カランコロン、と乾いた下駄の音が人間の里の賑やかな通りに響く。
博麗神社の巫女である博麗霊夢は、いつもより少しだけ軽い足取りで歩いていた。理由は至極単純、懐にある財布が、めずらしく小気味よい重みを持っていたからだ。
この前、ちょっとした依頼をこなした際の報酬がまとまって入ったのだ。いつもなら賽銭箱と同様に空っぽなことが多い財布が潤っているというだけで、里の景色がいつもより三割増しで綺麗に見える気がする。
「さて、せっかく里まで下りてきたんだし、何か食べて帰ろうかしら……」
そう呟いた瞬間だった。通りの脇にあるベンチのあたりから、「ぐうううううう……」という、およそ人間が出したとは思えない凄まじい地響きのような音が聞こえてきた。
霊夢が怪訝な顔で視線を向けると、そこには見慣れた黒いミニ八卦炉を抱え、帽子を斜めに傾けたままベンチに突っ伏している、一人の魔法使いの姿があった。
「ちょっと、魔理沙。何やってるのよ、そんなところで」
「……お, 霊夢か……。幽霊かと思ったら、お前かぜ……」
魔理沙は力なく顔を上げると、完全に焦点の合っていない目で霊夢を見上げた。いつもなら生意気にはためいている金髪のサイドポニーも、今は心なしか萎びているように見える。
「幽霊に失礼ね。それより、何よそのザマは。異変解決の帰り?」
「いや……新しい魔法の実験に熱中しすぎてな。気づいたら丸一日、何も食ってなかったんだぜ……。里まで買い出しに来たはいいが、一歩も動けん……。腹が減って、死ぬ……」
そう言うが早いか、魔理沙の腹が再び「きゅるるるる」と盛大な悲鳴を上げた。
霊夢は深くため息をつき、ぽんぽんと自分の額を押さえる。
「あんたねぇ……。魔法の研究もいいけど、人間なんだからご飯くらい食べなさいよ。しょうがないわね」
いつもなら「じゃあね」と見捨てて帰るか、神社に連れ帰って残り物の油揚げでも囓らせるところだが、今日の霊夢は一味違う。何せ、財布が温かいのだ。お腹を空かせた相棒を前にして、霊夢の心の中に、ある種の『余裕』と『見栄』がムクムクと頭をもたげていた。
「よし、ついて来なさい魔理沙。あんたを飢え死にさせたら、後味悪いしね」
「おいおい、神社に行っても何もないだろ……? 私は今、ガツガツした美味いものが食いたいんだぜ……」
「神社じゃないわよ。里に、ちょっと行きたいお店があるの。ほら、シャキッとしなさい。今から最高に美味しいパスタを食べにいくんだから」
「パスタだって!? ひだまり庵に行くならそうと早く言えよ! 律のところなら、這ってでも行くぜ!」
「現金な奴ね……。ほら、置いてっちゃわよ」
「待て待て、今日の霊夢は本当に太っ腹だな! よし、そうと決まれば足が軽くなってきたぜ!」
二人は賑やかな里の通りを抜け、少し落ち着いた路地へと足を進めていく。
――その頃、二人が向かっている和風喫茶『ひだまり庵』の厨房では、マスターである律が仕込みの最終チェックを行っていた。
「律さん、お昼のピークに向けてテーブルのセッティング、バッチリ終わりました!」
看板娘のるいが、ピンと伸びたエプロンの裾を揺らしながら、嬉しそうに報告してくる。
「ありがとう、るい。助かるよ。……よし、この前白玉楼から分けてもらったミルクのパンナコッタも、綺麗に冷え固まったみたいだ。いいデザートが出せそうだね」
律は冷蔵庫からツヤツヤと輝く真っ白なパンナコッタを取り出し、満足そうに目を細めた。人間の里で誰もが知る大人気店となった今でも、律の料理に対する妥協のない姿勢は変わらない。むしろ、繁盛店になったからこそ、いつ誰が来ても最高の一皿を出せるよう、常に店内をピカピカに保ち、仕込みに全力を注いでいた。
「わぁ、とっても美味しそう! 今日のお客様も、きっとみんな笑顔になりますね!」
「そうだね。じゃあ、そろそろお昼の営業を始めようか」
律がエプロンの紐をきゅっと結び直した、ちょうどその時だった。
チリン、と小気味よいドアベルの音が店内に響き渡る。
「いらっしゃいませ!」
扉を開けた瞬間、いつものように明るく弾んだ声で、るいがとびきりの笑顔を咲かせた。
そこに立っていたのは、どこか誇らしげな顔をした博麗の巫女と、今にもお腹の虫を暴走させそうな、フラフラの魔法使いだった。
「はーい、お待たせいたしました! 霊夢さんには、たっぷりのパルミジャーノと濃厚な卵黄で仕上げた『濃厚カルボナーラ』。魔理沙さんには、自家製ベーコンをこれでもかってくらい乗せた『大盛りペペロンチーノ』です! 熱いうちにどうぞっ!」
お盆を器用に抱えたるいが、満面のひだまりのような笑顔で、カウンターから二人の席へと皿を運んできた。皿を置いた瞬間、二人の目がらんらんと輝く。
「うおぉ……! 辛抱たまらん、いただきます!」
魔理沙が勢いよくペペロンチーノを巻き取る傍らで、霊夢も目の前に置かれた一皿に、思わず息を呑んでいた。
平打ちのパスタにこれでもかと絡みつく黄金色のソース。その中央には、芸術品のように美しい濃厚な卵黄が鎮座し、粗挽きの黒胡椒が星のように散りばめられている。
霊夢はフォークを入れ、まずはその中央の卵黄をそっと突き崩した。とろりと溢れ出した鮮やかな黄身が、熱々のソースと混ざり合う。フォークを回し、贅沢にソースを絡め取って口に運んだ。
「――っ……!」
口に入れた瞬間、霊夢の動きがピタッと止まる。
濃厚。その一言に尽きた。口いっぱいに広がるチーズの芳醇なコクと、生クリームのまろやかな甘み。そこに卵黄の圧倒的なコクが追いかけてきて、パスタの一本一本をこれ以上ないほど贅沢にコーティングしている。
「なにこれ……もの凄く美味しい……っ!」
「ふふっ、よかったです! 律さんが霊夢さんのために、チーズの配合をいつもより少し贅沢めにして調整してたんですよ?」
るいが嬉しそうに胸を張りながら、お冷やのグラスをトレイに乗せて微笑む。
「へへっ、霊夢、美味そうに食うじゃねぇか」
大盛りのペペロンチーノをガツガツと平らげながら、魔理沙がニヒヒと笑う。
「うるさいわね。……でも、本当にこれ、美味しいわ。律、あんた天才じゃないかしら」
「ふふ、霊夢にそう言ってもらえると自信が出るよ」
律がカウンターの向こうで嬉しそうに微笑む傍らで、るいも「ねー、律さん!」と楽しそうに相槌を打っていた。
最後の一滴までソースを惜しむように味わった霊夢は、ふぅ、と至福のため息をついた。
少しお姉さん風を吹かせながら、魔理沙の満足げな顔を見るのは、思った以上に気分が良いものだった。
しかし、その満足感の余韻に浸る魔理沙の視線が、ふと卓上のメニュー表の隅に書かれた『パンナコッタ』の文字でピタッと止まる。
「おい律、このパンナコッタってのは何なんだ? デザートか?」
「ああ、生クリームとミルクをゼラチンで冷やし固めたスイーツだよ。ちょうどこの前、白玉楼から分けてもらった極上のミルクを使って仕込んだばかりんだ」
「へぇ……美味そうだな。……いや、でもなぁ」
魔理沙はポケットの上の軽い財布を思い出し、少し名残惜しそうに視線を逸らそうとした。
それを見た霊夢が、残った珈琲のカップをソーサーにカチャリと静かに置き、フッと少し得意げに微笑む。
「いいわよ魔理沙、それも頼みなさい。――ここは、私が払うわ。」
「な、なんだってー!? 霊夢、お前今日はお大層に景気がいいんだな! じゃあ遠慮なく二人分、頼むぜ律!」
「はーい! パンナコッタ二つですね、すぐにお持ちします!」
るいがパタパタと厨房へ向かうのを見送りながら、霊夢がふと思い出したように口を開く。
「そういえばこの前、アリスと咲夜に会ったときにね。二人とも、あんたの店の料理をずいぶん絶賛してたのよ。『ひだまり庵に行ったら、デザートまで絶対に抜かっちゃダメよ』って、わざわざアドバイスをもらってたの。だから、一度あんたにも食べさせてあげようと思ってね」
「へぇ! あのアリスや、紅魔館のあの気の難しいメイド長がそこまで言うのか? そいつはますます期待大だぜ!」
少しして、るいが真っ白でツヤツヤと輝くパンナコッタを運んでくる。
「はいどうぞっ! アリスさんや咲夜さんにもお墨付きをいただいた、律さん渾身の自信作です!」
スプーンを差し込み、口に入れた瞬間、二人の目が同時に丸くなった。
「……っ!? な、なんだこれ! 口に入れた瞬間、一瞬でとろけてなくなっちゃったぞ!」
魔理沙が驚愕のあまり声を裏返らせる。
「驚くほど濃厚なミルクのコクがあるのに、後味がすごく上品で、すっと引き締まっていくわ……。カルボナーラの後に、この冷たくて甘酸っぱいデザートは最高ね……」
「わぁ、霊夢さん、食レポの天才ですね! 律さん、今のメモしとこ!」
るいがパチパチと手を叩いて喜び、店内はゆっくりと贅沢な日常の時間が流れていく。
――このわずか数分後に、カルボナーラとパンナコッタ代によって、あの大惨劇(ガチ大掃除)が幕を開けるとは、誰も知る由もなかった。
「……足りない。パンナコッタの分が、ちょっとだけ、足りないわ……」
「アッハハハハ! おい霊夢!『ここは私が払うわ』ってあんなにドヤ顔しといて、最後のデザート代で予算オーバーかよ! 傑作だな!」
「う、うるさいわね……! ほら魔理沙、あんた今日もポケットに何か怪しいキノコ持ってるでしょ! 前みたいに、今日のところはそれで律に……」
「ダメだよ霊夢」
律がカウンターをトントンと指で叩き、人気店のマスターとしての威厳を持ってフッと笑う。
「前は開店直後だったから仕方がなくキノコで大目に見たけどさ。見ての通り、今の『ひだまり庵』は人間の里でも大繁盛の人気店なんだ。キノコなんかでうやむやにされたら、他のお客さんに示しがつかないよ」
「うぐっ……」
「というわけで、博麗の巫女だろうが魔法使いだろうが、うちのルールは絶対だ。――ただでは帰らせないからね?」
「えっ……?(魔理沙の笑い声が止まる)」
「はい霊夢、そこ窓のサッシの埃がまだ残ってる! 魔理沙、換気扇の油汚れは魔法じゃなくて、この特製洗剤とタワシできっちり落としてね! 繁盛店は清潔が第一だから、隅々まできれいにしてもらうよ」
「げぇっ!? 私はただおごられようとしただけなのに、なんでこんなガチの大掃除に巻き込まれてるんだよー!」
「もう、魔理沙がパンナコッタなんて頼むからよ……(雑巾を絞りながらブツブツ)」
「はいっ、お二人とも手が止まってますよー! ほらほら、ここもまだ汚れが残ってます!」
るいがにこにこと楽しそうな笑顔で、お揃いの特製エプロンをひるがえしながら、二人に容赦なく指示を飛ばす。
「うぅ……るいまで律に染まってスパルタになってるわ……」
「ふふふ、お二人とも息がぴったりで、お掃除がとっても早くて助かります! これで明日からも、気持ちよくたくさんのお客様を迎えられますね、律さん!」
ピカピカになっていく店内を見渡して、律とるいは満足そうに、とびきり笑顔を咲かせるのだった。
第11話をお読みいただき、ありがとうございました!
次回の第12話もどうぞお楽しみに!