翌朝、静まり返った室内で目を覚ました俺は、すぐには起き上がらずに布団の中でしばらくの間、天井の木目を所在なく眺めていた。
昨日までなら、目覚めと同時に身体のあちこちが悲鳴を上げ、刃を交えた瞬間の血生臭い記憶が頭の中を駆け巡っていたかもしれない。
しかし、夜が明けた今の俺の意識を支配していたのは、苦痛や恐怖ではなく、昨日の救護所で交わした一筋の温かい記憶だった。
――約束。
怪我を負って横たわっていたあの一人の兵士が、すがるような眼差しで俺に向けた切実な願いの言葉が脳裏に鮮やかに蘇ってきた。
『明日も、御屋形様のお顔を見せていただければ』
あの時、俺は迷うことなく彼らの目を直視して「もちろん」と力強く答えたのだった。大将として、そして何よりも一人の人間として、一度口にした言葉を反故にするわけにはいかない。
「……よし」
小さく自分自身に気合を入れると、俺は意を決して布団を押しのけ、勢いよく身体を起こした。
体内に残留していた重苦しさは依然として残っていたものの、昨日経験した身動きすら取れないほどの強烈な疲労に比べれば、幾分か軽くなっている感覚があった。腕をゆっくりと前後左右に動かして様子を伺ってみる。
「うん。大丈夫そう」
両肩を大きく回してみると、鈍い痛みが走るものの、日常の動作に支障をきたすほどではなく、普通に可動させることが確認できた。案外丈夫に産んでくれた母に今更ながら感謝だ。
これだけの動きができるのであれば、自分の足で城内を歩き回るには全く問題ないはずだった。俺は手早く身支度を整えると、自身の部屋を辞して静まり返った廊下へ足を踏み出した。
廊下に一歩踏み出した瞬間、早朝のひんやりと研ぎ澄まされた冷気が肌を刺し、身が引き締まる思いがした。昨日まで嘉年勝山城の内部全体を重苦しく支配していた緊張の糸は、時間の経過とともに徐々に解けつつあった。
しかし、合戦の爪痕がすべて拭い去られたわけではなく、城内は依然として平時とは異なる特有の慌ただしさに包まれていた。
慌ただしく廊下を往復する兵士の群れや、刃こぼれした武具や破れた甲冑を抱えて職人の元へ運ぶ者、そして今なお苦しむ負傷者のために手桶に水を汲み、清潔な布を運ぶ者たちの姿がそこかしこに見受けられた。戦いが終結したからといって、すべてが瞬時に元通りになるわけではないという当たり前の現実を突きつけられる思いだった。
それでも、殺気立った昨日の空気感に比べれば、城内にはどこか穏やかで落ち着いた雰囲気が漂い始めていた。
「若様」
背後から静かで聞き馴染みのある声で呼びかけられ、俺が振り向くと、そこには整った身なりで元豊が立っていた。
「おはよう」
「おはようございます。どちらへ向かわれるのですか?」
「負傷した兵たちのところ」
俺がはっきりと行き先を告げると、元豊はすべてを察したように一瞬だけその細い目をさらに細めた。
「昨日の約束ですか?」
「うん」
俺が小さく頷いて見せると、元豊の唇の端が和らぎ、実に穏やかな笑みが浮かんだ。
「では、私もご一緒いたします」
「いいの?」
「はい。私も様子を見ておきたいので」
「そっか。じゃあ、一緒に行こう」
互いに頷き合い、俺たちは静かな足取りで並んで廊下を歩き始めた。
救護所へと続く廊下を進む途中で、元豊がふと思い立ったように俺の横顔に視線を投げかけて口を開いた。
「若様」
「うん?」
「昨日より、お顔が少し楽そうですね」
「そうかな?」
「はい」
俺は歩みを止めずに、自分の両頬を左右の手のひらで触って表情を確認してみた。
「自分じゃよく分からないな」
「では、昨日は相当ひどい顔だったのでしょう」
「……元豊、それって心配してるの?」
「もちろんです」
「でも、ちょっと嬉しそうに聞こえるよ」
「気のせいです」
相変わらず表情一つ変えずに淡々と返す元豊の言葉を聞いて、俺は思わず吹き出してしまった。
こうした他愛もない軽口を交わしていると、死と隣り合わせだった昨日の戦場の凄惨さが、まるで遠い昔の出来事のように感じられてくる。
もちろん、あの恐怖や人を斬った際の手応えを忘れたわけでも、綺麗さっぱり消し去れたわけでもなかった。
俺たちはそのまま、負傷した兵士たちが集められて応急手当を受けている大部屋へと足を運んだ。
部屋の扉をくぐると、昨日と同様に大勢の兵士たちが敷布団の上に横たわっており、薄暗い室内には痛みに耐える重苦しい息遣いが満ちていた。
負傷した兵たちの顔には色濃く疲労と痛みの影が刻まれていたが、俺が部屋に入ってきたことに気づくと、何人かの兵士が驚いたように顔を上げた。
「お、御屋形様」
弱々しくも敬意の込められた声で呼ばれ、俺は迷うことなくその兵士の元へと歩み寄っていった。
「おはよう」
「お、おはようございます」
「昨日より、顔色が良くなったね」
「は、はい。おかげさまで」
「怪我はどう?」
「まだ痛みますが、昨日よりはずっと」
「そっか。それならよかった」
俺が安堵の笑みを浮かべると、かたく張っていた兵士の表情もどこか和らぎ、小さな微笑みが返ってきた。
そのすぐ隣で傷の手当てを受けていた別の兵士も、俺の存在に気づくと信じられないものを見るかのように目を丸くした。
「本当に来られたのですか」
「うん。約束したから」
「……ありがとうございます」
「そんなに畏まらなくてもいいって」
そう言って恐縮する兵士を宥めながら、俺は手持ち無沙汰に部屋の四隅へと視線を走らせた。
「何か足りないものはある?」
「いえ、今のところは……」
「本当に?」
「はい」
「水は?」
「ございます」
「布は?」
「ございます」
「じゃあ……」
俺は腕を組んでしばらく真剣に部屋の中を見渡した。
「……俺にできること、なくなっちゃったな」
素直な落胆を口にすると、周囲で横たわっていた兵士たちからクスクスと小さな笑い声が漏れ聞こえてきた。
「御屋形様がお顔を見せてくださっただけで十分でございます」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、もう少しいるよ」
俺が当然のようにそう宣言すると、部屋のあちこちから再び和やかな笑い声が湧き起こった。
俺はその場にそのまま腰を下ろし、傷ついた兵士たちと同じ目線に立って、しばらくの間取り止めのない会話を重ねた。
昨日の過酷な合戦の最中、それぞれがどの地点で敵と刃を交えていたのか、誰と背中を合わせて戦っていたのか、あるいはどの部隊が素晴らしい働きを見せていたのかといった話題に花が咲いた。
兵士たちの口から語られる生の体験談を聞いているうちに、戦場の喧騒の中では決して伺い知ることのできなかった、一人ひとりの勇敢な姿や人間性が鮮明に浮かび上がってきた。
「昨日、あそこで一番最初に逃げる敵を見つけたのは俺なんです」
「本当に?」
「はい」
「すごいじゃん」
「いえ、それほどでも……」
「じゃあ、今度その話をもっと聞かせてよ」
「はっ」
褒められた兵士は誇らしげに胸を張り、嬉しさを隠しきれない様子で力強く頷いた。
生き生きとした兵士の表情を見つめているうちに、俺の心にも自然と笑みがこぼれていった。
昨日の戦闘中は誰もが生き残ることに必死であり、俺自身も己の命を守ることで精一杯で周りを見る余裕など微塵も存在しなかった。
だからこそ、誰がどのような活躍をしていたのかをすべて把握することなど不可能なことだったのだが、こうして戦後に言葉を交わすことで、自分の預かり知らぬ場所でも多くの仲間たちが命を懸けて戦っていたのだという事実に思い至ることができた。
「御屋形様」
「うん?」
「昨日は、ありがとうございました」
「え?」
「我らのところへ来てくださったことです」
「ああ……」
あまりにもストレートな感謝の言葉を向けられ、俺は途端に面痒くなって頭の後ろをゴシゴシと掻いた。
「俺にはそれくらいしか出来ないから来ただけだよ」
「それが嬉しいのでございます」
「……そっか」
やはり正面から感謝されると恥ずかしく、どう反応していいか分からず困惑してしまう。
俺が赤面して立ち尽くしていると、傍らに控えていた元豊が静かに肩を揺らして笑っていた。
「若様」
「なに?」
「照れておられますね」
「照れてないよ」
「そうですか」
「そうだよ」
「顔が赤いですが」
「これは暑いだけ!」
「朝ですが」
「……元豊は意地悪だなぁ」
俺が不満げに頬を膨らませると、元豊は声を忍ばせて楽しそうに微笑んだ。
まさにその時だった。
「若君!」
廊下の奥から聞き馴染みのある元気な大声が響き渡ってきた。
廊下の先へ視線を向けると、元満が袴の裾を翻しながらこちらへ一直線に走ってくるところだった。
「元満?」
「ここにいたんですね!」
「うん」
「探したんですよ!」
「どうして?」
「朝から姿が見えなかったので」
「俺、そんなに遠くには行ってないよ」
「でも、昨日の今日ですから!」
息を切らせながらそうまくし立てる元満は、俺の前に仁王立ちすると、怪我や異常がないかを確かめるように上から下まで念入りに視線を滑らせた。
「怪我は?」
「ないよ」
「本当に?」
「うん」
「痛いところは?」
「ちょっと肩が痛い」
「それ、怪我じゃないんですか?」
「これは疲れてるだけ」
「なら、ちゃんと休まないと駄目です」
「元満だって疲れてるでしょ」
「私は大丈夫です!」
「昨日、腕も足も痛いって言ってなかった?」
「……」
「言ってたよね?」
「……言いました」
「じゃあ元満も休まないと」
「でも若君も休んでません」
「俺は約束したから」
「……ずるいです」
「なんで?」
「若君だけ約束を理由に動けるなんて」
元満は子供のように頬を膨らませて不服を全身でアピールした。
その姿は昨日のやり取りと全く同じであり、一部始終を固唾をのんで見守っていた負傷兵たちから、再びドッと温かい笑い声が巻き起こった。
「ほら、笑われてるよ」
「若君のせいです!」
「なんで俺のせいなの?」
「知りません!」
元満はプイと横を向いてへそを曲げてしまった。
その様子があまりにもおかしく、俺は堪えきれずに大声で笑ってしまった。
昨日まで死力を尽くして殺し合っていた凄惨な現場にいたことが、まるで遠い夢物語であったかのように思えてくる。
しかし、こうして仲間たちや兵士たちと心から笑い合える時間が存在すること自体が、すり減った俺の心を深く救ってくれているのだと感じていた。
それからしばらくの間、俺たちが部屋に残る負傷兵たちの枕元を順に回って声をかけていると、ある年配の兵士がふと真剣な表情を浮かべて問いかけてきた。
「御屋形様」
「うん?」
「今日、ここへ来られたということは……」
「うん」
「しばらく、こちらに?」
「どうかな。まだ決まってないと思う」
俺が正直な現状を伝えると、その兵士は隠しきれない寂しさを顔に滲ませ、落胆の表情を浮かべた。
その落胆した眼差しを見て、俺も兵士たちが何を望んでいるのかを察することができた。
「でも、また会いに来るよ」
「……本当ですか?」
「うん」
「ありがとうございます」
「だから、早く元気になってね」
「はい!」
腹の底から響くような力強い返事が返ってきた。
俺は頼もしく思って笑顔で頷いた。
まさにその瞬間だった。
広間の入口の木戸が猛烈な勢いで開かれ、伝令の兵士が汗だくになって駆け込んできた。
「御屋形様!」
「どうしたの?」
「正頼様より書状が届いております!」
「伯父上から?」
「はい」
俺はその場でサッと立ち上がり、駆け寄ってきた兵士から恭しく差し出された書状を受け取った。
素早く結びをほどいて文面に目を通す。そこに認められていたのは、無駄を削ぎ落とした実に簡潔な指示だった。
――三本松城へ帰還されたし。
「……帰るの?」
文面を読み終えた俺は、無意識のうちに口から言葉を漏らしていた。
「若君?」
隣にいた元満が不安そうに俺の顔を覗き込んできた。
「伯父上が、三本松城に戻ってきてほしいって」
「三本松城へ?」
「うん」
俺は書状に記された後半の文章へと再び目を走らせた。
そこには帰還命令の明確な理由が添えられていた。
高佐原での戦闘が吉見方の勝利に終わった以上、今後の戦局全体を見据えた上で三本松城へと一度戻り、吉見正頼をはじめとする幹部たちへ正式な戦勝報告を行うとともに、怒涛のように押し寄せるであろう次の展開についての軍議を開く必要があるとのことだった。
至極まっとうな理由であり、言われてみればその通りだと納得するしかなかった。
「じゃあ、帰らないとね」
俺が納得してそう口にすると、元満はどこか名残惜しそうな、少しだけ不満げな表情を浮かべた。
「もう出発するんですか?」
「たぶん。準備ができ次第だと思う」
俺は振り返り、部屋に横たわる負傷兵たちへ温かい視線を送った。
「みんな、またね」
「御屋形様も、お気をつけて」
「うん。みんなもちゃんと休んでね」
別れの言葉を告げると、俺は名残惜しさを振り切るように救護所として使われていた部屋を後にした。
廊下へ出ると、すでに状況を把握していた元豊が、いつの間にか控えており、すっとこちらへ歩み寄ってきた。
「若様」
「うん」
「帰還されるのですね」
「そうみたい」
「準備をいたします」
「お願い」
元豊は短く頷くと、すぐさま指示を出すために動き始めた。
元満もその後に続いて歩き出す。
「若君」
「なに?」
「帰るなら、私も一緒ですよね?」
「もちろん」
「よかったです」
「なんで?」
「昨日から若君が一人でどこかへ行ってしまわないか心配だったので」
「俺、子供じゃないよ」
「でも昨日、初陣だったじゃないですか」
「それを言われると何も言えないな……」
元満は意地悪く笑い、俺は返す言葉を失って苦笑いするしかなかった。
俺たち三人は息の合ったやり取りを交わしながら、三本松城へ帰還するための身支度を速やかに進めていった。
❖
出発に必要な馬や具足の準備が整うまでの間、俺は嘉年勝山城の内部をゆっくりと回って歩いた。
城内に残る兵士たちは皆、それぞれの持ち場で慌ただしく作業に追われていた。
昨日まで惨劇の舞台であった城内も、人々の手によって少しずつではあるが日常の景色を取り戻そうとしていた。
しかし、この城にはいまだ数多くの重傷者が残されており、彼らをこの場に置いて自分たちだけが去っていくことに対して、胸の奥に小さな引っ掛かりを覚えていた。
「頼定は?」
「こちらへ残られるとのことです」
傍らに立つ元豊が静かな声で答えた。
「やっぱり?」
「はい。嘉年勝山城の備えを整える必要がございますので」
「そっか」
俺は確認のために城の奥深くに位置する陣屋へと足を向けた。
ほどなくして、防具の手入れを行っていた頼定の威風堂々たる姿を見つけることができた。
「頼定」
「御屋形様」
頼定は俺の姿を視界に収めると、いつものように微動だにしない落ち着いた動作で深く頭を下げた。
「伯父上から書状が来たから、三本松城へ戻ることになったよ」
「承知しております」
「頼定は?」
「私はここに残ります」
「やっぱり嘉年勝山城を守るため?」
「はい。昨日の戦いを終えたばかりとはいえ、敵が再び動く可能性はございます。城の備えを整えておく必要がございます」
「そっか」
俺は頼定の堅固な横顔を見つめながら、しばし思案に暮れた。
頼定がこの城に残る。
その事実を突きつけられると、胸の奥から急速に心細さが押し寄せてくるのを感じていた。
命懸けの戦闘中、俺の耳には頼定の力強い鼓舞の声が何度も響いていた。
あの巨大な弓を引き絞り、正確無比に敵をまとめて射抜いていた頼定の猛々しい姿は、まさしく
「じゃあ、頼定。気をつけてね」
「御屋形様も、どうかお気をつけください」
「うん」
「三本松城へ戻られましたら、戦勝の報告をお願いいたします」
「分かった」
俺は一度言葉を切り、頼定の目をしっかりと見つめ直した。
「……頼定」
「はい」
「昨日、一緒に戦ってくれてありがとう」
頼定は予想外の言葉を受けたかのように一瞬だけ目を細め、胸中の動揺を隠すように静かに、しかし深く頭を下げた。
「こちらこそ、御屋形様と共に戦えたことを嬉しく思っております」
「うん」
「どうか、ご無事で」
「頼定もね」
俺たちは短く言葉を交わし、互いの健闘を祈って別れた。
俺は元豊や元満、そして三本松城へ向かう護衛の兵士たちと合流し、引き締まった心地で嘉年勝山城の城門をくぐり抜けた。
❖
三本松城へ向かう山道を進む間、俺は馬の背に揺られながら、何度も無意識のうちに後ろを振り返っていた。
緑深い山々の間に佇む嘉年勝山城の姿が、一歩進むごとに少しずつ小さくなっていく。
あの城には頼定が残り、傷を負った多くの仲間たちが命を繋ぎ止めるために留まっているのだ。
昨日までまさにあの場所で死闘を繰り広げていたのだと思うと、今こうして馬を進めている自分がどこか現実離れしているような不思議な感覚に包まれた。
「若君」
馬を並べて進んでいた元満が、俺の視線に気づいて声をかけてきた。
「うん?」
「そんなに後ろばかり見ていると、前の道が見えませんよ」
「分かってるよ」
「なら、前を見てください」
「……元満って、なんだか元豊みたいになってない?」
「えっ?」
「言うことが似てきた」
「そんなことありません!」
「本当?」
「本当です!」
「じゃあ、元豊に聞いてみよう」
「やめてください!」
列の先頭を進んでいた元豊が、二人のやり取りに気づいて馬の上で振り返った。
「何かございましたか?」
「なんでもないよ」
「若君が私に似ていると言ったんです」
「元満、それ言わなくていいのに」
「だって!」
元満が悔しそうに声を張り上げ、その子供っぽい反応に俺は腹から笑いが込み上げてきた。
命を落としかねない激しい戦闘が昨日の今日で終わったばかりだというのに、こうして道中でくだらない雑談を交わして笑い合えている。
その事実がどこか可笑しくもあり、同時に張り詰めていた心が解けていくような深い安心感を覚えていた。
俺たちは過酷な戦闘を生き延び、今こうして生きている。
ただそれだけの事実が、何物にも代えがたい救いだった。
山道をさらに進んでいくと、見慣れた威容を誇る三本松城の全貌が視界に大きく広がってきた。
俺がこの世界に身を投じて以来、長い時間を過ごしてきた我が家とも言える場所だった。
しかし、初陣を経た今の俺の目には、その城の姿が昨日までとは明らかに異なって映っていた。
これから先、大内家再興に向けた激しい戦いの中心地となる場所なのだという実感が胸に迫り、背筋が伸びるような思いだった。
「戻ってきたね」
「はい」
元豊が深く頷いて答える。
「若君、お疲れ様でした」
「うん。元満もね」
「私はまだまだ元気です!」
「でも昨日、疲れたって言ってたよ」
「それは昨日の話です!」
「今日も痛いって言ってたじゃん」
「……若君は細かいところを覚えてますね」
「そりゃ覚えてるよ」
軽口を叩き合っているうちに、俺たちの馬列は三本松城の重厚な城門をくぐり抜けた。
門を通過した瞬間、敷地内で待機していた大勢の家臣や兵士たちが一斉に俺たちの元へと駆け寄ってきた。
「御屋形様、お帰りなさいませ!」
「お帰りなさいませ!」
次々と投げかけられる歓喜に満ちた声の波に、俺は一瞬気押されて戸惑ってしまった。
「うん。ただいま」
気恥ずかしさを隠しながらそう返すと、なぜか周囲にいた家臣たちの間からクスクスと和やかな笑いが漏れ聞こえた。
「……何?」
不思議に思って問いかけると、隣にいた元満が可笑しそうにニヤニヤしていた。
「若君、なんだか普通のお帰りみたいですね」
「だって帰ってきたんだから、ただいまでいいでしょ」
「そうですけど」
楽しそうに笑う元満につられ、俺の緊張もほぐれて自然と笑みがこぼれた。
俺たちはそのまま促されるように、評定が行われる大広間へと足を進めた。
広い室内には吉見正頼をはじめ、重臣たちが既に居並んでおり、俺の到着を静かに待っていた。
「御屋形様」
俺の姿を認めた正頼が、重厚な動作で立ち上がった。
「お帰りなさいませ」
「伯父上、ただいま」
「お疲れでございましょう」
「ちょっと疲れたけど、大丈夫だよ」
「それならば、何よりでございます」
正頼は心底安堵したように目元を緩め、大きく頷いた。
俺が上座の席につくと、すぐさま高佐原における詳細な戦況報告が開始された。
俺自身が戦場で直接目撃した光景、頼定から事前に共有されていた戦術の意図、波多野滋信率いる部隊の見事な連携、町野隆風の軍勢を撃退に至らしめた経緯、そして味方の被害状況や負傷者の数に至るまで、詳細な情報が元豊によって読み上げられていった。
己の周囲のことしか見えていなかった俺にとって、報告される内容の多くは初めて耳にする事実ばかりだった。
乱戦の最中は目の前の敵を倒すことで精一杯だったが、こうして俯瞰した報告を聞くことで、一つの勝利がどれほど多くの人間の緻密な連動と犠牲の上に成り立っていたのかを痛感させられた。
「以上が、現時点で確認できている戦況でございます」
そう元豊が報告を締めくくると、静まり返った広間の中に重厚な沈黙が流れた。
正頼が静かに俺へと視線を向け、噛み締めるように言葉を紡いだ。
「見事な初陣でございました」
「……うん」
素直に正頼から褒められたことが誇らしく、胸の奥底がじわりと熱くなるのを感じていた。
「みんなが頑張ってくれたからだよ」
「その中には、御屋形様ご自身も含まれております」
「そうかな」
「はい」
正頼は力強く頷いた。
「高佐原での勝利は、我らにとって大きな意味を持つものでございます」
俺は背筋を正し、正頼の言葉にじっと耳を傾けた。
「陶方に対し、吉見家が容易には屈せぬことを示すことができました。また、御屋形様が自ら戦場へ赴かれたことも、兵たちにとって大きな意味を持ったことでしょう」
「……そっか」
今朝、救護所で兵士たちからかけられた言葉が脳裏に蘇ってきた。
総大将である俺が逃げずに戦場に立ち続けていたこと、そして戦後もこうして彼らの元へ足を運んだこと、それだけで彼らは救われたのだと言ってくれたのだった。
俺は少し気恥ずかしくなりながらも、笑みを浮かべて口を開いた。
「でも、次はもっと上手くやりたいな」
正頼が興味深そうに目を細めた。
「どのような意味でございましょう?」
「えっと……」
俺は適切な言葉を探すように少し思いを巡らせた。
「昨日は、分からないことがいっぱいあったから」
実際に命懸けの現場に身を置いてみて初めて理解できたことが山ほど存在した。
敵がいかに恐ろしい存在であるか、味方の存在がいかに心強いか、そして自分がいかに無力であるか。さらに勝利を収めた後にも膨大な始末が待っているということ。
「だから、次はもう少しちゃんとしたい」
正頼は俺の成長を確信したように、柔らかな笑みをたたえた。
「御屋形様」
「うん?」
「それで十分でございます」
「そう?」
「はい。初陣を終えたばかりでございます。すべてを理解される必要などございません」
「……なら、よかった」
正頼の心強い言葉に胸を撫でおろした、まさにその時だった。
「惟弘様」
広間の入口付近から、静かだがよく通る声が響いた。
俺が振り返ると、そこには宗像氏隆が立っていた。
「氏隆?」
俺と視線が交差すると、氏隆の固く結ばれていた表情が一瞬でほぐれ、心底安堵したような笑みがこぼれた。
「お帰りなさいませ」
「うん。ただいま」
氏隆は静かな足取りで俺の近くへと歩み寄ってきた。
「高佐原での戦い、お疲れ様でした」
「ありがとう」
「お怪我は?」
「ないよ。ちょっと疲れたくらい」
「そうですか」
氏隆は胸に手を当て、ほっと溜息を漏らした。
「よかったです」
「氏隆も心配してたの?」
「はい」
「そっか」
自分を案じていてくれた存在がいることが無性に嬉しく思えた。
「氏隆は何してたの?」
「僕は城内の方々から戦況を聞いておりました」
「じゃあ、もう知ってるんだ」
「はい。惟弘様が敵を退けられたことも」
「俺だけじゃないよ」
「もちろん存じております」
「頼定もすごかったし、滋信たちもすごかった。元豊も元満も」
俺が誇らしげに仲間たちの名前を挙げると、元満が誇らしげに胸を張った。
「若君、ちゃんと分かってくださっていたんですね」
「当たり前だよ」
「嬉しいです!」
元満が無邪気に笑い、氏隆もそれを見て小さく微笑んだ。
「惟弘様らしいですね」
「そう?」
「はい」
「どういう意味?」
「ご自分のことより、皆様のことを先に話されるところです」
「……そうかな」
俺は少し首をかしげて考えてみた。
「でも、本当にそうだったから」
自分一人の力で掴み取った勝利などではないということを、俺は身をもって知っていたのだった。
「氏隆」
「はい」
「次は氏隆も一緒に何かしようよ」
氏隆は予想だにしなかった提案を受けたように、目を丸くして固まった。
「僕も、ですか?」
「うん」
「ですが……」
「だって、ずっと一人で待ってるのもつまらないでしょ?」
「……」
氏隆はしばらく返答に窮して黙っていたが、やがて嬉しさを隠しきれないように微笑んだ。
「はい」
「じゃあ決まり」
「惟弘様」
「うん?」
「僕も、少しでもお役に立てるようにいたします」
「無理はしなくていいよ」
「ですが」
「俺だって、昨日は怖かったんだから」
氏隆は目を丸くして俺を見つめた。
「惟弘様も?」
「うん。そりゃ怖いよ」
「……そうなのですね」
「氏隆だって怖いでしょ?」
「はい」
「じゃあ、一緒だね」
「……はい」
氏隆は少し照れくさそうに笑い、俺も自然と笑顔になった。
広間の中に和やかな空気が流れたが、それを引き締めるように正頼が静かに口を開いた。
「さて」
俺は正頼へと向き直る。
「高佐原で勝利を収めたことは、確かに喜ばしいことでございます」
「うん」
「しかしながら、これで戦が終わったわけではございません」
正頼の厳粛な声により、広間の空気は一瞬にして緊張感のあるものへと変化した。
「陶方が、この敗北をそのまま受け入れるとは考えにくいでしょう」
「……次が来る?」
「おそらくは」
俺は考えを巡らせた。
「じゃあ、三本松城も準備しないとね」
「はい」
「嘉年勝山城には頼定が残ってくれてる」
「その通りでございます」
「なら、俺たちもここでできることをやろう」
正頼は力強く頷いた。
「御意」
俺は目の前の机に広げられた絵図へと視線を落とした。
幾重にも重なる山々、張り巡らされた街道、点在する城郭、そして交差する河川。
敵はこの道を通過して攻め寄せてくるのではないか、この谷間であれば伏兵を潜ませることができるのではないか、この拠点を防衛するためにはどれほどの兵力が必要になるのかといった思考が自然と沸き起こってくるのだった。
「……やっぱり難しいね」
思わず呟いた俺の言葉に、正頼が温かい眼差しで微笑んだ。
「だからこそ、皆で考えるのでございます」
「うん」
俺も笑みを返した。
すべてを自分一人で完璧にこなす必要などないのだ。
分からないことは頼りになる家臣たちと共に知恵を絞ればいい。そう思えるようになっただけでも、初陣を経た俺の大きな成長だった。
その後も今後の防衛方針や兵糧の手配について具体的な軍議が重ねられた。
高佐原での勝利によって自軍の士気は最高潮に達しているものの、敵が次に取り得る攻勢の予測は困難を極めていた。
三本松城の防衛網をより堅固なものへと再構築すると同時に、嘉年勝山城を守る頼定との連絡線を確実に維持しなければならない。
やるべき課題は山積みであったが、以前のような暗い不安に苛まれることはなかった。
❖
軍議が終了した頃には、廊下から見える空は美しい茜色に染まっていた。
「今日はもう休もうか」
俺の言葉に、正頼が深々と頭を下げた。
「はい。御屋形様も、昨日の疲れがまだ残っておられるでしょう」
「うん。実はちょっと眠い」
「では、なおさらでございます」
俺が席を立ち上がろうとした時、氏隆が控えめな声で呼びかけてきた。
「惟弘様」
「うん?」
「明日も、お時間はございますか?」
「明日?」
「はい」
俺は明日の日程を頭の中で確認した。
「たぶん大丈夫だと思うけど」
「でしたら……少しお話をしたいです」
「もちろん」
「ありがとうございます」
「何の話?」
「それは……明日までに考えておきます」
「なんだそれ」
俺が楽しそうに笑うと、氏隆も嬉しそうに微笑んだ。
「では、また明日」
「うん。また明日」
大広間を辞し、静まった廊下を歩いていると、後ろから元満が元気な足取りでついてきた。
「若君」
「なに?」
「今日はちゃんと休んでくださいね」
「元満もね」
「私は大丈夫です」
「またそれ言ってる」
「本当に大丈夫です!」
「じゃあ、明日腕が痛いって言ったら笑うからね」
「ひどい!」
「冗談だよ」
「もう!」
元満の抗議の声が廊下に心地よく響き渡った。
前方を歩いていた元豊が呆れたように振り返る。
「お二人とも、もう少し静かにお願いいたします」
「元豊まで!」
「若様が悪いんです!」
「なんで俺なの?」
三人で賑やかに言い合いながら、俺は懐かしい自分の部屋へと戻っていった。
布団に潜り込むと、今日訪れた安らぎが身体を包み込んでいった。
昨日ほどの凄まじい疲弊感はなく、身体に重みはあるものの、頭の中は驚くほど澄み切っていた。
嘉年勝山城には頼定が残り、昨日共に死線を潜り抜けた兵士たちが城を守っている。
そしてここ三本松城にも、俺を支えてくれる多くの人々が存在している。
大内家再興という壮大な目標を掲げて立ち上がって以来、本当に多くの人々が俺の元へと集ってくれた。
最初は右も左も分からない存在であり、名前すら興童子という幼名に過ぎなかった。
それが今では、誰もが俺を吉見家の主として、大内家の正統な後継者として「御屋形様」と呼んでくれている。
その事実に、いまだにどこか気恥ずかしさと不思議な感覚が拭えないでいた。
「御屋形様、か……」
暗闇の中で小さく呟いてみる。
昨日まではその響きの重さに押し潰されそうになり、背筋を伸ばすことしかできなかった。
しかし、今日という一日を経て、俺の心境には確かな変化が訪れていた。
御屋形様だからって、全部を一人で背負わなくてもいいんだ。
頼定がおり、正頼がおり、元豊や元満、氏隆をはじめとする数多くの仲間たちが俺の周りには存在している。
俺は決して一人で戦っているわけじゃない。
「……よし」
明日になれば、また新たな課題や困難が山積みになっていることだろう。
だからこそ今夜は余計な思考を捨て、深く眠りにつくべきだった。
俺は静かにまぶたを閉じた。
しかし、意識が途切れかける間際、嘉年勝山城を発つ際に見た頼定の厳格な顔が頭に浮かんだ。
あいつは今頃、嘉年の城で何をしているのだろうか。
ちゃんと飯を食い、傷ついた体を休めているだろうか。
そんなことを考えているうちに、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
おっきー&氏隆:同い年&同じような境遇で非常に仲がいい
今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。