新しき年が明けてからというもの、三本松城の内部を歩いていると、昨年までとは明らかに異なる活気と重みが混ざり合った音が聞こえるようになっていた。
重厚な倉の戸を何度も開け閉めする重い木音や、絶え間なく物資や兵糧を運び込む人夫たちの威勢の良い掛け声、厩舎から響く馬の荒々しい嘶きや、武具や鉄砲を丹念に修繕する金槌の乾いた金属音が城内にこだましている。
厳冬の静寂に包まれていたはずの城郭に、着々と迫り来る戦の予感と人の忙しない動きが確実に増えていた。俺はそれらの光景を一つひとつ目にとめながら、静かに廊下を歩いていた。
去年までであれば、こうした慌ただしい光景を目にしたとしても、ただ「城の中が忙しそうだな」と他人事のように見過ごすだけだったのかもしれないが、今の俺にとっては、その一つひとつの動きの意味が全く違って見えていた。
家臣や人夫たちが一体何をしているのか、そして何のために、誰のために汗を流しているのかという裏側の事情が、少しずつではあるが理解できるようになっていたからだった。
そして何より――。
自分自身がもうすぐ、この巨大な動きの中心に立ち、全てを背負って指揮を執ることになるのだという重い事実も、否応なしに自覚させられた。
「若君」
背後から静かで聞き馴染んだ声が掛けられ、俺は脚を止めて振り返った。そこには、いつものように姿勢を正した頼定が歩み寄ってくるところだった。
「軍議の時間でございます」
「うん」
俺は短く頷き、頼定の顔を見つめた。
「今日は何を話すの?」
「籠城の具体的な準備についてでございます」
「じゃあ、急ごう」
俺は足早に廊下を歩き出し、軍議の開かれる大広間へと向かった。以前の俺であれば、「軍議」という言葉を聞くだけで胃が痛くなるような強い緊張感に支配されていたものだった。
もちろん今でも緊張が完全に消え去ったわけではないのだが、昔のように「何が行われているのか全く分からないから恐ろしい」という途方に暮れるような感覚はなくなっていた。分からないことがあれば素直に周囲の者に尋ねればよいし、聞いたことを一つずつ自分の知識として蓄えていけばいいのだと分かっていたからだった。
それくらいには、俺自身もこの過酷ながらも楽しい一年を通じて成長し、変わることができたのだと思いたかった。
❖
「まず、我らの基本的な方針を改めて確認しておきましょう」
部屋に入り上座へ着くと、正頼が居並ぶ家臣たちを見渡しながら重々しく切り出した。広間には頼定だけでなく、吉見家を支える重鎮や主な家臣たちが勢揃いしていた。
軍議を通じて、俺もこの部屋に座っている人間たちの顔と名前をようやく全員一致させられるようになっていた。それぞれの名前と城内での役目が、頭の中で少しずつ結びついていくのが自分でも分かった。
「現在の我らの基本方針は、この三本松城に深く籠もっての籠城戦でございます」
正頼は卓上に大きな地図を広げ、指で城の周辺を示した。
「敵である陶方がどれほどの兵力を率いて攻め寄せてくるかは、現段階では正確には読めませぬ。しかしながら、こちらから限られた兵を率いて平地へ打って出て戦うよりは、この三本松城の険しい地形を最大限に利用して守りを固める方が、遥かに有利であることは疑いございませぬ」
「うん」
俺は身を乗り出すようにして、広げられた地図の起伏をじっくりと見つめた。三本松城は、俺が山口を追われてから今日まで安全に暮らしてきた馴染み深い場所だった。
ただの住処として漫然と暮らしていた頃にはまるで気づかなかったが、こうして軍略の地図として俯瞰してみると、周囲を取り囲む険しい山々や入り組んだ街道、そして各地に点在する多くの支城と天然の堀となる川の位置関係が見事に配されていることがよく理解できた。
「兵糧の蓄えは、どれくらいあるの?」
俺が素朴な疑問を投げかけると、正頼は深く頷いて応えた。
「すでにある程度の数量は、城内の倉へと整えつつございます」
「もう、そんなに揃っているの?」
「はい」
正頼は手元に置かれていた分厚い大福帳を開き、算盤の目を見るように視線を走らせた。
「年貢として納められた米のうち、兵の日常食や備蓄に必要な分を速やかに選別し、残りをこの三本松城へと順次集めさせております。米だけでなく、保存の利く麦や豆類なども同様の手順で集積を進めておりますな」
「じゃあ……俺が陶と戦うって心の中で決める前から、みんな準備をしてくれていたの?」
「領地を預かる者として、いつ戦端が開かれてもよいように備えるのは当然の嗜みにございますから」
その正頼の当たり前のような答えを聞いて、俺は胸の奥で大きな衝撃を受け、驚きを隠せなかった。俺が「陶晴賢と戦う」と人前で宣言したから、みんなが慌てて右往左往しながら準備を始めたわけではなかったのだ。
一国の領地を治め、領民の命を預かっている以上、いつどんな理由で戦火が上がっても対応できるように日頃から備えておく。
それは武家としてごく当たり前の営みなのかもしれない。けれど、そんな基本的な仕組みすら、俺はこれまで何一つ知らずに生きてきたのだと思い知らされた。
「その兵糧って、具体的にどれくらいの期間持つの?」
「城に籠もる兵の数によって、日数は大きく変動いたしますな」
「じゃあ、いま城にいる兵の数なら、どれくらい持つのかな?」
正頼が口を開くより早く、隣に控えていた頼定が開かれた帳面へと鋭い視線を滑らせた。
「現在の備蓄量であれば、平時と同じような消費を続けていく限り、かなりの長期間にわたって籠城戦に耐え抜くことが可能でございます。ただし、石見の国人衆などの援軍が合流して城内の人数が増えれば、当然ながら食糧の減りは加速度的に早くなります」
「……そっか」
俺は深く頷き、前に頼定から教わった軍略の基礎を脳裏に思い浮かべた。兵が増えれば力は増すが、それだけ毎日米を食う口が増えることになるのだ。だからこそ戦というものは、刃の切れ味や弓の数だけで勝敗が決まるわけではない。
その知識は頭では理解していたつもりだったが、こうして三本松城の具体的な数字として突きつけられると、より生々しい実感となって胸に迫ってきた。
「じゃあさ、兵糧の米だけじゃなくて、料理に使う水とか薪もたくさん必要になるよね?」
「まさにその通りでございます、若君」
頼定が満足そうに目を細め、力強く頷いた。
「長期間の籠城となれば、寒さを凌ぎ、飯を炊くための大量の薪が絶対に不可欠となります。また水場につきましても、万が一敵に外の水源を遮断された場合を想定し、城内の井戸の管理を厳重にせねばなりませぬ」
「水は、城の中にある井戸だけで全員分足りるのかな?」
「普段と同じように贅沢な使い方をしていては、到底維持することは難しいでしょうな」
「じゃあ、今のうちから水の使い方の規則とかも考えておかないとダメだね」
俺が真顔でそう指摘すると、座の静寂を破るように正頼が穏やかに微笑んだ。
「そのための軍議でございますよ、若君」
「あ……そっか」
俺もつられて照れくさそうに笑ってしまった。昔の俺なら、こうした兵糧や給水の細かな計算を聞かされるだけで、難解な話だと耳を塞ぎたくなっていたはずだった。
今でも十分に難しく頭が痛くなる作業には違いないのだが、不思議と少しずつその仕組みを紐解くのが面白くなってもいた。
何か一つの決定を下せば、連鎖するように別の問題が浮き彫りになり、それに対する対策を講じなければならない。兵を動かすには飯がいる。飯を炊くには薪と水がいる。水を守るには城郭の配置を工夫せねばならない。
一つの要素を突き詰めると、その先にまた新たな課題が現れる。戦という営みは、俺が考えていた以上に遥かに複雑で、巨大なパズルのようなものだった。
「鉄砲の準備はどうなっているの?」
俺が視線を巡らせて尋ねると、今度は武具の管理を担当している年配の家臣が深く頭を下げて答えた。
「鉄砲の挺数を少しでも増やすべく、領内の商人などを通じて調達を進めております」
「弾になる鉛は確保できてるの?」
「はい、これも同じく懇意にしている商人からできるだけ優先的に買い集めております」
「火薬の材料になる硝石は?」
「硝石につきましても、薬種商などのルートを使い、公に目立たぬよう少しずつ城内へ運び込ませております」
「陶の方に『吉見が戦の準備をしてる』って悟られないようにやってるんだね?」
「さようでございます。通常の商いの取引の中に紛れ込ませておりますので、外部からは容易に察せられませぬ」
俺は大きく頷き、彼らの周到な手回しに感心した。単に隠れてコソコソするのではなく、商人たちの日常的な流通に紛れ込ませることで、相手に無用な警戒感を与えないようにしていた。
「じゃあ、武器も食べ物も、今できる限りのものを揃えようとしてくれてるんだね」
「はい」
正頼が静かに帳簿を閉じ、俺の目をまっすぐに見つめた。
「とはいえ、何もかもが完璧に足りているというわけではございませぬ。まだまだ不足しているものは山ほどございます」
「具体的には何が足りないの?」
「戦うための人手も、伝令や騎馬のための馬も、兵が身につける武具も。そして何より、これらを調達するための金銀も無限にあるわけではございませぬからな」
「……そっか」
俺は思わず唸り声を上げ、眉間にしわを寄せた。やはり一筋縄ではいかない現実が立ちはだかっていた。けれど、今の俺は「難しいから無理だ」と諦めて投げ出すつもりは毛頭なかった。
「じゃあ、いま一番優先して集めなきゃいけないものは何なの?」
俺の問いかけに、正頼は一瞬目を見開き、嬉しそうに目元を和ませた。
「それをこれからの話し合いで、皆で知恵を絞って考えていくのでございます」
「そっか」
俺は再び広げられた三本松城の地図へと視線を戻した。
「じゃあ、俺も一緒に考えるよ」
「はい」
正頼は力強く深く頷いてみせた。
「それこそが、何よりありがたいことでございます」
❖
それからの二週間というもの、三本松城の内部では目に見える速さで戦の準備が加速していった。俺もただ部屋で指示を待つのではなく、自分ができる範囲で積極的に城内を巡り、その現場の動きを自分の目で確かめるようになった。
暗い倉の奥へと足を踏み入れては積み上げられた米俵の数を一俵ずつ確認し、鍛冶場で汗だくになりながら武具を修繕する職人たちの手元をじっと見つめた。
厩舎へ赴いては馬の毛並みを撫でながらその頭数を数え、鉄砲の手入れに余念がない足軽たちの話に真剣に耳を傾けた。夜になれば正頼から帳面を見せてもらい、どの物資にどれだけの金が支払われているのか、その数字の意味を教えてもらった。
当然ながら、すべての数字や仕組みを一度で完璧に理解できるわけではなかった。帳面にはびっしりと細かい文字と数字が並んでおり、何度見ても頭がクラクラとして知恵熱が出そうになることも珍しくなかった。それでも、以前の俺とは決定的に違っていた。
分からないからといって投げ出すのではなく、「ここはどういう意味ですか」と素直に一つずつ質問を重ねていった。そうして地道に学びを深めていくうちに、それまで見えていなかった城の裏側が、少しずつ立体的に浮かび上がってくるようになった。
戦の準備というのは、単に兵士を集めて刀や槍を持たせれば完了するような単純なものではない。生きるための食べ物が要る。殺傷するための武器が要る。移動するための馬が要る。そして何より、それらを現場で動かす大勢の人間と、彼らを支える圧倒的な資金が必要不可欠な。
その果てしない作業のすべてを、俺の知らないところで誰かが血の滲むような思いで支えてくれていた。俺はその誰かの尊い仕事の重みを、今まで何一つ知らずに過ごしてきたのだと痛感させられた。
「若君」
米倉の検分を終えて外へ出てきたところで、偶然通りかかった正頼が笑顔で声をかけてきた。
「倉の具合はいかがでしたか?」
「思っていたよりも、ずっとたくさんあったよ」
「米の蓄えが、でございますか?」
「ううん。俺たちが考えなきゃいけないことが、だよ」
俺が額の汗を拭いながらそう答えると、正頼は声を上げて楽しそうに笑った。
「それは、実に素晴らしい気づきでございますな」
「でも、本当に頭が痛くなってくるよ」
「それこそが、若君が真剣に学んでおられる何よりの証拠でございます」
「……それって、本当に褒めてくれてるの?」
「もちろんでございますとも」
俺は少しばかり疑わしい視線を正頼に向けたのだが、当の本人は穏やかな笑顔を崩さないままだった。
「なら、もっと頭が痛くなるくらい考えてみるよ」
「ええ、大いに悩み、お考えくだされ」
そんな温かなやり取りを交わしながら城内の通路を歩いていると、行き交う大勢の人々の姿が自然と視界に飛び込んできた。武装した兵士たち。忙しなく走り回る家臣たち。膳を運ぶ侍女たち。重い荷物を背負う人夫たち。出入りする商人たち。誰もが自分の役割を果たすために、必死で働いていた。
俺がこうして立っている間にも、これほど多くの人間が城の中で動き続けている。そして、その一人ひとりにはかけがえのない人生があり、守るべき家族や生活が存在しているのだ。その当たり前だが重い現実に思いを馳せると、俺の背筋は自然とピンと伸びる。
戦を起こし、指揮を執るということは、決して自分一人の意意地や感情だけで決められるものではないのだと、俺は改めて身にしみて実感していた。
❖
それからさらに二週間ほどが経過した、ある日の夕刻のことだった。
いつものように城内を見回ろうとしていた俺を、正頼が静かな声で呼び止めた。
「若君」
「はい、伯父上?」
「少し、大事なお話がございます」
「また戦の準備の件ですか?」
「それも関わってはおりますが……本日は、若君ご自身に関する別の件でございます」
「俺自身のこと?」
正頼の表情は、いつになく厳かで引き締まっていた。俺は首を傾げながら、正頼の次の言葉を待った。
「何のお話ですか?」
「若君も、いつまでも幼名のままというわけにはまいりませぬ」
「……幼名?」
「はい。興童子様、というお名前のことでございます」
その言葉を耳にして、俺はハッとして自分の胸に手を当てた。俺が生まれてから今日まで当たり前のように呼ばれ続けてきた名前、興童子。
確かに俺はずっとその幼名で呼ばれ、周りからも子供として扱われてきた。しかし最近では、こうして城内の様々な家臣や職人たちと直接言葉を交わすようになり、佐波家の者たちとも対等に関わるようになっていた。
これから先、陶晴賢との戦いが本格化すれば、さらに多くの国人や武士たちが俺のもとへと集まってくることになるはずだった。
「……そっか。元服するってことだね」
「その通りでございます」
俺は腕を組んで、深く考え込んだ。
「確かに……いつまでも『興童子』じゃ、みんなの前で示しがつかないし、発給する書状とかでも格好がつかないよね」
正頼は俺の素直な言葉を聞いて、一瞬だけ言葉を詰まらせた。そして――。
「……左様でございますな」
「伯父上、いまちょっと笑ったでしょ?」
「いいえ、滅相もございません」
「絶対笑った。口元が動いてたもん」
「気のせいでございますよ」
「むぅ……絶対にあやしい」
俺が子供っぽく頬を膨らませると、正頼は耐えきれずに小さく吹き出した。
「失礼いたしました。しかしながら、元服というものは武士にとって生涯を左右する極めて重大な儀式でございます」
「うん、分かってる」
「これから若君がどのような立場で生きていくのか。それを内に示すだけでなく、天下に対して明確に示す儀式となるのです」
俺はしばらくの間、静かに自分のこれまで歩んできた道のりを振り返ってみた。今までの俺は、ただの「興童子」だった。
尊敬する父上の息子。大内家の三男。そして、恐ろしい大寧寺の変から命からがら逃げ出してきた何もできなかった子供。けれど、これからはそれではいけないのだと分かっていた。
俺自身が自分の意志で決断したのだ。大内家を必ず取り戻す。父を死に追いやった陶晴賢を倒す。そして、大内家をもう一度誇りある家として立て直すのだと。その決意に応えるように、周りの人々も命を懸けて集まり始めてくれているのだから。
「やるよ。元服の儀式を受けます」
「よろしいのですか?」
「うん」
俺は迷いのない瞳でしっかりと頷いた。
「いつまでも興童子なんて幼名で甘え散らかしてるのも、何だか変だしね」
「では、直ちに儀式の準備を進めさせましょう」
「準備は、伯父上が仕切ってくれるの?」
「私が烏帽子親を務めさせていただきます」
「……伯父上が烏帽子親に?」
「はい。私が責任を持って務めさせていただきます」
その力強い言葉を聞いて、俺の胸の中にあった漠然とした不安は一気に吹き飛び、温かな安心感が広がっていった。
「じゃあ伯父上、よろしくお願いします」
「謹んでお受けいたします」
❖
元服の儀式が執り行われる当日の朝。
三本松城を包む空気は、早朝から普段とはまるで違った緊張感に満ち満ちていた。
廊下を行き交う人々の数はいつもの倍以上でありながら、無用な私語を交わす者は一人もおらず、誰もが引き締まった面持ちで動いていた。主役である俺自身も、身支度を整えながらどうしても落ち着かない気持ちを抱えていた。
事前にどんな儀式が行われるのかは詳しく聞いていたものの、いざ自分の身にその時が迫ってくると、心臓が鼓動を早めるのを抑えきれなかった。
「若君、大丈夫ですか?」
傍らに控えていた元豊が、柔らかな声で優しく問いかけてくれた。
「うん……たぶん、大丈夫」
「お顔が少し固くなっておられますよ」
隣から元満が、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべながら口を挟んできた。
「そんなに顔に出てる?」
「はい。まるで初陣の戦場に向かう直前の若君みたいでございます」
「元服って、戦に行くよりも恐ろしいものなの?」
「さあ、どうでしょうね?」
元満は気楽そうに肩をすくめて笑ってみせた。
「私たち姉妹も元服名はいただきましたが、まだ元服の儀を経験しておりませんので分かりかねます」
「なんだ、じゃあ比べようがないじゃんか」
「左様でございますね」
元満が悪びれもせずにケラケラと頷くのを見て、俺の張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けた。俺は大きく一度息を吸い込み、胸の中に溜まった空気を吐き出した。
今日、俺は長年親しんできた名前から新しい名前を手に入れるのだ。ただそれだけのことのようにも思えるが、どこか不思議で不可思議な感覚だった。けれど、名前が変わったからといって、これまでの俺という人間が消えてなくなるわけではないのだ。
父上と過ごした温かな山口の記憶も。母上の優しい笑顔も。亡くなった兄上や姉上たちの面影も。あの争乱の中で目撃した恐ろしい光景も。その全てが俺の血肉となり、胸の奥深くに残り続けているのだ。
その全てを背負った上で、俺はこれから先の過酷な未来を生きていくのだ。俺は静かに、前を向いて腹をくくった。
❖
しんと静まり返った大広間で、いよいよ儀式が開始された。
正面に座した正頼が、ゆっくりと俺の前へと進み出て座した。
その姿は、普段俺に優しく接してくれる伯父としての顔とはまるで違っていた。いや、正頼という人間そのものが変わったわけではないのだ。けれど今日の伯父上は、吉見家の偉大な当主として、そして俺の人生の節目を見届ける烏帽子親として、圧倒的な尊厳を纏ってそこに存在していた。
俺も背筋を限界まで伸ばし、正頼の眼差しを正面から受け止めた。やがて厳かな手順に従って儀が進み、俺が幼名を改めるその瞬間が訪れた。その一刻、自分の中で何かがカチリと音を立てて切り替わったような、不思議な衝撃が全身を駆け抜けた。
「若君、諱は――」
正頼の問いに俺の声が広間に響き渡った。
「
その新しい己の名を口にした瞬間、俺は静かに両目を伏せ、胸の中でその響きを噛み締めた。
惟は、思惟の「
そして、「
深く考え抜くこと。そして、大内家の重い名を背負い立つこと。その二つの意味が込められた名前。それは、誰かに押し付けられたものではなく、俺自身が自分の生き方を熟考して決めた名前だった。
俺は正頼から一字を賜ったわけではない。それはひとえに俺が正頼の形式上の主君であるから建前上字、偏諱を貰う訳にはいかなかったからだ。それでも、今日こうして命の恩人である正頼の手によって元服の儀を果たせたことが、たまらなく嬉しく、そして誇らしかった。
「仮名は、
続いて、武士としての常用の名乗りである仮名を告げた。元豊ら俺の家臣たちや正頼の家臣たちは静かに頭を下げ、その名を拝聴した。
こうして。大内興童子という幼名を名乗っていた無力な子供だった俺は、今日この日をもって元服し、そして――
❖
儀式がすべて終了した後も、俺はしばらくの間、動くことができなかった。自分の頭の中で、新しい名前を何度も何度も反芻して確かめていた。
惟弘。惟弘。まだ自分の口で発するには、どこかくすぐったく不慣れな感じが拭えない。
「御屋形様」
突然、正頼がこれまで一度も使ったことのない厳しい敬称で俺を呼んだ。
「……え?」
思わず拍子抜けた声を上げて顔を跳ね上げると、正頼はどこまでも真剣な眼差しで俺を凝視していた。
「本日より、我らは若君をそうお呼びいたします」
「伯父上まで、そんな堅苦しい呼び方をするの?」
「はい」
「なんだか……すごく変な感じがするよ」
「左様でしょうな」
正頼は一瞬だけ表情を緩め、目元に優しいシワを刻んだ。
「ですが、これもまた武家としての示しをつけるための、極めて大切なことでございます」
俺は黙って重々しく頷いた。
そして、その日の午後のことだった。俺は正頼に導かれ、城の麓の館で最も広い大広間へと向かった。障子が開かれると、そこには吉見家の主な家臣たちが隙間なくズラリと居並んでいた。
日頃、城の廊下や訓練場で見かける顔なじみの者たち。大寧寺の変以来、死力を尽くして俺の命を守り抜いてくれた者たち。この過酷な一年間、ずっと俺のそばで支え続けてくれた者たち。その全員の視線が一斉に俺へと注がれ、広間は息を呑むような静寂に包まれた。俺は胸を強く打たれ、わずかに身を硬くした。
「若君――」
かつて俺をそう呼んでいた一人の老臣が口を開きかけたが、途中でハッと息を呑み、言葉を呑み込んだ。そして――。
「御屋形様」
と、力強い声で呼び直した。そのたった一言の響きが、俺の胸の奥深くへと激しく突き刺さった。
「本日ここに、我ら吉見家の者一同、改めまして御誓い申し上げます」
正頼が一歩前へ進み出て、朗々とした声で宣言した。その声には、日頃の温和な伯父としての響きは一切なく、吉見家の絶対的な当主として、そして一人の忠実な家臣としての覚悟が満ち満ちていた。
「我が吉見家は、大内家の正統なる御屋形たる大内惟弘様を主君として仰ぎ、今後ともその御家再興のために全霊を捧げて尽くすことを誓います」
俺は言葉を失い、正頼の力強い背中を見つめていた。
「これまで我らが若君をお守りしてきたのは、亡き先代。大内義隆公の遺児をお預かりしたからに過ぎませぬでした」
正頼はそう続けると、バッと家臣たちの方へと向き直った。
「しかし、本日をもって事情は一変いたしました。単にお守りするだけではございませぬ!」
広間の中の空気が、破裂しそうなほどに緊張した。
「大内惟弘様を、正統なる大内家の御屋形として、我らの主君として推戴いたします!」
正頼のその叫びのような宣言を聞いて、俺の心臓は跳ね上がるように大きく脈打った。推戴。この俺を。未熟で幼いこの俺を、あの大内家の当主として担ぎ上げるのだと。
これまで俺は「大内家を取り戻したい」と自分の口で語ってきた。そのために仲間を募り、戦の準備も進めてきた。けれど、どこかでそれはまだ遠い未来の出来事のように感じられていたのも事実だった。
それが今日、この瞬間において、はっきりと現実の形となって目の前に現れた。俺はもう、大人たちに守られるだけの哀れな孤児ではないのだ。大内家の当主として、大内惟弘として、この大勢の臣下たちの先頭に立っているのだ。
「我ら一同――」
正頼が深々と平伏した。
「御屋形様への絶対の臣従を、ここに誓い奉ります!」
正頼の行動に応じるように、広間に揃っていた家臣たちが一斉に平伏し――
「「「御屋形様に、命を賭して忠節を尽くすことを誓います!」」」
地鳴りのような忠誠の唱和が、大広間の天井を揺らした。
俺はあまりの光景に圧倒され、しばらくの間言葉を発することができなかった。胸の奥から湧き上がる熱い感情があった。誇らしく、嬉しいという思い。しかし、それと全く同じ大きさの恐怖も存在していた。
この大勢の人々が、俺という存在を信じ、命を預けてくれているのだ。ならば俺は、彼らの誇りと期待を絶対に裏切るわけにはいかないのだ。俺はゆっくりと胸に深く息を吸い込み、声を振り絞った。できるだけ君主として相応しいように。
「……皆、ありがとう」
声が少しだけ震えてしまった。けれど俺は逃げずに、言葉を続けた。
「俺は、皆が知っての通り、まだ知らないことが多すぎる人間だ」
誰も俺の言葉を笑ったり、口を挟んだりする者は一人もいなかった。
「戦の駆け引きも、領地の治め方も、政治のことも、まだまだ勉強している最中の未熟者だ」
俺は平伏する一人ひとりの頭を見つめながら、素直な思いを打ち明けた。
「だからこそ……これからも、皆の知恵と力を貸してほしい。俺に色んなことを教えてほしいんだ」
それは、かつてのような甘えや弱音からの言葉ではなかった。
自分自身の未熟さを客観的に理解した上で、家臣たちと共に歩んでいくのだという決意のあらわれだった。
今の自分にできる精一杯の姿勢が、そこにあった。
「その代わり――」
俺は言葉に一段と強い力を込めた。
「俺自身も、絶対にこの戦いから逃げ出さない!」
その決意の言葉に、誰かが息を呑む音が聞こえた。
「大内家を、必ずこの手に取り戻す!」
力強く宣言し、俺は正頼を見た。頼定を見た。元豊と元満、氏隆を見た。
そして、広間にいるすべての忠臣たちの顔を見渡した。
「陶晴賢に理不尽に奪われたすべてのものを取り戻す。そのために、俺も誰よりも強くなる。深く考える。皆と共に傷つき、共に戦う。だから……これからも俺にどこまでもついてきてほしい!」
言い終えると同時に、俺は主君でありながら、彼らに向かって深く深く頭を下げた。
静寂が一瞬だけ広間を支配した。やがて――。
「はっ!」
正頼が最も深く頭を下げ、震える声で応えた。
「御屋形様の御意のままに!」
その声を皮切りに、家臣たちの叫びが再び爆発した。
「「「御屋形様の御意のままに! どこまでもお供いたします!」」」
俺はゆっくりと顔を上げ、その誇らしい光景を目に焼き付けた。胸の奥が熱く焦げ付くように燃え上がっていた。
一年前の俺であれば、このような光景を夢にすら見ることができなかったはずだった。山口から命からがら逃げ出し、何もできず、ただ怯えて生き残ることしかできなかった無力な子供。
それが今や、自らの誇りある名前を持ち、自分を主君と仰いで命を捨てる覚悟を固めてくれた大勢の仲間たちに囲まれているのだ。不思議でたまらなかった。怖ろしいほどの重圧だった。
けれど――決して嫌ではなかった。
❖
その日の夕刻。
賑やかだった宴も終わり、城内から人が少なくなった時間を見計らって、俺は一人で静かな廊下を歩いていた。
見慣れたはずの三本松城。見慣れたはずの夕暮れの景色。それなのに、何もかもが昼間までとは全く違って見えているのが不思議だった。
「……惟弘」
誰もいない廊下で、俺は自分の新しい名前を小さく呟いてみた。まだ口にしっくりと馴染んでいるわけではない。けれど、これは紛れもなく俺自身の名前なのだ。
大内惟弘。
今日という日を境に、城の誰もが認めてくれた俺の名なのだ。
ふと、俺は足をとめた。少し離れた曲がり角の先で、家臣たちが松明の明かりの下で真剣に議論を戦わせている声が聞こえてきた。明日の早朝に行われる軍議の打ち合わせのようだった。
兵糧の分配について。武具の整備状況について。馬の確保について。そして、迫り来る籠城戦の配置について。これから考え、決断しなければならない課題は、それこそ山のように積み重なっていた。
けれど、今の俺はもう「何をすればいいのかさっぱり分からない」と怯えて立ち尽くすだけの子供ではなかった。分からなければ素直に教いを乞えばいいのだ。
自分より長けた者に仕事を任せればいいのだ。そして、主君として最終的な決断を下さねばならない時には、腹を括って決定を下せばいいのだ。
その当たり前の営みを、これから何度でも泥臭く繰り返していけばいいのだから。
俺はゆっくりと顔を上げ、前を見据えた。
まだまだ俺は、歴史に名を残すような何一つ成し遂げてはいないのだ。大内家を取り戻せたわけでもなければ、宿敵である陶晴賢を倒したわけでもないのだ。
戦火の火蓋すら、まだ切っていないのだから。けれど、今日という日を通じて、たった一つだけ確実に変わったことがあった。
俺はもう、哀れな逃亡者の興童子ではないのだ。
「大内惟弘」
今度は、はっきりと胸を張って力強い声でその名を口にした。その声は、静まり返った城の廊下に深く染み渡り、消えていった。
一つ心残りがあるとすれば――
「天狗……」
天狗は京に伝手があるとのことで京に出払っており、今日の儀式にはいなかった。
いや、もしかしたらいないように見えただけでちゃっかりどこかから見ていたのかもしれないと考えるが、本人の姿が見えない以上。確認のしようがない。
――あいつには見てほしかったな…。
とはいえ、嘆いていても仕方がない。
明日からも、やるべき過酷な仕事が山積みとなっていた。籠城戦に向けた徹底的な準備。兵たちの士気の維持。領地の防衛。味方となってくれる国人たちとの連絡。
そして、いつか必ず訪れる陶軍との全面対決。
俺はまだ、世の中の出来事の半分も知らない未熟者に過ぎないのだ。けれど。今日からは、この大内惟弘という重く誇り高い名を全身で背負い、どこまでも突き進んでいくのだ。俺はもう一度だけ、その名を自分の心の奥底で強く強く反芻した。
――大内惟弘。
それこそが、これからの俺のすべてだった。
おっきー:天狗に……見てほしかった……な
天狗:ちゃんと見てたっつうの
今回おっきーが元服したので作中での名前が興童子から惟弘に変わります。
ですが、ご安心をどうせしばらくしたらまた変わります(激しいネタバレ)
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。