文字は読めない。意味も分からない。それでも、厨房の妖精ミルと、庭師の妖精レンと交わす他愛のない愚痴や、拙い絵を、その白い頁に書き記す時間だけが、彼女にとって何より大切な贅沢だった。
紅魔館という理不尽な檻の中で、妖精の命は羽箒よりも軽い。
パチュリー、レミリア、咲夜、魔理沙の圧倒的な力を持つ主たちの気まぐれ一つで、日常はいつも呆気なく覆される。
それでも、生垣の陰にだけは、彼女たちだけの小さな楽園があった。
今回投稿する作品は、私にとって初めて挑戦する、単話2万文字規模の中編となります。これまでの投稿とは異なり、一つの物語を通して、腰を据えてじっくりと書き込むことを意識しました。
また、今作では技術的な挑戦もいくつか行っています。場面ごとに文体そのものを変化させる――例えば、日常の穏やかな場面と、暴力的な場面とで、あえて文章のリズムや語彙の選び方を切り替えるといった実験を試みました。読んでいて「あれ、雰囲気が変わったな」と感じる箇所があれば、それは狙って行っているものです。上手くいっているかは、正直なところ自分でも判断がつきかねる部分もあるのですが、一つの挑戦として見守っていただけますと幸いです。
東方Projectという広大な世界観の片隅で、名もなきモブに光を当てる――そんな試みですが、楽しんでいただけましたら幸いです。
光の死んだ大図書館の底において、言葉というものは、ことごとく死骸に似ていた。
天井の遥か高きに穿たれた細き高窓から、一本の淡い白光が差し込んでいる。それは光というよりも、暗黒の巨塊に突き立てられた細い針のようであった。その光の細道の中で、無数の埃の微粒子が、まるで誰の耳にも届かぬ葬送曲に合わせて踊るかのように、緩やかに、執拗に輪を描いて舞い落ちていた。
私は、鼻の頭からずり落ちそうになる大きな丸メガネを、インクの染みた指先できゅっと押し上げる。その歪んだ硝子のレンズ越しに見る世界は、常に実体よりも少しだけ歪み、引き伸ばされ、そして不自然な静止を保っていた。この硝子の膜こそが、私の脆弱な精神を、この館に満ち満ちる圧倒的な狂気から守る唯一の防壁であることを、私は本能的に知っている。
私の仕事は、この静まり返った文字の墓場を、羽箒で優しくなぞって歩くことだ。
棚に並ぶのは、山羊の皮で装丁された重厚な魔導書や、遠い昔に書かれた異国の羊皮紙。それらの背表紙に金泥や銀箔で刻まれた幾何学的な記号を、私は読むことができない。私にとって文字とは、意味を持った伝達の道具ではなく、ただ美しい、あるいは禍々しい「模様」の羅列に過ぎなかった。
文字の読める者たちは、本を開いてそこに宿る知識や思想を貪るのだろう。しかし私は違った。意味を知らぬからこそ、私はその紙の手触り、綴じ糸の厳かさ、そしてインクの染みに、冷たい蜜を吸うような心地で密かに惹かれていたのだ。文字が読めないという欠落は、私にとって恥ではなく、むしろうるさい世界の雑音を遮断するための至高の贅沢であった。私は、世界で最も無価値な方法で、世界で最も価値ある本を愛していた。
大図書館を支配するのは、古い紙が放つ特有のカビの匂いと、微かなバニラに似た甘い腐臭。そして、主であるパチュリー様の、胸の奥から搾り出されるような、掠れた肺の音だけ。ここには、外の世界を流れるような、生きた時間は存在しないかのように思われた。
だが、その張り詰めた静寂の底には、常にじっとりとした「鉄の匂い」が沈殿している。
私の履く小さな給仕靴が、大理石の床を叩く。その硬質な音が、広い書架の闇の奥へと吸い込まれて消えるたび、私は自分の背中に、実体のない視線を感じる。いくら拭っても消えない、本棚の脚の隅の黒ずんだ染み。それは、昨日まで一緒に並んで埃を払っていたはずの、しかし今はもうどこにもいない、別の名前を持たぬ妖精の、最後の痕跡だったかもしれない。
私たちは妖精だ。自然の気まぐれから生まれ、主たちの気まぐれによって消費される、いくらでも代わりのきく端切れのような命。今日私がここで押し潰されて肉塊になろうとも、明日にはまた、同じように丸メガネをかけた「私のような誰か」が、何事もなかったかのようにこの羽箒を握るのだろう。
私の内面にあるのは、絶望すら通り越した、ひどく平坦な諦念だった。私たちは死ぬ。それは知っている。痛みも恐怖も、この皮膚はしっかりと記憶している。けれど、それを恐れていては、次の瞬間に吸い込む空気さえ恐怖の毒液に変わってしまう。だからこそ、私は丸メガネの奥の瞳を、あえて酷く冷徹に、曇らせたままにしておくのだ。壁の血痕をただの「汚れ」として見過ごさねば、この檻の中で、正気を保って息を吸い続けることなどできない。
しかし、そんな私にも、たった一つだけ、世界の規律を裏切るような「執着」があった。
私は羽箒の手を止め、誰も見向きもしない最奥の書棚、その最も暗い隙間にそっと手を伸ばした。パチュリー様も小悪魔様も、その存在すら忘れているであろう、一冊の、贅沢な革装丁の本。まだ何一つ汚れのない、白紙の頁だけを閉じ込めたその本を、私はエプロンの下にそっと忍ばせる。
意味のない模様に囲まれた世界の中で、この完全な「空白」だけが、私の呼吸を許してくれる聖域のように思えた。
冷たい大理石の床を這うようにして、私は大図書館の勝手口から、光のあふれる庭の生垣の影へと、足早に歩みを進めた。重い鉄の扉を押し開けた瞬間、鼻腔を突いたのは、死んだ紙の匂いではなく、生命の瑞々しい青臭さだった。
そこには、私がこの館で唯一、生きた人間としての時間を分け合える「彼女たち」が、いつものように不満顔で待っているはずだった。
生垣の影は、紅魔館という巨大な怪物が唯一、その牙を収める狭小な隙間であった。
大図書館の重い鉄扉を背にして、私は陽だまりの匂いが淡く漂う生垣の奥へと身体を滑り込ませる。低い天生垣が作り出す濃い日陰には、すでに二人の先客が、ドレスの裾を泥で汚したまま、地べたにだらしなく腰を下ろしていた。
一人は、厨房の雑務を担うミル。彼女の赤毛はいつも大釜の煙で燻され、栗鼠のようにせわしなく動く丸い瞳が特徴的だった。小さな身体に不釣り合いなほど大きなエプロンをつけ、そのポケットにはいつも何かしらの「戦利品」が詰め込まれている。
もう一人は、広大な庭園の剪定や清掃を押し付けられているレン彼女はひょろりと背が高く、眠たげな切れ長の目をしていた。いつも片方の靴下のゴムが緩んで足首までずり落ちており、それを直すことすら億劫そうにする、怠惰を絵に描いたような妖精だった。
「――ああ、もう、本当に死ぬかと思った」
私が近づく足音に気づくと、ミルがまるで骨のない人形のように、ふにゃりと地面に上半身を折り曲げた。
「聞いてよ、メガネ。今日の『お寝坊吸血鬼』の癇癪ったらなかったんだから。お目覚めの薔薇の紅茶がほんの僅か、ほんの一滴温かっただけで、ティーカップごと給仕の妖精に投げつけたのよ。その後の弾幕の余波で私のエプロン、焦げちゃったじゃない。あのアホ毛、いつか全部毟って大釜の薪にしてやるわ」
「贅沢を言うな、ミル」
レンが、庭の草を一本気だるそうに引き抜きながら、冷ややかな声を添えた。
「お前はまだ、頭の上から陶器が降ってくるだけで済んでいる。私のほうなんて、今日の午前中だけで三回は『時計仕掛けの殺人鬼』の投げナイフの軌道上に立たされた。あの完全無欠ぶったメイド長、庭木の剪定の角度がミリ単位で気に入らないからって、私の耳のすぐ横に銀ナイフを突き刺していくのよ。あの女の心臓、絶対にぜんまいで動いてる。油を差さないといつか狂って、自分の首でも跳ね飛ばすんじゃないかしら」
彼女たちの口から飛び出す、主たちへの酷い「あだ名」。それは、私たちが持てる唯一の、そして最も安全な銃弾だった。絶対的な力に対して、私たちは決して刃を向けることはできない。けれど、こうして生垣の陰に隠れ、彼女たちの尊称を剥ぎ取り、皮肉と嫌味の泥にまみれさせることで、私たちは辛うじて「自分」という存在の、剥製のような尊厳を保っていたのだ。
「それで、そっちの『もやし魔女』はどうだったの、メガネ」
レンが眠たげな目を少しだけ開けて、私を見上げた。
「相変わらずよ」
私は丸メガネを指で押し上げ、エプロンの下に隠していた「白紙の本」を膝の上に置いた。
「本棚の影で、ずっと肺の病気を飼っているような、いつもの酷い咳。でも、今日は少しだけ機嫌が悪かったみたい。小悪魔様が魔導書の整理を間違えたとかで、書庫の奥の空間をひとつ、丸ごと消滅させていたわ」
「うわ、最悪。あそこの主従、揃って陰気だから嫌い。……あ、そういえば聞いた? 博麗神社のあいつ」
ミルが思い出したように顔をしかめ、声を潜めた。
「あの『癇癪赤』、またお賽銭が足りないとかで機嫌が悪くてさ。昨日、暇つぶしに来たかどうか知らないけど、門のところで警備の妖精を理由もなく陰陽玉で殴り飛ばしていったらしいわよ。お祓い棒で頭を叩かれなかっただけマシだけど、あの紅白、巫女のくせに神様より凶暴だわ」
「関わらないのが一番ね。あの泥棒も同じだけど」
レンが心底うんざりしたように吐き捨てる。
「あの『白黒ドブネズミ』、今週だけでもう二回は大図書館の屋根を壊して侵入してるでしょう。あの泥棒が派手に暴れるたびに、パチュリー様の防衛魔法が発動して、私たち庭掃除の妖精が巻き添えで消し飛ぶのよ。あの帽子の中に爆薬でも詰めて爆発してくれないかしら」
ミルが顔をしかめ、それから思い出したようにエプロンの膨らんだポケットに手を突っ込んだ。
「さあ、今日のぶつぶつ交換をはじめましょう。命を繋ぐための、ささやかな泥棒の時間よ」
ミルが誇らしげに差し出したのは、油紙に包まれた、まだ微かに温かい「スコーンの切れ端」だった。
「厨房のチーフが、お嬢様のティースタンドに乗せるために、形を綺麗に整えた残りの端っこ。甘い蜂蜜の香りがするわ。それと、これは紅茶の茶葉を保管する缶の底に溜まっていた、高級なダージリンの粉」
「私からはこれね」
レンが、庭仕事の汚れがついた手首から、細い麻紐で編まれた小さな輪を取り出した。
「裏庭の生垣の奥、主たちの目が届かない場所にだけ咲く、とても強い香りのする青い野生種のハーブを乾燥させて編んだの。枕元に置いておくと、夜中にあの銀ナイフが飛んでくる悪夢を見ずに済むわ」
私たちは、それぞれが監獄のような館の職場でくすねてきた「宝物」を、まるで国家間の密貿易でも行うかのように厳かに交換し合う。主たちにとってはゴミ同然の、あるいは気づきもしない端切れ。それが、私たちにとっては、今日を生き延びたという何よりの報酬であり、絆の証だった。
「私は、これを持ってきたの」
私が差し出したのは、まだ何一つ文字の書かれていない、純白の頁を蓄えた革装丁の本だった。
「わあ……綺麗。メガネ、またあの引きこもり魔女の部屋から上質な本をくすねてきたのね」
ミルが目を輝かせて、スコーンを齧りながら本の表紙を撫でた。
「でも、これ、何に使うの? 私たちは文字なんてまともに書けないし、メガネに至っては一文字も読めないじゃない」
レンの至極まっとうな指摘に、私は少しだけ口を尖らせた。
「文字は読めないけれど、この紙の手触りが好きなの。何も書かれていない白さは、あの暗い図書館の中で、一番安心するから」
すると、ミルが何かを閃いたように、人差し指を立てた。
「ねえ、じゃあさ、これを私たちの『日記』にしない?」
「日記?」
私とレンが声を揃えて首を傾げる。
「そう、日記。ほら、私たちって、いつ『お寝坊さん』の気まぐれや『白黒ドブネズミ』の襲撃で、あっけなく消し飛ばされるか分からないじゃない?蘇るとは言っても、あの痛みの記憶のせいで、いつか頭がおかしくなって、楽しかったサボりの時間まで忘れちゃうかもしれない。だから、ここに書いて残しておくのよ。私たちが確かにここで、主たちの悪口を言って笑い合っていたって証拠をさ」
「文字が書けないのにか?」
レンが呆れたように言うと、ミルは厨房からくすねてきた、炭を尖らせた即席の筆記具を差し出した。
「私とレンは、知っている少しの文字で、その日の愚痴や美味しかったものの名前を書くわ。メガネは文字が読めないんだから、今日あった楽しかったことを『絵』にして描きなよ。それから、私たちが書いた文字の形を、綺麗な模様だと思って真似して横に書き写すの。それならできるでしょ?」
丸メガネの奥で、私の瞳が小さく揺れた。
文字を読むことはできない。意味を理解することもできない。けれど、彼女たちが紡ぐ歪な文字という「模様」を、この白い聖域に書き写し、私たちの時間を閉じ込めることができるのなら――それは、文字の読めない私にとって、世界で最も甘美な、文字との付き合い方になるような気がした。
「いいわね。それ、やりましょう」
私は炭の筆を受け取り、白紙の最初のページを開いた。生垣の隙間から差し込む木漏れ日が、私たちの小さな頭上を、まるで本物の楽園のように優しく照らし出していた。
生垣の影から大図書館へと戻ると、そこには先ほどまでの陽だまりの温かさなど微塵もない、冷え切った紙と魔力の静寂が待っていた。
私はエプロンの奥に、ミルとレンの歪な文字と私の拙い絵が刻まれた「日記」をしっかりと忍ばせ、何事もなかったかのように羽箒を握り直す。丸メガネの位置を正すと、硝子の向こう側の世界は、再び冷酷な規律を取り戻した。
大図書館の空気は、ただ静かなのではない。主であるパチュリー・ノーレッジ様の絶大な魔力が、澱みのように空間の隅々にまで満ちて、私たちの皮膚を常に薄氷で撫でるように威圧しているのだ。
「――そこ、足元が疎かよ。第七書架の三段目、精霊魔術の写本に埃が積もっているわ。魔導書が窒息してへそを曲げたら、あなたたちの命などでは到底贖えないのだけれど」
背後から、低く、しかし頭蓋の奥に直接響くような声が降ってきた。
振り返ると、そこには大きな紫の帽子を被り、豪奢なネグリジェのような法衣を纏ったパチュリー様が、宙に浮かせた数冊の分厚い本に囲まれて立っていた。その陶器のように白い肌は日光を知らず、心なしか病的に透き通っている。
「申し訳ありません、パチュリー様。すぐに」
私は深く頭を垂れる。私たちメイド妖精は、彼女の視界においては床を這う虫芥と変わらない。逆らうという発想すら湧かないほどの、圧倒的な格の差。
パチュリー様は私を一瞥することすらなく、小さく、しかし酷く湿った咳を一つ落とした。その細い胸が痛々しく上下するたび、周囲の魔導書が共鳴するようにカタカタと震える。彼女がその気になれば、呪文を一つ呟くだけで、私という存在の構成元素をすべて分解し、インクの染みに変えることなど造作もないのだ。
「パチュリー様、そちらの写本は私が引き取ります。おい、そこのメガネ、あなたたちは早くあっちの『未分類』の棚を片付けなさい。文字が読めないのだから、背表紙の色だけでいいから揃えて頂戴」
パチュリー様の影から慌てて飛び出してきたのは、大きな翼を持った司書、小悪魔様だった。
彼女は主の前では従順な羊のようだが、私たち妖精に対しては、館の規律を維持するための厳格な「監視官」となる。その手には何十冊もの羊皮紙の束が抱えられており、寝不足なのか、その鋭い瞳の隈は酷く濃かった。
「小悪魔。その本を片付けたら、地下の第三実験室の結界を補強しておきなさい。……近頃、あの泥棒の動きが不穏だわ。また私の魔導書を齧り取ろうと、姑息な準備をしている気配がする」
「はい、パチュリー様。すぐに防衛陣を再構築いたします」
主従の会話は淡々としており、そこには戦いを楽しむような軽薄さは一切ない。彼女たちにとって、博麗神社の巫女や泥棒魔法使いとの抗争は、優雅なチェスなどではなく、館の静謐を脅かす「不快な害獣駆除」に過ぎないのだ。
小悪魔様に急かされ、私は大図書館のさらに奥、陽の光が絶対に届かない暗がりの書架へと歩を進める。
周囲の棚には、開くだけで持ち主の正気を奪うような、禍々しい紫の霧を放つ本が平然と並んでいる。私たちの多くは文字が読めない。それは主たちからすれば「知識を盗まれる心配のない便利な消耗品」だが、同時に、どの本がどんな危険な呪いを持っているかを理解できないという、致命的な恐怖でもあった。
実際、先週も私のすぐ隣で棚を拭いていた妖精が、ほんの少し手元を狂わせ、重厚な魔導書の一冊を棚の奥へとやや雑に押し込んでしまったことがあった。
その瞬間、書架の隙間から、細く、しかし視界を爆白で染めるほどの苛烈な紫の電弧が迸った。
「あ、」という短い悲鳴すら、立ち上がった高電圧の轟音にかき消される。
防衛魔術の雷撃は、彼女の小さな身体を容赦なく貫き、大理石の床へと叩きつけた。肉の焼ける悍ましい臭いと、パチパチと衣服が燻ぶる嫌な音が静寂を支配する。一瞬前まで生きていた同僚は、ピクリとも動かない物言わぬ炭化組織へと変わり果てていた。
その場に居合わせた小悪魔様は、散らばった羊皮紙を拾い上げながら、眉一つ動かさずに冷淡な声を落としただけだった。
「ああら、また一匹欠けたわね。メガネ、そこ、汚いままだから早く片付けて頂戴。それから湧くまでの間、新しいのを厨房から一人回すように伝えて」
死はどこまでも軽く、処理すべき「業務の滞り」として片付けられる。文字の読めない私は、いつ発動するか分からない地雷原のような書架を、毎日羽箒一つで歩いているのだ。
エプロンの下の日記が、私の太腿に微かな重みを与えている。
この冷徹な、いつ誰が消えても誰も泣かない書架の中で、あの生垣の影で交わしたミルとレンの笑い声だけが、私の頭の中でかすかな体温を持って残り続けていた。
私は丸メガネを指できゅっと直し、意味の分からない、しかし恐ろしい魔力が宿る背表紙の列に向かって、再び静かに箒を動かし始めた。
その日、大図書館の空気はいつもよりいくらか弛緩していたように思われた。
「ねえ、メガネ。昨日のあの『銀の殺人鬼』の顔、見た?」
私の隣で、山羊皮の分厚い魔導書を重そうに抱えた同僚の妖精――名をリリといった――が、声を弾ませて囁いた。彼女は私と同じく大図書館の掃除や運搬を命じられたメイド妖精の一人で、いつもエプロンの紐を小粋な蝶結びにしている、お喋りが大好きな少女だった。
「小悪魔様に、お嬢様の夜食のプリンを『誰かさんがつまみ食いしたせいで、一個足りません』って報告されたときのメイド長の顔ったら!まるで時間まで凍っちゃったみたいだったわ。ぜんまいが錆び付いたんじゃないかしら」
「静かに、リリ。小悪魔様に聞かれたら、今度は私たちの頭が棚の奥にねじ込まれるわ」
私は大きな丸メガネの位置を人差し指できゅっと直しながら、呆れたように、しかし口元に小さな笑みを浮かべて返した。意味の読めない美しい幾何学的な背表紙の列を眺めながら、こうして他愛のない職場の愚痴を交わす時間は、この暗い檻のような書庫において、唯一の温もりだった。
「大丈夫よ、あの寝不足の羽虫なら、今は病弱魔女に新しい咳止め薬を煎じるので手一杯のはずだから。それよりさ、この仕事が終わったら、裏庭の木の実でも拾いに行かない?」
リリが弾んだ声で言いながら、棚の最上段へ向けて一冊の本を、やや勢いよく差し込んだ。
その瞬間、世界が、白く、爆ぜた。
カチリ、という微小な、しかし致命的な金属音が書架の隙間から鳴り響いたかと思うと、次の瞬間には、視界を完全に遮滅するほどの苛烈な高電圧の電弧が迸っていた。防衛魔術の雷撃。それは本を雑に扱った者に下される、館の冷酷な罠だった。
「ぁ…」
それは悲鳴にすらならぬ、ただの空気の漏れる音だった。
立ち上がった数万ボルトの轟音は、リリの小さな身体を容赦なく貫き、大理石の床へと叩きつけた。私の目の前で、彼女の皮膚がまたたく間に黒く炭化し、衣服がパチパチと嫌な音を立てて燻ぶる。肉が焼ける悍ましい臭いが、古い紙のバニラ臭をまたたく間に塗り潰していった。一瞬前までプリンの話をして笑っていた少女は、ピクリとも動かない物言わぬ黒い塊へと変わり果てていた。
私は、ただ呆然とそれを見つめていた。震えすら起きなかった。私の内面にあるのは、悲しみではなく、ひどく平坦な、そして冷え切った諦念だった。死はどこまでも軽く、この大図書館においては日常のノイズに過ぎない。
その日の夕暮れ、私は大図書館の最奥にある、誰の目にも留まらない、埃を被った『未分類』の本棚の最も暗い隙間に、あの革装丁の本を隠すように置いた。ミルとレン、そして私の3人だけで紡ぎ始めた秘密の日記。もしこれが見つかれば、私たちの数少ない幸福さえ、パチュリー様の指先ひとつでインクの染みに変えられてしまうだろう。それは、私たちが確かにここにいるという証を、世界から隠すための静かな抵抗だった。
――それから、どれほどの「死」と「目覚め」を繰り返しただろうか。
「ねえ、メガネ。聞いてる?だから私は、人間の里でお団子屋さんを開くなら、絶対にみたらし団子がいいって言ってるの!」
快活な笑い声が、大図書館の静寂を小気味よく弾いた。
振り返ると、そこにはあの日、私の目の前で炭化して死んだはずのリリが、いつも通りエプロンの紐を綺麗な蝶結びにして笑っていた。
「いいえ、リリ。お団子なら、高級な蜂蜜をたっぷりかけた、甘ったるいお団子の方がきっと売れるわよ」
「あはは!それ最高!甘いものならみんな喜んで買いそうだもんね!」
二段ベッドの寝室で、悪夢から跳ね起きるようなあの嫌な目覚めを何度も経て、私たちはこうして再び同じ場所で、同じように笑い合っていた。肉体が受けたあの高電圧の激痛の記憶は、皮膚の裏側にじっとりとこびりついている。けれど、私たちはそれを、ただの「タチの悪い夢」として笑い飛ばす逞しさを持っていた。そうしなければ、この檻の中で正気を保つことなど不可能なのだから。
「さあ、この重い写本の山、小分けにして運んじゃいましょう。早く終わらせて、今日の分の仕事を片付けなきゃ」
リリが楽しそうに歌うような調子で、本を腕に抱えた。
「そうね。私も、早く終わらせるわ」
私は丸メガネの奥の瞳を和ませ、リリと顔を見合わせて冗談を言い合いながら、大図書館の奥へと続く長い廊下を歩んでいった。仕事が終われば、あの生垣の影へ行ける。エプロンの下に隠した日記に、今日の楽しかった笑い声を、また新しい絵と模様にして閉じ込めるのだ。その密やかな楽しみだけが、私の足を前に進めていた。
しかし、その幸福な歩みは、唐突に現れた「異形」によって遮られることになる。
「おっと、動くなよ。そこをどいてくれた方が、お互いのためだぜ」
書架の曲がり角を曲がった瞬間、私たちはその場に凍りついた。
そこにいたのは、パチュリー様でも小悪魔様でもない。大きな黒い三角帽子を斜めに被り、白と黒の奇妙な魔女装束を纏った、人間の少女だった。
彼女の足元には、大図書館の貴重な魔導書が、これでもかと雑に詰め込まれた巨大な風呂敷包みが転がっている。
――霧雨魔理沙だった。
大図書館の静謐を脅かす、最悪の天災が、私たちの目の前で不敵な笑みを浮かべていた。
その人間の少女が浮かべた不敵な笑みは、私とリリの全身の血液を瞬時に氷結させるに十分な冷たさを持っていた。
『白黒ドブネズミ』。彼女のまとう、煤と泥に汚れた白黒の法衣から漂うのは、大図書館の死んだ紙の匂いとは根底から異なる、野良の、そして圧倒的な暴力の匂いだった。彼女の足元には、はち切れんばかりに魔導書が詰め込まれた巨大な唐草模様の風呂敷包みが、まるで捕獲された獣のように不格好に転がっている。
私とリリは、ただの指先一つ動かすことすらできず、その場に縫い止められていた。
心臓が、肋骨の裏側で早鐘を打つ。息を吸えば、衣服の隙間から這い出てくる冷や汗が背中を濡らしていくのが分かった。戦うなどという悍ましい選択肢は、私たちの頭の片隅にすら存在しない。私たちはいくらでも代わりの効く塵芥であり、あの人間はパチュリー様と互角に呪文を交わす怪物なのだ。ここで無駄に声を上げれば、次の瞬間には私たちの肉体は、ただの生ゴミとして床に散らばる。それは大図書館で働く全ての妖精が、暗黙のうちに共有している、生きていくための「不磨の規律」であった。
だから、私たちはただ、静かに、擦り足で後ろへと下がった。見なかったことにするのだ。あのドブネズミが本を何百冊盗もうが、私たちの知ったことではない。
魔理沙は丸メガネの奥にある私の怯えきった瞳を泥泥とした目で見据え、ふん、と鼻で笑うと、手際よく風呂敷の結び目を締め直した。それから、使い古された一本の八卦炉を懐に押し込み、愛用のミニ八卦炉を弄びながら、傍らの古びた箒に跨がる。
「邪魔したな、おチビちゃんたち。静かにしてりゃ、命までは獲らねえよ」
小癪な言葉を捨て台詞に、彼女は天井の、自身が開けたであろう巨大な破孔へ向けて一気に浮上した。激しい風圧が書架の埃を巻き上げ、私たちのエプロンを激しく揺らす。そのまま、白黒の影は吸い込まれるようにして、夜の闇へと消え去っていった。
「……行った、わね」
リリが、絞り出すような声で呟き、その場にへたり込んだ。私もまた、ずり落ちた丸メガネを震える指で押し戻しながら、深く長い息を吐き出す。パチュリー様に見つからずにあの害獣が去ってくれた。それだけで、今日の私たちの命は繋がったのだ。そう、安堵したのも束の間。
「おのれ、不届きなドブネズミが……!!」
大図書館の最奥から、地鳴りのような、そして身を切るほどに冷徹な怒号が響き渡った。
その声の主が誰であるか、考えるまでもなくパチュリー様のだった。彼女の激昂に伴い、図書館全体の空気が急激に熱を帯び、壁の防衛陣地が不気味な紫色の光を放ち始める。
「小悪魔!妖精どもをすべて集めなさい!盗まれたのは『水属性の基礎魔術』の原本と、私の私的な写本よ!一冊でも欠ければ、明日から一週間の残業を義務付けるわよ!それと、厨房に伝えて全員の食事の量を半分に減らしなさい。一冊も取り戻せなかった者は、小悪魔の部屋での説教を覚悟することね!」
その冷酷な宣告が、広い書架の闇を伝って私たちの鼓膜を突き刺した。
一週間の残業、そして何より「食事の量を半分に減らされる」という罰。それは、ただでさえ過酷な館の労働を生き延びている私たちにとって、致命的な宣告だった。ミルの厨房からくすねるスコーンの端切れや、日々のささやかな食事が唯一の救いであるというのに、それが絶たれ、ひもじさの中で夜通し働かされる。それは肉体を物理的に破壊される死に勝るとも劣らない、じわじわとした肉体的・精神的な拷問を意味していた。
かつてその罰を受け、飢えと疲労で干からびかけた同僚は、しばらくの間、本棚の影で愚痴を言う気力すら失っていた。
「嘘……、ご飯を減らされるなんて嫌……!」
リリの顔から、たちまち血の気が引いていく。
魔理沙と遭遇した妖精は、普通なら静かに引き下がるか、見なかったことにするのが通例だった。主たちへのささやかな嫌がらせとして、あるいは単なる保身として。しかし、パチュリー様が「食事制限と連帯責任」という最悪の罰を課した以上、もはや私たちは傍観者ではいられなかった。
「行くわよ、メガネ!!取り返さないと、本当にお腹と背中がくっついちゃう!」
リリが私の腕を強く引っ張り、駆け出した。先ほどまでの、生垣の影で冗談を言い合っていた穏やかな笑い声は、瞬時に吹き飛んでいた。パチュリー様の怒号が何度も遠くで炸裂する中、私たちは自らの腹の虫と、ささやかな日常の平穏を守るため、あの恐怖の白黒の嵐が去ったばかりの、硝子の向こうの戦場へと駆り立てられていくのだった。
呼吸が熱い。喉の奥がカラカラに乾き、走るたびに肺が引き裂かれるように痛んだ。
私とリリは、他の書架から這い出してきた無数のメイド妖精たちとともに、大図書館の中央広間へと続く大廊下を狂ったように駆けていた。額からは、恐怖と焦燥の混ざり合った、じっとりとした嫌な汗が幾筋も流れ落ち、丸メガネの硝子を曇らせていく。それを拭う暇さえ惜しかった。一週間の残業、そして何より食糧の半減という飢餓の恐怖が、私たちの背中を容赦なく鞭打っていた。
前方から、空間そのものを震わせるような爆音と、極彩色の光芒が視界を埋め尽くした。
広間に飛び出した私たちの目に飛び込んできたのは、狂乱の戦場だった。宙に浮かぶパチュリー様の周囲から、日、月、火、水、木、金、土、あらゆる属性の巨大な魔法陣が幾重にも展開され、無数の光の弾丸となって天井近くの黒い影へと降り注いでいる。小悪魔様もまた、大きな翼を羽ばたかせながら、主の防衛を補佐すべく烈風のような弾幕を放っていた。
しかし、その中央で古びた箒に跨がった白黒ドブネズミは、不敵な笑みを崩さなかった。彼女は懐から、一辺が手のひらに収まるほどの、鈍い銀色を放つ八角形の金属器を取り出した。
――ミニ八卦炉。
その小さな中心点に、大図書館の空気をすべて吸い尽くすかのような、狂おしいほどの熱量と魔力が収束していく。空間がキーンと高く鳴り、硝子の窓が自重でひび割れていく。それは、ただの弾幕ごっこなどではない。すべてを均一に消滅させるための、圧倒的な質量兵器の起動だった。
「もらったぜ、パチュリー! ――『マスタースパーク』!!」
刹那、視界のすべてが完全な「白」に染まった。
私は本能的に両目を強く瞑り、床へと身体を投げ出した。避けた、と思った。耳を破壊するほどの轟音と、世界が沸騰するような熱波が頭上を通り過ぎていく。
だが、遅れてやってきたのは、人間の言葉では到底表現しきれない、圧倒的な「破壊の感覚」だった。
「あ、が、あ――ッ!!」
絶叫は、自分の喉から出たものか、あるいは隣にいた誰かのものか分からなかった。激しい衝撃に吹き飛ばされ、私は崩壊した本棚の瓦礫の山へと叩きつけられる。
何が起きたのか分からなかった。ただ、身体の半分が、悍ましい熱によって沸騰しているかのような錯覚だけがあった。
恐る恐る目を開け、視界を塞ぐ血の混じった涙を袖で拭いながら、自分の下半身を見下ろした。
――そして、私は己の正気を疑った。
右の太腿から先が、綺麗になくなっていた。切り落とされたのではない。熱線によって骨ごと、肉ごと消し飛ばされ、断面はドロドロとした黒い炭と、脈打つ生々しい赤色の肉が 剥き出しになっていた。さらに脇腹の肉も大きく削り取られており、破れた衣服の隙間から、自分の白い肋骨と、激しく波打つ内臓の一部が、硝子越しに生々しく視界に飛び込んできた。そこから、堰を切ったように ドクドクと赤黒い温かいものが溢れ出し、大理石の床を濡らしていく。
「い、痛い、痛いぁ、あ、う、痛い……!」
遅れて、脳髄を直接狂わせるような激痛が、津波となって押し寄せてきた。痛い。熱い。身体が千切れる。あまりの苦しさに、目からは涙が、鼻からは情けないほどにドロドロとした鼻水が溢れ出し、顎を伝って床の血溜まりへと混ざり合っていく。呼吸を吸い込もうとするたび、削られた脇腹が引き攣り、口からゴボリと鉄の味のする血の塊が吐き出された。
周囲を見渡す余裕などなかったが、丸メガネの歪んだ硝子は、世界の終わりを冷酷に映し出していた。あの白光を正面から浴びた同僚たちは、悲鳴を上げる間もなく、一瞬にして消し飛んで灰すら残っていなかった。
ふと、リリが走っていたはずの左側に目を向ける。
そこには、ただ赤黒い血の 飛沫が壁に扇状にこびりついているだけだった。いつも綺麗に蝶結びにされていたエプロンの紐も、団子の話をしていたあの快活な笑顔も、何一つ残っていない。文字通り、一瞬で虚空へと消滅させられたのだ。
「り、リ、り……りり……」
声にならない声で同僚の名を呼ぼうとするが、喉がヒューヒューと虚しい音を立てるだけだった。
内臓が冷えていくのが分かった。体温が、傷口から流れる血とともに急速に失われていく。世界が急速に明度を失い、遠くで響くパチュリー様の怒号も、小悪魔様の悲鳴も、まるですりガラスの向こう側の出来事のように遠ざかっていく。
私は、震える左手を床に這わせ、大図書館の最奥――あの誰も目に留めない『未分類』の本棚がある方角へと、微かに指先を向けた。
私のエプロンの中には、もう何もない。リリの死はどこにも残らない。私のこの死も、明日には忘れられる。けれど、あの暗がりの書架の隙間に隠した一冊の本の中にだけは、私たちが確かに生きて、笑って、歪な模様と拙い絵を紡いだ日記が眠っている。あの本さえ無事なら、私たちの生きた証は消えない――。
痛みに顔を歪ませ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔のまま、私は大図書館の冷たい床に頬を押し付けた。視界の端で、自分の流した血が、古い魔導書の背表紙の模様を赤く染めていくのを見つめながら、私は静かに、深い暗黒の底へと沈み込んでいった。
――ガバッ、と上半身が跳ね起きた。
肺が猛烈に酸素を求め、喉の奥が引き攣れたような音を立てて空気を吸い込む。
視界はひどく暗かった。カビ臭い薄布のシーツ。目の前に迫る、木製の粗末な天井。そこが妖精メイドたちの共有寝室であり、自分が二段ベッドの下段に横たわっているのだと理解するまでに、数秒の時間を要した。
私は狂ったように、衣服の上から自分の身体を両手で触り、確かめた。
右の太腿を、何度も強く掴む。ある。足先まで冷たい皮膚が確かに繋がっている。次に、右の脇腹を抉るように指先で押し込んだ。痛い。だが、それは骨が砕け内臓が 剥き出しになったあの致命的な破壊の痛みではなく、ただ指が肉を押すだけの、生きた肉体のまっとうな感覚だった。
――悪夢だ。また、酷くタチの悪い夢を見たのだ。
そう自分に言い聞かせる。過度な震えは起きなかった。ただ、喉の奥にはあの沸騰した肉の鉄臭さがじっとりとこびりつき、心臓は肋骨を内側から叩き壊さんばかりに嫌な音を立てて波打っている。目覚めた瞬間に内容が指の隙間から零れ落ちていく、あの不快な、冷めない悪夢の残滓だけが、私の精神をじわじわと侵食していた。
ずり落ちかけた丸メガネを指先できゅっと押し戻し、私は薄暗い部屋の壁に掛けられた古びた真鍮の時計に目をやった。文字盤の針は、容赦のない労働の始まりを告げている。
ベッドから這い出ると、足の裏に冷たい板間の感触が伝わってきた。
何十人もの妖精メイドが寝食を共にするこの寝室は、息が詰まるほどに狭苦しい。部屋の隅には、衣服を詰め込むための小さな木製のタンスが並び、その上には薄くひび割れた姿見の硝子が、斜めに立て掛けられている。その下に置かれた使い古された銅製の桶には、前夜に汲み置かれた冷水が並々と注がれていた。
私は桶の前に屈み、冷水を両手ですくって顔に浴びせた。
肌を刺す痛烈な冷たさが、脳髄に残る灼熱の記憶を少しだけ麻痺させてくれる。水を弾く硝子の向こう側で、丸メガネを掛けた私の顔が、酷く平坦な、生気のない表情でこちらを見返していた。周囲のタンスの周りには、誰かが拾ってきた綺麗な小石や、色褪せたリボンの切れ端など、妖精たちのささやかな私物が申し訳程度に飾られている。しかし、それ以外には、私たちの生活を彩るものは何一つ存在しなかった。私たちはこの館を維持するための、ただの生きた歯車に過ぎないのだから。
濡れた顔をエプロンの端で無造作に拭い、私はいつもの給仕服の皺を伸ばした。髪を整え、カチリと時計の針が次の目盛りへ進む音を聞きながら、私は静かに部屋の扉へと手をかける。
恐怖に足を止めれば、その瞬間に日常の規律に踏み潰される。
私はいつものようにずり落ちる丸メガネを直し、じっとりとした不快感を胸の奥底に沈めたまま、今日という新しい地獄の労働が待つ大図書館の書架へと、足早に向かうのだった。
扉を開け目に入ってきたのは、まるで巨大な獣に引っ掻き回された後のような有様であった。
崩れた書架が幾つも斜めに傾ぎ、床には陶片ならぬ紙片が、粉雪のように白く散らばっている。魔理沙の八卦炉が放ったあの熱線の名残であろう、大理石の床の一部は、焦げ茶色に丸く抉れ、艶やかな光沢を失って鈍く曇っていた。空気にはまだ、昨日の弾幕の残り香――焦げた紙と、焼けた魔力の匂いとが、澱のように低く漂っている。
私はその焦げた床の縁にしゃがみ込み、割れた棚板の破片を一つ一つ拾い集めていた。手を伸ばすたび、指先が微かに強張る。昨夜、この同じ場所で、自分の身体の半分が消し飛ぶ様を見たはずなのだ。だが、いくら太腿を、脇腹を撫でてみても、そこにはただ、健やかな肉の感触があるばかりであった。傷ひとつ、跡ひとつ残ってはいない。まるで昨夜の出来事のすべてが、誰かの見た悪い夢ででもあったかのように。
――それが、私たち妖精という生き物の、定めなのだろう。
自然の気まぐれから生まれ落ちた身は、また自然の気まぐれによって、いくらでも継ぎ直される。悲しむべきことなのか、慶ぶべきことなのか、私にはいまだに判じかねている。ただ、その定めを頭で理解することと、昨夜の痛みの記憶が皮膚の裏側にべっとりとこびりついていることとは、まったく別の問題であった。
「メガネ、そっちの棚、手伝ってくれる? 思ったより重くてさ」
声をかけられ、顔を上げる。
そこに立っていたのは、リリだった。エプロンの紐は、いつもと変わらぬ小粋な蝶結び。丸い瞳も、快活な声音も、記憶の中の彼女そのままである。ただその手には、傾いた書架を支えるための添え木が一本、無造作に握られていた。
「……リリ」
私の声は、我ながら情けないほどに掠れていた。
「何よ、辛気臭い顔して。ああ、分かった。あんたも見たんでしょ、昨日のあの馬鹿げた閃光。ほんっと、あの泥棒ときたら、館ごと吹き飛ばす気だったんじゃないかしら」
リリは肩をすくめ、面倒臭そうに前髪を払った。そこには、恐怖の色も、痛みの記憶を辿るような翳りも、欠片ほども見当たらない。まるで昨日という一日が、彼女の中では最初からなかったことになっているかのようだった。
私は喉元まで込み上げた問いを――あなたはあのとき、たしかに、と続けるはずだった言葉を、静かに飲み下した。訊いたところで、詮無いことだ。この館では、死は日常の些事に埋没し、翌日にはまた同じ顔がそこに立っている。それを不思議がることすら、もはや贅沢な感傷なのかもしれなかった。
「――ええ、手伝うわ」
私は羽箒を脇に置き、代わりに棚板の重さを両手で受け止めた。木の軋む音と、リリの荒い息遣いだけが、しばらくの間、崩れた書架の陰に低く響いていた。
その日の午前中は、ただひたすらに、壊れたものを元の形に戻すだけの労働に費やされた。棚を立て直し、散らばった頁を拾い集め、破れた装丁を寄せ集める。文字の読めぬ私には、どの頁がどの本に属するものかを見分ける術もなく、ただ小悪魔様の指図するままに、紙片の山を右から左へと運び続けた。
その単調な作業の合間、周囲の同僚たちの囁き声から、昨夜の顛末が断片的に耳に入ってきた。あの白黒の泥棒は、結局まんまと屋根の破孔から逃げ果せたのだという。パチュリー様の追撃も、小悪魔様の弾幕も、あの箒の逃げ足には及ばなかったらしい。
昼を報せる遠い鐘の音が、崩れた窓硝子の隙間から微かに響いてきたとき、私はようやく羽箒を置くことを許された。
エプロンの下に忍ばせた革装丁の本の重みを確かめながら、私は大図書館の重い鉄扉を押し開ける。焦げた紙の匂いに満ちた館の中から一歩踏み出せば、そこにはいつもと変わらぬ、生垣の緑と、陽だまりの匂いが待っていた。
低い天生垣の作る濃い日陰には、すでにミルとレンの二人が、いつものように不満顔で腰を下ろしている。
「あ、メガネ。生きてたのね」
ミルが顔を上げるなり、そんな挨拶を投げてよこした。悪気があってのことではない。むしろその軽い調子にこそ、この館で生きる者たちの、ある種の律儀な優しさが滲んでいた。
「いいえ、ひどい死に方をした」
私は乾いた笑いを返しながら、二人の傍らに腰を下ろす。地面から立ち上る草の匂いが、まだ焦げ臭さの残る鼻腔を、少しずつ洗い流していくようであった。
「聞いてよメガネ、あんたが伸びてた後の話」
レンが気だるげに草の茎を弄びながら、口の端を微かに歪めた。
「結局、あの泥棒には逃げられたのよ。屋根の穴から、風呂敷いっぱいの魔導書を担いだまま、まんまと」
「知ってるわ。廊下でそんな噂を聞いたから」
「でしょうね。館中の噂だもの。――で、面白いのはここからよ」
ミルが待ってましたとばかりに身を乗り出し、声を潜めた。
「取り逃がした後のもやし魔女ときたら、そりゃあもう酷い癇癪でさ。書架を殴りつけるわ、小悪魔様に当たり散らすわ。挙句の果てに、怒鳴りすぎて自分の喘息の発作を起こしちゃったの。ヒューヒュー言いながら胸を押さえて、最後は小悪魔様に抱えられるようにして、自分の部屋へ引っ込んでいったんだから」
「あの陰気な咳が、もっと酷い音になってたわ」
レンが淡々と付け加える。
「そのせいで、この惨状の片付けは、丸ごと私たち妖精に押し付けられたってわけ。まったく、盗まれたのはもやし魔女の本で、暴れたのもあの二人で、尻拭いをさせられるのはいつも私たちなんだから」
ミルが心底うんざりしたように溜息をつき、それから思い出したように、焦げた匂いの染みついた自分のエプロンを軽く払った。
私は膝の上に載せた革装丁の本を、指先でそっと撫でる。頁の中に閉じ込められた歪な模様たちは、今日もまだ、静かに白い沈黙を守っていた。焦げた図書館の匂いも、パチュリー様の喘鳴も、リリの何事もなかったような笑顔も――そのすべてが、この午後の陽だまりの下では、ひどく遠い出来事のように思われた。
生垣の隙間から差し込む木漏れ日だけが、変わらず、私たちの小さな頭上を優しく照らし続けていた。
「はい、これ。今日の戦利品」
ミルが得意げにエプロンのポケットから取り出したのは、油紙にくるまれた小さな焼き菓子の欠片であった。昨夜の騒動で厨房も慌ただしかったのだろう、いつもより形が不揃いで、端の方が少し焦げている。それでも、噛めばバターの香ばしさが仄かに広がる、贅沢な代物には違いなかった。
「レンは?」
「私は、これしか持ってこられなかった」
レンが差し出したのは、小さな木の実がいくつか。裏庭の茂みで拾い集めたものらしく、まだ土の匂いが薄っすらと残っている。
「贅沢は言えないわね。分けましょう」
私たちは焼き菓子の欠片を三つに割り、木の実を掌に分け合うと、めいめいの口へと運んだ。甘さも香ばしさも、決して十分と呼べるほどの量ではない。けれど、生垣の陰で頬張るその僅かな一口は、館の食堂で与えられるどんな食事よりも、ずっと満ち足りた味がするように思われた。
空腹が幾分か紛れたところで、私はエプロンの下から、あの革装丁の本を取り出した。
「さ、続きを書きましょう」
白紙の頁を開くと、そこにはすでに、ミルとレンの歪な文字と、私の拙い絵とが、幾つも寄り添うように並んでいる。今日は何を記そうか。焦げた図書館の匂いも、パチュリー様の喘鳴も、リリの何事もなかったような笑顔も――そのどれもが、こうして頁の上に落とし込まれる頃には、不思議と角の取れた、穏やかな記憶へと姿を変えていくのだった。
それからというもの、私たち三人が生垣の陰でこの本を開く日々が、しばらくのあいだ続いた。
ミルは厨房での失敗談を、いつも大袈裟な身振りを交えて語った。ある日は、メイド長の目を盗んで味見をしたスープを、うっかり鍋ごとひっくり返してしまった話。またある日は、お嬢様の夜食にと用意した林檎のパイを、焼き上がりの香ばしさに我慢できず、こっそり端を齧ってしまった話。彼女が語るたび、レンは呆れたように目を細め、私は声を殺して肩を震わせた。
「――で、その齧った跡、どうしたのよ」
「決まってるでしょ。パイ全体をぐるっと回転させて、齧った場所を裏側にしてやったのよ。完全犯罪ってやつ」
「それ、絶対バレてるでしょうよ」
レンの方はといえば、庭仕事の合間に見つけたささやかな発見を、抑揚のない声で淡々と語るのが常であった。裏庭の隅に、誰も気づかぬまま群生していた青い野草の話。剪定の最中に迷い込んできた、人懐こい小さな蝶の話。彼女の口調はいつも気だるげであったが、その瞳の奥には、他の誰も見ていない場所を丹念に見つめる者だけが持つ、静かな光が宿っていた。
そして私は、文字の代わりに絵を描いた。丸い月、歪んだ本の背表紙、三人で分け合った焼き菓子の欠片。稚拙な線でしかなかったが、ミルとレンはいつも大袈裟に褒めそやし、時に注文をつけてくれた。
「メガネ、次は私たちの似顔絵も描いてよ」
「無理よ、顔なんて描いたことないもの」
「いいから挑戦してみなさいよ、絶対面白いことになるから」
そうして描き上がった似顔絵は、案の定、目鼻の配置がひどく歪んでおり、三人で腹を抱えて笑い合う羽目になった。
時には、主たちへの愚痴が止まらなくなる日もあった。あの完全無欠ぶったメイド長の理不尽な小言。もやし魔女の気まぐれな癇癪。博麗の巫女の凶暴な賽銭催促。そうした愚痴の一つ一つを、私たちは日記の余白に、歪な文字と模様として刻みつけていった。誰に読ませるためでもない。ただ、自分たちがたしかにここに生きて、笑って、悔しがっていたという、その事実だけを留めておきたかったのである。
生垣の外では、相変わらず紅魔館という怪物が、その巨大な顎を開け閉めしていた。魔理沙の襲撃も、パチュリー様の激昂も、小悪魔様の叱責も、館の日常として絶えることはない。それでも、この狭い日陰の中でだけは、時間が驚くほど穏やかに流れているように感じられた。
木漏れ日が私たちの頭上を移ろい、陰影の角度が少しずつ変わっていく。その緩やかな移ろいの中で交わされる笑い声と、頁を埋めていく歪な模様の数々だけが、この檻のような館において、私たちに許された、唯一の贅沢な時間であった。
二週間が過ぎた、ある昼下がりのことであった。
小悪魔様の声が、大図書館の奥まで平坦に響き渡った。
「――そこのあなたと、あなた。それから、メガネのあなたも。パチュリー様がお呼びよ。手を止めて、地下の実験室までいらっしゃい」
名指しされたのは、私を含めて数名の妖精であった。理由を問う権利など、私たちには与えられていない。ただ黙って羽箒を置き、示された階段を下る他になかった。
地下の実験室は、いつも以上に冷え冷えとした空気に満ちていた。石造りの床の中央には、幾何学的な魔法陣が幾重にも描かれ、その線の上に、私たちは一人ずつ、等間隔に立たされた。促されるまま円を描くように並ぶと、それぞれの足元から、薄い光の膜が音もなく立ち上がり、私たちの身体を包む球形の結界を形作っていく。
宙に浮かんだパチュリー様は、分厚い本を捲る手を止めることもなく、ただ一言、こう告げた。
「――わざわざ実験に付き合わせてもらって、ありがとう」
感謝の言葉でありながら、そこには微塵の温もりもない。まるで実験器具に対して発せられる、儀礼的な符牒に過ぎなかった。
円の中に立たされたのは、私の他に見知らぬ顔が二人。ミルともレンとも違う、普段は書庫の別の階を任されているらしい妖精たちであった。この日、たまたま手隙であったというだけの理由で、私と共に選ばれたに過ぎない。
私の視界の右端――一番端に立たされたその妖精の球体に、まず異変が起きた。透明な結界の底から、音もなく水が湧き出し始めたのである。
「え……、水?」
戸惑いの声も束の間、水位は瞬く間に彼女の足首を、膝を、腰を浸していった。彼女は最初、余裕めいた薄笑いさえ浮かべていた。この程度の水量ならば、泳いで凌げばよいと高を括っていたのかもしれない。
だが、水位が胸元を越えたあたりから、その余裕は急速に色を失っていった。
結界の中の水圧は、外界のそれとは比較にならぬ速さで高まっていたのである。彼女は両手で耳を強く押さえ、苦悶の表情を浮かべた。水中深くに沈んだ者だけが知る、鼓膜を内側から圧し潰すあの鈍い痛み。それが尋常でない速度で、彼女の頭蓋を締め上げていたのだろう。
「痛い……、耳が、耳がぁ……ッ!」
悲鳴とともに、彼女の両耳から、赤黒い血が糸を引くように滲み出した。鼓膜の破れる、あの内耳の奥で起きる微かな破裂音は、結界の外にいる私たちの耳にまでは届かなかった。しかし、水中で見開かれたその瞳の白目に、幾筋もの血管が破裂したように赤く走っていくのを、私はたしかに見た。水圧はなおも増し続け、肺という肺を内側から圧し潰さんとする。彼女の口から零れた最後の悲鳴は、水泡となって浮かび上がり、やがて動きを止めた身体だけが、水底へとゆっくり沈んでいった。
「ふむ、想定より早い破裂だったわね。記録なさい、小悪魔」
パチュリー様の声には、憐憫の欠片もなかった。
次に異変が起きたのは、私の左隣に立つ妖精の球体であった。今度は水ではない。結界の中の空気そのものが、目に見えぬ熱を帯び始めたのである。彼女の頬が見る間に赤く上気し、額から幾筋もの汗が噴き出す。やがて汗そのものが乾ききり、露出した皮膚がじりじりと赤黒く変色していった。
「あつい……あつい、あつい――ッ!!」
絹を裂くような絶叫とともに、彼女の皮膚の表面に、幾つもの水泡が瞬く間に膨れ上がり、そして弾けた。肉の焼ける、あの悍ましい臭いが、結界の薄い膜を透かして、私の鼻先にまで漂ってくる。最後には彼女自身の身体が、内側から発火するように赤い光を帯び、球形の結界の中を、束の間、松明のように照らし出した。
――そして、私の番が来た。
私を包む結界の中で、何かが起きる様子はしばらくなかった。ただ、耳の奥で、微かな、しかし確かな圧を感じ始めたのは、それからすぐのことだった。
音、であった。
人の耳に聞こえるか聞こえぬかの、極めて低い唸りのような音が、結界の中に満ち始めていた。それは徐々に、徐々に、音量というよりも「質量」を増していくかのように、私の鼓膜を、そして頭蓋の内側を圧迫していく。
「う、……ッ」
最初に来たのは、耳鳴りだった。次いで、頭蓋骨の縫合線という縫合線が軋むような、鈍い痛み。音の波は、もはや空気の振動という範疇を超え、私の胸郭を、内臓の一つ一つを、外側から容赦なく揺さぶり始めていた。心臓の鼓動が、音の波と共鳴し、乱れていくのが分かる。
「ぁ、あ、あああ――ッ!!」
耳から生温かいものが伝い落ちる感触があった。口の中にも、鉄の味が広がっていく。肺の中の空気そのものが震え、呼吸をしようとするたびに、内側から圧し潰されるような激痛が走った。視界が白く明滅し、意識が急速に遠のいていく。膝から崩れ落ちる感覚を最後に、私は結界の中の音の海へと、静かに沈んでいった。
――翌日、いつも通りの陽だまりが、生垣の陰に差し込んでいた。
「あーあ、まさか紅茶一杯でこうなるとはね」
ミルが真っ先に切り出し、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「お嬢様のお目覚めの紅茶が、またほんの少しぬるかっただけなのよ。それだけで癇癪玉が爆発してさ。ティーカップごと投げつけられて、避けきれなかったところに、あの真紅の弾幕が追い討ちよ。気づいたら、身体中に風穴が空いてたわ」
「私は、あの銀色の悪魔ね」
レンが気だるげに応じ、自分の首筋を指先でなぞってみせた。
「庭木の剪定の角度が、ほんの数ミリ気に入らなかったんですって。投げナイフの的にされている分には慣れっこだったんだけど、今日ばかりは加減ってものを忘れていたみたいでね。気がついたら、喉に一本、深々と」
「私は、もやし魔女に強制的に音圧の実験体にされたわ」
私がそう告げると、三人の間に、何とも言えぬ苦笑が広がった。紅魔館という同じ檻の中にありながら、その主も従者も、それぞれ全く別の顔を持ってこの妖精たちを死なせている。三者三様、全く異なる死に方を体験した末に、こうしてまた同じ生垣の下で顔を突き合わせている。その事実の滑稽さに、私たちはしばし言葉を失い、それから堪えきれずに吹き出した。
「――ねえ、いっそのこと、逃げ出してみない?」
ふと、ミルがそんなことを口にした。冗談交じりの、軽い調子ではあった。けれど、その言葉が耳に届いた瞬間、私たち三人は、思わず顔を見合わせて笑い声を上げてしまった。
「あはは、いいわね、それ。私たちみたいなのが、あの紅い霧の外に出られるわけないじゃない」
「まあ、想像するだけならタダだしね」
レンが草の茎を弄びながら、珍しく口の端を緩めた。
紅魔館から出られない理由は、単純明快であった。メイド長や小悪魔様が、朝な夕なに人数を数え上げている。それだけではない。私たち妖精メイドの翼には、ごく僅かな魔法の楔が打ち込まれているのだという。館から一定の距離を越えて羽ばたけば、その翼は音もなく弾け、身体もろとも館へと引き戻される――否、正確には、一度そこで果てて、また館の中で新しく湧き直すだけのことなのだと、古参の妖精から聞いたことがあった。
つまり、私たちにとって「逃げる」という選択肢は、はじめから存在しないも同然なのである。
「じゃあさ、もし本当に出られたとしたら、どうする?」
ミルが膝を抱え、遠い目をして呟いた。
「人間の里で、お団子屋さんでも開こうかしら。前から言ってたでしょ、みたらし団子の店」
「私は、どこか静かな山奥で、誰にも邪魔されずに庭いじりでもしていたいわ」
レンが目を細めて言う。私は少し考えてから、膝の上の革装丁の本を撫でながら答えた。
「私は……文字を、習いたいわ。誰かに、この本の中身をちゃんと読めるように」
誰も来ることのない、来る日のない未来の話。それでも、その他愛のない夢想を語り合う時間だけは、不思議なほどに温かかった。私たちは日記の頁を開き、それぞれの語った夢を、歪な文字と拙い絵とにして、そっと書き記していった。叶うはずのない未来ほど、書き留めておく甲斐があるように思われたのである。
生垣の外では、紅魔館という巨大な檻が、今日もその静かな威容を保っていた。けれど、この頁の上にだけは、誰にも縛られぬ、私たちだけの小さな自由が、確かに息づいていた。
異変は、夕刻の書架の奥から始まった。
その日、パチュリー様は虫の居所が特に悪かった。理由は些細なことだったと聞く。取り寄せた稀覯本の一冊に、運搬を担った妖精の指の脂が僅かに付着していた、というだけのことだったらしい。だが、その些細な瑕疵は、日頃から病弱な身体に鬱屈を溜め込む魔女の琴線に、思いのほか深く触れたようだった。
「――くだらない。本当に、くだらない連中だこと」
地下の書庫から漏れ聞こえてきたその呟きに続いて、低い詠唱の音が響いた。怒りに任せた早口の詠唱は、いつもの流麗な律動を欠き、ところどころで拍が乱れていた。パチュリー様ほどの魔導書の使い手が、そんな初歩的な狂いを犯すことは、本来ならばあり得べからざることであった。
それが、すべての始まりだった。
乱れた詠唱の一節が、隣接する火属性の魔法陣に、あってはならない干渉を及ぼしたのである。パチパチと、乾いた紙の擦れるような小さな音が幾つか重なったかと思うと、次の瞬間には、地下の書庫の一角から、赤い舌のような炎が一斉に噴き上がった。
乾ききった古い紙と羊皮紙の集積は、炎にとって、これ以上ないほどの好物であった。
「火が――ッ!地下から火が出たぞ!」
悲鳴に似た誰かの声が、階を跨いで反響した。私はその時、一階の書架で棚の整理をしていたが、床の隙間から立ち昇ってくる黒煙の匂いに、指先が瞬時に凍りついた。
「みんな、水を!水属性の魔導書を持ってきて、ここに集まって!」
小悪魔様の切迫した声が、館全体に響き渡る。普段の冷淡な統率とは打って変わり、その声には隠しきれぬ焦燥が滲んでいた。無理もない。パチュリー様が生涯をかけて蒐集した書物の山が、今まさに紅蓮の中で灰へと変わろうとしているのだから。
妖精メイドたちが、蜘蛛の子を散らすように駆け出していく。桶の水を運ぶ者、水属性の呪符を握りしめる者、崩れる書架から本を救い出そうと素手で炎に飛び込む者――館は瞬く間に、悲鳴と怒号と、炎の爆ぜる音とで満たされた阿鼻叫喚の坩堝と化した。
私もまた、渡された空の桶を手に、燃え盛る書架の方角へと駆け出そうとした。
だが、その足が、途中でぴたりと止まった。
――未分類の棚。
脳裏に閃いたのは、あの暗い隙間に隠した、革装丁の本のことだった。地下から噴き上がった炎は、既に一階の奥、私たちが日々の労働に明け暮れるあの薄暗い書架の列にまで、赤い舌を伸ばし始めている。あの場所は、まさに火元から真っ直ぐに延びる炎の通り道の、すぐ側であった。
思考するよりも先に、身体が動いていた。
周囲の悲鳴も、水を求める怒号も、すべてが耳の奥で遠く滲んでいく。私はただ一心に、煙の充満し始めた廊下を、あの暗がりの書架へ向けて駆けた。
熱気が、肌を殴りつけるように押し寄せてくる。喉の奥が、吸い込む煙で瞬く間にひりつき、涙が滲んで視界が霞んだ。書架の列という列が、既にオレンジ色の不気味な輝きを帯び始めている。崩れ落ちる棚の音、爆ぜる紙の音、そのすべてが、私の鼓膜を容赦なく叩いた。
「メガネ!危ない、戻ってきて!」
誰かが――おそらくはリリの声が――遠くで私を呼ぶのが聞こえた。だが、私は足を止めなかった。止められなかった。
目当ての書架は、既に半分が炎に舐められていた。棚板の隙間から立ち昇る黒煙が、視界を灰色に塗り潰していく。私は袖で口元を覆いながら、記憶を頼りに、最も暗い隙間へと手を伸ばした。
指先に、革の感触が触れた。
あった。
私は震える手でそれを掴み取り、胸元に抱き込んだ。その瞬間、頭上の棚板が、耐えきれぬとばかりに大きく軋み、崩れ落ちてきた。私は咄嗟に身を捩り、燃える木片の直撃を辛うじて躱す。だが、飛び散った火の粉の幾つかが、抱きかかえた本の表紙に降りかかるのを、私は絶望的な思いで見つめていた。
革の表紙が、ジリ、と小さな音を立てて焦げ始める。
「駄目、駄目……ッ!」
私は転がるようにその場を離れ、燃え広がる炎の道から、廊下の外へと必死に這い出た。煙にむせ返りながら、抱きかかえた本を、何とかして炎から守ろうと、両腕できつく抱きしめる。だが、既に表紙の端に燃え移った小さな火は、私の腕の中で、なおも執拗に頁の奥へと食い込もうとしていた。
誰かが投げつけた水の桶が、頭上から降り注いだ。冷たい飛沫が、私の身体を、そして腕の中の本を、容赦なく叩いた。
ようやく火の勢いが収まり、周囲の喧騒が、遠くの水音と怒号とに変わっていく頃、私はその場に膝から崩れ落ちた。
濡れそぼった腕の中で、私はゆっくりと、恐る恐る、その本を見下ろした。
革の表紙は、もはやかつての深い臙脂色を留めてはいなかった。全体が煤に覆われ、端という端が黒く縮れ、炭のように脆く崩れかけている。震える指先で、そっと表紙を開こうとした。
だが、頁は、開かなかった。
水を吸い、熱に炙られた紙という紙が、互いに溶け合うようにして、ひとつの黒い塊へと変わり果てていたのである。ミルの綴った歪な文字も、レンの記した几帳面な模様も、私が描いた拙い絵の数々も――そのすべてが、判別のつかぬ、ただの黒い澱の中へと沈み込み、永遠に閉ざされてしまっていた。
周囲では、まだ消火の作業が続いている。誰かの怒鳴り声、水を運ぶ足音、崩れた書架を退かす軋み。それらすべてが、酷く遠い世界の出来事のように、私の耳の奥を素通りしていった。
私はただ、煤にまみれた両手の中で、黒く固く縮こまった、かつて白かった本を、いつまでも見つめ続けていた。
生垣の陰に辿り着いた頃には、日はすでに西へ大きく傾いていた。
消火の混乱がようやく収まり、館の主だった者たちが煤と疲労にまみれて後片付けに追われる中、私は誰にも見咎められぬよう、その場をそっと抜け出してきたのだった。腕の中には、あの黒く固まった塊を、まるで壊れ物を抱くようにして。
「メガネ? 何よその煤だらけの格好、大丈夫なの――」
真っ先に気づいたミルが、駆け寄ってこようとして、途中で足を止めた。私の腕の中にあるものの正体に、彼女もまた気づいたのだろう。快活な声が、急速に萎んでいくのが分かった。
「それ……」
私は何も言えず、ただ黙って、その黒い塊を差し出した。
レンもまた、いつもの気だるげな瞼を、僅かに見開いていた。三人の間に、しばしの沈黙が落ちる。生垣を透かして差し込む夕暮れの光だけが、赤く、私たちの影を長く地面に伸ばしていた。
私の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。声を殺そうとしても、嗚咽が喉の奥から次々とせり上がってくる。あの白い頁に閉じ込めた、ミルの歪な文字も、レンの几帳面な模様も、私の拙い絵も――そのすべてが、もう二度と開くことのない、ただの黒い塊になってしまった。それが悲しくて、悔しくて、涙が止まらなかった。
「ちょっと、メガネ。そんな顔しないでよ」
ミルが涙声のまま、努めて明るい調子で言った。
「まったく、次からはもっと燃えにくい紙を盗まないと駄目じゃない。今度盗むなら、防火の術式でも編み込んである高級品にしましょ。パチュリー様の書斎になら、きっとその手の稀覯本があるはずだわ」
その憎まれ口の震え具合から、彼女もまた懸命に涙を堪えているのが分かった。ミルらしい慰め方だった。悲しみを真正面から言葉にするのではなく、いつもの軽口に紛れさせて差し出す、不器用な優しさ。
レンは、何も言わなかった。
ただ黙って、庭仕事の合間にでも拾い集めていたのだろう、細く尖らせた炭の欠片を一本、自分のポケットから取り出すと、それを私の掌の上に、そっと置いた。言葉よりも雄弁な、その静かな仕草に、私はいっそう涙腺が緩むのを感じた。
私は濡れた頬を袖で拭いながら、膝の上の黒い塊を、もう一度見下ろした。
指先で、恐る恐る、その端に触れてみる。頁と頁とが溶け合い、固く閉ざされたその塊は、もはやどこにも文字の痕跡を留めてはいなかった。ミルが綴った愚痴も、レンが記した発見も、私が描いた似顔絵も――そのすべてが、判別のつかぬ、ただの黒い澱の中へと還元されてしまっている。
ふと、私の脳裏に、この本を最初に手にした日のことが過った。
あの日、私はこの本の「白さ」に惹かれたのだった。意味のない模様に囲まれた世界の中で、何も書かれていない純白の頁だけが、私の呼吸を許してくれる聖域のように思えた、と。
――今、この本は、再び「何もない」ものへと還った。
白ではなく、黒として。だが、その本質において、それはどこか似通っているようにも思われた。私たちが刻んだ記憶も、笑い声も、愚痴も、もはやそこには存在しない。けれど、それは決して「消えた」のではなく、ただ、誰にも読めぬ、私たちだけの永遠の沈黙へと姿を変えたのだ――そう考えることは、あまりに都合の良い慰めだろうか。
「ねえ、メガネ」
ミルが涙を拭いながら、いつになく真剣な声で言った。
「もう一回、書き直さない?」
「……また燃えるかもしれないわよ」
「そうね。また燃えるかもしれない。もしくは盗まれるかもしれないし、誰かに見つかって、パチュリー様に灰にされちゃうかもしれない」
ミルは、それでも笑ってみせた。涙の跡の残る顔で、精一杯の強がりを浮かべて。
「でも、それがどうしたの? 私たちの命だって、いつだって薄氷の上にあるじゃない。それでも私たちは、こうして今日も生垣の下で笑ってる。だったら、日記だって同じでしょ。いつか消える運命だからって、書かない理由にはならないわ」
レンもまた、小さく頷いた。
「どうせ、いつかは私たち自身も、代わりの誰かに置き換わる。それでも、今日この瞬間だけは、私たちのものだもの」
その言葉に、私は掌の上の炭の欠片を、そっと握りしめた。
燃え尽きた過去は、もう戻らない。けれど、目の前には、まだ何も書かれていない、新しい頁がある。それがどれほど儚く、どれほど脆いものであったとしても――この一瞬の温もりを、この一瞬の笑い声を、書き留めておく価値が、ないはずはなかった。
私はエプロンの中から、代わりの白紙の帳面を――厨房から失敬してきたのだろう、ミルが差し出した薄い紙束を――受け取ると、膝の上に広げた。
生垣の隙間から差し込む夕暮れの光の中で、無数の埃が、まるで祝福のようにゆっくりと舞い落ちていた。その静かな光の道筋を眺めながら、私は受け取った炭の筆を握り直し、真新しい頁の片隅に、今日という日の――涙と、笑い声と、二人の優しさの輪郭を――そっと描き始めた。
紅魔館という名の、巨大で理不尽な檻は、明日もまた変わらず、そこに在り続けるのだろう。
けれど、この狭い生垣の陰にだけは、何度失われても、何度でも書き直される、私たちだけの小さな永遠が、たしかに息づいていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回、初めての長編規模の作品となりましたが、いかがだったでしょうか。文体の切り替えや構成など、色々と試行錯誤しながら書いた分、至らない点も多々あったかと思います。それでも、何かしら心に残るものがあれば、これほど嬉しいことはありません。
今後も、不定期にはなりますが、文学的な要素を取り入れた東方Project二次創作小説を投稿していきたいと考えています。既存の型に囚われず、様々な文体や構成に挑戦しながら、東方という世界の新しい切り取り方を模索していくつもりです。次にどんな作品になるかは私自身もまだ分かりませんが、その挑戦の過程も含めて、気長にお付き合いいただければ幸いです。
感想やご意見など、いただけましたら今後の励みになります。それでは、また次回作でお会いできることを楽しみにしております。