。
「昼食、どうします?」
ミオが聞く。
「持ってきてないです」
「近くに食堂ありますけど」
「行きます」
「エルセイン補佐官が?」
「食堂に入ったらだめですか」
「だめじゃないですけど」
言いながら、ミオは少し困った顔をする。
工房から半区画ほど歩いたところに、小さな食堂があった。扉は開け放たれている。
中には工員、印刷職人、荷役夫。昼の混雑。
二人分だけ空いていた壁際の席へ座る。
ノルは根菜と魚の煮込み。ミオは焼いた腸詰と黒パン。値段はどちらも銅貨五枚。料理が来て、ノルが財布から硬貨を出す。
銅貨五枚。手のひらへ載せる。
あの日、ミオが言った額。
一日ごとに職人一人分の昼食代。
実際の銅貨は、小さかった。
五枚重ねても、指一本ほどの高さしかない。
「何見てるんですか」
向かいから言われる。
「銅貨」
「見れば分かります」
「五枚って、これくらいなんですね」
「普段いくらの店行ってるんです?」
「そういう意味ではなくて」
説明しようとして、やめる。
「規格の追加費用」
ミオが理解した。
「ああ」
それ以上、何も言わない。
ノルも硬貨を店員へ渡した。食事を始める。
壁の向こうでは工員たちが大声で話している。皿がぶつかる。厨房から油の匂い。窓際では誰かが新聞を読みながらパンを食べていた。
ノルは根菜一口食べる。普通においしい。
「どうです?」
ミオが聞く。
「おいしいです」
「そうじゃなくて」
「何が?」
「工房」
「ああ」
少し考える。
「前回より分かります」
「何が?」
「十六秒が長い理由」
ミオは腸詰を切る手を止めない。
「今日の子なら、無理でしょう」
「無理ですね」
「大人でも、仕事帰りに十五秒止まれって言われたら嫌かも」
「そういうことです」
しばらく食べる。ミオがふと聞く。
「改訂、大変でした?」
ノルは根菜を飲み込んでから答えた。
「少し」
「少し?」
「かなり」
「でしょうね」
「三年は無理でした」
「聞きました」
「周辺設備も全部は取れなかった」
「それも読みました」
「魔石補助は最初から厳しかったです」
「そこは分かります。写真屋だけ安くしたら鍛冶屋が怒る」
「そう」
意外に簡単に納得している。
ミオは新規格を嫌っているわけではない。
制度へ文句を言うが、何でも要求するわけでもない。
その線引きが、ノルには心地よかった。
「でも」
ミオがパンをちぎる。
「ちゃんと変わったのは、ちょっと驚きました」
「驚くんですか」
「視察って、もっと」
言葉を選ぶ。
「見に来たっていう記録を作るものかと」
ノルは一瞬、答えなかった。
そういう視察が存在することも知っている。
官吏が来る。帳簿を見る。説明を聞く。予定時刻に帰る。報告書には《現地確認済》と記載される。
間違いではない。
「それなら三時間も取らないです」
ノルが言う。ミオが笑う。
「確かに」
食堂の窓から白い光が入っている。
その光がノルの髪へ当たり、今朝より少し暖かい色になる。
ミオは一度だけ見た。
それから自分の皿へ戻る。
この前より。少しだけ見慣れた。
ただ、それだけだった。
午後も撮影は続いた。
日が傾くにつれ、窓から入る自然光が弱くなる。
露光時間が延びる。新規格乾板。古い撮影機。
夕方には昼の一・五倍近くになった。
ノルは記録する。
魔石は予定より一個多く使った。
廃液容器も一つ交換。
十八件撮影。撮り直し三件。そのうち新規格と旧式機の組み合わせが二件。
夕方五時過ぎ。
最後の客を送り出したあと、ミオは椅子へ座り込んだ。
「疲れた」
「いつもこれくらい?」
ノルが聞く。
「今日は多い方」
「ボクは見てただけなのに疲れました」
「だから言ったでしょう」
「飽きはしなかったです」
ミオが顔を上げる。
「そこは聞いてないです」
「昼に聞かれたので」
「律儀ですね」
ノルは手帳を閉じる。前回より、またページが増えた。
「これで何か変えるんですか」
ミオが聞く。
「すぐには」
「もう改訂したし」
「だから今度は、改訂した制度が本当に回るかを見る」
ミオは少し考える。
「面倒ですね、役所」
「はい」
「自分で言うんだ」
「面倒なので」
立ち上がる。鞄を持つ。
今日は上着の袖に、薄い薬液の跡が付いていた。替えを持ってきた意味がある。
「また来ます?」
ミオが言った。
前回と同じ質問。
ただ、少しだけ響きが違った。
ノルは答える。
「たぶん」
「仕事で?」
また同じ。ノルは一瞬だけ目を細めた。
「今のところは」
言ってから、自分でも少し変な答えだと思った。
ミオも同じだったらしい。
「今のところ?」
「制度が続いているので」
「そういう意味?」
「他に何が?」
「別に」
ミオは乾板棚へ向き直った。
濃紺の髪が背中で揺れる。夕方の斜めの光が、その端だけを青く透かした。
ノルはそれを見てから工房を出た。
外にはまだ昼の熱が残っている。
第三工業区の通りを、帰宅する職人たちが歩いていた。
その中へ入る。
次の訪問日を決めたわけではない。必要があれば来る。
それだけ。
それなのに。ノルは工房を出てすぐ、次の運用確認をいつ入れるか、頭の中で予定表を組み始めていた。
仕事だから。
理由としては、それで十分だった。
少なくとも、まだ。