三週間後。
栗毛の牝馬は、すっかりポックの手綱に慣れていた。
「右」
わずかに手綱を引く。
馬が街道の分かれ道を右へ入る。
荷馬車も続いた。
「ほう」
隣を歩いていたルシアンが感心したように言った。
「ようやく君の指示を聞くようになったね」
「最初から聞いてたよ」
「最初のころは、道端の草の方を優先していたではないか」
「そうだったっけ。センセイを操る方が簡単なのは確かだな」
「君はいつも失敬だね、ポックン」
荷馬車の車輪が、乾いた街道を鳴らしていく。
荷台には布。
燻製魚。
革製品。
小さな陶器。
オルディナを出たときより、積み方もずいぶん変わっていた。
売る町ごとに荷が分けられ、よく動く品は取りやすい位置へ。
雨に弱い物には布を掛ける。
高価な品は御者台に近い箱へまとめる。
そして、その一番奥。
木箱の中には、深い青色の上着が畳んで入っていた。
ルシアンが数日だけ着た服だ。
捨てようとすると、ポックが勝手に荷台へ積んだ。
以来、ずっと載っている。
「ポックン」
「何?」
「僕の服は無事だろうね」
「さっきも聞いただろ」
「荷馬車というものは揺れるからね」
「服は揺れても壊れないよ」
「皺になる」
ポックは前を見たまま手綱を動かした。
◇
商売は続いていた。
ミルダ。
ラドメル。
オルディナ。
父親の手帳に残っていた道を一つずつ走り直した。
昔の取引先にも顔を出した。
最初は。
「オーレンのところの坊主か」
そう言われた。
次には。
「今度は何を持ってきた?」
になった。
そして三度目には。
「次は油を多めに頼む」
そう言われた。
ポックは全部、帳面へ書いた。
銀貨は増えたり減ったりした。
だが、荷馬車は毎日動いていた。
それでいいらしい。
ルシアンには、まだ完全には分からなかった。
「今日はどれほど儲かったのかね」
「まだ売ってる途中」
「昨日は?」
「仕入れしたから減った」
「商売というものは、金が増えているのか減っているのか分かりにくいな」
「最後に増えてればいいんだよ」
ポックは帳面を閉じた。
宿の食堂だった。
卓には麦パンと煮込み。
その向かいには、椅子ではなく黒い巨体が立っている。
ルシアンの口元で、小さな装甲が開いた。
「……やはり食事の美しさが著しく損なわれるね」
「食えるだけいいだろ」
「僕は一度、普通に食べられる生活を取り戻したのだよ」
匙を差し込む。
「もう少し同情したまえ」
ポックは自分の煮込みを食べ続けた。
◇
商売をしながら。
二人は探した。
古い町図。
教会の記録。
使われなくなった街道。
商人が持っている土地の話。
ルシアンが覚えている言葉は少ない。
東部系統。
保全物資所。
それだけ。
位置は分からない。
今も残っているのかも分からない。
接続分離材が残っている保証など、どこにもなかった。
それでも。
三本線の印を見たことがないか。
白い壁の遺跡を知らないか。
昔、妙な建物があった場所はないか。
町へ着くたび、ポックが聞いた。
最初の一週間は何もなかった。
二週間目も。
似た話はいくつかあったが、確かめれば別の遺跡だった。
そして昨日。
ラドメルの古い荷役所で。
一枚の街道図が見つかった。
古い。
今では使われていない道が何本も描かれている。
その東端。
山へ入る直前。
小さな丸印が一つあった。
丸の中に。
三本の線。
その場所について、文字はほとんど残っていなかった。
ただ。
さらに古い荷役人の覚え書きに、
――東の白倉。
それだけが書かれていた。
◇
「本当にこれだけで行くのか?」
ポックが御者台から聞いた。
「君が道を決めたのではないかね」
「荷を売る町が同じ方向だからな」
荷馬車の前には、東へ伸びる街道。
その先で、小さな町を二つ回る。
最後の町から北へ外れれば。
古い街道図の印へ向かえる。
無駄にはならない。
手掛かりが違っていても、商売はできる。
「実に君らしい理由だね」
「何が?」
「僕の美貌を取り戻す旅でありながら、利益も忘れない」
「金なくなったら旅できないだろ」
もっともだった。
ルシアンは黒い腕を組んだ。
「ところで」
「何?」
「見つかった場合、接続分離材が残っている可能性をどの程度と見ている?」
「分かんない」
「建物そのものが残っている可能性は?」
「分かんない」
「そもそも、あの印が目的地なのか?」
「分かんない」
ルシアンは黙った。
ポックは手綱を持ったまま、こちらを見た。
「でも前より希望は持てるだろ。少なくとも一度は脱げたんだ、次も脱げるさ」
ルシアンも街道の先を見る。
確かに。
最初は何もなかった。
どこへ行けばいいのか。
誰に聞けばいいのか。
甲冑が何なのかすら知らなかった。
そこから。
一つずつ見つけた。
鐘鳴り坑道。
沈み庭。
転輪城。
三峰峡。
中央保全拠点。
そして一度は、本当に外れた。
「そうだね」
ルシアンは歩き出した。
◇
昼を過ぎるころ。
街道は緩やかな丘へ入った。
荷馬車が坂を上る。
栗毛の牝馬の歩みが少し遅くなった。
ポックが手綱を緩める。
ルシアンは荷台の後ろへ回った。
「押そうか?」
「壊すなよ」
「僕の力加減を信用したまえ」
黒い両手を荷台へ添える。
軽く押す。
荷馬車が少しだけ速くなった。
「速い!」
「軽く押しているよ」
「もっと軽く!」
力を抜いて、ようやく丁度いい速度になった。
「注文が細かいな」
「車輪壊れたらセンセイが引くんだからな」
「それは避けたい」
坂を登り切った。
向こう側に。
広い景色が開ける。
遠く。
東の山並み。
その手前に、いくつもの街道。
小さな町。
畑。
川。
どこに目的の場所があるのか。
ここからでは分からない。
ポックは荷馬車を止めなかった。
「次の町まで、日暮れ前には着く」
「ああ」
「そこで布売って、明日の朝に油仕入れる」
「ああ」
「それから東」
ルシアンは黒い兜を向けた。
「ポックン」
「何?」
「君はいつまで僕についてくるつもりなのかね」
ポックは少しだけ振り返った。
「おれの荷馬車だぞ」
それだけ言って、前を向いた。
ルシアンはしばらく黙った。
「なるほど」
黒い巨体が荷馬車の横へ並ぶ。
「では僕が、君についていっていることになるのか」
「そうじゃない?」
「それは少々、聞こえが悪いな」
「じゃあ好きに言えば」
「そうしよう」
ルシアンは胸を張った。
「僕が進む道に、偶然君の商路が重なっているのだよ」
「はいはい」
荷馬車が坂を下り始める。
車輪が回る。
栗毛の馬。
積み荷。
御者台の少年。
その横を歩く、大きな黒い甲冑。
ルシアンは東の山を見た。
目的の場所は見つかるだろうか。
そこに接続分離材が残っているかどうかさえ、分からない。
それでも、目の前の道は続いていた。
「急ごう、ポックン」
「なんで?」
「僕の美しさが見せられないままでは、困るからね」
ポックが笑った。
「じゃあ、ちゃんとついてこいよ。センセイ」
ルシアンも笑った。
「ああ、頼もしいね」