Fallout:GODDESS ―灰の世界から女神たちへ― 作:記録官
勝利の翼号へ戻るまでの間、リリスは何度か右手を開いては握っていた。五本の指は素直に動き、手首にも目立った違和感はないらしいが、以前なら必要のなかった確認であることに変わりはない。ネイトが黙ってその仕草を見ていると、三度目あたりでリリスの方が先に気づいた。
「そんなに見ても、ちゃんと動くよ?」
「見れば分かる」
「じゃあ何で見てるの?」
「また動かなくなったら嫌だからだろ」
リリスは少しだけ黙り、もう一度拳を作ってから手を下ろした。右手が反応しなかったことも、戦闘中に右脚が遅れたことも、その場では長く続かなかった。しかし症状が消えた後に調べた身体には、力を伝える経路へ明らかな負担が残されていた。
「私も嫌だよ」
「なら今日はちゃんと聞こう」
「うん」
医療区画へ入ると、アンダーソン、スノーホワイト、ラプンツェルがすでに待っていた。エイブは移動中から送られてきた記録を読み続けており、席につくより先に中央端末へ自分の端末を接続する。画面にはリリスの全身図と、肩から中央支持部、腰、骨盤周辺、大腿部へ連なる複数の負荷経路が表示されていた。
「リリスお姉ちゃん、座ってください」
「立って聞いたら駄目?」
「駄目です。今日は検査も続けますから」
「分かったよ」
いつもならもう少し粘るところだが、リリスは素直に検査台へ腰を下ろした。ラプンツェルが隣へ立ち、朝に確認した状態から急激な変化がないことを先に確かめると、スノーホワイトもようやく説明を始めた。
「最初に言っておきます。今すぐどこか一箇所が壊れる、という状態ではありません」
「じゃあ何が分かったの?」
「戻るのが遅くなっています」
「戻る?」
「大きな力を使った後の身体です」
画面が二つに分かれ、過去の検査記録と最近の記録が同じ尺度で並べられた。大きな負荷を受けた直後には支持構造や接続部へ僅かな変形や誤差が生まれるものの、本来なら休息と整備によって平常値へ近づいていく。ところが最近の記録では、その回復に必要な時間が以前より長くなっていた。
「前は次の出撃までに、かなり戻っていました。でも今は、負荷が残った状態で次の戦闘へ行っていることがあります」
「回復する前にまた使ってた?」
ネイトが尋ねると、スノーホワイトは頷いた。
「はい。それを繰り返した結果、少しずつ残ったものが積み重なっています。特に肩、中央支持部、腰、右脚の傾向が強いです」
「一箇所交換すれば終わり、ではないのですね」
ラプンツェルが医療側の記録を補足する。
「肩だけ、腰だけという問題ではありません。リリスの力を受け渡している複数箇所に、似た変化が現れています」
ネイトは、以前確認したマレーンの旧ボディの記録を思い出した。モデルナンバー1では、壊れた場所を補強すると次の場所へ負担が移り、それを繰り返した末に身体全体が力へ追いつけなくなった。リリスの身体は比較にならないほど頑丈だったが、負担が流れていく方向には共通点がある。
「リリス」
エイブが画面から顔を上げた。
「いつからだ」
「何が?」
「戦った後、前より身体の戻りが遅いと思い始めたのはいつだ」
「……少し前かな」
「少しでは分からない」
「エイブ、尋問じゃないんだから」
「今まで言わなかった奴に聞いてる」
リリスの表情から少しだけ笑みが消え、視線が自分の膝へ落ちた。その反応を見たスノーホワイトも端末から顔を上げ、先ほどとは違う意味で彼女を見つめる。
「大きく戦った後に、肩が重いとか、脚が戻るのに時間が掛かるとか、そのくらいはあったよ。でも次の日には動いてたから、本当に大したことじゃないと思ってた」
「レッドフードが出発するより前にもですか?」
「……あった」
「どうして言ってくれなかったんですか」
「だから、動いてたから――」
「動けば大丈夫という話じゃありません!」
スノーホワイトの声は強くなったものの、それ以上責める言葉は続かなかった。端末を握る手には力が入り、その表情からは怒りより不安の方が大きいことが分かる。リリスもそれに気づいたらしく、言い訳を重ねる代わりに小さく息を吐いた。
「ごめん」
「謝って終わりにしないでください。今度からは言ってください」
「うん」
「本当に少しでも、です」
「分かったよ」
ラプンツェルは二人のやり取りを待ってから、今度は違う方向から問いかけた。リリスが不調を軽く見ていたことは分かったが、それだけで長く黙っていた理由にはならないと考えたらしい。
「リリス。動けていたから、という以外にも理由がありますね?」
リリスは膝の上に置いた手を見たまま、しばらく返事をしなかった。やがて顔を上げると、そこにはいつもの明るい笑顔ではなく、隊長として何度も戦場を見てきた者の表情があった。
「私が一番強いから」
誰もそこで言葉を挟まなかった。リリス自身も、それを誇るために言ったわけではないことが分かる。
「私が休んだら、その分だけ誰かが前に出るでしょ。少しくらい身体が重いだけなら、私がやった方がいいって思ってた」
「そして、その少しが積み重なった」
エイブの言葉に、リリスは素直に頷いた。
「うん」
「次からはやるな。動けるかどうかを、お前の感覚だけで決めるな」
「分かった」
エイブの言い方は相変わらず厳しかったが、リリスも反発しなかった。自分の身体を誰かに管理されるという話ではなく、不調を隠したまま一人で判断することをやめろと言われているのだと理解していた。
◇
状況を共有したところで、エイブは別の資料を開いた。出撃回数、戦闘時間、高出力を使用した頻度、各部位の回復速度が時系列で並べられ、それを基にした複数の予測線が表示される。どの数値にもかなりの幅があり、一本の線だけを見て期限を断定できるような資料ではなかった。
「最初に言っておく。正確な期限は出せない」
「うん」
「いつ身体が動かなくなるかも分からない。戦い方で変わるし、整備や休息でも変わる」
「それでも目安は出たんだよね?」
「出した」
アンダーソンが腕を組んだまま画面を見る。軍事的な運用を考えるなら無視できない数字だが、彼も結論を急がず、まず条件を確認した。
「クイーン戦と同程度の出力を再び使った場合は?」
「それを何度も繰り返す前提では計算する意味がない」
エイブは即座に答えた。
「一回で状態が大きく悪化する可能性がある。逆に、今後ほとんど高出力を使わなければ、この予測より長く持つ可能性もある」
「では、通常任務を現在と同程度に続けた場合は?」
「その条件なら――」
エイブが複数の予測線のうち一つの範囲を示す。最悪値でも最良値でもなく、これまでの戦闘頻度と身体状態を基にした、現時点で最も現実的な範囲だった。
「長く見て、半年程度」
しばらく誰も口を開かなかった。リリスも画面から目を逸らさず、表示された数字を確かめるように見つめている。
「半年で、死ぬの?」
「違う」
エイブの答えは速かった。
「絶対にそこを間違えるな。半年は寿命じゃない」
エイブは予測表示を拡大し、何を基準にその数字を出したのかを示した。線の先に記されているのは死亡ではなく、現在と同程度の戦闘能力を安全に維持できると見込める範囲である。
「今と同じ頻度で戦い、同じくらいの力を使い続けた場合、その辺りから重大な不具合が起きる危険が高くなるというだけだ。半年経った瞬間に壊れるわけでもないし、半年間は絶対に大丈夫という意味でもない」
「じゃあ、もっと長く動けることもある?」
「ある。休ませて負荷を減らせば、伸びる可能性はある」
「逆も?」
「ある」
エイブは都合の悪い可能性も隠さなかった。次に右手へ同じ症状が出た時にはすぐ回復しないかもしれず、脚が戦闘中に止まれば撤退そのものが難しくなる。中央支持部など、より重要な場所へ大きな損傷が起これば、予測より遥かに早く実戦運用ができなくなる可能性もあった。
「半年って、締め切りじゃないんだね」
「粗い目安だ」
「目安なら、伸ばせるかもしれない」
「そう考えるのは構わない。ただし無理をしていい理由にはするな」
「分かってるよ」
半年という数字は死ぬ日を知らせる時計ではなかった。それでも、今までと同じ戦い方を無期限に続けることはできないと示すには、十分すぎる数字だった。
「出力を抑えればどうなる?」
アンダーソンが尋ねる。
「延ばすだけなら一番簡単だ」
エイブは以前と同じ答えを返した。
「普通のニケに近い範囲まで出力を落とせば、身体への負荷は大幅に減る。ただし、リリーバイスが今持っている戦闘能力も失う」
「クイーンともう一度戦うことを考えるなら、困るね」
リリスが静かに言う。
「そうだ」
スノーホワイトが続いて、外部フレームの試験結果を表示した。身体の外へ一部の負荷を逃がすことには成功しているが、現在の試作品では支持構造そのものが耐えられず、単純に頑丈にすれば重量が増えて新しい負荷を作ることも分かっている。
「だから、弱くするだけで終わらせたくありません。身体の外へ負担を出せることは分かっていますし、力が流れる経路そのものも変えられるかもしれません」
「新しい身体は?」
ネイトが尋ねる。
「通常規格なら作れる」
エイブが答える。
「リリスの力をそのまま出せる身体は?」
「今は作れない」
その言葉だけは曖昧にしなかった。
「今の身体をそのままコピーしても、同じ問題を引き継ぐ。支持部を強くすれば別の場所へ負荷が移るし、全身を重く頑丈にすれば、その身体を動かすためにさらに大きな力が必要になる」
「マレーンの旧ボディと同じ方向へ行く」
「そうだ。耐えられる量が違うだけで、やり方を間違えれば同じことになる」
リリスは自分の手を開き、ゆっくり握り直した。誰より強いことは、彼女にとって単なる数値ではなく、仲間を守り、自分が最前線へ立つための力でもある。
「私、強いままでいたい」
スノーホワイトもエイブも、その言葉を否定しなかった。
「みんなを守りたいし、クイーンにもまた行きたい。次に行くなら、前よりちゃんと準備して戦いたい」
そこでリリスは少しだけ間を置き、三人を見た。
「でも、生きたいよ」
その一言を聞いたスノーホワイトの表情が僅かに緩んだ。以前なら強さの方を先に選んでいたかもしれないリリスが、自分からもう一方も欲しいと言ったことには大きな意味があった。
「強いから壊れても仕方ないとは思いたくない。弱くすれば生きられるから、それでいいとも、まだ思えない」
「なら、今どっちかを選ぶ必要はない」
ネイトが言う。
「今の身体をできるだけ持たせる。その間に、身体を直す方法も、外へ負担を逃がす方法も、次の身体も探せばいい」
「できる?」
「分からない」
そこだけは、ネイトも迷わず答えた。
「でも、それを実際に調べられる奴がここにいる」
ネイトがスノーホワイトとエイブを見ると、リリスもつられて二人へ視線を向けた。
「ネイトは?」
「必要な物を拾ってくる」
「また廃材まで持ってくる気ですか?」
スノーホワイトが即座に反応したため、リリスが笑った。
「大事な仕事だぞ」
「持ってくる前に確認してください」
「そこから?」
「そこからです」
重かった空気が少しだけ和らいだところで、エイブは予測画面を閉じた。半年を完成期限として扱うつもりはないが、時間を無視していいわけでもない。
「今の身体を長く持たせる。その間に、次を作る」
「うん」
「ただし、無理をして短くしたら意味がない」
「分かった」
リリスは画面の消えた端末を見て、少しだけ笑った。
「半年に勝とう」
「数字と戦うな」
「伸ばせたら勝ちでしょ?」
「……好きに考えろ」
呆れたように返したエイブも、その考え方自体を否定はしなかった。
◇
その日の夜、Vault-Nの小会議室へアンダーソン、リリス、エイブ、ネイトの四人が集まった。中央端末には一つの議題が表示されていたが、その文面を見て最も嫌そうな顔をしたのは、入力した本人であるアンダーソンだった。
『リリス死亡時および身体機能喪失時の対応』
「別の書き方があった気がする」
「分かりやすくていいよ」
「本人が平然と言うな」
アンダーソンは額を押さえたが、議題そのものを消そうとはしなかった。リリスも冗談で済ませるつもりではなく、自分が判断できるうちに希望を決めておきたいという意思を持って席についている。
「身体が急に動かなくなったら、私が何をしてほしいか言えないかもしれないでしょ。今なら言えるから、今決めたい」
「分かった」
最初に扱ったのは記憶だった。Vault-Nで試験運用を始めた保存設備は読み出し専用であり、保存した記憶を本人へ書き戻す機能は持っていない。人格の複製でも、本人の代用品でもなく、自分が何を見て何を考えていたかを残すための記録だという原則も変わらなかった。
「これからは定期的に差分を保存する」
エイブが説明する。
「前回以降に増えた部分を中心に取れば、毎回広い範囲を読み直す必要はない。最初は一週間程度の間隔で様子を見る」
「大きな作戦の時は?」
「出る前と、帰還した後にも取る」
「後も必要?」
「作戦中の記憶を残したいならな」
「そっか」
保存はリリス本人の同意を前提とし、誰が閲覧できるかについてもこれまでの規則を維持する。本人が判断できない状態になった場合に備え、あらかじめ指定した者と複数の承認が必要になる仕組みも変えなかった。
「次は脳だ」
エイブが別の構造図を表示すると、リリスも少しだけ姿勢を正した。
「今の身体が完全に使えなくなった場合でも、頭部と脳が致命的に損傷していなければ、生きた状態で維持できる可能性がある」
「マレーンみたいに?」
「考え方は近い」
マレーンの旧ボディが失われた後も、脳組織だけは大型の維持設備によって保たれていた。それがあったからこそ、彼女は新しい身体で再び目覚める可能性を得ることができた。
「ただし、同じ装置をそのまま使うわけにはいかない。緊急時に移動させることも考えるなら、もっと小さく、独立して維持できるものが必要になる」
表示された構造には強化外殻、独立電源、温度維持、循環機構、神経活動の監視系統が組み込まれている。まだ設計段階であり、どこまで長期間維持できるかも分からない。
「俺の世界にも、脳だけ維持してる例はあった」
ネイトが言う。
「使える?」
リリスが尋ねる。
「参考にはなるかもしれない。でも、そのまま使えるようなものじゃない」
「考え方は見る」
エイブも同意した。
「ニケの脳を維持する部分はこっちで作る。最初から凍らせることも考えていない」
「生きたまま?」
「可能な限り」
エイブはそこでリリスをまっすぐ見た。
「保証はできない。脳を維持できても、新しい身体へ接続できるとは限らない。何年持つかも分からないし、途中で技術的に無理だと分かる可能性もある」
「それでも、やってほしい」
「本当に?」
「うん」
リリスは迷わなかった。
「身体が動かなくなっただけで、私まで終わったことにしないで。脳が生きてるなら、残してほしい」
「何年掛かるか分からないぞ」
「待つよ」
「何を?」
リリスは少し考え、それから笑った。
「私の力に追いついてくる身体を」
エイブの視線が僅かに動いたが、すぐには何も言わなかった。アンダーソンも長い間黙った後、本人の意思であることをもう一度確認する。
「誰かに頼まれたからではないな」
「私がお願いしてる」
「分かった」
四人の確認が記録され、リリス自身も最後に同意を残した。記憶を預けることと、脳そのものを維持することは同じではなく、前者は自分が歩いてきた痕跡を残すためのもので、後者は本人自身を生かすための試みだった。
◇
リリスに関する話が一段落すると、アンダーソンは別の申請書を開いた。申請者欄に表示された名前を見た瞬間、リリスとエイブの表情がそれぞれ違う形で変わる。
「レッドシューズ」
「ああ」
「何を申請したの?」
「研究協力だ」
拘禁施設から送られてきた申請には、自身が持つ侵食研究の知識を、侵食に対抗するための研究へ利用してほしいと記されていた。押収された資料だけでは判断できない設計意図、失敗した手法、途中で放棄した案についても説明できるという内容で、身柄の解放を条件にする文面はどこにもない。
「外に出してほしいとは?」
ネイトが確認する。
「書かれていない」
「処分を軽くしてほしいとも?」
「ない」
「シンデレラとの面会は?」
「それも要求していない」
エイブは長い時間、申請文を読んでいた。感情だけで判断するなら、再び研究へ関わらせること自体を拒絶したい部分もあるはずだったが、侵食を作り、改良し、隠して研究していた本人が持つ知識に価値があることも否定できない。
「資料だけより、本人から聞いた方が分かることはある」
「使う?」
アンダーソンが尋ねる。
「最初は口頭だけ」
エイブは即座に条件を付けた。
「研究設備には触らせない。生きたNIMPHも見せない。実際の侵食個体にも近づけない。こちらが選んだ質問へ答えさせるだけ」
「外部通信は?」
「なし」
「一人には?」
「しない」
「記録は?」
「全部残す」
ネイトも確認へ加わった。
「本人が『これを実際に試したい』と言ったら?」
「提案まではさせる。実行するか決めるのはこっちだ」
「勝手に試す余地は?」
「作らない」
リリスは申請文を読み返してから、拘禁そのものの扱いについて尋ねた。
「仕事をしたら、自由になる?」
「別問題だ」
アンダーソンは首を横へ振った。
「研究協力を理由に身柄を解放するとは約束しない。処分がなくなるとも言わない。拘禁された状態で、許可された仕事を行うことになる」
「シンデレラが許さなくても?」
「それも別だ」
エイブが答えた。
「シンデレラに許す義務はない。レッドシューズが何をするかと、シンデレラがどう思うかを取引にはしない」
「うん。その方がいいと思う」
その場で決まったのは、研究協力の申し出そのものを拒絶せず、まず口頭での協力を認めることだけだった。模擬環境を使った作業へ進ませるか、さらに長く研究へ関わらせるかは、その後の態度と内容を見て改めて判断する。
◇
翌日、ネイトとエイブは拘禁施設を訪れた。
レッドシューズが連れてこられた面会室には、研究機材も自由に使える端末もなかった。彼女は監視員の指示で席につき、向かい側へ座った二人を静かに見つめる。
「申請は読んだ」
ネイトが最初に言った。
「ありがとうございます」
「受ける。ただし、条件付きだ」
今度はエイブが続けた。
「拘禁は続く。研究へ協力しても、解放されるとは約束しない」
「はい」
「シンデレラとの面会も、研究の報酬にはしない」
レッドシューズの目が僅かに揺れたものの、返事は変わらなかった。
「……はい」
「設備には触らせない。最初は質問へ答えるだけだ。必要な記録は私が取る」
「分かりました」
「外部通信は禁止。NIMPHへ直接接続させることも、侵食された個体へ触れさせることもない。私が止めると言ったら、その場で終わりだ」
「承知しました」
レッドシューズは条件の変更を求めなかった。研究を行うにはあまりにも自由のない環境だが、それが自分の行為によって必要になった制限だと理解しているらしい。
「文句は?」
ネイトが尋ねる。
「ありません」
「もっと研究させてほしいとか、設備を使わせてほしいとかは?」
「提案したいことは出てくると思います」
「その時は?」
「提案します」
「勝手には?」
「しません」
エイブがそこで口を開いた。
「以前なら?」
レッドシューズはすぐに答えず、少し考えてから言葉を選んだ。
「必要だと思えば、自分で進めたと思います。止められると思えば隠しましたし、理解されないと思えば、説明する前に実行しました」
「今は?」
「理由を説明して、提案します」
「却下されたら」
「理由を聞きます」
「それでも許可されなかったら?」
「実行しません」
「自分の方が正しいと思っていても?」
レッドシューズはそこで一度目を伏せた。正しそうな答えをすぐに返すのではなく、自分の過去を確かめるように少し時間を置く。
「それでも、やりません」
「なぜ」
「必要だと自分で決めたことを、止められないように隠して実行した結果を、私は知っています」
彼女は再びエイブを見る。
「今度は、止められることも手順に入れます」
エイブはしばらく何も答えなかった。
「言うだけなら簡単だ」
「はい」
「信用してない」
「分かっています」
「そこで『信じなくていい』と言うな」
レッドシューズが僅かに目を見開いた。
「信用が必要な仕事をしたいなら、信用されるように行動しろ。自分から諦めて逃げるな」
「……はい」
「許されるかどうかは別だ」
「それも分かっています」
「シンデレラが一生許さなくても?」
レッドシューズの表情に痛みが走ったが、返事は変わらなかった。
「それでも、やります」
「何のために」
「私が知っているものを、今度は止める側へ使うためです」
ネイトはその答えを聞きながら、彼女が本当に変わったかを今ここで決める必要はないと思った。提案し、危険を説明し、拒否されれば止まり、自分だけで実行しない。その手順を一度ではなく、何度も守れるかどうかを見ればいい。
「次から本題に入る」
エイブが自分の端末へ触れた。
「お前が作った侵食構造を、最初から説明してもらう。成功したものだけじゃない。失敗したもの、捨てた案、危険すぎて止めたものも全部だ」
「分かりました」
「質問するのは私だ。分からないことは分からないと言え」
「はい」
そこで面会は終了した。レッドシューズは続きを要求することも、機材を求めることもなく、監視員の指示に従って席を立った。
◇
拘禁施設を出た後、ネイトとエイブはしばらく並んで歩いた。面会室で聞いた言葉だけを材料に結論を出すつもりは、どちらにもなかった。
「どう思う?」
「まだ分からない」
エイブは前を向いたまま答えた。
「変わったようには見えた?」
「言い方は変わった」
「信用は?」
「まだしない」
「やっぱり嫌か」
「嫌だ」
返事は速かったが、エイブはそこで終わらせなかった。
「あいつがしたことを考えれば、研究へ関わらせたくない。でも、あいつにしか分からないこともある。それを私の感情だけで捨てるのも違う」
「だから働かせる」
「そうだ。ただし、今度は一人で決めさせない」
ネイトは頷いた。それなら、自分にも理解できる。
勝利の翼号へ戻ると、スノーホワイトが工房の中央机を空けて待っていた。そこにはリリスの現行ボディ、マレーンの旧ボディで起きた破損、外部フレームによる負荷分散の結果が、それぞれ別の画面へ表示されている。
「準備できました」
「何の?」
ネイトが尋ねると、スノーホワイトは中央に置かれた白紙の設計画面を指した。
「リリスお姉ちゃんの次の身体です」
「今のを修理する案じゃなく?」
「それも続けます。でも、それだけでは追いつかないと思います」
エイブも机の前へ立ち、現在の負荷経路を白い画面へ重ねた。今までの構造を強化するためではなく、最初から力の流れそのものを考え直すための設計だった。
「どんな身体になる?」
ネイトが尋ねる。
「まだ分からない」
「今日それ何回目だ」
「分からないものを、分かったふりするよりいい」
「それはそうだな」
エイブが白い画面へ最初の線を引き、スノーホワイトもその隣へ別の線を重ねていく。今のリリスを弱くして身体へ押し込むのではなく、彼女が持つ力の方へ器を近づけるための設計だった。
半年という数字が答えを教えてくれるわけではない。それは今の身体で今まで通り戦える時間が無限ではないと示しただけで、完成すべき日付でも、死ぬ日でもなかった。
なら、残された時間を数えるより、その時間でできることを増やせばいい。
白かった設計図に、少しずつ線が増えていった。