それでは本編どうぞ!
春の風が津和野の山々を静かに吹き抜けていた。冬の間はあれほど白く染まっていた山肌にも少しずつ緑が戻り始め、庭の木々には小さな芽が顔を覗かせている。朝晩の冷え込みこそまだ残っているものの、陽が高く昇れば外へ出るのが苦にならない程度には暖かくなってきた。長かった冬がようやく終わろうとしており、それは俺にとって津和野で初めて迎える春だった。
「……春だなぁ」
庭に出た俺は、空を見上げながら呟いた。
「そうですね」
隣に立っていた頼定が穏やかに答える。
「冬よりずっといい」
「若君は、冬が苦手でございましたからな」
「だって寒いじゃん」
「それは皆同じかと思いますが」
「天狗は寒いって言ってたよ」
「俺の名前を勝手に出すんじゃねぇ」
後ろから声が飛んできた。振り返ると、天狗が腕を組んでこちらを睨んでいる。
「別に悪口言ってないじゃん」
「聞こえようによっちゃ悪口だろうが」
「そうかな?」
「そうだよ」
天狗は呆れたように鼻を鳴らした。俺はそんな天狗を見て笑う。こういうやり取りも、いつの間にか当たり前になっていた。津和野へ逃げてきたばかりの頃は、こんなふうに笑える日が来るなんて思ってもいなかった。
父上も兄上も姉上もおらず、山口の館もあの日まで当たり前だった生活も全部なくなってしまった。それでも時間は止まってくれず、朝になれば腹が減り、昼になれば眠くなる。弓の稽古をすれば腕が痛くなり、走れば息が切れる。天狗と喧嘩をすれば腹が立つし、頼定に褒められれば嬉しい。そんな当たり前の毎日を繰り返しているうちに、俺は少しずつ前を向けるようになっていた。
そして最近では、ただ毎日を過ごすだけでは物足りなくなってきている。もっと弓が上手くなりたい、もっと馬に乗れるようになりたい、もっと戦のことを知りたい、そしていつか山口へ帰りたい。ただ戻るだけではなく、父上が生きていた頃の大内家をそのまま取り戻せるとは思っていないし、あの日大寧寺で起きたことをなかったことにはできない。失ったものが戻ってこないことももう分かっているが、それでも大内家をこのまま終わらせたくはなかった。俺はその思いを少しずつ強くしており、そのためには自分が強くならなければならないと思っていたけれど、最近になってもう一つ気になることができていた。
❖
その日の昼過ぎ、俺は正頼に呼ばれて屋敷の一室へ向かっていた。何か悪いことをした覚えはなく、昨日だって庭の木に登ったくらいで、天狗には落ちるぞと言われたけれど落ちなかったのだから問題ないはずだと思いながら歩を進めた。
「失礼します」
部屋へ入ると、正頼がこちらを見た。
「おお、若君。お入りください」
「伯父上、何か用?」
「少しお話をしたいと思いまして」
正頼は穏やかな笑みを浮かべていた。その表情を見て俺は少しだけ安心する。正頼がこういう顔をしている時は、大抵怖い話ではないはずだ。俺が正頼の前に座ると、その隣には頼定もいた。
一応、父と兄亡き今・大内家の正統後継者である俺は正頼の暫定主君として上座に座らせてもらってる。
「頼定もいるんだ」
「はい。私も同席させていただきます」
「何の話?」
俺が尋ねると、正頼は少しだけ表情を引き締めた。
「中国地方の情勢についてです」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が少しだけ変わり、俺も自然と姿勢を正した。
「……尼子のこと?」
「それもございます」
正頼は頷いた。
「このところ、各地の情勢が目まぐるしく変化しております」
尼子家が勢力を広げており、大内家の旧領ではこれまで大内家の影響力によってまとまっていた国人たちが、それぞれの生き残りをかけて動き始めている。陶晴賢もまた自らの支配を固めるために動いており、毛利をはじめとした周辺勢力もその動きに合わせて己の立場を変えようとしている。前に聞いた話と重なる部分も多かったが、こうして改めて聞くとやはり落ち着かない。
「……みんな、好き勝手に動いてるんだね」
「はい」
正頼は静かに頷いた。
「大内家という大きな存在が失われたことで、これまで一つの秩序の中に収まっていた者たちが、それぞれの思惑で動き始めております」
「じゃあ……これからもっと戦が増えるの?」
「その可能性は高いでしょう」
俺は黙り込んだ。戦という言葉を聞くたびに燃える山口や逃げる人々、怒鳴り声や刀の音、そして大寧寺のことが脳裏をよぎり、胸の奥が少しだけ重くなった。そんな俺を見ていたのか、正頼はすぐに話を変えた。
「しかし、我らにとって重要なのは、周囲がどう動くかだけではありません」
「……俺たちのこと?」
「はい」
正頼は頷いた。
「若君がいずれ大内家を再興することをお望みになるのであれば、今から備えておかねばなりません」
「備える?」
「足場を固めるのです」
その言葉が妙に耳に残った。
「吉見家だけでは、大内家を取り戻すことはできません」
「……うん」
「石見の地でさえ、我らが完全に支配しているわけではありません。ましてや周防や長門へ兵を進めるとなれば、なおさらです」
正頼は淡々と話していき、吉見家の兵だけでは足りず、兵糧や武器、城を守る者や敵の動きを知らせてくれる者も必要になるのだと説明した。
「味方が必要なのです」
その言葉を聞いて、俺は何となく頷いた。
「味方……」
「はい」
「たくさん?」
「多ければ良い、というものでもありません」
頼定が静かに口を挟んだ。
「信頼できる者であることが大切です」
「信頼できる人……」
俺は考え込んだ。吉見家には正頼や頼定、天狗をはじめとしてたくさんの家臣がいるけれど、俺の家臣という意味ではどうなのだろうか。今の俺には自分のために集まってくれた人がほとんどおらず、そもそも領地も兵も自分の城もなく、あるのは大内家の血と父上から受け継いだ名前だけだった。
「……伯父上」
「はい」
「俺に味方してくれる人って……いるのかな?」
正頼はすぐには答えず、ただ優しい目で俺を見つめている。
「いると思いますよ」
「本当に?」
「ええ」
「でも、今の俺には何もないよ」
口にしてから、自分でも少し寂しくなった。
「大内家の若君って言っても……大内家はもうなくなっちゃったみたいになってるし」
言葉が詰まる。
「俺についてきても、危ないだけだよね」
正頼の表情が僅かに曇ったが、否定はしなかった。
「……確かに、危険ではあります」
その答えに、俺は俯いた。
「そうだよね」
「ですが」
正頼の声が続く。
「危険であることと、誰もついてこないことは同じではありません」
顔を上げる。
「大内家に忠義を抱いている者は、今もおります。亡き御屋形様を慕っている者もいるでしょう。そして、若君の存在を知れば、力を貸したいと考える者もきっといるはずです」
「……本当に?」
「はい」
正頼は笑った。
「だからこそ、急いではなりません」
「急がない?」
「はい。今すぐ兵を挙げれば、それこそ若君のお命を危険に晒すことになります」
その言葉には、はっきりとした重みがあった。
「まずは吉見家の地盤を固めること。そして石見での立場を確かなものとすること。その上で、少しずつ味方を増やしていくのです」
「……味方を増やす」
「はい」
俺はその言葉を何度も頭の中で繰り返した。弓なら自分で練習すれば上手くなり、馬なら乗る練習をすればいいが、人は違う。どうすれば味方になってくれるのか、どうすれば信じてもらえるのか、俺にはまだ分からなかった。
「難しいなぁ……」
思わず呟くと、正頼が少し笑った。
「そう簡単なことではありません」
「どうしよう」
「ゆっくり考えればよいのです」
正頼の言葉はいつも優しく、だからこそ余計に考えてしまう。俺がしばらく黙っていると、頼定が静かに口を開いた。
「若君」
「なに?」
「以前、お話ししたことを覚えておいででしょうか」
「以前?」
「将の役目についてです」
俺は少し考えてから頷いた。
「覚えてるよ」
将は一人で全部をする人ではなく、誰に任せるのかを考え、自分より詳しい人がいればその人に聞き、自分より優れた人がいればその力を借り、そして最後に自分で決めるのだと教えてもらった。
「人を頼ることも、将の役目なんだよね」
「はい」
頼定は微笑んだ。
「ならば、人を集めることもまた、若君のお役目となりましょう」
「……そっか」
胸の奥に、何かが落ちてきたような気がした。今まで俺は強くなることばかり考えており、弓が上手くなり、馬に乗れるようになり、戦のことを覚えれば大内家を取り戻せると思っていたが、それだけでは足りないのだと悟る。俺一人が強くなったところで何ができるわけでもなく、父上だって一人で大内家を治めていたわけではない。たくさんの家臣や国人、兵や領民がいて、その全部があって初めて大内家という大きな家が成り立っていたのだった。
「……人か」
俺は小さく呟いた。
「そういうことなんだ」
その時だった。
❖
「若、飯だぞ」
部屋の外から声がした。
「今は飯の話じゃないよ!」
「腹が減ってちゃ考え事もできねぇだろ」
襖の向こうから天狗が顔を覗かせた。
「お前、話聞いてたの?」
「聞いてねぇよ」
「じゃあなんで分かるの?」
「若の顔を見りゃ分かる」
「そんなに分かりやすい?」
「分かりやすい」
「……」
俺は自分の顔を触った。別に何も変わっていないと思う。
「それで、何を悩んでんだ?」
天狗は部屋の中へ入ると、正頼の隣にどっかりと座った。
「味方が必要なんだって」
「ああ」
「大内家を取り戻すなら、吉見家だけじゃ足りないって」
「ああ」
「だから人を集めなきゃいけない」
「そうだな」
「でも、どうやって?」
「知らん」
「えぇ……」
あまりにもあっさり言われて、俺は思わず力が抜けた。
「天狗なら何か知ってると思ったのに」
「俺は人を集めるのが仕事じゃねぇからな」
「じゃあ何が仕事なの?」
「若の面倒を見ることだ」
「それ仕事なの?」
「今となっちゃな」
天狗はため息をついた。
「まったく。最初は一人で山へ戻るつもりだったってのによ」
「もう無理だね」
「誰のせいだと思ってんだ」
「俺?」
「お前だよ」
俺たちのやり取りを聞いて、正頼と頼定が小さく笑っている。俺は少しだけむっとした。
「でもさ」
俺は改めて天狗を見る。
「どうしたら、人ってついてきてくれるのかな」
天狗はすぐには答えず、いつものように茶化すかと思ったけれど、しばらく俺の顔を見た後に腕を組んだ。
「……そうだな」
天狗がゆっくり口を開く。
「強ぇ奴だからついてくる、ってわけじゃねぇ」
「え?」
「もちろん強いに越したことはねぇ。弱ぇ奴についていきたいと思う奴も、そう多くはねぇからな」
そこで天狗は俺の頭を軽く小突いた。
「だが、それだけじゃ足りねぇ」
「じゃあ何?」
「人はな」
天狗は少しだけ目を細めた。
「自分が信じられる奴についてくんだ」
「信じられる……」
「こいつなら自分たちを無駄死にさせねぇ。こいつなら自分たちを見捨てねぇ。こいつのためなら、命張ってもいい」
天狗はそこで肩を竦めた。
「そう思わせる奴に、人は集まる」
「……」
「だから若。まずは自分がどういう人間なのか、考えてみな」
「俺が?」
「ああ」
「うーん……」
俺は腕を組んだ。
「優しい」
「自分で言うな」
「格好いい」
「もっと言うな」
「頭がいい」
「それも怪しいな」
「……天狗、俺に厳しくない?」
「現実を教えてやってんだ」
俺は頬を膨らませた。すると天狗が笑う。
「まあ、そういうところだろうよ」
「どういうところ?」
「人に好かれるってのは、案外そういうところだ」
「?」
「分からんなら、それでいい」
天狗は立ち上がった。
「無理に大人みてぇな答えを出す必要はねぇよ」
「でも……」
「若は若のままでいりゃいい」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ驚いた。天狗はいつも乱暴で、すぐ怒るしすぐ茶化すが、時々こういうことを言うのだった。
「……うん」
俺は頷いた。
「ありがとう、天狗」
「礼なんざいらねぇ」
「じゃあ飯」
「それは礼じゃねぇ」
「誰か家臣になってくれる人来てくれないかなぁ」
「話を聞け」
天狗が呆れた顔をしたので、俺は笑った。少しだけ気持ちが軽くなっていたのだった。
❖
その日の夕方、俺は一人で庭に出ていた。手には弓を持っており、的を前にしてゆっくりと構える。以前よりもずっと楽に引けるようになっており、最初は弦を引くことさえできなかったのに今では胸元まで引き寄せられるようになっていた。
少しずつ、本当に少しずつ、昨日より今日、今日より明日というように強くなってきたのだから、人を集めることだって同じなのかもしれないと思えてくる。いきなり大勢を集めようとする必要はなく、一人、また一人と信じてもらえる人間を増やしていけばいいのだと納得した。俺は矢を放つと、風を切り的の中心からは少し外れた場所に刺さった。
「……惜しいなぁ」
「以前より、ずっと良くなりました」
後ろから声がした。
「頼定殿」
振り返ると、頼定が静かに立っていた。
「本当?」
「はい」
「じゃあ、もっと頑張らないと」
「その意気です」
俺がもう一度弓を構えると、遠くから走ってくる足音とともに声が聞こえてきた。
「若君!」
「ん?」
誰かがかなり慌てた様子でやってくる。どうやら家臣の一人らしい。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
息を切らしながら、その人は頭を下げた。
「先ほど、城へ客人が参りまして」
「客人?」
「はい」
「誰?」
「それが……」
家臣は何とも言いにくそうな顔をした。
「安芸より参ったと」
「安芸?」
俺は首を傾げた。石見から見れば隣国とはいえ山々を越えた先にある安芸は遠く、しかも今の情勢を考えれば誰が何のためにやって来たのか分からなかった。
「平賀家より、使者が参っております」
「平賀家?」
俺はますます分からなくなった。
「はい。それで……」
家臣がちらりとこちらを見る。
「冷泉家のお二方が、若君にお目通りを願っております」
「冷泉家?」
その名前を聞いて頼定の表情が変わり、俺にはまだその名がどういう意味を持つのかすぐには分からなかったけれど、頼定は何かを察したようだった。
「……冷泉家、ですか」
「はい」
「お二方とは?」
「冷泉元豊様、冷泉元満様のお二方にございます」
その名前を聞いた瞬間、俺の頭の中にほんの少し前の天狗との会話が蘇った。「誰か家臣になってくれる人来てくれないかなぁ」と軽口を叩いたばかりだったので、俺は天狗のほうを見た。天狗もまた、こちらを見ていた。
「……」
「……」
「天狗」
「なんだ」
「今のって」
「偶然だ」
「まだ何も言ってないよ」
「顔に書いてある」
俺は首を傾げた。
「何が?」
「ろくでもねぇこと考えてる顔だ」
「考えてないよ」
「本当か?」
「本当」
そんなやり取りをしている間にも家臣は困ったように立っており、俺は気を取り直して尋ねた。
「それで……その二人は、今どこにいるの?」
「客間にて、お待ちいただいております」
「分かった」
俺は弓を置いた。
「会ってみる」
❖
客間へ向かう廊下を歩きながら、俺はずっと考えていた。冷泉家といえば大内家に仕えていた庶家の一つ、聞いたことはあるが、どうして今ここへやって来たのだろうか。安芸の有力な国人の家である平賀家の名も気になるところで、今の俺たちとは直接関係がないはずなのにとなおさら不思議に思うのだった。
客間の前まで来ると、家臣が襖の前で頭を下げた。
「若君がお見えになりました」
「はい」
中から返ってきたのは女の声で、俺は一瞬足を止めた。女の人だろうかと思いながらちらりと天狗を見ると、天狗も少しだけ眉を上げていた。俺は気を取り直して襖を開けた。
「失礼します」
中には二人の少女がいた。一人は俺よりずっと年上に見え、落ち着いた雰囲気を纏っており、背筋を伸ばして静かに座っている。もう一人はその隣に座り、姉と思われる少女より少し幼く、こちらを興味深そうに見ていた。二人とも旅の疲れがあるのか少し顔色は優れないものの、その瞳にははっきりとした意思が宿っていた。俺が部屋へ入ると、二人は同時に頭を下げた。
「お初にお目にかかります、若君」
「お目にかかります」
俺は二人の前に座った。
「えっと……」
何を話せばいいのか分からず戸惑ってしまう。山口にいた頃なら大人たちが全部やってくれていたし、今だって正頼が隣にいてくれるけれど、今日ばかりは自分から聞いてみたいと思った。
「二人とも、冷泉家の人なんだよね?」
「はい」
年長の少女が答えた。
「冷泉元豊と申します」
「妹の元満です」
元豊と元満という二人の名前を心の中で覚えるように唱えながら、俺は二人の顔を見比べた。
「それで……どうしてここに?」
元豊が一度だけ妹へ視線を向け、それから再び俺を見た。
「私たちは、現在、安芸の平賀家に身を寄せております」
「うん」
「そこで、若君が石見におられることを知りました」
俺は黙って話を聞いていた。
「そして……」
元豊の声が少しだけ低くなる。
「若君が、大内家を再興されるおつもりであると」
胸が跳ねた。
「……誰から聞いたの?」
「詳しいことは、平賀家の方から伺いました」
俺が正頼を見ると、正頼は黙って二人の話を聞いている。
「それで?」
俺が尋ねると、元豊は静かに頭を下げた。
「お願いがございます」
「お願い?」
「はい」
そして次の瞬間、言葉が発せられた。
「どうか、どうか私たち姉妹を若君の御家来衆の末席に加えていただきたいのです」
「…………」
一瞬、何を言われたのか理解できずに俺は固まった。隣を見ると天狗も同じように固まっており、正頼は驚いた様子を見せながらもすぐに表情を整え、頼定も目を僅かに見開いているのだった。
「……え?」
ようやく声が出た。
「家来?」
「はい」
「俺の?」
「はい」
「……本当に?」
元満が隣でこくりと頷いた。
「本当です」
「……」
俺は天狗を見た。天狗も俺を見つめ返し、しばらく互いに無言のまま時が流れた。
「天狗」
「なんだ」
「俺、さっき」
「ああ」
「誰か家臣になってくれないかなぁって」
「ああ」
「言ったよね?」
「ああ」
天狗は深々と息を吐いた。
「言ったな」
「……来ちゃった?」
「来ちゃったな」
俺は目を丸くした。
「本当に来た!?」
思わず声が大きくなる。元満が少しだけ笑った。
「来ました」
「いやいやいや!」
俺は慌てて手を振った。
「そういう意味じゃなかったんだけど!」
「どういう意味だったんですか?」
「冗談!」
「冗談……」
元豊が少しだけ首を傾げるので、俺は頭を抱えてしまった。まさか本当に来るとは思っていなかった。
「天狗」
「なんだ」
「世の中って怖いね」
「お前が勝手なことを言うからだ」
「だって来るとは思わないじゃん!」
「俺だって思わなかったよ」
正頼が口元を押さえて笑っており、俺は思わずそちらを見た。
「伯父上も笑ってる!」
「いえ、申し訳ありません」
そう言いながらも、正頼の肩が僅かに震えていた。頼定まで困ったような顔をしている。
「若君」
「なに?」
「どうやら、願いは叶ったようですな」
「頼定殿まで!」
俺が叫ぶと、客間に大きな笑い声が広がった。けれど、その笑いが落ち着いた後、俺は改めて二人を見てさっきまでとは少し違う気持ちになっていたのだった。
❖
「……もう一度、聞いてもいい?」
俺は元豊と元満を見つめた。二人は静かに頷く。
「本当に、俺の家来。家臣になりたいの?」
「はい」
今度の元豊の返事には、一切の迷いがなかった。
「なぜ?」
元豊はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「父の遺志を継ぐためです」
父という言葉を聞いて、俺の胸が僅かに痛んだ。
「冷泉隆豊」
正頼が静かに呟いた。俺もその名を知っており、大内家に仕えた重臣で大寧寺の変で命を落とした、父上と共に最後まで戦った忠臣だった。元豊は膝の上に置いた手をぎゅっと握り締めた。
「父は、最後まで大内家を見捨てませんでした」
声は震えていないものの、その目には強い光が宿っていた。
「大内家がどのような状況に置かれようとも、父は主君を裏切ることを選びませんでした」
俺は何も言えずに話を聞いていた。
「その父が守ろうとしたものを、私たちが簡単に捨てることはできません」
元満も静かに頷いた。
「私も、姉上と同じです」
俺は二人を見た。さっきまでの驚きが少しずつ別のものに変わっていき、この二人は冗談で来たわけではなく、自分たちの意思でここまで来たのだと悟る。俺が何となく口にした言葉とは全く違う重みがあった。
「でも……」
俺は言葉を選ぶ。
「俺のところに来たら、危ないよ」
「承知しております」
元豊は即答した。
「陶晴賢は、今も大内家を掌握しております。尼子も勢力を広げています。これから先、もっと戦になるかもしれない」
「はい」
「もしかしたら、死ぬかもしれない」
言ってしまってから胸が重くなった。俺は父上も兄上も姉上も失ったからこそ、人が死ぬということの恐ろしさを以前よりずっと分かっているつもりだった。
「それでも?」
「それでもです」
元豊の答えは変わらず、隣の元満も深く頷いた。
「私も」
その言葉を聞いて、俺は俯いた。正直に言えばすごく嬉しかった。ずっと味方が欲しくて、自分と一緒に戦い大内家を取り戻すために力を貸してくれる人が欲しかったのだから。そして今その人たちが目の前にいるというのに、俺が大内家を取り戻そうとすればこの二人を危険に晒すことになり、俺が間違えれば二人を巻き込んでしまうのだと思うと急に怖くなった。
「……俺で、いいの?」
思わず聞いてしまうと、元豊が目を瞬かせた。
「はい」
「俺、まだ子供だよ」
「存じております」
「何も持ってない」
「はい」
「戦だって、まだ全然知らない」
「はい」
「弓だって、頼定よりずっと下手だし」
「それは……」
元満が少し困った顔をするので、俺は余計に恥ずかしくなった。
「だから……」
言葉が詰まる。
「それでも、いいの?」
今度は元豊が少しだけ笑った。
「若君」
「うん」
「私たちが仕えるのは、今の若君が何を持っているかではありません」
「……え?」
「大内家を再興するというお志です」
元豊は真っ直ぐに俺を見た。
「そして、その志を持つ若君が、これから何を成されるのか。それを私たちは支え、見届けたいのです」
元満も続く。
「それに、私たちもまだ何も持っていません」
「……」
「父を失い、家を離れ、平賀家に身を寄せている身です」
元満は少し笑った。
「だから、若君と一緒にこれから作っていけばいいと思っています」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。俺はずっと自分には何もないと思っていたけれど、何もないならこれから作っていけばいいのだと気づかされ、一人ではできなくてもみんなとならできるのかもしれないと思えたのだった。
「……そっか」
俺は小さく笑った。
「じゃあ、一緒に頑張ろう」
「はい」
「よろしくお願いします、若君」
「うん」
俺は二人に向かって力強く頷いた。
❖
話が終わった後、正頼と頼定、天狗を交えてこれからのことについて話し合うことになった。元豊と元満を受け入れること自体に大きな反対はなかったものの、やはり問題がないわけではなかった。
「平賀家との関係もございます」
正頼が言った。
「はい」
元豊が頷く。
「私たちは平賀家に身を寄せております。今回の件についても、平賀家の方々には話を通しております」
「それならば、こちらからも礼を尽くさねばなりませんな」
正頼は考え込んだ。俺はその話を聞きながら、少しずつ現実を理解していった。人を家臣にするということは「じゃあ今日から君たち仲間ね☆」と言って終わる簡単な話ではなく、家と家との関係や生活をどう支えるかという問題があるのだと知る。兵を持たせるなら兵糧が必要であり、役目を与えるなら相応の責任を持たせなければならないのだった。
「若君」
正頼が俺を見た。
「はい」
「先ほども申し上げましたが、お二人が若君の家臣となるということは、お二人の命を預かるということでもあります」
「……うん」
「これから先、若君が決断を下すたび、その決断にお二人の命がかかることになるでしょう」
胸が重くなるのを感じたが、俺は目を逸らさなかった。
「分かった」
正頼は少しだけ目を細めた。
「本当に?」
「うん」
「怖くはありませんか?」
「……怖いよ」
正直に答える。
「すごく怖い」
元豊と元満がこちらを見つめている。
「でも」
俺は二人を真っ直ぐ見返した。
「それでも、一緒にいてほしい」
二人は黙って頭を下げた。
「承知いたしました」
「はい」
その瞬間、何かが変わったような気がした。俺はまだ子供で何も持っていないけれど、今日から俺を信じてくれる人が二人増えたという事実が嬉しかったし、同時にその責任の重さもほんの少しだけ理解できたような気がした。
❖
夜になり、俺は一人で屋敷の外へ出ていた。春の夜風が少し冷たく、空には綺麗な星が出ており、隣にはいつも通り天狗が立っていた。
「……なぁ、天狗」
「なんだ」
「今日、すごいことになったね」
「ああ」
「本当に来ちゃった」
「来ちゃったな」
俺は笑った。
「俺、冗談だったのに」
「だから言っただろ。口は災いの元だ」
「でも、嬉しい」
「そうかい」
天狗はそれだけ答えると、しばらく二人で黙って夜空を見上げた。
「……もっと集めないとな」
俺が呟く。
「ん?」
「味方」
天狗が俺を見る。
「元豊と元満だけじゃ、大内家は取り戻せないでしょ」
「まあな」
「石見だって、まだ全部が俺たちの味方じゃない」
「ああ」
「だから、もっと頑張らないと」
天狗は少しだけ笑った。
「欲が出てきたじゃねぇか、若君」
「だって、せっかく二人も来てくれたんだもん」
「せっかく、か」
「うん」
俺は空を見上げた。大内家を取り戻すという目標は遠い場所にあると思っていたけれど、今日初めてその道の上に自分の足で一歩を踏み出したような気がしていた。
まだ何も始まっておらず、吉見家の地盤だって十分に固まっているわけでもなく、石見をまとめることもできていない。味方だってほんの少ししかいないけれど、最初の一人がいなければ二人目も三人目もいないのだから、まずは一人ずつ自分を信じてくれる人を増やしていこうと決意を固めた。
「天狗」
「なんだ?」
「俺、頑張るよ」
「ああ」
「絶対に大内家を取り戻す」
天狗はすぐには答えず、ただしばらく俺を見つめた後に頭へ大きな手を乗せてきた。
「……そうかい」
そう言って長い髪を撫でられると、昔山口で同じように頭を撫でられたことを思い出す。あの頃は何も考えず、明日も今日と同じように楽しい一日が来ると思っていたけれど、今は違うのだと実感していた。明日がどうなるのか誰にも分からないからこそ、自分で明日を作っていくしかないのだと思えたのだった。
俺はもう一度夜空を見上げた。春の星空はあの日の山口で見上げた空と同じように綺麗で、遠い山々の向こうにはまだ俺の知らない人たちがたくさんいるはずだった。俺を知らない人も、大内家をどうでもいいと思っている人もいるだろうけれど、その中にはきっと父上を覚えている人や大内家を忘れていない人がいて、俺と一緒に歩いてくれる人がいるはずだと信じられた。
「よし」
俺は小さく拳を握った。
「味方集めだ!」
「……急に元気になったな」
「だって、やることが決まったから」
「そうかい」
天狗が笑い、俺も笑った。その夜、俺には初めて自分で作っていく未来というものがほんの少しだけ見えた気がしたのだった。大内家を取り戻すための道はまだ遥か遠いが、その道の最初の一歩はもう踏み出しているのだから、これからもっと味方を増やしていけばいいのだと強く胸に刻んだのだった。
おっきー:二人も家臣が増えた!やったね!
天狗:一応おっきーの直臣の一人
正頼:暫定主君の興童子傘下の国人領主兼家臣
頼定:おっきーの師だが、正頼の家臣であるため陪臣(家来の家来)
冷泉元豊と元満は本来この段階ではこの名を名乗っていませんが今作では史実の登場人物をわかりやすくするため、史実の名前のままでいきます。
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。