本が落ちなかった日
水城真司は、物を手から離せば下へ落ちることくらい知っていた。
鉛筆も、本も、コップも落ちる。どうしてかと聞かれれば、地球が引っぱっているからだと答えることもできた。
だからその日、母さんの頭の上で十数冊の本と棚板がぴたりと止まったとき、何が起きたのかは、まるで分からなかった。
*
「真司、その箱には触らないでね」
書架の向こうから声が飛んできた。
「触ってないよ」
真司は、ちょうど古い箱の蓋にかけていた指を離した。
「今、離したでしょう」
どうやら見えていなくても分かるらしい。
そこはエディンバラにある大学図書館の、さらに奥にある資料保管区画だった。母さんは古い本や手紙、大学に残された記録を整理する仕事をしている。
普段なら子どもがうろうろしてよい場所ではない。今日は夏休みで、仕事が終わるまで隅で待つ、という約束で入れてもらっていた。
真司はこの場所が好きだった。
少し埃っぽいし、窓は小さい。それでも、棚には何百年も前の本や、誰に宛てたのかさえ分からない手紙がぎっしり詰まっている。
「母さん。これ、いつの本?」
「たぶん十九世紀」
脚立の上から母さんが答えた。
「たぶん?」
「まだ確かめてないもの」
「本に書いてないの?」
「書いてあっても、正しいとは限らないでしょう」
真司は本を眺めた。
「本なのに?」
「本を書いた人だって間違えるわよ」
それは、本に対して少し失礼ではないかと真司は思った。
そのときだった。
かちん、と小さな音がした。
続いて、古い木の軋む音。
真司が顔を上げると、母さんのすぐ脇にある書架の上段がわずかに傾いていた。棚板を支えていた金具が一つ、外れている。
「母さん」
母さんが振り向いた。
棚板が沈んだ。
並んでいた本が一斉に滑り出し、分厚い辞書も、ファイルも、金属のブックエンドも続いた。最後には棚板そのものまで、脚立の上の母さんへ倒れかかる。
「母さん!」
逃げるには近すぎた。
真司にはどうすればよいのか分からなかった。ただ、当たる、と思った。
気づけば両手を前へ突き出していた。
「止まって!」
そして、本は止まった。
十数冊の本も、ファイルも、金属のブックエンドも、斜めに傾いた重い棚板まで、母さんの頭上でぴたりと動かなくなっていた。
開いた本から抜け落ちた紙切れまで浮いている。
母さんは脚立の途中で固まっていた。
真司も動けなかった。
「……真司」
「うん」
「動かないで」
「母さんも」
「分かってる」
二人とも、ずいぶん当たり前のことを言った。
やがて紙切れが一枚、ゆらりと揺れた。
一冊の本が落ちた。
それを合図に残りも次々と床へ落ち始め、最後に棚板が大きな音を立てた。
母さんは脚立を降りると、すぐ真司のところへ来た。
「大丈夫?」
「僕は。母さんは?」
「大丈夫。どこにも当たってないわ」
そう言う母さんの顔は、少し青かった。
二人は床に散らばった本を見た。
「母さん」
「なに?」
「今の、見たよね?」
母さんは少し間を置いて頷いた。
「見たわ」
真司は少しだけ安心した。自分一人なら、見間違いということもあったかもしれない。
「どうして止まったの?」
今度は母さんも答えなかった。
しばらく考えてから、
「分からない」
と言った。
母さんがそう言うのを、真司はあまり聞いたことがなかった。
*
その日の夕食では、食卓の真ん中にティッシュの箱が置かれた。
食事のためではない。
「もう一度やってみたらどうだ?」
父さんが言った。
「できないと思う」
「昨日までなら父さんもそう思ったよ」
それを言われると弱かった。
真司はティッシュの箱を睨んだ。
「……浮け」
何も起きなかった。
父さんも母さんも箱を見た。
もちろん、ただのティッシュ箱なので、向こうも黙っていた。
もう二回試しても、スプーンに替えてみても、結果は同じだった。
「もういいでしょう。ご飯が冷めるわよ」
母さんの一言で実験は終わった。
食事を再開してから、両親は昔にも妙なことがなかったか話し始めた。
幼いころ、公園の遊具から落ちた真司が、不自然なくらいゆっくり地面へ落ちたこと。
まだ日本に住んでいたころ、高い木に引っかかったボールが、父さんが脚立を取りに行っている間に真司の手へ戻っていたこと。
どちらも、そのときは偶然で済んだ。
今日のあとでは、少しだけ偶然にしておくのが難しかった。
「じゃあ……超能力とか?」
真司が言っても、父さんも母さんも笑わなかった。
それが一番、妙だった。
*
翌日の夕方、玄関のベルが鳴った。
真司は居間で本を読んでいた。正確には、本を開いて昨日のことを考えていた。
父さんが玄関へ出た。
「こんにちは。突然申し訳ありません。アルフレッド・フィンチと申します」
知らない男の声だった。
「ホグワーツという学校で教師をしております」
聞いたことのない学校だった。
「水城真司君のことで、お話がありまして」
自分の名前が出たので、真司は本を置いた。
廊下の角から覗くと、玄関には五十歳くらいの男が立っていた。灰色の混じった髪は少し乱れ、茶色いコートは着古されている。片手には擦れた革鞄を提げていた。
八月に着るには、少し暑そうだった。
「どうして息子のことを?」
父さんの声は固かった。
男――フィンチは、少し困ったように眉を下げた。
「突然このようなことを聞くのも妙なのですが、真司君の身の回りで、普通には説明のつかないことが起きたことはありませんか?」
父さんが黙った。
ちょうどそこへ母さんも来た。
「昨日のことを知ってるんですか?」
「昨日?」
フィンチは本当に知らない顔をした。
「いいえ。何があったのでしょう」
結局、フィンチは居間へ通された。
母さんが図書館での出来事を説明すると、彼は途中で口を挟まずに聞き、最後に一度頷いた。
「なるほど。それなら、おそらく間違いありません」
「何がです?」
父さんが尋ねた。
フィンチは真司を見た。
「あれは魔法です」
真司は瞬きをした。
「……魔法?」
「ええ。本物の」
「手品ではなく?」
父さんが確認した。
「残念ながら、私は手品についてはほとんど心得がありません」
フィンチはそう言ってから、少し考えた。
「ですので、実際にお見せした方が早いでしょうね」
コートの内側から、細長い木の棒を取り出した。
真司は身を乗り出した。
「杖?」
「ええ」
魔法使いらしく見えるものが、ようやく出てきた。
フィンチは母さんからティースプーンを借り、テーブルへ置いた。杖を向けて短く唱えると、銀色のスプーンがぐにゃりと形を変えた。
四本の脚が生え、尻尾が伸び、緑の鱗が表面を覆う。
数秒後には、小さなトカゲがテーブルの上にいた。
トカゲは二度瞬きをして、父さんの方へ走った。
「うわっ」
父さんが椅子ごと下がった。
真司は吹き出した。
「父さん、逃げた」
「急に来たら逃げるだろ」
フィンチが杖を振ると、トカゲは元のティースプーンへ戻った。
父さんはそれを持ち上げ、表も裏も確かめた。
「仕掛けは?」
「ありません」
「……本当に?」
「もし仕掛けだけで今のことができるなら、私は教師よりそちらの仕事を選んでいたでしょう」
母さんがくすりと笑った。
父さんはまだスプーンを見ていた。
真司が見ていたのは、フィンチの杖だった。
「僕も、今のができるんですか?」
「勉強すれば」
「昨日の本も?」
「偶発魔法でしょう。魔法使いの子どもは、杖も呪文も知らないうちから、ときどき魔法を起こします。怖かったときや、強く何かを願ったときなどに」
図書館で止まった本。
公園で落ちなかった自分。
木から戻ってきたボール。
ばらばらだったものが、初めて一つの言葉でまとまった。
魔法。
「では」
フィンチは革鞄を開けた。中から取り出したのは、何枚かの書類と、厚い封筒だった。
「改めまして。水城真司君。ホグワーツ魔法魔術学校への入学について、ご説明に参りました」
*
それから一時間ほど、父さんと母さんはフィンチに質問をした。
どこにある学校なのか。
寮生活なのか。
十一歳の子どもが魔法を使って危なくないのか。
費用はどうなるのか。
家族と連絡は取れるのか。
医務室はあるのか。
父さんは特に安全についてしつこく聞いた。フィンチは嫌な顔をせず、そのたびに一つずつ答えた。
真司も最初はいくつか聞いていたが、途中から封筒の中の入学案内を読んでいた。
教科書。
ローブ。
大鍋。
望遠鏡。
羽ペン。
そして――杖。
「行きたい?」
母さんに聞かれて、真司は顔を上げた。
迷ったのは、ほんの少しだった。
「行きたい」
父さんがフィンチを見た。
「ずいぶん早いな」
「だって、魔法だよ」
「それは分かる」
「杖もある」
「それも今見た」
「学校で習えるんだよ」
「そこも聞いていた」
父さんはため息をついたが、少し笑っていた。
*
数日後、真司は両親とロンドンにいた。
先を歩くフィンチが、二軒の店の間にある古びた小さなパブの前で足を止めた。
「着きました」
「どこに?」
父さんが尋ねた。
「ここ」
真司はパブを指した。
父さんはその指の先を見て、さらに向こうを見た。
「何が?」
母さんも同じような顔をした。
フィンチは、慣れた様子で二人を店へ導いた。
その向こうには、真司がそれまで一度も見たことのない通りがあった。
鍋を積んだ店。箒を並べた店。窓辺で勝手に羽ばたく羽ペン。頭上には梟までいる。
「……ここ、ずっとロンドンにあったの?」
「ずっと、という言葉をどこから数えるかにもよりますが、かなり長く」
フィンチが答えた。
真司は聞いておいて、もう半分聞いていなかった。
向こうで箒が一本、誰も触っていないのに浮いていたからだ。
買い物は忙しかった。
銀行ではゴブリンを見た。
ポンドをガリオン、シックル、クヌートという硬貨へ替えた。
制服屋では巻き尺が勝手に真司の体を測り、真司が「家にも欲しい」と言うと、母さんから「何を測るの」と聞かれた。
使い道までは考えていなかった。
教科書屋では、本を探している途中で別の本に何度も気を取られた。
父さんは魔法界でもカードで払えないのか尋ね、母さんは教科書の電子版がないのか尋ねた。
そのたびにフィンチは、
「ありませんね」
と答えた。
三度目になると、少し申し訳なさそうだった。
それでも真司は、魔法界が不便だとはあまり思わなかった。
目の前に飛ぶ箒があるのだから、カードくらいは後でもよかった。
最後に訪れたのは、小さな古い店だった。
窓辺の色褪せたクッションに、一本だけ杖が置いてある。
オリバンダーの店。
扉を開けると、細長い箱が床から天井まで積み上げられていた。
「これ全部、杖?」
「ええ。すべてですよ」
暗がりから老人が現れた。
淡い銀色の大きな目が、まっすぐ真司を見た。
「ギャリック・オリバンダーです。さて、あなたの杖を探しましょう」
「僕が選ぶんじゃないんですか?」
「選ぶことはできますよ。ただし、杖の方にも意見があります」
「杖に?」
「大いに」
最初に渡された杖を、真司は恐る恐る振った。
店の奥から杖箱が三つ飛び出した。
「うわっ」
すぐに取り上げられる。
「違いますね」
「今の、僕がやったんですか?」
「ええ。ですが、あなたの杖ではありません」
二本目ではランプが急に明るくなり、三本目では机の紙が舞った。
真司はだんだん杖を振るのが怖くなってきた。
父さんはもっと早くからそう思っていたらしく、いつの間にか少し遠くに立っていた。
やがてオリバンダーが棚の一つを見上げた。
「ああ。これを」
箱から出てきたのは、赤みを帯びた褐色の杖だった。
「クリの木。一角獣の尾毛。十一インチ半。しなやか」
真司が握る。
「あ」
今までと違った。
指先から手のひらへ、ほんのり温かいものが広がった。理由は分からない。ただ、最初からそこに収まるはずだったように、手になじんだ。
「振ってみてください」
真司は杖を振った。
金色の小さな火花が、ぱっと宙へ飛び出した。
箱も飛ばない。ランプも弾けない。
いくつもの光だけがゆっくり上がり、薄暗い店の中を漂った。
「今の……僕が?」
「ええ」
オリバンダーが頷いた。
「見つかりましたね」
真司は杖を見た。
昨日までは、魔法は勝手に起こるものだった。
怖くなったときに本を止めて、あとでもう一度やろうとしてもできなかった。
けれど今、自分の手の中には魔法を使うための杖がある。
「これ、僕のなんだ」
「そういうことになります」
真司はもう一度握り直した。
「どんな杖なんですか?」
オリバンダーは少し考えた。
「それを知るには、まだ早いでしょう」
「早い?」
「十一歳で杖も魔法使いもすっかり決まってしまうのでは、この先が退屈ではありませんか」
真司は杖を見た。
その答えは、少しだけ気に入った。
*
買い物を終えてエディンバラへ戻ってからも、真司は何度も杖の箱を開けた。
もちろん、勝手に振ることは禁止されていた。
だから取り出して眺め、戻す。
また少しして開ける。
父さんからは三度目で、
「増えてないぞ」
と言われた。
それくらいは分かっている。
九月一日まで、あと少し。
ホグワーツへ行けば、この杖で本当に魔法を習うのだ。
そして九月一日の朝。
荷物を積み終えた父さんが、ホグワーツの案内とロンドン行きの切符を見比べて、ふと眉を寄せた。
「なあ、真司」
「なに?」
「ホグワーツって、スコットランドにあるんだよな?」
真司は頷いた。
「うん」
「それで、僕らは今からロンドンへ行くんだな?」
「……うん」
二人で切符を見た。
真司は、この夏に入ってから何度目になるか分からない疑問を口にした。
「なんで?」