「いや、昨日の幽々子さんは本当に凄かったな。納豆パスタ3倍の後に、カルボナーラおかわり3杯だろ? 鈴奈庵の卵のストックが全部消えるかと思ったよ」
営業日の昼下がり。人間の里の片隅に佇む和風喫茶『ひだまり庵』の厨房で、店主の文月律は苦笑しながら今日の仕込みを行っていた。
カウンターの向こうでガラスのコップを丁寧に拭いていた看板娘の水瀬るいは、その言葉を聞いてクスクスと楽しそうに肩を揺らす。
「ふふ、でも妖夢さんが『幽々子様があんなに嬉しそうに食べるパスタ、私も作れるようになりたいです!』って、昨日1日だけのお休みだったのに、そのあと必死にカルボナーラのコツを聞いてきたじゃないですか。まるでお剣の修行並みの真剣さでしたよ」
「おかげでこっちは、せっかくの休日が半分料理教室になっちまったけどな。まあ、妖夢がお礼にって、白玉楼のいいミルクを分けてくれたから、いいんだけどさ」
律は厨房の冷蔵庫から、昨日妖夢から譲り受けた真っ白なボウルを取り出した。そこには、冥界の清廉な空気の中で育まれた、驚くほど濃厚で質の良いミルクが湛えられている。
「せっかくだからさ、これを使って新しいデザートでも作ろうかと思って。パスタの後にツルッと食べられる『パンナコッタ』なんてどうだ?」
「パンナコッタ……? 外の世界でもあまり聞いたことない食べ物ですね」
るいは不思議そうに小首を傾げた。外の世界から幻想郷へと迷い込んできた彼女の口から出たその言葉に、律はフッと口元を緩める。
「そうか? 向こうじゃ結構定番のイタリアンスイーツなんだけどな。生クリームと砂糖を火にかけて、ゼラチンでツルンと固めたやつだよ。るいも食べたら絶対気に入ると思うぞ」
「へえ、生クリームのゼリーみたいな感じでしょうか? 律さんの作る新しいデザート、すごく楽しみです!」
期待に目を輝かせるるいを見ながら、律はさっそく手際よく鍋に火をかけ、妖夢のミルクと生クリームを合わせ始めた。火加減を細かく調整し、ゼラチンが完全に溶け込む瞬間を見極める。その真剣な眼差しは、パスタを茹でる時と何ら変わりはなかった。
――それからしばらくして、ちょうど試作品の第一号が冷蔵庫で冷やし固まった頃。
カチャリ、とお店のドアが開いて、聞き馴染みのある上品な足音が店内に響いた。
「あら、るい。昨日1日だけのお休みが明けて、今日からもう営業なのね。これ、良ければみんなで食べて」
ふらりと入ってきたのは、魔法の森に住む人形師、アリス・マーガトロイドだった。彼女の腕には、るいへの差し入れらしき小さな可愛らしい包みが抱えられている。この2ヶ月の間に、彼女がこうして店に顔を出すのは、ひだまり庵にとってすっかり日常の光景になっていた。
厨房から顔を出した律は、冷えた白い器を手に持ってフッと笑った。
「アリス、ちょうど良かった。パンナコッタ作ったから食べてみてくれ」
「パンナコッタ……? あんた、なかなか洒落たものを作るじゃない。でも、どうして急に?」
アリスは不思議そうに眉をひそめながらも、促されるままカウンターの席に腰を下ろす。
「昨日、妖夢にパスタを教えたお礼にって、白玉楼のいいミルクを分けてもらったんだ。それで食後のデザートにいいかなと思って試作してたんだよ。お菓子作りの得意なアリスの意見を聞きたくてさ」
「いいわ、そこまで言うなら味見くらいしてあげる。変なものを出して『ひだまり庵』の評判を落とされたら、常連の私だって困るのよ」
アリスは手慣れた手つきで小さなスプーンを手に取ると、真っ白なパンナコッタをそっとすくい、口へと運んだ。
その瞬間、アリスの動きがピタリと止まる。
「……ふん。相変わらず悔しいくらい手際がいいわね。あんたのパスタの茹で加減(アルデンテ)へのこだわりを見た時から、火の通し方や素材の扱いがプロ並みなのは分かっていたけれど……このパンナコッタの『口溶けのタイミング』の計算も見事だわ」
「ありがと。アリスにそう言ってもらえると自信になるよ。……けどさ、お菓子はあまり作ったことないからわからないからな。もうちょっとコクや風味のバランスを洗練させたいんだけど、何が足りないと思う?」
アリスはふっと優しく目を細め、どこか楽しそうに、しかし職人としての静かなプライドを覗かせて微笑んだ。
「そうね、あんたのパスタの茹で加減は文句なしだし、料理人としての腕は私も100%認めてる。――だけどね、お菓子作りの領域なら、私だってそう簡単に負けるつもりはないわよ?」
「あはは、アリスさん、目が職人の目になってます……!」
カウンターの横で、るいが楽しそうにクスクスと笑う。律は
「はは、そりゃ頼もしいな」と頭を掻きながら、信頼を込めてアリスの言葉に耳を傾けた。
「普段から人形たちと色々作ってるからね。……ほら、ちょっとスプーン貸して。生クリームの比率をいじるんじゃなくて、酸味と香りの強い自家製のベリーソースを添えれば、このコクが劇的に引き立つわ。私がいつも作ってるソースの配合、教えてあげるから参考にしてみて」
アリスがカウンター越しに律へ身を乗り出す。
律が「へえ、ありがたいな。紙とペン持ってくるから――」と言いかけた、その時だった。
カチャ、と小気味よい音を立てて、ひだまり庵のドアが再び開く。
「失礼するわ」
凛とした涼やかな声と共に店に入ってきたのは、紅魔館の完璧超人なメイド長、十六夜咲夜だった。その手には、丁寧に包まれた紅魔館からの手土産らしきものが握られている。
「あ、咲夜さん! いらっしゃいませ!」
るいがパッと顔を輝かせせて出迎えると、咲夜は上品に一礼し、それからカウンターの先客に気づいて少しだけ意外そうに眉を動かした。
「あら、アリス。あなたも来ていたのね。ずいぶんと店主に熱心に詰め寄っているようだけれど?」
「別に詰め寄ってなんてないわよ。律が新作のデザートを作ったっていうから、少し意見を交わしていただけよ」
大人の余裕を崩さないアリスを見て、咲夜はフッと意味深な微笑を浮かべる。
厨房からそれを見ていた律は、新しく冷やしておいた器をもう一つ取り出しながら、いつもの調子で咲夜に声をかけた。
「お、咲夜、ちょうどいいところに来たな。お菓子は作ったことないからわからないから、アリスに意見を求めてたんだよ。咲夜も新作のパンナコッタ、食べてみてくれよ」
咲夜は手際よくスプーンを手に取ると、完璧な所作でパンナコッタを一口、口へと運んだ。その端正な顔立ちが、わずかに驚きに動く。
「……なるほど、見事な口溶けね。律さんのパスタの茹で加減へのこだわりが、この繊細な固まり具合にも現れているわ。……ただ、少し『香り』に物足りなさを感じるかしら」
「香り、か?」
律が聞き返すと、咲夜は人差し指をそっと唇に当て、メイド長としての鋭い視線を向けた。
「ええ。お嬢様方にお出しするなら、こうするべきだわ。最高級のバニラビーンズを贅沢に使うか、あるいは高地の高貴な紅茶の茶葉をミルクに煮出して、圧倒的な風味の気品を纏わせるべきよ。そうすれば、紅魔館のデザートとしても完璧な一品になるわ」
咲夜の自信に満ちた提案に、アリスが「それはちょっと上品すぎるんじゃない?」と口を挟もうとしたが、それより早く、律が腕を組んでうーんと首を傾げた。
「いや……咲夜、ありがたい意見なんだけどさ。うちの店のお客さんは、お嬢様方だけじゃないから、もうちょっと……なんていうか、里の人間でも誰でも、もっと気軽に『美味しい』って食べられる親しみやすさが欲しいんだよな。高級すぎる香りにしちゃうと、ちょっと構えちゃうだろ?」
「あら……。みんなが親しみやすい味、ですか」
想定外の指摘を受けたのか、咲夜は少し意外そうに目を丸くした。
「そうよ咲夜、律の言う通りだわ」
すかさずアリスが微笑を浮かべる。
「高価な茶葉の香りで誤魔化すんじゃなくて、誰もが好きな甘酸っぱいベリーのソースで全体の輪郭を引き締める。これなら里の子供だって美味しく食べられるわ。やっぱり私のソースの配合がベストよ」
「……ふふ、アリス、ずいぶんと自信満々ね。でも、ソースの酸味が強すぎると、今度はミルク本来の繊細な甘みが死んでしまうのではないかしら?」
「ちゃんと計算して合わせるわよ。それに――」
一歩も引かない二人のハイレベルな論争。カウンターの横で、るいはおろおろと視線を彷徨わせていた。
「お、お菓子作りって、なんだか魔法の実験みたいですね……。お二人とも、言葉が専門的すぎて私、頭がぐるぐるしてきました……」
「はは、全くだ。二人とも言ってることの次元が高すぎるだろ」
律は腕を組んでフッと不敵に笑うと、コンロの上の鍋へと手を伸ばした。
「二人とも、ありがとな。自分じゃ絶対思いつかない、最高のヒントを貰ったよ。――よし、じゃあ両方試してみるか」
「「両方……!?」」
アリスと咲夜が同時に声を揃えて目を丸くする。それを小気味よく聞き流しながら、律はすでに行動を開始していた。
カチリ、と小気味よい音を立てて、厨房のガスコンロに再び青い炎が灯る。律は使い込まれた小鍋を火にかけると、冷蔵庫から妖夢に分けてもらった白玉楼のミルクを贅沢に注ぎ入れた。火が通るにつれて、冥界の清廉な空気を感じさせるどこか涼やかで芳醇な香りを放ち始める。
「咲夜の言う通り、食後にすっきりとした気品を出すなら『香り』が欲しい。だからベースのミルクには、ほんのりアールグレイの茶葉を躍らせる」
律は棚から上質な紅茶の茶葉を取り出すと、温まり始めたミルクの中へと投入した。
さらさらと白い海に溶けていく茶葉。鍋の中がふつふつと小さな泡を立てて揺れるたびに、茶葉がゆっくりと開き、ミルクの色を淡い、綺麗な琥珀色へと染めていく。同時に、アールグレイ特有の柑橘系――ベルガモットの華やかで爽快な香りが湯気とともにふわりと立ち上り、カウンターのるいたちの鼻腔を優しく刺激した。
「わあ……! すごく良い匂い……。ミルクの中に紅茶を入れるなんて、贅沢ですね」
るいが思わず目を細めて息を吸い込む。律はそのミルクが沸騰して膜を張らないよう、木ベラを器用に動かして、計量した砂糖とゼラチンを丁寧に、ダマにならないよう溶かし込んでいった。
そして、律の視線が今度はアリスの方へと向けられる。
「だけど、それだけじゃ里の子供やみんなが気軽に食べるには上品すぎる。だから上に乗せるのは、アリスの言った甘酸っぱいベリーのソースだ」
律は隣のコンロに小さなフライパンを乗せ、アリスが差し入れてくれた、みずみずしい数種類のベリーを落とした。じゅう、と小気味よい音が響き、果汁が弾ける。
「紅茶のベルガモットの香りと、ベリーの強い酸味。この二つは、普通に合わせるとお互いの個性が強すぎて喧嘩しちまう。だからさ……ソースの隠し味に、ほんの少しの『蜂蜜』を混ぜて味を繋ぐ。こうすれば、ベリーの角が取れてまろやかになって、紅茶の風味とも綺麗に握手できるはずだ」
とろりと黄金色の蜂蜜が、真っ赤なベリーの海へと溶けていく。
アリスの「酸味論」と、咲夜の「香り論」。普通なら交わることのなかった二人のプロのこだわりが、律の手によって、一つの器の中で見事な黄金比率をもって融合していく。
「なるほど……。紅茶の風味をベースにして、私のソースを合わせるっていうの? ベリーティーのような組み合わせにするわけね。あんた、本当によくそんなこと瞬時に思いつくわね」
アリスは深く感心したように、その瞳には律の料理人としての底知れない発想力に対する確かな敬意が宿っていた。
「素晴らしいわ、律さん」
コンロの前で無駄のない動きを見せる律を、咲夜は感心したように目を細めて見つめていた。
「お互いの長所を打ち消し合うのではなく、一つの器の中で調和させる。あなたの料理に対する柔軟な姿勢は、やはり紅魔館の厨房に招き入れたいくらいの価値がありますわ。……どこかの頑固な人形師も見習うべきエレガンスかしらね?」
「ちょっと咲夜、誰が頑固よ」
「はは、紅魔館のメイドに転職する気はないよ。ほら、るい、氷水を用意してくれ。一気に冷やし固めるぞ」
「はいっ! すぐに!」
るいが弾んだ声で答え、大きなボウルにたっぷりの氷水を張る。
律は完成した琥珀色の液体を小さなガラスの器へと丁寧に注ぎ分け、氷水の中へとそっと沈めていった。キィンと冷やされていく器の中で、パンナコッタがゆっくりと、しかし確実に「極上の口溶け」を宿した至高の形へと固まっていく。
「よし、できたぞ。ひだまり庵特製、『紅茶とベリーのパンナコッタ』だ。二人とも、意見をありがとな。遠慮なく食べてみてくれ」
並べられたガラスの器を前に、咲夜はメイド長としての厳しい目線を一瞬だけ覗かせ、優雅な所作でスプーンを口へと運んだ。ほんのりベージュ色の生地と真っ赤なソースが、彼女の唇に消える。次の瞬間、咲夜は小さく息を呑んだ。
「……っ。ええ、見事な着地点ですわ。アールグレイの華やかな香りが鼻に抜けた直後、アリスのソースの酸味が全体をキュッと引き締めて、ミルクの濃厚さを引き立てている……。気品を保ちつつも、決して気取らない。これならお嬢様方はもちろん、里の人間でも一口で笑顔になれますわね」
咲夜は満足そうに微笑むと、スプーンを置いて律を真っ直ぐに見つめた。
「先日のパスタの時も思いましたけれど、文月様、あなたの手にかかると、どんな食材も『食べる者を一番に想う一皿』に化けてしまうのね。……ふふ、アリス。私たちのアイデア、想像以上に相性が良かったみたいね?」
「ええ、認めざるを得ないわね。あんたの言う紅茶の香りがベースにあったからこそ、私のソースが綺麗に生きたんだわ。さすがね、律」
アリスは穏やかに微笑み、律の腕前を改めて称賛した。
「んん〜っ! おいしいです! 昨日の幽々子様たちのパスタも凄かったですけど、このデザートもお店に出したら絶対女の子に大人気になりますよ!」
るいがスプーンを片手に、頬を落とさんばかりの笑顔でパンナコッタを頬張る。
その幸せそうな様子をカウンターの端で見つめていたアリスの背後から、パタパタと小さな羽音が響いた。
アリスの愛用する可愛い人形たち――上海と蓬莱が、主人の肩のあたりからひょっこりと顔を出したのだ。2人はパンナコッタの甘く爽やかな香りに引き寄せられたらしく、興味津々で器を覗き込んでいる。
「あら、あんたたちも食べたくなったの?」
アリスが苦笑しながら声をかけると、上海と蓬莱は息を合わせるように、コクコクと小さくて愛らしい頭を激しく縦に振った。
「はは、ちゃんと2人の分もあるぞ。るい、小皿に少し分けてやってくれ」
「了解です! ほら、上海ちゃん、蓬莱ちゃん、お待たせしました!」
るいがティースプーンにほんの少しずつパンナコッタをすくい、即席のミニ皿に乗せて差し出す。上海と蓬莱は嬉しそうに手を叩くと、自分たちの体の半分ほどもある小さなスプーンを一生懸命に両手で抱えた。
まず上海が、お行儀よくトコトコと皿に近づき、小さな口でパンナコッタをぱくりと一口食べた。
「――!」
上海はパッと顔を輝かせると、あまりの美味しさに自分のドレスの裾をきゅっと握りしめ、カウンターの上で嬉しそうにぴょんぴょんと跳ね回る。
それを見た蓬莱が、負けじとスプーンを構えて、残りのパンナコッタに勢いよく飛びついた。大きめのベリーの果実を上手にすくい上げ、口いっぱいに頬張る。ベリーの甘酸っぱさが口の中に広がった瞬間、蓬莱はふにゃりと目を細め、とろけるような幸せそうな表情を浮かべてその場にパタンと座り込んでしまった。
「あはは! 蓬莱ちゃん、美味しすぎて力が出なくなっちゃってます!」
るいがそれを見てお腹を抱えて笑う。
「もう、あんたたち、はしたないわよ……。でも、本当に美味しそうに食べるわね」
アリスは呆れつつも、愛おしそうに目を細めて2人の頭を人差し指でそっと撫でてやった。
上海は満足そうに口の周りについたベリーソースを小さな手できゅきゅっと拭い、律に向かってペコリと丁寧にお辞儀をしてみせる。蓬莱も、座り込んだままスプーンをパタパタと振って、律に美味しかったことを一生懸命アピールしていた。
「どういたしまして。アリスと咲夜のアイデアのおかげだからな、2人にもお礼を言えよ」
律がフッと優しく微笑むと、上海と蓬莱は今度はアリスと咲夜に向かって、小さな手で器用に手を振り返すのだった。
「それじゃあ、私はそろそろ戻るわね。お嬢様方がお目覚めになる前に、このパンナコッタの『香り』の再現を試してみたいの」
咲夜が懐中時計をそっとポケットに収めながら、流れるような所作で席を立った。手土産を律に手渡し、エプロンの皺を優雅に伸ばす。
「律さん、今日も素晴らしいインスピレーションをありがとう。紅魔館の厨房で、さっそく今日の復習をさせていただきますわ」
「おう、咲夜もありがとな。レミリアたちに食べさせる時は、火加減にだけ気をつけてくれよ」
律が手を振ると、咲夜は小さく微笑み、それから隣の席のアリスへと視線を向けた。
「アリス、あなたはまだ残るのかしら?」
「ええ、私はるいの様子をもうちょっと見てから、自分の足で魔法の森に帰るわ。あんたこそ、お嬢様を待たせて焦って転ばないようにね」
アリスが穏やかに返すと、咲夜は「あら、完璧なメイドがそんな不手際を犯すはずがありませんわ」と、くすくすと楽しそうに笑った。
「それでは、失礼するわね。るいさんも、またね」
「はい! 咲夜さん、ありがとうございました! またパスタ食べに来てくださいね!」
るいが元気に手を振る中、咲夜がドアへと手をかける。チリン、と鈴の音が響いた瞬間、彼女の姿はまるで最初からそこにいなかったかのように、文字通り掻き消えるようにして店から去っていった。相変わらずの時間を操るメイド長の神出鬼没ぶりに、るいは「いつ見ても格好いいなぁ……」と目を輝かせる。
「相変わらず手際のいいメイドね……」
咲夜が去った静寂の中で、アリスは小さく息を吐きながらも、満足そうに最後の一口をパクリと平らげた。カウンターの上では、上海と蓬莱が空になったミニ皿を名残惜しそうに眺めている。
「さて、あんたたち、お腹いっぱいになったら帰るわよ。いつまでもお店の邪魔をしちゃ悪いしね」
アリスが席を立つと、上海と蓬莱はパタパタと彼女の肩へと飛び乗り、律とるいに向かってペコリと可愛らしくお辞儀をした。
「アリスもソースの配合、助かったよ。今度店で正式にメニューに出す時は、ちゃんと参考にさせてもらうからな」
「ええ、楽しみにしているわ。……それじゃあ、またね、律、るい」
アリスは優しく微笑むと、上海や蓬莱と一緒に穏やかな足取りで店を後にした。閉まったドアの向こうで、人形たちが律たちに「バイバイ」と小さく手を振っているのがガラス越しに見えた。
「あはは、アリスさん、今日も優しくて素敵でしたね」
るいが楽しそうに笑うと、律も「全くだな」とフッと表情を緩めた。
「俺の方こそ助かったよ。アリスのソースの酸味と、咲夜の紅茶の香り。どっちが欠けてもこの味にはならなかった。お菓子は作ったことないからわからないからな、って最初に言ったけど、やっぱり持つべきものはこだわりのある常連さんだ。……よし、これで新メニューは決まりだな」
律は手際よくカウンターの器を片付けながら、厨房の冷蔵庫にずらりと並んだ、新しく仕込み終えたばかりのパンナコッタの器に視線を向けた。白玉楼の極上のミルクをベースに、アリスと咲夜の魔法が加わった、ひだまり庵だけの特別な一品。
「昨日の幽々子さんたちの『冥界のオーダー』の時、パスタの後にこれを出せてたらもっと驚かせられたかもな。妖夢が次に店に来た時には、真っ先にこれを食べさせて驚かせてやろう」
るいが弾んだ声で笑いながら、エプロンの紐をきゅっと結び直す。
時計の針が、ひだまり庵のいつもの開店時間を指し示していた。
昨日1日だけのお休みをもらって、鈴奈庵でみんなとワイワイ過ごした賑やかな記憶。常連たちの言葉から生まれた新しい奇跡。そんな温かい日々の積み重ねこそが、この店の何よりの隠し味なのだ。
律は入り口の扉へと歩みを進め、木製のボードをゆっくりと裏返した。『営業中』の文字が、差し込む午後の柔らかな木漏れ日を浴びて、静かに輝き始める。
「さて、それじゃあ今日も『ひだまり庵』、開店するか」
律の声に、るいが「はいっ!」と元気よく笑顔で応える。
チリン、とドアの鈴が優しく鳴り響き、人間の里の片隅に佇む和風喫茶に、また新しくて愛おしい、美味しい日常の幕が上がるのだった。
第10話をお読みいただき、ありがとうございました!
次回の第11話もどうぞお楽しみに!