律が『ひだまり庵』を開いてから、二ヶ月近く経っていた。
今日は律達が『鈴奈庵』へ行くために、店を休みにしていた。
「それにしても律さん、本当に休んじゃってよかったんですか? 昨日も『明日の分の仕込みは?』ってお客さんに聞かれちゃいましたし……」
カゴを片手に持った律の隣で、るいは少し心配そうに小首を傾げた。
外の世界からこの幻想郷に迷い込み、行く当てのなかった自分を看板娘として雇ってくれた律。この二ヶ月間、天狗の新聞効果もあって店は連日大盛況だった。目の回るような忙しさだったが、るいにとってはここが新しい大切な居場所になっていた。だからこそ、一日店を閉めることに少しだけソワソワしてしまうのだ。
「いいんだよ。るいだってこの二ヶ月、慣れない幻想郷でずっとお店を手伝ってくれただろ? たまにはこうして息抜きもしないとフライパンが重くなる」
「ふふ、律さんが言うなら大人しく甘えちゃいます。でも、里の通りをこうしてゆっくり歩くだけでも、なんだか新鮮ですね」
るいは歩調を合わせながら、柔らかく微笑んだ。まだ見慣れない木造の家並みや行き交う里の人々の姿は、かつて自分がいた「外の世界」とはまるで違う。けれど、隣に律がいてくれるだけで、この不思議な世界がとても温かいものに思えた。
そんな会話を交わしながら目指す『鈴奈庵』の前に到着し、引き戸を開けると、使い込まれた紙と墨の懐かしい香りが二人を包み込んだ。
「ごめんください」
「はーい、いらっしゃい……って、あれ? 律さん!」
カウンターの奥から顔を出した本居小鈴は、律の姿を見るなり丸い目をさらに丸くした。驚きはすぐに満面の笑みへと変わり、小走りでこちらへやってくる。
「見慣れないお昼時に来るなんて珍しいじゃない。お店はどうしたの?」
「今日は思い切って定休日にしたんだ。それと――」
律は隣に立つるいへと視線を向けた。
「こっちが店を手伝ってくれてる、るいだ。小鈴にはまだ紹介してなかっただろ」
「あ、初めまして……! 水瀬るいです。いつも律さんにはお世話になっています」
るいが少し緊張気味にぺこりと頭を下げると、小鈴はパッと顔を輝かせた。
「わあ、あなたが噂のるいさん! 律さんのところに素敵で可愛い女の子がやってきたって、里でも評判になってたんだよ? 私は本居小鈴。律の幼馴染なの。よろしくね、るいさん!」
「は、はい! よろしくお願いします、小鈴さん」
小鈴の親しみやすい笑顔に、るいの緊張もすっと解けていく。
「ほら、これ小鈴への差し入れ。小鈴に食べてもらいたくてさ」
律がカゴから取り出したのは、丁寧にラッピングされた焼き菓子――本を読みながらでも手が汚れないようにと、油分を抑えて固めに焼き上げた特製のビスコッティだ。
「わあ、嬉しい! 律さんの作るお菓子、本当に大好きなんだよね。さあさあ、るいさんも奥でお茶にするから入って!」
二人の初対面も無事に済み、温まった空気の中で奥へ進もうとした――その時だった。
ガラガラと、店の戸がかなりの勢いで開く。
「す、すいません小鈴さん……! ちょっと、助けてください……っ!」
飛び込んできたのは、息を荒くして今にも泣き出しそうな半人半霊の庭師――魂魄妖夢であった。
「えっ、妖夢さん!? 一体どうしたの?」
小鈴が驚いて声を上げると、妖夢は涙目で律たちのほうを振り返った。
「ゆ、幽々子様が……! 『ひだまり庵』のパスタが食べたいって里まで来たのに、お店が閉まっていて……。ショックのあまり、近くの広場でひっくり返ってるんです! 『お腹が空きすぎて、もう一歩も動けないわ〜。妖夢、このままだと私、死んでしまう〜』って!」
「……妖夢、幽々子さんは最初から死んでるはずだよな?」
律がすかさず冷静に突っ込むと、妖夢は頭を抱えて「そうなんですけど!」と叫んだ。
そこでようやく、妖夢は律の隣にいる少女に気づき、ハッとした。
「あ、るいさん! 前にお店に伺った時はお世話になりました……! 挨拶もそこそこに申し訳ありません、本当に今にも幽々子様が消えちゃいそうなんです! お願いです、何か食べるものを……っ!」
「あ、妖夢さん、お久しぶりです! ええと、その、幽々子様本当に大丈夫なんですか……!?」
るいが恐る恐る尋ねる横で、小鈴が慌てて声を上げる。
「大変、すぐに何か食べてもらわないと! ええと、ぱすた……パスタよね!? 鈴奈庵に外の世界の料理本か何かあったかしら、ちょっと探してくるわ!」
慌てて奥の書棚へ走ろうとする小鈴の背中に向かって、るいは思わずクスッと笑いながら声をかけた。
「小鈴さん、本じゃなくてご本人ここにいらっしゃるですから、作り方教えてもらえればいいじゃないですか?」
「あ……」
小鈴はピタッと足を止め、ロボットのような動きでゆっくりと振り返った。
言われてみればその通りである。目の前には、人間の里で連日大行列を作っている『ひだまり庵』の店主・律が、ばっちり休日の私服姿で立っているのだ。
「そ、そうだったわ……! ごめんなさい、本屋さんだから何かあるとすぐ本に頼ろうとしちゃって」
小鈴は顔を真っ赤にして照れ笑いを浮かべた。その様子に、張り詰めていた妖夢の表情も少しだけ和らぐ。
「よし、妖夢。幽々子様を連れてうちの店(ひだまり庵)に来てくれ。鍵を開けて、今から火を入れるから」
「えっ!? で、でも、今日はお休みじゃ……」
「目の前で行き倒れそうな常連を追い返すほど、俺の心は狭くないよ。それに、即興で作るにしても、やっぱり自分の厨房が一番やりやすいからな」
律が頼もしく笑うと、妖夢はパッと表情を輝かせ、何度も頭を下げた。
「あ、ありがとうございます……! すぐに幽々子様を担いで向かいます!」
妖夢は疾風のような速さで鈴奈庵を飛び出していった。
「ふふ、さすが律さん。格好いいです」
るいがクスリと笑いながら、すでにテキパキとカゴを片付け始めている。
「るいも、急に仕事になっちゃって悪いな」
「何言ってるんですか。看板娘を置いてけぼりにしないでくださいね? さあ、早く戻って仕込みをしましょう!」
「あ、待って二人とも!」
店を出ようとした二人の背中に、小鈴が声を上げた。
「私も一緒に行っていい?」
「もちろん構わないよ。小鈴が来てくれたら賑やかで楽しそうだ」
律の言葉に、るいも「嬉しいです、小鈴さん!」と嬉しそうに頷いた。
――数分後。
臨時営業となった『ひだまり庵』の厨房に、心地よい金属音が響いていた。
律は手早くコックコートに袖を通し、るいも慣れた手付きでエプロンを締める。小鈴は初めて入るお洒落な店内に「ほう……」と目を輝かせて見回していた。
「よし、るい。お湯を沸かしてくれ。幽々子様が相手だ、普通の量じゃ絶対に足りないぞ。ガッツリお腹に溜まって、冥界の主を唸らせるような最高の一皿を作ろう」
「了解です、シェフ!」
コンロに青い火が灯り、ひだまり庵の臨時営業が幕を開けた。
カランカラン、と『ひだまり庵』のドアベルがけたたましく鳴り響いたのは、それからすぐのことだった。
「り、律さん! 幽々子様をお連れしました……っ!」
息を荒くした妖夢が、背中に幽々子を背負った状態で店内に飛び込んできた。背中のお姫様は、文字通り魂が口から抜け出しかけているような、うつろな目で天井を見つめている。
「ああら……律。今日はお休みなんて、お姉さん悲しくて、本当に消えてしまいそうだわぁ……」
ぐったりと椅子に座りながらも、どこかおっとりとした声で呟く幽々子に、るいは苦笑しながらお水を差し出した。
「初めまして、幽々子さん! 水瀬るいです。今、律さんが全力でご飯を作っていますから、安心してくださいね?」
「あら……るいちゃん、可愛いお嬢さんね。律くん、あの時の宴会であなたの作ったお料理がとっても美味しかったから、里にパスタのお店を開いたって聞いてずっと楽しみにしていたのよぉ。でも今のお姉さんは、その可愛いお顔がパスタに見えちゃうくらいお腹ペコペコなの……」
「ひえっ、パスタにはなれませんから、ちょっと待ってくださいね!?」
るいが慌てて手を振るその姿に、幽々子はうふふ、と楽しそうに微笑んだ。一度会っているからこその信頼感に、妖夢も「すみません、うちの主が無理を言って……」と申し訳なさそうに、でもどこかホッとした表情を浮かべている。初めて見る幽々子の姿に、小鈴は「本物の亡霊の……お姫様」と、少し緊張した面持ちで見守っていた。
厨房からは、すでにパスタを茹でる湯気と共に、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきていた。
「お待たせしました。ひだまり庵臨時営業、特製の一皿です」
律が大きな皿をテーブルに置いた。
湯気を立てる純白のパスタの上には、ふっくらと練り上げられた大粒の納豆。その中央には、黄金色に輝く卵黄が鎮座している。さらに、細切りにされた鮮やかな緑の大葉と、刻み海苔がたっぷりと散らされ、隠し味のバターと出汁醤油の香りが、一瞬にして店内の空気を支配した。
「わあ……! これは……納豆、かしら? でも、私の知っている納豆ご飯とは全然違うわ」
幽々子の目が、パッと生き返ったように輝いた。
「里の新鮮な納豆を特製の出汁醤油とバターで和えた、『卵黄のせ濃厚納豆パスタ』です。幽々子さんパスタと具材を、よーく混ぜてから召し上がってください」
るいの説明を聞きながら、幽々子は待ちきれない様子でフォークを動かした。卵黄を崩し、納豆のネバネバとパスタを豪快に絡め合わせる。一気にとろみを帯びた麺を口へと運んだ。
「――んんっ! 美味しいわ、これ!」
幽々子は頬を落とさんばかりに満面の笑みを浮かべた。
「納豆のコクとバターの香りが、このツルツルした麺に絡みついて、お口の中が幸せでいっぱいよ! 卵黄が全体をまろやかにしてくれて、フォークが止まらないわ!」
「よかった。幽々子さんのために、通常の三倍の量で茹でた甲斐がありました」
律がフッと満足そうに微笑む。
「う、美しい……。幽々子様、本当に生き返ったみたいです(亡霊ですけど)」
妖夢が感動の涙を流している横で、小鈴もごくりと唾を飲み込んだ。
「律さん、その……私にも、今のパスタ、作てもらえたり……する?」
「もちろん。小鈴とるいの分も、今すぐ普通サイズで茹でるから待っててな」
律がそう言って再び厨房へ向かおうとした、その瞬間だった。
カチャ、と小気味よい音を立てて、幽々子のフォークが真っ白になった大皿に置かれる。通常の三倍あったはずの納豆パスタは、影も形もなく消え去っていた。
「ごちそうさま。……ねえ律、とっても美味しかったのだけれど、お腹の虫が『まだプロローグよ』って囁いているの。おかわり、もう三杯くらいもらえるかしら?」
「っ、げほっ!?」
お茶を飲んでいた小鈴が、盛大にむせた。
「さ、三倍の量を食べてまだおかわりですか!?」
「幽々子様っ! いくらなんでも律さんに失礼ですよ!」
慌てて引き留める妖夢だったが、律は驚く風でもなく、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「いいですよ。大食いの常連さんたちを相手にしてるんだ、それくらい想定内です。ただ、流石に納豆のストックが切れそうなんで、次はメニューを変えてもいいですか?」
「あら、別のパスタが食べられるの? 嬉しいわあ、楽しみに待っているわね」
幽々子がパタパタと扇子を揺らして嬉しそうに微笑む。
律はるいへと目くばせをした。
「るい、次はもっとお腹に溜まるやつだ。生クリームと、ベーコン、それから卵をもう一つ用意してくれ。鈴奈庵の食材も少し分けてもらうぞ」
「了解です! 『濃厚カルボナーラ』ですね。小鈴さん、冷蔵庫から卵をいただいてもいいですか?」
「あ、うん! 喜んで!」
るいの素早い察しと小鈴の協力に、律のフライパンを持つ手がさらに軽くなる。
「やっぱり、律さんのパスタは幻想郷を救っちゃいますね」
「大袈裟だな。ほら、るいも皿を出して。休日の特製まかない、みんなで食べよう」
臨時休業のはずだった『ひだまり庵』の店内は、異国の麺料理を囲む賑やかな笑顔と、温かい湯気に満たされていくのだった。
第9話をお読みいただきありがとうございました!
次回の第10話もどうぞお楽しみに!