『西国の小覇者』~織田信奈の野望二次創作~   作:宇京

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第二十回:次の戦い

 翌朝。

 目を覚ました俺は、例の如くすぐには起き上がらずに天井の木目を所在なく眺めていた。

 嘉年勝山城の無骨な天井とは異なり、そこにあったのは幼い頃から見慣れた馴染み深い木目の天井だった。

 

 三本松城。

 

 激しい戦いを終えて、自分は無事にこの本拠地へと帰ってきたのだという実感が、静けさに包まれた室内の中でじわじわと身体の奥底まで染み渡っていった。

 

 俺はゆっくりと上半身を起こし、合戦で酷使した身体の具合を確かめるように両肩を左右に回してみた。肩の奥にはまだ重苦しい鈍い痛みがしつこく残っていたものの、腕を前後へ大きく動かしてみると、以前感じていた身動きすら取れないような強烈な疲労感に比べればずっと楽になっているのが分かった。

 

「うん。これなら大丈夫そう」

 

 小さくそう呟いて自分に言い聞かせると、俺は意を決して布団を押しのけ、手早く身支度を整えて部屋の外へと足を踏み出していた。

 

 一歩廊下へ出ると、早朝のひんやりと冷たい空気が頬を心地よく刺激し、眠気の残っていた頭をシャワーいらずといった具合にシャキッと引き締めてくれた。

 

 静まり返った廊下を歩いていくと、向かい側から歩いてきた兵士たちが俺の姿を視界に収めるやいなや、その場に立ち止まって深々と頭を下げてきた。

 

「御屋形様、おはようございます」

 

「おはよう」

 

 兵士たちに短く挨拶を返し、すれ違った後に俺はほんの少しだけ首を傾げて後ろを振り返ってみた。

 こうして城内の者たちから「御屋形様」と呼ばれるたびに、以前なら妙な気恥ずかしさを覚えていたものだった。

 けれど今は、不思議とそれほど居心地が悪くない。

 

 男子、三日会わざれば――ってやつかな?自分で言うのもなんだけど。

 

 そんなことを頭の片隅に思いながらも、そのまま静かな足取りで廊下を進み、城内のあちこちの様子を見て回ることにした。

 

 高佐原での戦から戻ってきたばかりということもあってか、早朝の早い時間帯であるにもかかわらず、城内の兵士や職人たちは忙しそうに動き回っていて、嘉年勝山城の殺伐とした光景と、どこかよく似た空気がそこには流れていた。

 

 ただ、こちらには高佐原の戦いで凄惨な傷を負った兵たちの姿はほとんど見当たらず、その点だけが決定的に異なっていた。

 

 それでも、一度起こってしまった戦の後始末という過酷な現実作業は、どこへ行こうとも同じように終わることなく続いていくのだと思い知らされた。

 

 俺はその場で足を止め、慌ただしく立ち働く者たちの姿をしばらくの間じっと眺めていた。

 

「若様」

 

 背後から静かで聞き馴染みのある声で呼びかけられ、俺が振り向くと、そこには整った身なりで元豊が立っていた。

 

「おはよう、元豊」

 

「おはようございます」

 

 元豊は俺の顔を正面からじっと見つめると、ほんの少しだけその細い目をさらに細めて表情を緩めた。

 

「昨日よりはお顔の色がよろしいようですね」

 

「そうかな?」

 

「はい」

 

 俺は自分の両頬を左右の手のひらで挟むように触ってみた。

 

「自分じゃ分からないな」

 

「それはそうでしょう」

 

「元豊は分かるの?」

 

「毎日見ておりますので」

 

「そっか」

 

 毎日のように自分を気遣い、観察してくれている元豊の言葉を聞いて、俺はなんだか少し照れくさくなってしまい、気まずさを隠すようにふいと視線を横へ逸らした。

 

「今日はどうするの?」

 

「午前中は軍議がございます」

 

「やっぱり?」

 

「はい。高佐原での戦いが終わったばかりとはいえ、次の備えを考えなければなりませんので」

 

「……次か」

 

 元豊の口から発せられたその言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥底に冷たい小さな緊張感が一気に走り抜けていった。

 

 次の戦い。

 

 高佐原での死闘が終わったばかりだというのに、休む間もなくもう次の合戦のことを考えなければならないのだ。

 

 以前まではそれが乱世における当たり前の道理なのだと頭の中だけでなんとなく理解していたつもりだったけれど、実際に刃を交え、人を斬り、命のやり取りを経験した今の俺には、その言葉が持つ本当の重みがズシリと皮膚感覚で理解できるようになっていた。

 

 一度戦が始まってしまえば、一つの合戦が終わってもまた次の戦いが当たり前のように始まっていく。ましてや、この戦の日々は俺が大内家を取り戻すその日まで続くのだ。

 一度敵を撃退して勝利を収めたからといって、そこで全てが平和に終わるわけではないのだ。

 

 俺は胸の中に溜まった重苦しい空気を追い出すように、小さく息を吐き出した。

 

「……頼定、大丈夫かな」

 

「嘉年勝山城のことでございますか?」

 

「うん」

 

「頼定殿ならば、しっかりと務めを果たしておられるでしょう」

 

「そうだよね」

 

「はい」

 

 元豊の淀みない返事には微かな迷いすら含まれておらず、実に堂々としたものだった。

 

 俺もその力強い言葉に引っ張られるようにして、深く頷いた。

 

「じゃあ、俺たちは俺たちの仕事をしないとね」

 

「その通りです、若様」

 

 俺は頼もしい元豊の姿に応えるように、少しだけ背筋をピッと伸ばした。

 

 

❖

 

 

 それと同じ頃。

 三本松城からいくらか離れた嘉年勝山城では、残された下瀬頼定が静かな足取りで城内を歩き回っていた。

 

 高佐原の激しい戦いが終結してからまだそれほど日が浅く、城の至る所には生々しい戦の痕跡が色濃く残されていた。

 

 職人たちの手元に積み上げられた修理を待つ壊れた具足。

 

 戦場で拾い集められた折れた矢の山。

 

 矢傷や槍傷を負って苦しそうに荒い息を吐く軍馬。

 

 そして、手当てを受けながらも未だ身体を動かすことすらままならない大勢の負傷兵たち。

 

 頼定はその一つひとつの惨状を己の目で厳しく確かめながら、静かに城内を歩を進めていたのだった。

 

「こちらの矢は?」

 

「確認したところ、使えるものが二百ほどです」

 

「少ないな」

 

「はい、高佐原で結構消費いたしました」

 

「新しいものを三本松へ使いを出して頼め。こちらへ回せるだけ回してもらえ」

 

「承知しました」

 

 報告を行った兵士が深々と頭を下げる。

 

 指示を出し終えた頼定は、そのまま足を止めることなく重厚な城壁の上へと向かって階段を上っていった。

 

 城壁の狭間から城外の広大な景色を見渡してみる。

 

 遠くに連なる山々はどこまでも静まり返っていた。

 

 澄み切った空には清々しい鳥の鳴き声が響き渡り、吹き抜ける秋風が木々の葉をカサカサと優しく揺らしている。

 

 つい数日前、まさにこの場所で大勢の人間が命を奪い合い、血を流していたことなど、まるで質の悪い嘘であったかのような穏やかな静寂がそこには広がっていた。

 

 だが、百戦錬磨の武将である頼定は高佐原の戦いで不覚を取って敗れ去った陶方の軍勢が、このまま何の対抗措置も取らずに大人しく引き下がるとは到底思えなかった。

 

「敵の動きは?」

 

 頼定は視線を遠くに置いたまま、隣に控えさせていた見張りの兵へ低く問いかけた。

 

「今のところ、大きな動きはございません」

 

「今のところ、か」

 

「はい」

 

 頼定は険しい眼差しで山道の奥深くへと視線を向けた。

 

「ならば、動くまで備えるだけだ」

 

「はっ」

 

 頼定の放つ威厳に満ちた言葉に、兵士は身を正して力強く頷いた。

 

 頼定はもう一度、眼下に広がる城外の風景にじっと目を走らせた。

 

 昨日、この嘉年勝山城の城門をくぐり、三本松城へと帰還していった幼き主君の背中を思い出す。

 

 ――惟弘様は無事に三本松城へと戻られた。

 

 それでいいのだと頼定は胸の中で深く納得していた。

 

 この前線の城に残る者には残る者としての明確な役割が存在している。

 

 そして同様に、全軍を束ねる総大将である御屋形様には、三本松城でしか果たせない重大な役目があるのだ。

 

 ならば自分は、この命に代えても嘉年勝山城を断固として死守してみせる。

 

 思考を極限まで削ぎ落とした頼定の心の中にあったのは、ただそれだけの揺るぎない覚悟だった。

 

 

❖

 

 

 刻限が訪れ、俺は軍議が開かれる大広間へと足を踏み入れた。

 

 室内にはすでに伯父の吉見正頼をはじめとして、重鎮と呼ばれる家臣たちが勢揃いして重々しい雰囲気を漂わせていた。

 

 俺が正面の上座へと向かって歩を進め、静かに腰を下ろすと、正頼が重厚な動作で深く一礼を捧げてきた。

 

「御屋形様」

 

「うん」

 

「まず、高佐原における戦いについて、改めて申し上げます」

 

 正頼の口から語られる内容は、昨日嘉年勝山城で聞いた戦果や被害報告と重複する部分も非常に多かった。

 

 けれど、今日ここで耳にする報告は、昨日聞いた時とは自分の心構えが決定的に違っていた。

 

 昨日はただ己が初めて経験した壮絶な戦いを振り返り、反省するために必死で聞き入っていた。

 

 だが今日は、これから訪れるであろう未来の戦いにどう備えるかを真剣に模索するために聞いているのだ。

 

「高佐原での勝利によって、陶方に対して我らが容易には崩れぬことを示すことができました」

 

「うん」

 

「しかし、敵もこのまま退くとは考えにくいでしょう」

 

「……やっぱり?」

 

「はい」

 

 正頼はそう言うと、手元にあった大きな軍事用の絵図を床の上に滑らかに広げて見せた。

 

 そこには険しい山々や入り組んだ街道、点在する要衝の城郭が詳細に描き込まれていた。

 

 吉見家が支配する領地の全貌と、そのすぐ目と鼻の先に迫る陶方の巨大な勢力図。

 

 絵図を見つめて考え込んでいた俺の様子に気づき、正頼が静かにこちらへ視線を向けてきた。

 

「何かお気づきになりましたか?」

 

「うん」

 

 俺はひざまずき、絵図の上の特定の一点を指先で丁寧になぞってみせた。

 

「ここ」

 

「はい」

 

「もし敵がここを通るなら、こっちの城が危なくなるよね?」

 

「その可能性はございます」

 

「じゃあ、兵を増やしたほうがいい?」

 

「増やせれば、それに越したことはございません」

 

「でも、そもそも兵がそんなに多くないから兵を回すには慎重にしないとね」

 

「左様です」

 

 あちらを立てればこちらが立つという防衛の難しい局面にぶつかり、俺は腕を組んで唸り声を上げた。

 

「……難しい」

 

「はい」

 

 正頼は厳めしい表情を崩し、どこか誇らしげに穏やかな笑みを浮かべた。

 

「だからこそ、皆で考えるのでございます」

 

「うん」

 

 その伯父の温かい言葉に、俺は素直な心地で大きく頷いた。

 

 ――皆で考える。

 

 そのフレーズ自体は、吉見家に逃げてきてからこれまで何度も耳にしてきた聞き慣れた言葉だった。

 

 けれど、高佐原の激戦を自らの身体で経験した今となっては、その言葉が内包する真の意味がまるで違って聞こえた。

 

 実際の戦場においては、俺たった一人が頭を抱えて何かを考えている余裕など微塵も存在しなかったのだ。

 

 目の前には生々しい殺気を放つ敵が迫り、隣には命を預け合う仲間がおり、後ろには俺の指示を信じて待つ兵士たちが控えていた。

 

 頼定という圧倒的な武将の存在がなければ、俺は初陣で命を落としていたかもしれない。

 

 波多野滋信たちが迅速に動いてくれなければ、あの局面で勝利を掴み取ることは到底不可能だった。

 

 元豊や元満がすぐ側で俺を支え続けてくれなければ、俺は恐怖と疲労で早々に心を折られて動けなくなっていたはずだ。

 

「やっぱり人に任せる、っていうのは大事だね、伯父上」

 

「むしろ、御屋形様がすべてを一人で抱え込まれるほうが危ういかと」

 

「……やっぱり?」

 

「はい」

 

 正頼のあまりにも即答で迷いのない返答があまりに潔かったので、俺は拍子抜けして苦笑いを浮かべた。

 

「伯父上、そういうところあるよね」

 

「何のことでございましょう?」

 

「俺が無茶しそうな時だけ、すごくはっきり言う」

 

「御屋形様が無茶をされるからでございます」

 

「……ごめん」

 

 伯父と甥の気置けないやり取りを見て、静まり返っていた広間のあちこちからクスクスと和やかな笑い声が漏れ聞こえてきた。

 

 俺も恥ずかしさを隠すように一緒に笑った。

 

 張り詰めていた軍議の重苦しい空気が、一瞬にして柔らかく解けていくのが分かった。

 

 

❖

 

 

 軍議が滞りなく終了し、昼を少し過ぎた頃。

 

 俺は気分転換と身体の慣らしを兼ねて、城内の一角にある稽古場へと足を運んでいた。

 

 手には自前の弓を携えていた。

 

 高佐原の戦場では、接近戦を強いられたこともあって刀を振るう場面があまりに多かった。

 

 けれど、俺が幼少期から身体に叩き込み、最も得意としている武器は紛れもなくこの弓だったのだ。

 

 ピンと張られた弦に素早く矢を番える。

 

 肩の力を抜き、深く大きな息を吐き出す。

 

 前方遠くに設置された的に鋭い視線を集める。

 

 そして、指先から弦を離して解き放つ。

 

 シュッと空気を切り裂く音とともに飛んでいった矢は、的の中心から少しだけ左上へと外れた場所に突き刺さった。

 

「……惜しい」

 

 気を取り直して、すぐさま二本目の矢を番えて放つ。

 

 今度は的の中心よりも少しだけ下へ逸れてしまった。

 

「うーん」

 

 思わず首をかしげて腕組みをしていると、背後の木々の隙間から控えめな声がかけられた。

 

「惟弘様」

 

「氏隆?」

 

 振り返ると、そこにはいつの間にか宗像氏隆が佇んでいた。

 

「何してるの?」

 

「弓の稽古をされているのですか?」

 

「うん」

 

「高佐原の後なのに?」

 

「だからだよ」

 

「どうしてです?」

 

「うーん……もっと上手くできたらよかったって思ったからかな」

 

 氏隆は俺の言葉を吟味するように、しばらくの間黙り込んで思案に暮れていた。

 

「……惟弘様は、強くなりたいのですね」

 

「うん」

 

 俺は手に持った弓の美しいしなりをじっと見つめた。

 

「でも、強くなるって何なんだろうな」

 

「……」

 

「強くなるってことを考えるといろんな意味があって、考えすぎちゃってわからなくなっちゃう」

 

 敵を倒せることだと思ってた時もあったけど――と言いながら俺は矢筒から新しい矢を一本抜き取り、手に取ってその重みを確かめた。

 

「でも、違った」

 

「頼定は、俺よりずっと強い。でも、あいつは敵を倒すだけじゃなくて、みんなを生きて帰すことを考えてた」

 

「はい」

 

「あれも多分俺の目指す強さの一つなのかな…って」

 

 氏隆は俺の真摯な言葉に耳を傾け、静かに頷いた。

 

「僕にも、何かできるでしょうか」

 

「もちろん」

 

「何を?」

 

「それは……」

 

 唐突な問いかけに、俺は弓を持ったまま少しだけ腕を組んで考え込んだ。

 

「一緒に考えよう」

 

「一緒に?」

 

「うん」

 

 氏隆は予期せぬ提案を受けたかのように、目を丸くして驚いた表情を浮かべた。

 

「俺だって分からないことがいっぱいあるから」

 

「……はい」

 

「だから、氏隆も一緒に考えてくれると助かる」

 

「分かりました」

 

 氏隆の固かった表情が一気に和らぎ、心底嬉しそうに穏やかな微笑みをたたえた。

 

「では、僕も考えます」

 

「うん」

 

 俺も氏隆の笑顔につられて自然と笑みを返していた。

 

 昨日の自分とは、ほんの少しだけ違っているという感覚があった。

 

 昨日はただ不安を共有するために「一緒だね」と声をかけたのだった。

 

 けれど今日は、その先にある具体的な一歩を踏み出せたような気がしていた。

 

 二人で一緒にこれからのことを考える。

 

 同じ目標に向かって共に悩み、知恵を絞る。

 

 ただそれだけのプロセスであっても、これからの俺たちにとって間違いなく大きな意味を持つはずだった。

 

 

❖

 

 

 日が傾き始めた夕刻の刻限。

 嘉年勝山城に詰めていた頼定のもとへ、一人の伝令兵が猛烈な勢いで駆け込んできた。

 

「申し上げます!」

 

「何だ」

 

 頼定は手元の武具の手入れの手を止めず、低い声で短く問うた。

 

「東の山道を見張っていた者から報告がございます」

 

「敵か?」

 

 伝令の兵は膝をついたまま、荒くなった息を必死に整えようとしていた。

 

「渡川城に引き退いた大内軍の動きが活発化しており、他からも兵を集めている様子です」

 

 その一言を聞いた瞬間、頼定の鋭い眼光が一変し、場の空気が緊張感で張り詰めた。

 

「数は?」

 

「まだ分かりません」

 

「そうか」

 

 頼定は床に置いていた大弓を掴むと、重厚な動作でその場に立ち上がった。

 

「見張りを増やせ」

 

「はっ」

 

「街道だけを見るな。山道も見ろ」

 

「承知しました」

 

「それから、兵糧の確認を急げ。矢もだ」

 

「はい!」

 

 指示を受けた兵士が弾かれたように部屋を飛び出し、走り去っていった。

 

 頼定はその疾走していく背中を静かに見送りながら、深く重い息を吐き出した。

 

 予想していた通り、敵は動き出したのだ。

 

 頼定は、高佐原で敗れた陶方の軍勢が、このまま何の対抗措置も取らずに引き下がるとは考えていなかった。

 あれほどの軍勢を動かしてきた以上、今回の敗北を受けて、次は必ず別の手を打ってくる。

 むしろ今回の敗北を踏まえ、次はより慎重で手堅い手を使ってくる可能性が高い。

 

 そう考えながら、頼定は重い足取りで木造の階段を上り、城壁の最上部へと姿を現した。

 

 狭間から遠くにそびえる薄暗い山々を鋭い眼光で見渡してみる。

 

 視界の限りでは、まだ敵影らしきものは一切確認できなかったが、頼定には、まだ姿の見えない敵の気配が、山々の向こうから少しずつ近づいているように感じられた

 

「……御屋形様」

 

 風の音に掻き消されるほどの小さな呟きが、頼定の口から漏れた。

 

 今頃、本拠地である三本松城において、幼き主君は何をしておられるのだろうか。

 

 本来の主君である正頼殿と共に、深刻な顔で軍議に臨んでおられるのだろうか。

 

 それとも、大将としての教養や武芸を身につけるために、たゆまぬ努力を重ねておられるのだろうか。

 

 頼定は誰も見ていないことを確かめると、ほんの少しだけ厳格な口元を緩めて笑みを作った。

 

 何も心配する必要などないのだと自分に言い聞かせる。

 

 三本松城には、智謀に長けた殿が控えている。

 

 側近として忠義を尽くす元豊や元満も常に側に寄り添っている。

 

 そして若き志を持つ宗像氏隆もいる。

 

 何よりも、御屋形様ご自身が初陣の経験を糧にして、一日ごとに確かな一歩を前へと踏み出しておられるのだから。

 

 だからこそ、この前線を託された自分もまた、ここで全力を尽くして己の果たすべき役目を全うしなければならなかった。

 

「来るなら来い」

 

 頼定は夕闇に包まれつつある山々に向かって、静かに、しかし固い意志を込めて呟いた。

 

「この城は、そう簡単には渡さん」

 

 頼定のその力強い背中は、まるで城そのものを支える巨大な柱のように頼もしく佇んでいた。

 

 

❖

 

 

 その日の夜。

 三本松城の敷地内は、昼間の慌ただしさとはまた種類を異にする独特の活気と緊張感に包まれていた。

 廊下をゆっくりと歩み進めていくと、篝火の仄暗い光の中で夜番へと向かう兵士たちと次々にとすれ違う。

 

 さらに倉の立つ方角からは、重い資材や武具を運び出していると思われる木箱の擦れる音や力強い足音が休むことなく響いてきていた。昼間に行われた軍議の場で一つひとつ取り決められた決定事項が、こうして誰の手によっても滞ることなく着々と具現化されているのだという事実に深く納得させられた。

 

 俺はその場で足を止め、廊下の端に身を寄せるようにして、夜の闇の中で忙しなく動き回る人々の姿を静かに眺めていた。

 

「御屋形様?」

 

 近くを通りかかった一人の兵士が、暗がりの中に佇む俺の姿に気づいてハッと息を呑み、その場に足を止めた。

 

「お疲れ。それ何してるの?」

 

「矢を運んでおります。明日の朝までに、各所へ配るよう頼まれておりまして」

 

「そっか」

 

 俺は兵士たちが慎重な手つきで運んでいく、びっしりと束ねられた大量の矢へと視線を向けた。

 

 昼間に開かれた軍議の席上で、次の戦闘に備えて矢の残数が不足する恐れのある拠点を指摘する声が上がっていた。だからこそ、皆はこうして夜を徹して明朝までに必要な資材を届けるべく準備を進めているのだろう。

 

 言葉にすればごく当たり前の業務の一環なのかもしれないけれど、俺の与り知らぬところであっても、人々は自分の仕事を全うするために着実に動いているのだという事実は深く心に刺さったのだった。

 

「大変だね」

 

「いえ。これくらいは当然のことでございます」

 

「……ありがとう」

 

「はっ」

 

 兵士は恭しく一礼を捧げると、待たせていた仲間たちの元へと速やかに戻り、再び重い矢の束を抱えて暗がりの中へと消えていった。

 

 頼もしく去っていくその背中を、俺はじっと見送っていた。

 

 ほんの少し前の俺であったなら、このような光景を目にした時に「自分も一緒に手伝わなければ」と強い焦燥感を覚えていたに違いなかった。自分も何かしらの役に立たなければならない、大将である自分が自ら動かなければ示しがつかないと思い込み、皆が分担して行っている仕事まで力不足な自分が無理に抱え込もうとしていたはずだった。

 

 けれど、初陣を経て仲間たちの支えを実感した今の俺は、当時とは明確に考え方が異なっていたのだった。俺が何もかも一人で背負い込む必要などどこにも存在しない。

 

 この城にいる誰もが自分自身の果たすべき役目を理解しており、そしてその任を完璧にやり遂げてくれているのだ。昼間の軍議で伯父上が諭すように語っていた言葉の真意が、目の前の光景を通してようやく肚に落ちたような感覚があった。

 

「御屋形様」

 

 不意に背後から別の声で呼びかけられ、俺が振り向くと、そこには夜間の巡回を務める夜番の兵士が立っていた。

 

「ここは我らにお任せを、夜風は体に悪うございます。お部屋へお戻りください」

 

「うん。分かった」

 

 俺は余計な意地を張ることもなく、素直な頷きを返した。

 

 かつての俺ならば、大将としての責任感から「もう少しだけ城内の様子を見て回るよ」などと言って意地を張っていたかもしれない。けれど今の俺は、忠言をしてくれた兵士の言葉に素直に従うことができたのだった。

 

「じゃあ、あとは頼むね」

 

「はっ!」

 

 兵士は胸を張るようにして力強く言葉を返してくれた。

 

 俺は頼もしさに小さく笑みを浮かべ、その場を静かに辞することにした。

 

 静まり返った廊下を自分の部屋に向かって歩きながら、俺はふと立ち止まり、廊下から外の暗闇へ視線を向けた。

 

 遠くに見える山々は夜の闇に塗り潰され、黒々とした巨大な影となって連なっていた。その険しい山並みの遥か向こう側には、昨日の昼間に立ち去った嘉年勝山城が存在しているはずだった。

 

 今この瞬間も、頼定をはじめとする残留した兵士たちが、冷たい夜風の中で固い警備の陣を敷いているのだろう。

 

 ――みんな頑張っている

 

 だからこそ今は、それぞれの置かれた場所で互いを信頼し、自らのやるべきことに全力を注げばそれで十分なのだと理解できていた。俺は未練を断ち切るように窓から視線を外した。

 

 俺は己の身体を休めるため、今度こそ迷いなく自分の部屋に向かって歩みを進めていった。

 

 背後からは、ちょうど刻限を迎えた夜番の兵士たちが規律正しく声を掛け合い、交代していく足音が響いていた。

 

 三本松城は夜になっても眠らない。矢を運ぶ者がいて、夜の城を守る者がいる。遠く離れた嘉年勝山城にも、頼定たちがいる。

 

 そして俺には、俺にしかできないことがある。

 

 俺はもう振り返らず、自分の部屋へ向かって歩き出した。




良い感じのあとがきが思いつきませんでした。

書き溜めがついに尽きました。大学の夏休みも終わったので次回投稿は未確定ですが今月中には再開できるよう頑張ります。
また、既にアナウンスを行っておりますが9月11日から第一回から現行最新話までの改訂作業を執筆と並行して行っております。大まかな内容は変えるつもりは今のところありませんが、もしかしたら内容が変更してしまうかもしれません。ご了承ください。

追記:インフルエンザ感染症に罹患し一時改訂作業がストップしてしまいました。十月末の投稿再開を目処に作業を進めていきます。
誠に申し訳ありません、今しばらくお待ちください

もし良ければしおりやお気に入りに登録していただき待っていただけると嬉しいです。
評価もいただければ作者は狂喜乱舞します。

今宵はここまでにいたしとうございまする。
読んでいただきありがとうございました。
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