もしも薙切薊の性格がマイルドだったら 作:作者さん
「少し手伝ってほしい作業があるんだ。味見も兼ねてなんだけど……いいかな、美作?」
事の始まりは、第一席・司瑛士のそんな気まぐれな一言だった。
秋の選抜以降、付き人を兼ねて司の持つ圧倒的な技術を盗むという名目で調理アシスタントを引き受けていた美作昴は、その誘いに二つ返事で頷いた。
『第一席の調理のサポートと試食』――それは、絶対的な技術を持つ司の技術を間近で観察し、己をさらに高次元へ引き上げるための絶好のチャンスだったからだ。
だが、連れられてきた会場の扉を開けた瞬間、美作は己の目を疑った。
そこは遠月学園内の巨大な調理棟。そして、会場を埋め尽くしていたのは、異様な熱気と殺気を発する無数のセントラル所属の生徒たちだったのだ。
「――の座を懸けた、セントラル選抜生徒による『バトルロワイヤル』を開幕いたします!!」
司会進行を務める川島麗の声がスピーカーから鳴り響き、会場中がウォオオオッ! と地鳴りのような歓声を上げる。
「……は?」
状況がまったく飲み込めず、呆然と立ち尽くす美作。そんな彼の背中を、司は悪びれもせずポンと叩いた。
「じゃ、頑張ってね美作。俺、上で見てるから」
「……いや、司先輩、手伝いってのは――」
「うん、このバトルロワイヤルのカンフル剤の役。頼んだよ」
「俺に事前の情報収集(リサーチ)も一切なしでだぁ!?」
美作の悲痛なツッコミは、開戦を告げる銅鑼の激しい音と、会場を揺るがす歓声によって無残にかき消された。
「……チッ。あの天然の無茶振りには呆れるが……まぁいい」
盛大に舌打ちをしながらも、美作は即座に頭を切り替えた。
先ほどの川島麗のアナウンスの前半は歓声でよく聞こえなかったが、要するにこれはセントラルの精鋭たちを集めた大規模な実力テストであり、自分はその「カンフル剤(刺激役)」として放り込まれたということだろう。
(準備もへったくれもねぇが……やってやるよ。今の俺がどこまでやれるかの、丁度いい腕試しだ)
美作は鋭い眼光で、周囲の調理台に立つセントラル上位の実力者たちの動きを一瞬でスキャンした。彼らが選んだ食材、下ごしらえの手順、調理工程、そしてその皿に込めた狙い。
事前の徹底したストーカー行為がなくとも、今の美作は相手の挙動を見るだけで、それらを瞬時に脳内で組み立て、完璧に模倣、そしてアレンジをすることができた。
(こいつのフレンチの構成、悪くねぇ。だが……火入れが凡庸だ。俺ならこうする。……いや、違うな)
美作の脳裏にフラッシュバックするのは、第一席・司瑛士のあの白く洗練された狂気の調理風景。
(『司先輩なら、どう昇華させるか』……!)
相手の料理を完全にトレースした上で、己の周到なアレンジを加える。さらにそこに、アシスタントとして間近で焼き付けた「司瑛士の絶対的な素材へのアプローチ」を擬似的に自分のアレンジ技術に乗せる。
それはもはや、相手の料理をコピーしたという次元を超え再構築(リニューアル)、暴力的でさえある洗練の極致だった。
数十分後。
「な、なんだあの皿は……っ!?」
「俺たちの料理の意図を完全に汲み取った上で、遥かに高い次元で完成させているだと……!?」
「ひ、一つも勝てない……ッ!!」
次々とセントラルの生徒の口に運ばれる美作の料理。それを口にした生徒たちは感嘆の声を上げ、圧倒的な格の違いを見せつけられて次々とその場に膝をついていった。
だが、当の美作本人はといえば、周囲のどよめきや絶望する生徒たちの姿など一切気にも留めず、ひたすらに自分の作った皿と睨み合っていた。
(……ダメだ。司先輩なら、このソースの乳化にあと0.1秒はこだわったはずだ。香りの抜け方も甘い。素材の声が全然聞こえてねぇ……俺の研鑽が足りねぇ……!)
美作はブツブツと一人で反省の弁を呟きながら、すぐさま次の標的(ターゲット)の調理台へと向かっていく。
「さぁて次は……お前か。そのスパイスの配合、意図はわかるが香りが喧嘩してるぜ。俺ならこうまとめるが……司先輩なら、さらにこう削ぎ落とすはずだ!」
もはや美作の目には「勝敗」など映っていなかった。
彼にとってこの場は、司瑛士という途方もない高みに少しでも近づくための、ただの『実践的な調理実験の場』でしかなかったのだ。
「す、凄まじいペースで勝ち進んでいくぅーっ!! まさか飛び入り参加の彼が、空席となった十傑の座を奪って行ってしまうのかぁーっ!?」
マイクを握りしめる川島麗が興奮気味に実況を叫ぶが、美作の耳にはそれすら届いていない。彼の脳内は「ソースの温度管理」と「司先輩の技術の再現」で完全に支配されていた。
(よし、この温度帯なら……いや、待てよ。この前司先輩がやっていたアプローチをここで組み込めば……!)
無自覚なまま、周囲をちぎっては投げ、圧倒的な実力差でなぎ倒していく美作昴。気づけば、彼は傷一つ負うことなく、汗を拭いながら満足げな息を吐いていた。
「ふぅ……。まぁ、咄嗟の対応にしちゃあ悪くねぇ実験になったな。いい腕試しになったぜ」
自分を取り囲むようにして倒れ伏す無数のセントラル精鋭たちを一瞥し、美作は首をコキッと鳴らした。
自分がたった今、このバトルロワイヤルを完全制覇し、何を手に入れてしまったのか。その重大な事実に、彼はまだ微塵も気がついていなかったのだった。
「第三席就任、おめでとう美作!」
パーンッ! と軽快なクラッカーの音が、無駄に豪奢なサロンの一室に響き渡った。
後日。司に呼び出された美作を待っていたのは、「祝・遠月十傑第三席就任」とデカデカと書かれた手作りの横断幕と、ニコニコと無邪気に拍手を送る第一席・司瑛士の姿だった。
「…………」
美作はピクリとも表情を変えず、ただ重く、長いため息を一つ吐き出した。
「……司先輩。俺は別に、こんな席欲しかったわけじゃねぇんですが」
「えっ、そうかい? でも圧倒的だったよ。素晴らしい腕試しになったじゃないか」
「腕試しにはなりましたけどね。俺の目的は、アンタの技術を間近で研究して自分の力にすることです。こんな席をもらったって、十傑としての雑務が増えて自分の研鑽の時間が削られるなら割に合わねぇでしょうが」
実際、十傑という立場は美作にとって面倒なものでしかなかった。ただでさえ進級試験を控え、司の神がかった技術を盗むための仕込みやリサーチに時間を割きたいのだ。自分の腕を磨く以外の仕事を増やされるのは御免だった。
「あー、そのことなんだけどね」
司はふふっと人の良さそうな笑みを深めると、美作の肩を軽くポンと叩いた。
「俺のサポートとして動いてもらうなら、君自身に十傑の権限があった方が何かと便利だなって思って。高価な食材の申請も顔パスで通りやすくなるし、セントラルの最新施設も使い放題になるからね。君の『研鑽』にも役立つはずだよ」
「……なるほど。アンタが求めるレベルのサポートをするには、俺にも権限があった方がお互いに都合がいいと」
「うん、そういうこと! あ、でも安心してよ。美作の進級試験は、薊総帥に話をつけて事前に特別パスをもらっておいたから。前の貸しを使ってね」
「……は?」
「一応形式的な試験はパパッと短縮日程でやってもらうけど、本試験の面倒な行程からは免除だ。今更美作がやっても仕方ないからね。……これで、思う存分俺のサポートと君自身の研鑽に打ち込めるな」
にっこりと、一切の悪意なく言い放つ司。
目の前の第一席は、純粋に料理の質を高めるための合理的な判断として美作の環境を整えたことに対し、微塵の疑問も抱いていない。良くも悪くも、料理にしか興味のない男だった。
進級試験をショートカットできるのは確かに大きなメリットだが、それ以上に「十傑第三席」という重すぎる肩書きと、それに伴う膨大な書類仕事や学園運営の雑務が自分の背中にのしかかってくることは確定してしまったのだ。
「……はぁ。どうしたもんかな」
誰もが羨む遠月十傑・第三席の座。
しかし当の美作昴は、ただひたすらに己の研鑽時間が削られる未来を憂い、巨大な体で深々と肩を落とすのだった。
――
試験会場の静寂を破ったのは、審査員の溜息と、カチャリと調理道具が触れ合う静かな音だった。調理台の前で、丸井善二と伊武崎峻が絶望に打ちひしがれて膝をついている。
彼らが極星寮で練り上げたアイデアも、積み重ねてきた工夫も、目の前の巨漢――新十傑三席・美作昴の前に完全に粉砕されていた。
だが、美作の顔に勝利の誇りや、相手を見下すような色は微塵もない。
「ふぅ……」
美作は汗を拭うと、胸ポケットから愛用の手帳を取り出し、黒のボールペンを滑らせた。カリカリと紙を削る音だけが、静まり返った室内に響く。
(丸井のデータに基づく構成力の高さ、分析の鋭さは悪くねぇ。伊武崎の薫製技術も香りの重ね方が巧妙だ……相手の強みを活かした良い発想だぜ)
勝ち負けなどどうでもいいと言わんばかりに、美作は二人の料理の美点を客観的に評価し、手帳へと淡々とメモしていく。そして、その視線は即座に「改善」へと向けられた。
(……だが、データの精度に満足して素材そのものの声を聞き逃してやがる。薫製もそうだ。煙のあて方は悪くねぇが、司先輩のアプローチを取り入れれば、食材の旨味を損なわずに香りの抜け感をあと二段階は高められる。……俺なら、こう改良する)
今の美作にとって、この試験もただの研鑽の場に過ぎない。
相手の発想の良さを素直に認め、それをトレースした上で「司瑛士の洗練」を組み込み、どうやって己の皿として昇華させるか。その冷徹な思考と記録だけが、彼の脳内を占めていた。彼らの料理をさらに再構築し、さらに発展させていく。そうして己の糧にしてくために。
手帳をポケットに仕舞うと、美作は膝をつく二人へ短く言った。
「いい皿だったぜ、二人とも」
それ以上は何も語らず、周到に手入れされた包丁ケースを抱えると、美作はサッサと会場を後にした。
試験会場を出た静かな控室の廊下。重い足取りで歩く美作の視線の先に、別の会場から出てきた人物の姿があった。
セントラルで十傑の七席となった新戸緋沙子。彼女もまた、極星寮のメンバーである吉野と榊をその圧倒的な技術で退けてきたところだった。
美作はバッグを肩に担ぎ直すと、正面から歩いてくる同級生へひらりと手を挙げた。
「おつかれだ、新戸。そっちも無事に終わったようだな」
十傑の席順や立場の差、あるいはかつての対立など微塵も気にしない、同い年ならではの拍子抜けするほどあっさりとした声掛け。
緋沙子が一瞬足を止め、ふっと肩の力を抜いて美作を見つめ返した。
「……美作か」
静かな口調で緋沙子は言葉を返す。手元には先ほどの食戟での気が付きをまとめたメモ帳が握られており、自分が下した相手の長所を自分のものにしようとしているのだろう。
相変わらず余裕のないこって、と。言葉を口の中で潰し言葉を続ける。
「そっちも俺のついでに進級試験のパスはもらってるんだろ? あとは運営側として、審査の仕事を十傑として振られてるだけなんだから、少しは肩の荷が下りたんじゃねぇのか」
同級生のよしみで、美作は緊張を解すように軽く言葉を投げかけた。
しかし、緋沙子は手元のメモ帳をポケットにきっちりとしまい込み、小さく、だが固く首を横に振った。
「……いいえ。まだ、セントラルに恭順しないメンバーとの食戟が試験官役としてが残っている。気を抜くことなどできないだろう」
彼女の言う『恭順しないメンバー』とは、幸平創真や極星寮の面々をはじめとする反逆者たちのことだ。その言葉に、美作は不思議そうに眉を寄せた・
「ああ? 試験も何も、セントラルが組んだ日程と対戦カード通りなら、あいつらは全員他の十傑と当たって今日で落ちる予定だったはずだが……?」
悪気のない、単なる事実の確認。
だが、その無神経な言葉が発せられた瞬間、緋沙子の双眸が鋭く吊り上がり、キッと強い光を帯びて美作を睨みつけた。
「っ……!」
声こそ出さなかったものの、その視線には明確な怒りと反発がこもっていた。
彼女は今、セントラルの十傑という立場に身を置いているが、その心は主であるえりなと、彼女を支える極星寮の面々を誰よりも案じている。彼らがこんなところで無惨に散るなどと、微塵も思いたくなかったのだ。
(……おっと、地雷を踏んじまったか)
美作は気まずそうに頭を掻き、小さく息を吐いた。
そして、無言のまま険しい表情を崩さない緋沙子を、改めて頭のてっぺんから足の先まで『観察』する。
――メモ帳を握りしめていた指先の、無意識な強張り。
――袖からのぞく手首の細さと、呼吸の浅さ。
――そして何より、瞳の奥に隠しきれていない焦燥と、極度の疲労。
(……こいつ、様子がよろしくねぇな)
美作の鋭い観察眼は、彼女の異変を正確に捉えていた。
ただでさえストイックな性格の彼女が、「主の元を離れた」という重圧と、「己の研鑽」、さらに「反逆者たちへの密かな心配」という三重苦を一人で背負い込んでいるのだ。
張り詰めた糸は、今にもブチッと音を立てて切れそうだった。
(このまま放っておいたら、そのうちパタンと倒れちまうんじゃねぇか……?)
案外世話焼きな気質を持つ美作は、目の前の危なっかしい同級生を見過ごすことができず、ふぅ、とわざとらしく大きなため息をついた。
「おい新戸、そこ座れ」
「え……?」
美作は休憩室の席を顎でしゃくると、強引に緋沙子の肩を押して座らせた。抗議しようと立ち上がりかけた彼女の目の前に、スッと何かが差し出される。
それは、なぜか美作の巨大な手の中にすっぽりと収まっている、可愛らしい携帯用の裁縫セットだった。
「お前、袖口のボタン、取れかかってんぞ。気づいてなかったのか」
「あっ……!」
言われて初めて、緋沙子は自分の袖のボタンが今にも千切れそうな一本の糸で辛うじて繋がっていることに気がついた。日々の研鑽と重圧に追われ、身だしなみのチェックすら疎かになっていたのだ。
「ほら手ぇ出せ。5分で直してやる」
美作は対面に座り有無を言わさず緋沙子の手を引き寄せると、巨体からは想像もつかないほど繊細かつ俊敏な指使いで、針に糸を通した。
あまりの出来事に呆然とする緋沙子をよそに、美作は無駄のない手つきで取れかけていたボタンを縫い直し、周囲のほつれかけた糸まで手際よく処理していく。
「その……意外と、器用なのだな」
「くくく、俺の座右の銘は『微に入り細を穿つ』だ。これぐらいはできなきゃ自分からそんなこと言えやしねぇよ。……だってのに、第三席なんて大層な席に座らされたせいで、毎日のように大雑把すぎる災難の嵐だぜ」
美作は細い針と糸を巧みに操りながら、心底うんざりしたといった様子で大きな溜息を吐いた。
「司先輩のあの人はあの人で、思いつきで『美作なら俺に付いてこれるよね?』とか平気で言って無茶ぶりしてくるだろ? そこにあの第二席の竜胆先輩まで乗っかってきてよ……『えー! 美作ぁ、司の仕込み手伝えるならあたしの珍味の下処理も手伝えよー!』とか言ってくる始末だ。できねぇとは言わないが二人揃って俺をなんだと思ってんだか」
文句を垂れながらも、美作の手元は一切狂わない。針先は迷いなく白衣の生地を縫い進め、しっかりとボタンを留め直していく。そしてしっかりと玉留めをしてすっとハサミで糸を切った。
何一つ説教めいたことは言わず、ただ自分の身に降りかかる理不尽な災難と厄介ごとをマイペースに愚痴る美作。
だが、その巨大な男が放つどこかトホホな空気と、次から次へと飛び出す十傑上位陣の規格外な被害報告を聞いているうちに――緋沙子の胸を占めていたドロドロとした焦燥や重圧が、少しずつ毒気を抜かれていく。
「……小林先輩が無茶ぶりをしている光景はよく見かけるが、司先輩も案外、人に遠慮というものをしないのだな」
丁寧に糸を切って手際よく針を収める美作の手元を見つめながら、緋沙子はどこか感心したようにぽつりと呟いた。
「ま、あの人は悪気ゼロで『これくらい美作なら出来るよね?』って要求してくるからタチが悪いんだよ。俺が付き人も兼ねて仕込みを手伝ってるから、これくらい無茶ぶりしてもいいよね、くらいの感覚なんだろ」
美作は慣れた手つきで携帯用の裁縫セットをバッグに放り込むと、ニッと意地の悪い笑みを浮かべて緋沙子を見下ろした。
「……お前も人ごとじゃねぇだろ。そっちの薙切から、そんな感じで無茶ぶりされたりしてねぇのか?」
「なっ……! えりな様がそのような無茶をなさるはずが――」
反射的に毅然とした態度で言い返そうとした緋沙子だったが、言葉の途中でぴたりと口動きが止まった。
脳裏をよぎるのは、かつて水戸郁魅と丼研の巡る食戟のように、他の集会と食戟をして回ったときの後処理の山々。日常のちょっと抜けたところのあるえりなの言に冷や汗をかきながら必死に対応してきた数々の記憶――。
「…………」
緋沙子の頬がわずかにひきつり、気まずそうに美作から視線を外すと、明後日の方向を向いて小さな声を絞り出した。
「………………そんなことは、ない」
「ハッ、完全に『ある』って顔してんじゃねぇか」
「なっ……! 無いと言っているだろう!!」
美作の容赦ないツッコミに、緋沙子は顔を真っ赤にしてむきになり、必死に否定してみせた。例えば黒木場や相田もここにいたのであれば大いに頷いていただろう。薙切家や十傑の付き人とは案外そんな感じだった。
だが、そうやってむきになって反論しているうちに、彼女の肩に重くのしかかっていた緊張感は抜けていく。
「えりな様はともかく。ともかく! 随分と苦労を買って出ているみたいだな」
「買ってというか押し売りと言うか、俺の身にもなってほしいぜ、まったく」
思わず口元を綻ばせた緋沙子を見て、美作もやれやれといった様子で肩をすくめた。
張り詰めていた空気が和らぎ、緋沙子はふと、先ほどから気になっていた一つの疑問を口にした。
「しかし……上にいる第一席と第二席の無茶ぶりはともかくとして。お前は一年でありながら、特例で第三席に抜擢されたわけだろう?」
「まぁな」
「元からその席に近かった茜ヶ久保先輩や斎藤先輩から、何か言われたりしなかったのか?」
年功序列や本来の実績を飛び越えて、いきなり自分たちの上位、あるいは同格の席に座った後輩。プライドの高い十傑メンバーであれば、少なからず反発や苦言があってもおかしくないはずだ。
緋沙子がなにげなく尋ねると――美作はピタリと動きを止め、なんとも言えない『渋い顔』を作った。
「……いや。あの二人は、なんていうか、司先輩たちとはまた別のベクトルでだな……」
歯切れ悪く美作が言い淀む。
「なぁ、新戸。……例えばの話だ。元々『滅茶苦茶すごい先輩』っていう、どうあがいても頭が上がらねぇ相手と、同等かそれ以上の『権限』が突然手元に入ってきたら、どうなると思う?」
「え? そ、それは……同等の権限なのだから、対等に意見を交わしたり、仕事を公平に分担し合ったり……」
「おう、そうなると理想的ってやつではあるんだが……」
「――面白い話をしているな」
開け放たれていた控室の扉から、野太く静かな声が響いた。
ビクッと肩を揺らした緋沙子が視線を向けると、そこには巨大な包丁を背負った五席・斎藤綜明と、大きなぬいぐるみの『ブッチー』を抱えた四席・茜ヶ久保ももの姿があった。
「さ、斎藤先輩! 茜ヶ久保先輩……!」
慌てて姿勢を正す緋沙子。だが、当の美作は驚く様子も見せず、軽いノリで手を挙げた。
「うす、ちょうどお二人の噂をしてたんですよ」
「ふむ……。美作これを。食べるといい」
斎藤は静かに頷くと、風呂敷に包まれた小ぶりな木箱を美作へと差し出した。
「お、マジか斎藤先輩! 例の新作?」
「いや今回は別件だ。新戸もこれを」
「えっ……あ、ありがとうございます?」
斎藤から手渡された木箱の蓋を、美作と緋沙子は同時にそっと持ち上げた。
中に収められていたのは、目にも鮮やかな小ぶりの花ちらしだった。酢飯の上には職人らしい繊細で細やかな仕事が施されており、何より目を引いたのは、武士のような厳つい斎藤の風貌からは到底想像もつかない、かわいらしい花型に切り抜かれた具材や、小さく丁寧に切り揃えられた卵焼きだった。
「これは……」
予想外の可憐な仕上がりに、緋沙子は思わず目を見開いた。張り詰めていた心と体に染み渡るような、じんわりと暖かい優しさが胸の奥から込み上げてくる。
その手元を横から覗き込んだももが、楽しそうに目を細めて茶化すように口を開いた。
「ふ〜ん? 綜みゃんのくせに、随分とかわいいもの作っちゃったんだね?」
「……可愛いものを仕込めと言ったのは、お前だろう」
ももの容赦ない言葉に、斎藤は気まずそうに視線を泳がせながら、ぼそりと低い声で呟いた。そんな斎藤の反応を楽しんだももは、思い出したように首をかしげる。
「ねぇ、ももの分はないの?」
「……もう一つはあるが」
斎藤が苦虫を噛み潰したような微妙な表情を浮かべると、ももは待ってましたとばかりに小さな手を差し出した。
「綜みゃんには似合わないから、ももが代わりにもらってあげるね」
「まぁ、確かに。否定はせんが……」
何かと言いたげに眉間をぎゅっと押さえながらも、斎藤は諦めたように手元にあったもう一つの木箱をももへと手渡した。
無事に花ちらしを手に入れたももは、特に許可を取ることもなく、そのまま席に座っていた緋沙子のすぐ隣へとごく自然に詰め、ちょこんと腰を下ろした。突然の急接近に緋沙子は背筋をピンと伸ばしたまま固まり、どう対応すべきか深く困惑してしまう。
そんな三人のかみ合わないやり取りを一瞥した斎藤は、静かに腕を組むと短く言葉を置いた。
「少し待っていろ。茶を入れてこよう」
重厚な足取りでその場を後にする斎藤の背中を、残された三人はそれぞれの表情で見送った。
「──で、綜みゃんからは美味しいごはんをもらったから。じゃあ、ももからはこれね」
ももは抱えていたブッチーの陰からバインダーを取り出すと、至極当然といった顔で美作の前へと差し出した。挟まれているのは、見るからに面倒そうな『十傑評議会・案件処理申請書』の束だ。
「うおっ……! 勘弁してくださいよ茜ヶ久保先輩、こっちの先輩からの差し入れは要らねぇ~」
美作は大袈裟に両手を掲げ、冗談交じりに退散するような仕草をして見せた。
「それって……たしか茜ヶ久保先輩に割り振られていた業務では……?」
木箱を持ったまま固まっていた緋沙子が、恐る恐るバインダーに躍る厳めしい文字タイトルを覗き込み、引きつった声で尋ねた。
「つまりだ、新戸。さっきのお前の質問の続きになるんだがな」
美作は苦笑いを浮かべながら肩をすくめると、諦めたようにバインダーを受け取り、慣れた手つきでパらパラと書類をめくり始めた。
「俺に十傑としての権限と処理能力がついたせいで、上の先輩方は『あ、美作に投げれば終わるじゃん』って、こぞって俺に仕事を押し付けやすくなったわけだ」
「り、理屈は分かるが……」
「うしっ、これぐらいなら15分もありゃ終わるな」
先輩としての威厳も何もない理不尽な裏事情に緋沙子が絶句していると、当のももは手元の木箱に視線を落としたまま、素知らぬ顔でぽつりと呟いた。
「いいの。その代わりにたまに綜みゃんやもものストーカーをさせてあげてるんだから」
「スっ!? そ、その……! 幾ら研鑽のためとはいえ、女性に対して『ストーカー』という響きはいかがなものかと……!」
言葉のチョイスがあまりに危うすぎており、緋沙子は思わず額に冷や汗を浮かべて困惑の声を上げた。
「くくく、問題ねぇよ新戸。俺の手にかかれば、茜ヶ久保先輩のトレースもモノマネも完璧だぜ」
「そっちではない!!」
「モノマネは本当に可愛くないからやめて美作」
緋沙子は即座にバシッと鋭いツッコミを飛ばした。ももすらも真顔で名前を読んでいた。
美作の言う「ストーカー」が、相手を完膚なきまでに模倣するための彼特有の徹底的な事前リサーチと観察、トレースを指していることは、頭では十分に理解できている。
できているのだが──
(茜ヶ久保先輩の可憐で幼い容姿を相手に、この巨大な男が張り付いて情報収集をしている絵面は……いくら実力至上主義でほぼ無法地帯の遠月とはいえ、一線を超えて本気で手錠がかかるのではないか……!?)
緋沙子はひそかに冷や汗を流しながら、威圧感溢れる巨漢と同級生、そしてぬいぐるみを抱えてちょこんと隣に座る小柄な四席の姿を交互に見比べ深く困惑する。
「待たせた。麦茶を温めたものだが、張り詰めた体にはこの方がよかろう」
戻ってきた斎藤が、湯気の立つ湯呑みを三人の前に静かに並べた。立ち上る香ばしく優しい香りに、緊張の糸がふっと解けていく。
「うす、いただきます。助かります、斎藤先輩」
美作は短く礼を言うと、迷いなく箸を伸ばして花ちらしを一口口に運んだ。それを見届けた緋沙子も、促されるようにして可憐な木箱から上品に一口分を掬い上げ、そっと口へと運ぶ。
「っ……!」
口に入れた瞬間、緋沙子は思わず目を見開いた。
絶妙な塩梅の酢飯の上で、マグロや白身魚といった海鮮が滑らかに解けていく圧倒的な舌触りの良さ。角のない酢の酸味と、噛み締めるたびに溢れ出す魚介の芳醇な旨味が、完璧な調和となって舌の上を包み込んでいく。
「鮮度や仕事の丁寧さは勿論ですが……この舌触りと解け具合、まるで魔法のようです……」
感嘆の溜息を漏らす緋沙子の横で、美作は手元の刺身の断面をじっくりと観察し、むうと唸り声を上げた。
「……魚の飾りにするときの、飾り包丁の『切り目の数』と『深さ』がポイントか……? 見た目の可愛らしさだけじゃねぇ。舌に乗せた瞬間の崩れ具合と、醤油の馴染み方を計算して入れられてやがる」
「……気がつくか、美作」
斎藤は静かに腕を組むと、満足そうにひとつ頷いた。
「見栄えを整え、食感を柔らかくするための飾り包丁だが……技巧に走り、包丁を入れすぎてしまえば逆効果になる。素材の繊維が破綻し、包丁の切り口から大切な脂と旨味が逃げ出して、ただの水っぽい刺身に成り下がってしまう」
武士のような眼光をわずかに和らげ、斎藤は手元の木箱を見つめながら言葉を継ぐ。
「可憐な花型を保ちつつ、魚の命を最も活かす『絶妙な切り目の数』……余計な一刃を削ぎ落とした境界にこそ、職人の真価が問われる」
「なるほど……。華やかな見栄えと素材の引き算か。相変わらず、厳ついお顔に似合わねぇ繊細な仕事をする……」
「美作。余計な一言だ。あとはお前が言えたことか」
苦笑する斎藤に対し、ももは呑気に湯呑みをすする。緋沙子は斎藤の圧倒的な包丁冴えとその職人論に、ただただ息をのんで感じ入るのだった。
「……やりすぎない程度が、ちょうどいいの」
温かいお茶を一口飲み干すと、ももは抱きしめたブッチーの頭を撫でながら、どこかのんびりとした、けれど揺るぎない声で言葉を継いだ。
「デコレーションだって、線をいっぱい入れて細かく描けば描くほど、どんどん『かわいい』からは遠ざかっちゃうの。線を減らしてシンプルにした方が、ずっと綺麗で可愛くなるんだよ」
「……引き算の可愛さ、ですか」
「そう。綜みゃんのこれだって、下手に触りすぎないでシンプルに仕上げてるから可愛いんだから」
ももの言葉は、先ほどの斎藤が語った「余計な一刃を削ぎ落とす」という職人論に見事に重なっていた。武士のような料理人と、可愛らしさを極致まで追求するパティシエ。一見正反対に見える二人の十傑が共有する美学に触れ、緋沙子はハッと息をのんだ。
(……そうか。二人は……)
手元の木箱を見つめたまま、緋沙子の胸の奥にじんわりと熱いものが広がっていく。
斎藤が差し出してくれた、心と体に染み渡る花ちらしと温かいお茶。ももが持ち込んできたマイペースな空気と、自然と肩の力が抜けるようなやり取り。
彼らはただ気まぐれでここに現れたわけではない。十傑という過酷な立場と重圧の中で、張り詰めた糸が今にも切れそうになっていた自分の異変を察し、彼らなりの不器用で温かなやり方で気遣ってくれていたのだ。
先輩たちの心遣いが胸に染み渡り、緋沙子の目元にじわりと熱い涙が浮かび上がる。
「……ありがとうございます、先輩方」
頭を下げ、込み上げる感情を抑えるように小さく唇を噛んだ。だが、感謝の念が膨らむ一方で、彼女の胸には重苦しい自己嫌悪が鎌首をもたげた。
「……ですが、それでも私は……っ」
途切れ途切れに漏れ出た声には、自虐と焦燥が混ざっていた。
目の前に入る同級生の美作は、第三席という巨大な重責や理不尽な災難を背負わされながらも、一切ブレることなくすべての環境を己の『研鑽』へと変えている。それに引き換え、自分はどうだ。主であるえりなから離れたという不安と焦りに押し潰され、今も先輩の心遣いに感嘆するだけで料理人としての研鑽すら疎かにしかけていたのだから。
(美作はこんなにも前だけを見て進んでいるのに……私は何をやっているんだ……!)
己の未熟さに苛まれ、ぎゅっと目を瞑って深みにはまりかけた――その瞬間。
むにゅん。
「……ッ!?」
両頬に柔らかく、絶妙な弾力を持つ感触が押し当てられた。
驚いて薄目を開けた緋沙子の視界を埋め尽くしたのは、ももが抱えるぬいぐるみ『ブッチー』の丸い手だった。
ももは小さな手でブッチーを巧みに操り、緋沙子の両頬をむにゅっと挟み込むと、そのままぐっと力を込めて口元を上へと押し上げた。強引に作られた、なんとも滑稽で歪な『笑顔』。
「……、あ、茜ヶ久保、先っ……!?」
「んー……やっぱり」
困惑して声を詰まらせる緋沙子をよそに、ももはブッチーの陰からひょっこりと顔を出すと、のんびりとした表情のまま緋沙子を覗き込んだ。
「そんなに眉間にシワ寄せて、可愛くないことするのは……この子かな?」
ふにふにとブッチーの手で緋沙子の表情をこね回しながら、ももはまるでイタズラが成功した子供のように、ふっと可憐に目を細めるのだった。
「それに……ひさにゃんも悪い子だね。ももの席まで欲しがって、びっくりさせちゃうし」
ブッチーの手をパタパタと動かしながら、ももがジト目でジロリと緋沙子を見上げる。
以前、楠との食戟直後、鬼気迫る狂気とともに第四席・茜ヶ久保ももを真っ直ぐ指差し、十傑の席を要求してみせた緋沙子のあの言動――聞き方によっては、この目の前にいる幼き四席の首を真っ向から獲りに行くと宣戦布告したようにも受け取れるものだった。
「そ、それは……その……ッ!」
突かれた痛所があまりに大きすぎ、緋沙子は顔を真っ赤にして口ごもった。あの時は主のために己を毒で染め、狂気の底から絞り出した威嚇であったとはいえ、こうして本人から直接突っ込まれると、言い訳の言葉すら喉に引っかかって出てこない。
狼狽える緋沙子の姿を静かに見つめていた斎藤が、温かいお茶に軽く口をつけ、重厚な声で静かに割り込んだ。
「……新戸。美作のことを気にしているようだが、こやつの背を追おうとする必要はない。今の美作と己を比べるのは、単なる思い上がりというものだ」
ばっさりと一蹴する斎藤の言葉に、緋沙子はハッと息をのんだ。
「今の美作は、いわば『健脚のついた巨鮪』のようなもの。陸の上であろうが、都会の雑踏であろうが、そこを大海原と錯覚して泥泥と泳ぎ回り、無限に脂を乗せていく段階にある。自らが置かれた環境の全てを無意識に喰らい、肥やしに変えてしまう怪物だ。今のあやつの真似をしようなどと焦ることは、お前にとって得策ではない」
厳格な眼光でそう語る斎藤の言葉に、美作自身は「えっ、俺、人混み泳ぐマグロすか?」と首をかしげている。だが、斎藤の分析はどこまでも正確だった。
美作本人は「厄介事ばかり押し付けられて迷惑している」と思い込んでいるが、現在の美作昴という男は、料理人としてとてつもない『成長のボーナスタイム』の真っただ中にいたのだ。
一席の司瑛士のアシスタントに引き抜かれたことを皮切りに、二席の竜胆、四席のもも、五席の斎藤といった遠月頂点たちの調理風景を、一番近くの特等席で日常的に観察し、その仕込みや技術に直接触れ続けている。
かつてのように「特定の相手を時間をかけてストーキングし、イメージだけで追跡(トレース)を固める」という段階は疾くに過ぎ去っていた。
超一流の技術をその場で見て盗み、即座に己の血肉として蓄積していく――。
それは単なる模倣の精度を上げる作業ではなく、美作昴という料理人自身の基礎体力と総合力を、異次元の勢いで研磨し、洗練させていく作業に他ならなかった。
斎藤の的確すぎる分析を聞いた美作は、少しバツが悪そうに頭を掻きながらも、どこか楽しげにニヤリと笑みを浮かべた。
「……まぁ、否定はしませんよ。確かに最近、料理が楽しくて仕方ねぇって感じはしてますからね。料理の研鑽の気晴らしに、別の料理作ったり、十傑の面倒な仕事片付けてるぐらいには調子いいっすから」
「それはワーカーホリックに近いな。あまり根を詰めすぎるな、ほどほどに休め」
「へいへい。まあ、アンタら先輩たちが卒業したら、嫌でも少しは休むとしますよ」
美作は飄々とした態度でうそぶきながら、その眼光だけはギラリと野心的な光を帯びていた。
「……それまでに、俺が見ることのできる『あんたらの技術』は、全部ひっぺがして盗んでやるつもりですからね」
一切の遠慮がない後輩の堂々たる宣言。しかし斎藤は気を悪くするどころか、頼もしいものを見るようにフッと口元を緩めた。
「ひさにゃんも、やりたいことがあって頑張ってるからねー」
ももが湯呑みを両手で持ちながら、のんびりとした口調で緋沙子を見つめる。
「頑張るなとは言わないけれど、ほどほどにね。……陸まぐろになっちゃうから」
「り、陸まぐろ……?」
先ほどの美作の例えを引き合いに出された謎の忠告に、緋沙子は目を白黒させた。
そんな彼女に対し、斎藤は腕を組み、静かに、しかし真摯な声色で言葉を紡ぐ。
「……新戸。お前が気がかりになっていること……薙切薊と薙切えりなの関係について、案じているのも分からなくもない」
「……!」
図星を突かれ、緋沙子はハッと息を呑んだ。
その通りだった。彼女が狂気じみた執念で十傑の座を奪い、今もなお神経をすり減らしているのは、全てえりなを薊の魔の手から守るためだ。
「そのために、お前が己を削って努力していることも、ここから見ているから知っている」
「斎藤先輩……」
不器用ながらも自分を見ていてくれた先輩の言葉に、緋沙子の胸がじんわりと熱くなる。
だが斎藤はそこで言葉を切ると、少しだけ険しい表情を作って見解を述べた。
「ただな……俺は、薙切薊という男が、ただの『鬼畜外道』だとは考えにくいと思っている」
えりなを苦しめる薊のやり方は到底賛同できるものではない。だが、料理人として、教育者としての薊の底知れぬ実力と理念には、単なる悪意では片付けられない何かがある。斎藤はそう肌で感じ取っていたのだ。
「鬼畜外道? ……もしかしてえりにゃん、おじさまから、いやらしなことされちゃったりしてるのかな? たいへ”っ!」
「……ッ!」
「たいへんだね」と無邪気に続けようとしたももの頭頂部に、ゴッ! と鈍い音を立てて斎藤の容赦ない手刀が突き刺さった。
「あ”ぅっ……!」
ももは両手で頭を押さえ、痛みに身悶えした。しかし、ここで酷い声を漏らしてのたうち回るのは『可愛くない』という彼女自身の確固たる美学が許さない。そのため、目に涙を浮かべ、ぷるぷると震えながら必死に無言で痛みを我慢するという器用な真似を見せている。
だが、ももの不用意すぎる発言の被害者は彼女だけではなかった。
「き、きちくげどう……っ! い、いやら…っ……!? え、えりなさまっ!!」
えりなのことになると冷静さを失う緋沙子の脳内に、ももの言葉をトリガーにして最悪の想像が広がってしまったらしい。彼女は両目をぐるぐると回し、顔を真っ赤にしてパニックを起こしかけていた。
コッ!!!
「あべっ!?」
次の瞬間、斎藤の放った重く鋭いデコピンが、緋沙子の額にクリーンヒットした。
目から火花が散るような強烈な衝撃に、緋沙子の視界がチカチカと明滅する。ぐるぐると回っていた最悪の思考が強制的にシャットダウンされ、緋沙子は額を押さえてその場にうずくまった。
「えげつねぇ……」
巨漢の美作ですらドン引きするほどの、小柄な女子二人に対する一切の手加減のない物理的ツッコミ。美作が思わずぼやくと、斎藤は静かに己の拳を下ろし、ふっと息を吐いて厳かに言った。
「近年の『男女平等の理念』というものは、悪くはないと思っているからな」
侍道において女性とは護る者だが……それはそれと近代の在り方も認められる。ある意味で斎藤も柔軟ではある。
「……ともかくだ」
額を押さえて悶絶する二人に対し、さすがの美作も引きつった苦笑いを浮かべていたが、斎藤は軽く咳払いをすると、何事もなかったかのように厳かな口調で話を戻した。
「薙切薊という男が、お前が危惧するようなただの……悪鬼羅刹に過ぎぬのであれば、俺も、隣におる茜ヶ久保も、彼に手を貸すような真似はせん。あの男は我らをセントラルへスカウトするためだけに自ら足繁く出向き、こちらの流儀にどこまでも歩み寄ってみせた。そして現に、総帥として一人でも多くの料理人を育成しようと腐心している姿は、自分の目にも確かに入っている」
(なにより……)
言葉には出さなかったが、斎藤の脳裏には以前、薊と交わした短い会話が浮かんでいた。
『新戸くんのことは、どうか気遣ってあげてほしい。彼女はひたむきで、少し根を詰めすぎるきらいがあるからね』
薊が斎藤に漏らしたその一言。それが自分に対し「慈悲深く配慮に満ちた総帥」を演じるための計算されたパフォーマンスだったのか、あるいは彼女の異様な気迫に対する本心からの警戒と配慮だったのか……今の斎藤に確たる判断はつかない。
だが、そうした事実や観察結果を全て不都合なものとして切り捨て、思考を止めてしまうのは侍の道理に反する。だからこそ斎藤は、良くも悪くも偏見を捨てたフラットな目線で、薊という男を見据えていたのだった。
「……そうですか。表面的な悪評だけに囚われず、自らの目で見た態度や実績から、多角的に総帥を見極めようとされているのですね」
デコピンの衝撃からようやく立ち直り、赤くなった額を抑えながら緋沙子が深く息を吐く。
――その静かな納得の空気を、無慈悲にぶち壊す声が響く。
「でも〜、綜みゃんが節穴で木偶の坊だったらどうするの?」
温かいお茶の湯呑みを置いたももが、抱え直したブッチーの陰からジト目を向け、至極あっさりと容赦ない一言を言い放った。
「……そうさな。そのときは――」
斎藤はそこで一旦言葉を区切ると、厳格な武士の面持ちのまま、その口元にどこか楽しげな薄笑いを浮かべた。
「あの小林の尻を叩き上げて奮起させ、共にこの学園を今一度ひっくり返して下剋上を果たすというのも……武士としては決して悪くない興だ」
二席である竜胆にも本気を出させ、自分たちでセントラルの体制ごと再び頂点を奪い取る――その不敵で野心に満ちた言葉に、美作と緋沙子が思わず顔を見合わせる中、抱えたブッチーの陰から小さく口を開いたももが、至極当然といった顔でぽつりと呟いた。
「ふ〜ん……竜胆のお尻を叩きたいなんて、綜みゃんえっち」
悪戯っぽくジト目を向け、斎藤をからかおうとするもも。だが、斎藤は眉ひとつ動かすことなく、静かに湯呑みを持ち上げると平然と言い放った。
「そうだな。お前のような薄い尻を叩いたところで、何ひとつ面白みもないからな」
「…………っ!?」
からかって遊ぶはずが、あまりにも容赦のない角度からの強烈な反撃。一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で固まったももは、耳まで真っ赤にして言葉を詰まらせると、抱えていたブッチーと己の小さな拳を振り回し、斎藤の太い腕を「ばし! ばし!」と怒り狂って叩き始めた。
「な、なにそれ! ももは薄くなんてないの! 四席なんだから! 綜みゃんよりも上なんだから!」
思いもよらぬ一言に言葉も出ず、ただひたすら無心で腕を叩き続けるもも。しかし斎藤は、己の腕にまとわりつく可憐な攻撃などどこ吹く風といった様子で完全に無視を決め込み、静かに温かい麦茶をずずっと啜るのだった。
そのあまりのシュールな光景に、美作と緋沙子が呆れとも感心ともつかない視線を向けていた、その時だった。
ガチャリ、と静かな音を立てて控室の扉が開いた。
光るスマホの画面を片手に、もう一方の手で眼鏡のふちをクイと押し上げながら入ってきたのは、第六席の紀ノ國寧々だった。
「新戸、美作、ここにいたの。……それに、先輩方も」
いつもなら冷静沈着で感情を表に出さない彼女にしては珍しく、その眉間には困惑の色が色濃く刻まれていた。画面を見つめる視線もどこか収まりが悪い。
「どうかしたんですかい、紀ノ國先輩?」
美作がバインダーを手にしたまま首をかしげると、紀ノ國は小さくため息を吐き、手元のスマホを軽く掲げてみせた。
「ええと……先ほど総帥および本部から通達があったのだけれど。どうにも要領を得ないというか……。残った反逆者のメンバーと私たちセントラル十傑で、決着をつけるために『連隊食戟』を行うことになった、と……」
「連隊食戟……?」
思わぬ言葉に、緋沙子がハッと息を呑む。
個別の試験や食戟で順次排除していくはずだったセントラルの方針が、一転してチーム同士による全滅戦――いわば学園の命運を賭けた大打撃戦へと舵を切ったのだ。
静まり返る部屋の中に、低い笑い声が響いた。
「フッ……くくっ」
腕を組み、湯呑みを置いた斎藤が、胸の奥から絞り出すように小さく笑う。先ほど自分たちが口にしていた「学園をひっくり返す下剋上」の空気を察したかのようなタイミングに、愉快そうに目元を緩めた。
「どうやら、先を越されてしまったらしいな」
「……でも、真ん前から倒しちゃうんでしょ?」
斎藤の腕をポカポカと叩いていた手を止め、ももがブッチーの陰からジト目を向けた。その声には、四席としての揺るぎない自負と、邪魔者を排除することに対する一切の迷いはなかった。
「無論だ」
斎藤は短く、力強く答えると、背負った大包丁の柄に触れるかのように軽く肩を回した。そして、その鋭く重厚な眼光を、目の前に立つ二人の後輩――美作昴と新戸緋沙子へとゆっくりと向けた。
「さて、お前たちはどうする。美作、新戸」
美作のビルドが周到なる追跡・閃の習得のスキルポイントを、代わりに料理基礎体力やアレンジ表現力へと振り切っているようなイメージです。
連隊食戟からは料理のレベルがインフレしてAIくんでも追いつけないので、比喩表現多めになると思います。