昆布でよろこんぶ!!
それでは本編どうぞ!
大内家当主としての元服という大きな節目を無事に終えてから、早くも一月ほどの歳月が流れ、俺を取り巻く周囲の空気や人々の対応は、以前と比べてほんの少しだけ変化を見せるようになっていた。
具体的に何がどのように変わったのかと尋ねられても、言葉にしてうまく説明するのはなかなか難しい。
まず、朝になって城内の廊下を静かに歩いていると、すれ違う家臣たちから「御屋形様」と敬意を込めて声をかけられるようになった。ほんの少し前までは「若君」と呼ばれていたため、その呼び名を聞くたびに、胸の奥でどこか照れくさく妙な気分を味わっていた。
けれど、そうした表面的な変化を除けば、俺自身の日常そのものは以前となんら変わりない日々を送っていた。
俺は相変わらず朝起きるのが大の苦手であったし、特に肌寒い日には暖かな布団の中からどうしても出たくなくなってしまう。
毎日の武芸の稽古では、相変わらず元満から容赦のない手厳しい指導を受けて何度も叩きのめされていた。そしてそのたびに、傍らで見守る元豊から「もっと足元を意識してください」と落ち着いた声で注意を受けるのが日常茶飯事であった。
さらに最近では、氏隆も一緒に稽古へ参加するようになり、互いに切磋琢磨しながら汗を流すようになっていた。歳が同じくらいということもあってか、氏隆は俺に対してどこか過剰に気を遣うような素振りを見せることが多かったのである。
「氏隆、遠慮しなくていいからね」
稽古の合間に俺が気やすくそう声をかけると、氏隆は困り顔で戸惑いながらも言葉を返してきた。
「……では、本当に遠慮しませんよ?」
そう答えた次の瞬間には、俺は視界を大きく揺らされ、容赦なく冷たい地面の上へと転がされていた。
「……痛い」
背中に走る激痛に耐えながら地面に伏せる俺に対し、氏隆はあわあわとした後に頭を下げて申し訳なさそうに言った。
「申し訳ありません」
俺は土で汚れた服を払いながら、すこし恨めしそうな視線を彼に向けてくそ理不尽ながら文句を口にした。
「謝るくらいなら、もう少し優しくしてよ……」
「ですが、遠慮するなと仰ったのは御屋形様です」
「ぐうの音もでないぃ……」
正論を突きつけられ、俺は思わず声を張り上げて言い返すことしかできなかった。
俺たちのそんな様子を少し離れた場所から見ていた元満が、ついに耐えきれなくなったように腹を抱えて大声で笑い出したのだった。
「御屋形様、自分で墓穴を掘ってますよ!」
大きな笑い声を上げる元満に対し、俺は地面から起き上がりながら精一杯のギロリとした視線を向けて叫んだ。
「元満は黙ってて!」
俺が本気で睨みつけても、元満はまったく堪えた様子もなく、むしろさらに楽しそうに大笑いを続けていた。
いくら立派な元服の儀式を執り行ったからといって、急に体が強くなったり武芸が上達したりするわけではない。そんな道理は自分自身が一番よく理解していたからこそ、俺は焦ることなく今まで通り地道に稽古を重ねていた。
得意とする弓の技術だけに満足することなく、太刀の基本的な扱い方や足さばきもしっかりと身につけていく。
馬に揺られながら自在に操る術を学び、さらには三本松城という城全体の仕組みや構造についても少しずつ知識を深めていった。
自分が世間のことや城の運用について知らないかを知るにつれ、今さら自分の無知に驚くこともなくなっていった。
自分の無知を少々恥ずかしいと思わずに教えを求められるようになったことだけは、かつての幼かった俺とは少し違う成長の証かもしれない。
❖
「御屋形様、こちらへ」
澄み渡るような秋の爽やかな空が広がる、ある日の清々しい朝のこと。
「うん」
俺は頼定に静かに導かれるまま、城内の奥深くにある大きな井戸の設置場所へと向かって歩いていた。井戸の周囲には作業着に身を包んだ何人もの男たちが集まっており、太い縄を駆使して深緑の暗がりの中へと降りていた。
「何してるの?」
珍しい光景に興味を惹かれた俺は、男たちの真剣な作業の様子を見つめながら素朴な疑問を頼定に投げかけた。
「井戸浚いにございます」
頼定は作業の様子を満足そうに見つめながら、静かで落ち着いた声で俺の問いに答えてくれた。
「井戸浚い?」
聞き慣れない言葉の響きに首を傾げると、頼定は丁寧な解説を続けてくれたのである。
「底に溜まった泥や石を取り除いております」
説明を受けた俺は井戸の縁へとゆっくりと歩み寄り、ひんやりとした空気が漂う暗い底へと視線を覗き込んだ。しかし、井戸の内部は非常に深く暗小で、最深部までその様子をはっきりと確認することは到底できなかった。
「どうして今やるの?」
特段、水に困っている様子もないこの時期に作業を行う理由が分からず、俺は素直に疑問を口にしてみた。
「戦になれば、城の中に人が増えます」
「……あ」
言われてみればまったくその通りであり、戦いが始まって城に立て籠もることになれば、普段とは比べものにならないほどの人間が集まる。
実際に城内で戦う兵士たちだけではなく、彼らの家族や周辺の領民たちも守るために城内へ収容しなければならないのである。それだけの人口が一気に膨れ上がれば、日々の生活で消費される水の量も跳ね上がるのは至極当然の理であった。
「水が足りなくなったら困るもんね」
命に直結する重要性を深く理解した俺は、真剣な眼差しで頼定の顔を見つめながら力強く頷いた。
「左様にございます」
頼定は俺の返答に満足そうに小さく頷き、さらに城郭防衛における水の決定的な重要性を語って聞かせてくれたのである。
「兵糧が尽きれば戦えませぬ。しかし、水が尽きれば、その前に城そのものが保ちません」
俺は再び井戸の暗がりへと視線を戻し、命の源である水の重要性を噛み締めるようにじっと見つめ続けた。
弓や太刀といった武器であれば目に見える形で存在し、刀を握って振り下ろせば敵と戦うことが可能である。弓に矢を番えて引き絞れば遠くの敵を射抜くことができるという直感的な分かりやすさがそこには存在している。
しかし水というものは普段から当たり前のように存在しているからこそ、失われて初めてその真の尊さに気づくものなのだ。
「なら、他の井戸も見たら方がいいよね?」
城全体の防衛線に思いを馳せた俺は、城内にある他の水場についても確認すべきだと頼定に提案してみた。
「はい。すでに確認を進めております」
頼定の手抜かりのない素早い手配に対し、俺はさらに一歩進んだ提案を口にしてみることにしたのである。
「じゃあ、水を取れる場所も全部確認しよう」
俺の意図を汲み取った頼定は、どこか誇らしげな表情を浮かべながら深々と頭を下げて同意してくれた。
「承知いたしました」
それからの俺は、城内の井戸を点検するだけに留まらず、城郭の周辺に存在するあらゆる水場を見て回ることにした。水源地から城へと続く水の搬送ルートや、そこへ通じる鬱蒼とした険しい山道の一本一本まで入念に確認していく。
周囲のどこから見えやすく警戒が必要な場所か、逆に敵が足音を殺して密かに近づくことができそうな死角はどこかを確かめた。これまでであればただの風景として気にも留めなかったような山道の草木や地形が、全く異なる意味を持って視界に飛び込んでくる。
「ここは?」
山中の細い小道を指差しながら、俺は動向を共にする頼定に問いかけてみた。
「水を運ぶ道です」
「じゃあ、ここは守った方がいいね」
「そうですな」
頼定は周囲の地形を観察しながら、防衛ラインの設定についてさらに詳しい助言を加えてくれたのである。
「水源そのものだけではなく、そこから城までの道も守らねばなりません」
防衛という営みの奥深さを実感した俺は、改めてぐるりと周囲の広大な景色を見渡してみた。
「そっか」
城を守るという言葉を聞いた時、これまでの俺は頑丈な城壁や重厚な門を強固に閉ざすことばかりを想像していたのである。しかし、実際に現実の戦争に備えるということは、そうした単純な建築物の防御だけに留まるものでは決してなかった。
日常を支える水も、兵士や領民を活かす食べ物も、暖を取り飯を炊くための薪も、機動力となる馬も、それらを運ぶ道も。そして何より、城の中で生きるすべての人々そのものが、城を守り抜くために不可欠な要素なのだと気づかされたのである。
「……本当に…大変だね」
守るべき対象のあまりの多さと重圧に思いを馳せ、俺の口からは思わず溜息混じりの呟きが漏れ出ていた。
「はい」
頼定は頼もしげな微笑みをその精悍な顔に浮かべ、不安がる俺を優しく包み込むように声をかけてくれたのである。
「ですが、御屋形様が一つずつ覚えていかれればよいのです」
頼定の温かい言葉に支えられ、俺は胸の中の霧が晴れていくような感覚を覚えながら力強く頷いた。
「うん」
一度にすべての事柄を理解して完璧にこなそうと焦る必要などどこにもないのだと自分に言い聞かせる。
分からないことがあれば、素直に周囲の頼もしい家臣たちに教えを請えばいいのだということを、俺はすでに学んでいるのだから。
❖
そのような地道で忙しない準備の日々が続いていた、ある穏やかな日。
「若!」
遠くから懐かしい声が響き渡り、俺は作業の手を止めて驚きとともに思わず顔を跳ね上げた。
「……え?」
視線を向けた城郭の一角、そこには見紛うはずもない独特の雰囲気を纏った人物が佇んでいたのである。山伏の装束を身に纏い、いつものようにどこか食えない不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「天狗!」
その姿を認識した次の瞬間には、俺は思考よりも先に足が動き出し、全速力で彼に向かって駆け出していた。
「お、おい若!」
驚く天狗の制止の声も耳に入らず、俺は勢いそのままに彼の体に力いっぱい飛びついたのである。
ぎゅっと力強く抱きつく俺に対し、不意を突かれた天狗は慌てふためいた声を張り上げた。
「いきなり何しやがる!」
俺は彼の胸に顔を埋めたまま、抑えきれない喜びを声に乗せて叫んだのである。
「帰ってきた!」
天狗は呆れたように息を吐き出しながら、頭上から乱暴な口調で言葉を返してきた。
「見りゃ分かるだろ!」
それでも俺は抱きしめる腕の力を緩めることなく、素直な心情を口にした。
「だって、久しぶりだもん!」
俺はようやく顔を上げ、天狗の顔を間近で見上げながら笑顔を弾けさせたのである。
胸の中が温かい喜びで満たされていくのをはっきりと感じていたのは、紛れもない事実だった。
天狗が京の都へと旅立ってからというもの、過ぎ去る時間が酷く長く感じられて仕方がなかったのである。彼がいない間、城内で何か重大な困りごとが発生したわけでもなく、頼定や正頼がしっかりと城を支えてくれていた。
元豊や元満、そして氏隆も常にそばにいてくれて、毎日誰かしらと賑やかに会話を交わす日々を送っていた。それでもなお、天狗という存在がこの城にいないというだけで、どこか決定的な物足りなさを感じずにはいられなかった。
無意識のうちに城の櫓から遠くの街道を眺めては、彼が帰ってくる瞬間をずっと待ちわびていたのだと今更ながら気づかされた。
「……相変わらずですね」
少し離れた場所から俺たちのやり取りを見守っていた元豊が、呆れつつもどこかわびしい声を漏らした。
「ええ」
隣に立つ元満も静かに頷きながら、俺のこれまでの様子を振り返るように言葉を添えたのである。
「御屋形様、天狗殿がいない間、ちょっと寂しそうでしたからね」
「ちょっとどころじゃなかったと思いますけど」
元満の指摘に対し、元豊はさらに深みのある観察眼で俺の心情を正確に言い当ててみせた。
二人の会話が聞こえてきた俺は、慌てて天狗から体を離すと真っ赤な顔で振り返って抗議したのである。
「元満!」
「はい!失礼いたしました!」
「まったく……っ!そうだ、天狗!」
俺は思い出したようにパッと表情を輝かせると、目の前の天狗に向かって胸を張って報告した。
「なんだよ」
天狗は少し不機嫌そうな振りをしながらも、俺の言葉に耳を傾けてくれたのである。
「俺、元服したんだよ!」
誇らしげに報告する俺に対し、天狗は一瞬だけその細い目をさらに細めて見せた。
「ああ」
拍子抜けするほど淡々とした返事に、俺は拍子抜けして唇を尖らせたのである。
「……ああって」
「知ってる」
「え?」
思いがけない天狗の言葉に、俺は思わず目を丸くして彼を見つめ返した。
「ちゃんと見てたっつうの」
事もなげに言い放つ天狗に対し、俺は信じられないという思いから思わず言葉を疑ってしまったのである。
「……嘘だぁ」
距離や時間を考えればあり得ない話だと決めつける俺に向かって、天狗はニヤリと意味深な笑みを浮かべてみせた。
「せっかくの晴れ舞台だぞ? 見ねぇわけねぇだろ」
天狗の自信満々な態度に困惑しながらも、俺は疑問を一つひとつぶつけてみることにしたのである。
「でも、天狗は京にいたんじゃないの?」
「いたさ」
「じゃあ、どうやって?」
「細かいことは気にするな」
はぐらかそうとする天狗の態度に納得がいかず、俺はさらにぐっと距離を詰めて問い詰めた。
「気になるよ!」
しつこく食い下がる俺の姿を見て、天狗は観念したように大袈裟に両肩をすくめてみせた。
「ほら。元服の朝、飯を残しただろ」
その具体的すぎる指摘を受けた瞬間、俺の全身は凍りついたように固まってしまった。
「……!」
俺の動揺をあざ笑うかのように、天狗は当時の俺の滑稽な様子をスラスラと暴露し始めたのである。
「緊張して喉を通らなかったくせに、腹が減ったら困るって無理して食おうとしてた」
秘密にしていた醜態を完璧に言い当てられ、俺は顔が火が出るほど熱くなるのを感じて言葉を失った。
「なんで知ってるの……」
蚊の泣くような声で漏らす俺に対し、天狗は畳みかけるようにさらなる決定的な証拠を口にしたのである。
「それから、烏帽子を被せられる前に、何度も自分の名前を頭の中で繰り返してたな」
「……」
完全に見透かされていた事実に、俺はただただ恥ずかしさのあまり俯くことしかできなかった。
「本当に……見てたの?」
消え入りそうな声で尋ねる俺に対し、天狗は先ほどまでのからかうような態度を収め、優しく微笑んだのである。
「ああ」
その短い一言に込められた確かな温もりに、俺の胸の奥はじんわりと熱いもので満たされていった。
「ただ、すぐ京へ戻らなきゃならなかったから、長居はできなかったけどな」
忙しい合間を縫ってまで自分の晴れ姿を見に来てくれたのだと知り、俺の心には溢れんばかりの感謝が募っていった。
「……そっか」
俺は照れくささを隠しきれないまま、溢れ出る喜びを噛み締めるように小さく呟いた。
「じゃあ、ちゃんと見てくれたんだ」
「だからそう言ってんだろ」
「……嬉しい」
感情を抑えきれなくなった俺は、再び天狗の体へと力いっぱい飛びついて抱きついた。
「お、おい!」
天狗は困惑した声を上げたが、俺は彼の胸に顔を押し付けたまま素直な気持ちを叫び続けたのである。
「だって嬉しいんだもん」
「ったく……」
天狗は呆れ果てたような声を漏らしたが、今度は俺を突き放すことなく、優しくその背中を受け止めてくれたのだった。
❖
巡る季節は瞬く間に過ぎ去り、穏やかな春が終わりを告げ、酷暑の夏もいつしか遠くへと走り去っていった。
そして訪れた九月、三本松城を包み込む空気感は、それまでののどかな日々とは完全に一線を画す異様な緊迫感を孕んでいた。城内を行き交う人々の数は日に日に膨れ上がり、飛び交う怒号や指示の声が四方から聞こえてくるようになっていた。
武装した兵士たちだけでなく、着の身着のままで避難してきた周辺の領民や、家臣たちの家族の姿も目立つ。
さらには近隣の寺社から避難してきた厳かな僧侶たちまでもが、次々と三本松城の門をくぐり抜けていたのである。
「……こんなに人がいるんだ」
絶え間なく人が押し寄せる城門の近くに立ち、俺は圧倒されながらぽつりと呟きを漏らした。
「城追込にございます」
すぐ隣に控えていた益田正頼が、重々しい声で現在の状況について解説を加えてくれたのである。
「戦になれば、城の外に人を残しておくわけにはいきませんからな」
正頼の言葉の裏にある残酷な現実を察した俺は、真剣な面持ちで言葉を引き継いだ。
「敵に捕まったら、人質にされるかもしれないもんね」
「はい」
正頼は深く頷き、領民たちを保護することの防衛上の意味についてさらに言葉を重ねた。
「それを防ぐ意味もございます」
俺は城内へと続々と足を踏み入れていく、生活感に満ちた市井の人々の群れにじっと視線を注いだ。幼い子供の手をしっかりと握りしめて不安そうに歩く母親や、貴重な家財道具を背負った腰の曲がった老人。
これから始まるであろう戦いへの奮起しようとする領民たちや、静かに経を唱えながら歩む僧侶たち。三本松城が彼らの熱気と若干の不安によって徐々に埋め尽くされていく様を目撃していた。
「でも、これだけ人が増えたら、水も食べ物も必要になるよね」
以前に頼定から教わった知識を思い起こし、俺は城内の物資の管理状況について正頼に確認してみた。
「民たちは各々の家から兵糧をもってきています。それも含めての準備も進めております」
「炊き出しは?」
「役割を分けております」
「水汲みは?」
「それも人を決めております」
「怪我をした人は?」
「薬や手当ての用意もございます」
正頼の淀みのない的確な回答を聞くたびに、俺は深く感じ入るように一つひとつ頷きを返していった。かつての幼い自分であれば、このように城郭防衛の裏側に存在する複雑な物流や補給にまで思考が及ばなかったはずである。
城を守るためには強い兵士と頑丈な壁さえあれば十分なのだと、どこか他人事のように考えていたのかもしれなかった。しかし現実はまったく異なり、戦う兵士たちを陰で支える無数の人々と、彼らの生活維持こそが戦いの根幹をなしているのだ。
食べることも、水を飲むことも、傷を癒すことも、物資を運ぶことも、すべて人間が生きるための基本的な営みである。
そして、そうした当たり前の日常を戦時下において維持することこそが、城郭防衛の本質であると悟ったのである。
「……俺が守らなきゃいけないんだよね」
押し寄せる人々の姿を見つめるうちに、俺の唇からは決意を秘めた言葉が自然と零れ落ちていた。
正頼は俺の発言に対して余計な口挟みをすることはせず、ただ温かくも厳しい眼差しで俺の横顔を見つめていた。
この城に来る何百、何千という人々は、大内家の当主である俺と正頼という存在を信じ、命を預けるためにここへ集っているのだ。
そう理解した瞬間、俺の心から迷いや逃げ越しな気持ちは完全に消え去り、力強い責任感が芽生えていたのである。
❖
「御屋形様」
城追込の作業が佳境を迎えていた数日後、頼定に促されて城外の様子を視察に訪れた時のことだった。かつて活気に満ちあふれていた城下の町並みを見渡した俺は、ある違和感に気づいて足を止めた。
「……家が減ってる」
立ち並んでいたはずの民家や小屋が綺麗に撤去され、無残な空き地が広がっている光景に息を呑んだ。
「はい」
頼定は悲痛な表情を一切表に出さず、冷徹な軍事上の決断としてその理由を説明し始めた。
「清野を進めております」
俺はその場に静かに立ち尽くし、遠くの集落から黒々とした煙が立ち上っている様子をじっと見つめたのである。
「……あれも?」
「はい」
頼定は静かに頷き、清野という作戦が持つ容赦のない軍事的な必然性について語り聞かせてくれた。敵軍が攻め寄せてきた際、城の周囲に建物が存在していれば、それらはすべて敵の絶好の陣地や宿泊所となってしまう。
さらには敵兵が身を隠しながら城へ接近するための遮蔽物として利用される危険性が極めて高いのである。だからこそ、自分たちの手でそれらを焼き払い、城からの見通しを確保して敵の接近を阻まねばならない。
「でも……あそこ、誰かの家だったんだよね」
理屈では理解できても、そこに住んでいた人々の暮らしに思いを馳せると、胸が締め付けられる思いがした。
「俺たちが焼くの?」
「敵に使わせぬためには、必要なことにございます」
頼定の絞り出すような回答を聞きながら、俺は戦いの持つ残酷な側面に改めて直面させられていた。
戦うということは、ただ華々しく刀や槍、弓、鉄砲を交えて敵を倒すといった格好の良いものばかりでは決してないのだ。自分たちがこれまで慈しみ、暮らしてきた大切な思い出の場所さえも、自らの手で破壊しなければならない夜がある。
「……嫌だな」
吐き捨てるような俺の小さな呟きに対し、頼定は決してそれを甘えだと咎めるような真似はしなかったのである。
「はい」
頼定の重々しく短い返答が、かえって俺の胸の奥深くへと重く重く突き刺さってくるのを感じていた。
「ですが、必要なことです」
自分に言い聞かせるように語る頼定の言葉を受け止め、俺は覚悟を決めて静かに頷いてみせたのである。
「うん」
それ以上、俺は無駄な愚痴や悲鳴を口にすることはなく、ただ焼失していく町並みをじっと見つめ続けた。
❖
そして、運命の十月が到来した。
その日の三本松城は、早朝からこれまでにない異様な緊張感と緊張した熱気につつまれて動いていたのである。
重要な内容が記された書状が何枚も用意され、早馬を駆る熟練の使者たちが広場へと呼び集められていた。
俺の手元には、完成したばかりの一枚の重要な書状が握られており、そこには誇らしく大内惟弘の名が記されていた。この檄文を、使者たちの手によって周防へ、長門へ、豊前へ、筑前へ、安芸へ、備後へと送らせるのである。
かつて偉大な大内家が覇権を唱え、広大な領国として支配していたすべての国々に向けて解き放つ。そこに記された宣言の内容は、もはや一切の迷いも曖昧さもない、極めて明確な決意表明である。
大内義隆の正統なる血を引く俺、大内惟弘は確かに生きてここに存在しているという動かぬ事実。
主君を討ち取った叛臣・陶晴賢の暴挙を断じて許さず、彼らが擁立した傀儡当主・大内義長を断固として認めないこと。
そして何より、大内家の正統なる当主として、ここに兵を起こすという堂々たる宣言でもあった。
「これでいいのかな」
書状の重みを指先で感じながら、俺は傍らに立つ正頼に向かって最終確認の意味を込めて尋ねてみた。
「はい」
正頼は一切の迷いを見せることなく、力強い眼差しで俺を見つめ返しながら頷いてくれたのである。
「これを読んだ人たちは、どうするかな」
諸国の国人領主たちがこの檄文を目にした時、どのような反応を示すのかという不安が胸をよぎった。
「それは分かりません」
正頼は気休めの甘い言葉を口にすることなく、厳酷な現実を見据えたまま正直に答えてくれたのである。
「味方になる者もおりましょう。様子を見る者もおりましょう。敵に回る者もいるかもしれません」
正頼の客観的な分析を聞き、俺の心には一瞬だけ冷たい恐怖の風が吹き抜けていくのを感じていた。
「そっか」
けれど、一度解き放とうと決めた決意の書状を、今さら撤回して引っ込めるつもりは毛頭存在しなかったのである。
「じゃあ、送ろう」
「承知いたしました」
正頼の合図とともに、選りすぐりの使者たちが次々と書状を懐に抱いて城門をくぐり抜けて行った。
激しい馬蹄の音を響かせながら、彼らは西国の各地へ向けて飛ぶように駆け去っていき、俺はその力強い背中が見えなくなるまで、ずっと城壁の上からじっと見送り続けていた。
大内惟弘という男が三本松城に存在し、陶晴賢に対して反旗を翻して挙兵したという事実が駆け巡っていく。その衝動的な報せは、旧大内領の隅々にまで波紋のように広がり、歴史を大きく動かしていくのだった。
❖
三本松城の麓に静かに鎮座する、歴史ある鷲原八幡宮の境内。
境内の広い敷地には、すでに溢れんばかりの重武装した兵士たちが所狭しと埋め尽くしていた。
ギラギラとした甲冑を身に纏った威風堂々たる武士たちや、鋭い穂先を揃えた長柄の槍を掲げる兵卒たち。強力な弓を手にした射手たちや、最新の武器である黒光りする鉄砲を抱えた者たちが整然と列をなしている。
その壮観な兵の規模を目の当たりにし、俺は胸の鼓動が高鳴るのを抑えきれなかった。
これほどの数の人間が自分一人のために集まり、これからの俺の一言によって命を賭して動くことになるのだ。
その事実の持つ凄まじい重圧と責任感を、俺は全身の皮膚を通して改めて痛感させられていたのである。
「御屋形様」
重厚な声で呼びかけられ、俺は背後に佇んでいた頼定の方へとゆっくりと振り返った。
俺の目の前には、出陣の儀式である三献の儀を執り行うための飾られた膳と酒が恭しく用意されていた。
最初に差し出された祝いの肴は、打ち固められた「打鮑」。
「これは、敵を打つという意味にございます」
頼定の儀式的な説明を受けながら、俺は差し出された打鮑を口へと運び、じっくりと噛み締めた。
「打つ……か」
力強く言葉を反芻しながら酒杯を手に取り、なみなみと注がれた酒を口へと流し込んでいったのである。
正直に言えば、まだ若い俺にとって酒の味が本当に美味しいと感じられるような境地には達していなかった。はっきりいって美味しくない
それでも今日という特別な日に限っては、途中で残すことなく一気に酒杯を干し切った。
続いて出された二献目の肴は、芳ばしい香りを漂わせる「勝栗」。
「こちらは、勝つという意味にございます」
頼定の解説を聞きながら、俺はその言葉の持つ吉兆の響きを心に刻み込もうとしていた。
「勝つ……」
勝利への執念を燃やすように勝栗を口に含み、続いて二度目の酒杯を静かに飲み干していき、最後に差し出された三献目の肴は、結ばれた「昆布」。
「これは、よろこぶ」
頼定の誇らしげな言葉を引き継ぐように、俺は勝利の先にある未来の光景を思い描いて呟いた。
「勝った後に、みんなで喜ぶ……」
「はい」
俺は昆布を噛み締めながら、三度目の酒杯をしっかりと干し、儀式を滞りなく終えた。
三献の儀が無事に終了すると、俺の膝の上には重厚な造りの兜が静かに置かれていた。元服の儀式の際に頭に載せられたしなやかな烏帽子とは、醸し出す雰囲気がまるで異なっていた。
今日この場所で被るのは、過酷な戦場において死から身を守るための本物の鉄兜。正頼が静かな所作で兜を持ち上げ、俺の目の前へと恭しく掲げて見せた。
「御屋形様」
「うん」
「よろしいですか」
「……うん。お願い」
覚悟を決めて返答すると、正頼の手によってずっしりと重い兜が俺の頭上へと被せられた。首骨に直撃するような圧倒的な鉄の重量感に、俺は思わず首を揺らしてバランスを取ろうとしたのである。
「……重い」
不格好に首を傾げる俺の様子を見て、正頼は親心を感じさせる温かな笑みをほんの少しだけ浮かべた。
「そうでしょうな」
正頼はそれ以上言葉を重ねることはせず、俺もまたその重みを受け止めるようにじっと黙っていた。頭上にズシリと圧しかかってくる重量は、単なる兜の重さだけではなく、背負うべき人々の命の重みなのだと感じていた。
❖
俺はいつも使い慣れている自分の弓を固い手つきで握り締め、力強く立ち上がった。
それは日々の稽古において頼定や、最近では元満たちから徹底的に叩き込まれ、幾度となく弦を引いてきた馴染みの弓。
最初は弦を引くことすらできず、手こずっていた頼りなかった自分が、今ではこうして弓を扱えている。もちろん一流の武芸者と比べればまだまだ未熟と言わざるを得ないが、俺にとってはまさしく相棒。
俺は静かな動作で矢筒から矢を抜き取ると、慣れた手つきで弓弦へとしっかりと番え、息を深く吸い込みながらゆっくりと弦を引き絞り、まずは天の神々へと向けて弓なりを維持する。
続いて地の神々へ敬意を表するように下へと向け、最後に向けるべき正当な方角へと視線を定めた。
それは遥か山を越えた先に位置する山口の方角であり、宿敵である陶晴賢が鎮座しているはずの場所。
弓弦を極限まで引き絞り、指先に全身の力を集中させて限界まで溜めを作っていく。
そして――。
パァン!
静寂に包まれていた境内に、乾いた弦音が甲高く弾け飛び、山々へとこだまして響き渡り、俺はゆっくりと弓を下ろした。深く息を吐き出しながら自分の胸の奥が激しく鼓動しているのを感じていた。
恐ろしいという素直な感情が、今になって津波のように胸の内に押し寄せてくるのを隠せなかったからだ。
これから始まる戦いによって、本当に多くの人々が血を流し、死んでいくことになるかもしれないのである。俺が出すたった一つの命令によって、誰かが傷つき、大切な家族を失うかもしれないのだと思うと足が竦んだ。
それでもなお、一度歩み始めたこの道から後ろへと退くことは、もはや許されないのだと自分に言い聞かせる。
いや、どれほど恐ろしかろうと、俺自身が二度と後ろへなど退くつもりは一切存在しないのだ。
「御屋形様」
決意を固める俺の耳に頼定の力強い声が届き、俺はゆっくりと顔を上げて目の前の光景を見つめ直した。そこには、自分の一言を待ち望んでいる何千もの頼もしい兵士たちが、ギラギラとした瞳で俺を見つめていた。
俺は一人でこの過酷な戦場に立ち向かうわけではないのだという当たり前の事実に、改めて勇気をもらう。厳格な正頼がおり、強者な頼定がおり、武勇に秀でた元豊や元満、そして同年代であり智勇を備える氏隆がいる。
心強い佐波の武士たちもここにはいないが、吉見領の背後を見張っており、さらには顔も名前も知らない多くの人々が俺を支えてくれている。
だからこそ、彼らの陣頭に立つ俺自身が、迷いを捨てて己の意思で未来を切り開かねばならない。
「……行こう」
恐怖のあまり最初は声が少しだけ震えてしまったが、俺はすぐに呼吸を整えてはっきりとした大声で言い放った。
「この戦をもって、大内家を取り戻す大戦への狼煙とする!!」
――我らに八幡大菩薩の御加護を!!!
静まり返る境内において、俺の宣言に対して異論を唱える者など誰一人として存在しなかった。俺が高々と掲げた太刀を見つめながら、正頼を筆頭に皆が腹の底から声を張り上げて鬨の声を上げたのである。
「えい、えい!」
「「「おぉぉぉぉ!!!」」」
地響きのような大歓声が巻き起こり、八幡宮の地面そのものが激しく揺れ動く錯覚を覚えた。
「えい、えい!」
「「「おぉぉぉぉ!!!」」」
二度目の鬨の声はさらに凄まじい音量となり、城下にまでその勢いが伝わっていくのが分かったのである。
「えい、えい!」
「「「おぉぉぉぉ!!!」」」
三度目の咆哮が山々に木霊し、三本松城を取り巻くすべての空気を塗り替えて行き、俺はその圧倒的な熱量を感じ取りながら、眼下に広がる数多の兵士たちの顔一人ひとりを視線に焼き付けた。
今日というこの日、俺は生まれて初めて自分自身の名において兵を起こし、乱世へと躍り出たのである。
大内惟弘という名の下に、これほどまでに多くの人々が集ってくれたのだ。
俺は、誰かの庇護を求め、ただ生き残るために命からがら逃げ惑っていたかつての幼い子供ではなく、自らの確かな意思を持って宿命の戦いへと挑むのである。
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戦の熱気に熱くなる津和野から遠く離れた周防国山口の地においても、重大な局面が訪れていた。再建された大内家の本拠地である御館の豪奢な広間には、息が詰まるほどの重苦しい空気が充満していた。
「……衆目の、笑い物、だと……?」
地を這うような深く低い声が広間に響き渡り、列席していた臣下たちを恐怖で震え上がらせていた。
その恐ろしい声の主こそが、大内家の実権を完全に握る下剋上の雄・陶尾張守晴賢その人であった。彼の固く握りしめられた手には一枚の書状が握られており、それは激しい憤怒によって激しく震えていた。
津和野の吉見氏から国人衆の手を経て、巡り巡って山口の晴賢のもとへと届けられた惟弘の檄文であった。晴賢の強靭な指に力が込められるたび、高級な紙がくしゃりと音を立てて無残に歪んでいく。
「晴賢、何が書かれているのだ」
上座に鎮座していた大内義長が、耐えかねたように不安そうな声を晴賢に向かって投げかけた。
朝廷から正式に官位を受け、形式上は大内家の当主として君臨している男であったが、その顔には怯えが色濃く出ている。
「……何が、だと?」
「ひぃ!!」
晴賢は溢れ出る殺意を隠そうともせず、ゆっくりと手中にある檄文を見下ろして咬み殺すように呟いた。そこには、陶晴賢という男の存在そのものを根底から否定する辛辣な言葉の数々が並べ立てられていたのである。
大内義長を断じて正統な当主とは認めず、陶晴賢を主君を殺害した卑劣な簒奪者であると痛烈に糾弾していた。
そして、前当主である大内義隆の正当な血筋を引く自分こそが、大内家の真の当主であると堂々と宣言していたのである。
「狂犬めが……!」
感情を爆発させた晴賢は怒声とともに立ち上がり、凄まじい威圧感を広間全体に撒き散らした。
「死に損ないの三男坊を担ぎ上げ、吉見の老いぼれが小賢しい真似を!」
握りつぶした檄文を床に向かって力任せに叩きつけると、不気味な足音を立てて広間を歩き回った。義長に授けられた官位や形式上の権威など、この圧倒的な危機の前には何の意味もなさないことを晴賢は理解していた。
本当の脅威は、亡き義隆の正統な血を引く男子が生きて存在し、自らの意志で行動を開始したという事実そのものであった。しかも陰で怯えるだけでなく、自らの名を世間に掲げて正式に挙兵したという事実が、晴賢のプライドを激しく逆撫でした。
もしもこの檄文が西国の諸国へ拡散されれば、これまで陶家に服従していた国人たちが動揺し始めるのは明白であり、さらには安芸国で独自の動きを見せる毛利元就の不穏な顔までもが、晴賢の脳裏に不吉に浮かび上がっていた。
「町野殿はおるか!」
晴賢の大音量の呼びだしに対し、列席していた一人の重臣が素早く進み出てひれ伏した。
「はっ、ここに!」
声を上げたのは大内家を長年支えてきた有力家臣、町野隆風。
父である町野隆治の跡を継ぎ、大内家の軍を指揮する若くも頼もしい実力者として知られた男である。
「町野殿」
「はっ」
「兵を集めよ」
晴賢の声は冷たく低く絞り出され、決定的な軍事行動の開始を告げていた。
「周防、長門の兵を率い、石見へ向かうのだ」
晴賢の過激な命を受けた町野隆風は、思わず息を呑んで主君の顔を見つめ返した。
「石見へ……」
「そうだ。儂の軍からも兵を出す」
晴賢は激しい怒りに拳を握り締めながら、三本松城への即座の攻勢を命じたのである。
「そなたは速やかに儂の軍と合流し野坂峠を越え、吉見領へ攻め込むのだ」
しかし、軍事の現実を知る町野隆風は、慎重な態度を崩さずに一度だけ主君へ諌言を試みた。
「しかし、晴賢殿」
言葉を慎重に選びながら、隆風は現在の状況下における出兵のリスクを客観的に指摘したのである。
「秋の収穫が終わったばかりでございます。にわかに軍を動かせば、兵糧の手配も難しくなりましょう。それに安芸の毛利の動きも不透明にございます」
晴賢は無言のまま隆風を睨みつけたが、隆風は懸念を最後まで伝えようと必死に言葉を重ねた。
「雪が降る前に山へ入るよりも、来春まで待ち、腰を据えて攻める方が――」
「黙れ!」
晴賢の雷のような怒声が広間に響き渡り、隆風の正論を力任せに遮り払ってしまった。
あまりの迫力に広間にいたすべての家臣たちが凍りつき、静寂がその場を支配したのである。
「あの賊どもは名門大内家に、儂に泥を塗ったのだ!」
晴賢の瞳には、かつての燦然と輝いていた豪勇の大将としての判断力は消え失せ、怒りと焦燥だけがメラメラと燃え盛っていた。
「諸国の国人どもが我らを笑いものにする前に、圧倒的な武力で踏み潰さねばならぬ!」
なおも懸念を示そうとする隆風に対し、晴賢は容赦なく決定打となる言葉を言い渡した。
「しかし……」
「御屋形様の名において命じる!」
名指しされた大内義長の肩がビクリと跳ね上がり、形式上の当主である自分を利用されたことに怯えていた。
当主の名を出された以上、もはや臣下の立場から異論を挟む余地は完全に塞がれてしまったのである。
晴賢は勝利を急ぐ焦燥感のままに、さらに厳しい命令を隆風に向かって畳みかけていった。
「一刻も猶予はならぬ! 今すぐ兵を集め、吉見領へ進め!」
町野隆風はしばらくの間、怒りに震える晴賢の顔を無言で見つめ続けていた。
この時期の急な出兵がどれほど危険であり、味方を窮地に追い込む暴挙であるかは痛いほど理解していた。
しかし、大内家の家臣としての忠誠心と立場がある以上、主君である義長の名での決定に立ち向かうことなど不可能であった。
「……御意」
隆風は深く深く頭を下げ、主君への服従を示すと同時に悲壮な覚悟を決めた。
「ただちに先陣を編成し、吉見領へ進軍いたします」
「うむ」
晴賢は満足そうに深く頷いた。しかし、命を受けて立ち上がった町野隆風の胸中には、拭い去ることのできない暗い暗雲が立ち込めていた。
あまりにも拙速に過ぎる出兵計画であり、準備不足であることは火を見るよりも明らかであったからだ。
兵たちの命を支える兵糧の確保も、山間部を襲う厳しい雪の恐怖も、毛利元就の不気味な動向も。何一つとして解決されないまま、大内軍は破滅への第一歩を踏み出そうとしていたが、それでも下された命に従い、陶家の軍勢は三本松城を目指して激しく動き始めることになる。
大内惟弘という一人の少年が放った一枚の檄文は、西国全体を巻き込む巨大な炎となって燃え広がり始めていた。
そしてその激しい炎に向かって、自ら跳び込んで行ったのは――。
他ならぬ陶晴賢自身であった。
おっきーがばら撒いた書状の内容(現代語訳)です。
「大内家は代々、朝廷から厚い恩寵を受けてきた家柄です。
特に、亡き父・兵部卿従二位義隆が西国の棟梁として大きな勢力を持っていたことは、天下の誰もが知っているところでしょう。
ところが、分国の守護代であった陶五郎晴賢は、突然主君に背き、我が父・義隆を殺害しました。
これはまさに道理にも天にも背く、決して許されることのない大逆です。
さらに、豊後からやって来て大内家を乗っ取り、西国に戦乱をもたらした大内義長についても申し上げます。
確かに、義長は形式の上では左京大夫という官位を名乗っています。
しかし、その実態はどうでしょうか。
義長は陶晴賢が己の私欲のために大内家の当主として据えた、ただの傀儡に過ぎません。
大内家の正統な血筋を受け継いだ者ではないのです。
この二人によって、代々受け継がれてきた大内家の名門としての誇りは泥にまみれ、さらに多くの民が戦乱の苦しみに巻き込まれることとなりました。
父義隆、兄義尊の亡き今、大内家の正統な後継者である兵部三郎はこの度元服を果たし、石見国三本松城において、大義の旗を掲げました。
筑前の宗像氏隆殿もこれに同心し、共に津和野にて兵を挙げました。
たとえ陶晴賢や大内義長が朝廷から与えられた官位や幕府から任ぜられた守護職を手にし、それを盾に権威を振りかざしたとしても、主君を殺した逆賊としての罪が消えることはありません。
天地神明も、その罪をお許しになることはないでしょう。
そして今、真に大内家の正統を受け継ぐ兵部三郎が、逆臣を討とうとしているのです。
これほど道理にかなったことが、ほかにあるでしょうか。
だからこそ、皆々方には速やかに忠義の心を示していただきたい。
吉見式部四郎殿とも力を合わせ、逆賊である陶晴賢と大内義長を討ち果たし、兵部三郎を山口の御館へ迎えていただきたいのです。
もし、この大事な時に疑いを抱き、なお陶方に味方する者がいるならば、その者と一族は末代に至るまで「逆臣」「不忠の者」という汚名を背負うことになるでしょう。
そして、世間の人々から笑いものにされることも間違いありません。
そのことを、よくよく心得ておいてください。
以上、申し伝えます。」
おっきー:やーいおまえ反逆者~
SUE:野ァ郎、ぶっ殺してやるぁ!!!!
次章❖両大内の乱開幕
お楽しみに!
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。