ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間   作:汐川

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プロローグ
本が落ちなかった日


 水城真司は、物を手から離せば下へ落ちることくらい知っていた。

 

 鉛筆も、本も、コップも落ちる。学校で習ったところによれば、地球が引っぱっているからだという。

 

 だから、その日、母さんの頭の上で本棚の板と十数冊の本がぴたりと止まったとき、真司には何が起きたのか、さっぱり分からなかった。

 

     *

 

「真司、その箱には触らないでね」

 

 書架の向こうから、母さんの声が飛んできた。

 

「触ってないよ」

 

 真司は答えながら、箱の蓋にかけていた指をそっと離した。

 

「触ってた」

 

 どうやら、母さんにはすべてお見通しのようだ。

 

 真司はあきらめて箱から離れた。

 

 そこは、エディンバラにある大学図書館の、そのまた奥にある資料保管区画だった。

 

 母さんはここで、古い本や手紙、大学に残された記録などを整理する仕事をしている。普段なら真司が入れる場所ではないのだが、その日は夏休みで、仕事が終わるまで隅で待たせてもらっていた。

 

 真司は、この場所がけっこう好きだった。

 

 少し埃っぽくて、窓も小さい。けれど、棚には見たこともない本がぎっしり詰まっている。何百年も前の誰かが書いた日記や、もう誰に宛てたのかも分からない手紙まであった。

 

 中に何が書かれているのだろうと思うと、なぜだかわくわくする。

 

 もっとも、母さんに言わせると、古い手紙だからといって面白いとは限らないらしい。

 

「昔の人だって、『本を返してください』とか『お金を貸してください』とか書くのよ」

 

 以前そう聞いたとき、真司は少しがっかりした。

 

 昔の人は、もう少し昔らしいことを書いていてほしかった。今とそんなに変わらない。

 

「母さん」

 

「なに?」

 

 少し離れたところから返事がした。

 

 母さんは脚立に上り、一番上の棚を調べていた。

 

 真司は近くの机に置かれた一冊を指さした。

 

「これ、いつの本?」

 

「どれ?」

 

「背中に金色の線が入ってるやつ」

 

 母さんは脚立の上から身を傾けて、真司の指さす先を見た。

 

「ああ。それなら、たぶん十九世紀ね」

 

「たぶん?」

 

「まだきちんと調べてないから」

 

 真司は本を覗きこんだ。

 

 ずいぶん古そうではある。しかし真司には、百年前の本と二百年前の本を見分ける方法など分からない。

 

「本に書いてないの?」

 

「書いてあるものもあるわ。でも、書いてないものもあるし、書いてあっても本当か確かめないといけないこともあるの」

 

 真司は顔を上げた。

 

「本に書いてあるのに?」

 

「昔の人だって間違えるし、嘘もつくもの」

 

 それは少し意外だった。

 

 古い本には、何となく全部、本当のことが書いてあるような気がしていた。

 

「じゃあ、どうやって分かるの?」

 

 母さんは棚から一冊取り出しながら答えた。

 

「ほかの記録と比べたり、紙やインクを調べたり、誰が持っていたのかを確かめたり。いろいろよ」

 

 なるほど、と真司は思った。

 

 分からないことがあれば調べる。

 

 一つで分からなければ、別のものと比べる。

 

 母さんの仕事というのは、どうもそういう仕事らしかった。

 

 そのときだった。

 

 かちん、と、小さな音がした。

 

 真司は顔を上げた。

 

 何の音だろうと思った。

 

 続いて、ぎ、と、古い木が軋んだ。

 

「母さん?」

 

 母さんが立っている脚立のすぐ横で、書架の上段がわずかに傾いていた。

 

 棚板を支えていた金具が一つ、外れている。

 

 真司がそれに気づいたときには、もう遅かった。

 

 棚板の片側が大きく沈んだ。

 

 並んでいた本が、一斉に滑り始める。

 

「母さん!」

 

 母さんが振り向いた。

 

 厚い本が一冊、棚から飛び出した。その後ろから辞書も、ファイルも、金属製のブックエンドも続いた。

 

 そして、外れた棚板そのものまで、母さんの方へ倒れかかった。

 

 母さんは脚立の途中にいる。

 

 逃げるには近すぎた。

 

 真司には、どうすればいいのか分からなかった。

 

 ただ、母さんが危ないと思った。

 

 気がつけば、両手を前へ突き出していた。

 

「止まって!」

 

 止まった。

 

 本が。

 

 ファイルが。

 

 金属のブックエンドが。

 

 斜めになった重そうな棚板まで。

 

 全部が、空中でぴたりと動かなくなった。

 

     *

 

 母さんは、脚立の途中で固まっていた。

 

 真司も動けなかった。

 

 二人の間に、十数冊の本と棚板が浮かんでいる。

 

 一冊の分厚い本は開いたままで、そこから飛び出した紙切れまで、すぐそばに浮かんでいた。

 

「……真司」

 

 母さんが小さな声で呼んだ。

 

「うん」

 

「そこから動かないで」

 

 真司は頷いた。

 

「母さんも」

 

「分かってるわ」

 

 二人とも、それきり黙った。

 

 真司には、それが何秒だったのか分からない。

 

 ほんの少しだったのかもしれないし、ずっと長かったような気もする。

 

 やがて、浮かんでいた紙が一枚だけ、ゆらりと揺れた。

 

 次の瞬間だった。

 

 どさっ。

 

 一冊の本が床へ落ちた。

 

 それを合図にしたように、残りも次々と落ち始めた。

 

 本が床を打ち、金属のブックエンドが大きな音を立てる。最後に棚板が落ちたころには、母さんは脚立から飛び降りて真司のところまで駆けてきていた。

 

「真司、大丈夫?」

 

 母さんは真司の肩をつかみ、頭から足まで確かめた。

 

「僕は大丈夫。母さんは?」

 

「大丈夫よ。どこにも当たってない」

 

 そう答えた母さんの顔は、少し青かった。

 

 二人はそろって床を見る。

 

 散らばった本。

 

 外れた棚板。

 

 転がった金具。

 

 どれも、ごく普通の物だった。

 

 さっきまで空中に浮いていたことを除けば。

 

「……母さん」

 

 真司は床から目を離さないまま尋ねた。

 

「今の、見たよね?」

 

 母さんはすぐには答えなかった。

 

 それから、静かに頷いた。

 

「見たわ」

 

 真司は少し安心した。

 

 自分だけが見たのでなければ、夢ではないはずだ。

 

 たぶん。

 

「どうして止まったの?」

 

 今度の質問には、母さんも困ったようだった。

 

 いつもなら何かしら答えてくれるのに、しばらく考えてから首を振った。

 

「分からない」

 

 母さんがそう言うのを、真司はめったに聞いたことがなかった。

 

     *

 

 その日の夕食は、いつもよりずいぶん長くかかった。

 

 父さんが帰宅すると、母さんは図書館で起きたことを最初から説明した。

 

 父さんは初め、棚板のどこかが途中で引っかかったのではないかと言った。しかし、本や紙まで一緒に空中で止まっていたと聞くと、腕を組んで黙りこんだ。

 

「それで、真司が『止まって』と言ったら止まったんだな?」

 

 父さんに確認され、真司は頷いた。

 

 そこで父さんは、食卓の真ん中に置いてあったティッシュの箱を見た。

 

「もう一回、できないか?」

 

 真司は嫌な予感がした。

 

「できないと思う」

 

「やってみないと分からないだろ」

 

 母さんまで少し興味を持ったらしく、ティッシュの箱を真司の前へ寄せた。

 

 二人にじっと見つめられると、急に自分がとても変なことをしているように思えてきた。

 

 それでも真司は箱を睨んだ。

 

「……浮け」

 

 何も起こらなかった。

 

 父さんも母さんも、黙ってティッシュの箱を見ている。

 

 もちろん、ただの箱なので、向こうも黙っていた。

 

 その後、ティッシュの箱でもう二回、スプーンでも一回試してみた。

 

 どれも一ミリも動かなかった。

 

 最後には母さんが時計を見て、実験を打ち切った。

 

「もう食べましょう。せっかくのご飯が冷めちゃう」

 

 真司としては、かなりほっとした。

 

 しかし、食事を再開しても話題は変わらなかった。

 

 父さんが、昔にも似たようなことはなかったかと尋ねたからだ。

 

 真司にはまったく心当たりがなかった。

 

 ところが母さんは、箸を置いて少し考えてから、幼稚園のころの話を始めた。

 

 公園の遊具から足を滑らせ、真司がかなりの高さから落ちたことがあったらしい。

 

 母さんはすぐ近くにいたが、とても間に合わなかった。

 

 ところが真司は、地面へ叩きつけられなかった。

 

 途中で一度、何かに支えられたように落ちる速さがゆるみ、そのまま尻もちをついたという。

 

「そんなことあった?」

 

 真司には、まるで覚えがない。

 

「あなたは膝を擦りむいただけだったから覚えてないのよ」

 

 母さんはそう言ってから、今思い出しても嫌なのか、少し眉をしかめた。

 

「母さんは、本当に心臓が止まるかと思ったんだから」

 

 父さんにも一つ思い当たることがあった。

 

 まだ日本にいたころ、庭で遊んでいた真司が、ボールを高い木の枝に引っかけたことがある。

 

 父さんは脚立を取りに家へ入った。

 

 ところが戻ってみると、真司はもうボールを抱えていた。

 

 どうやって取ったのか尋ねても、当時の真司は「落ちてきた」としか言わなかったらしい。

 

「そのときは、風でも吹いたんだと思ってたんだけどな」

 

 父さんは首をひねった。

 

 当時なら、それで済んだ。

 

 けれど、あんなことがあったばかりの夜に聞くと、少し違って聞こえる。

 

「じゃあ……超能力とか?」

 

 真司が言うと、父さんも母さんも笑わなかった。

 

 そのことが、かえって真司を不安にさせた。

 

 父さんにも分からない。

 

 母さんにも分からない。

 

 もちろん、真司にも分からない。

 

 分からないことがあれば調べればいいと思っていた。

 

 けれど、何を調べればいいのかさえ分からないこともあるらしい。

 

     *

 

 その夜。

 

 真司はベッドに入り、暗い天井を見上げていた。

 

 眠ろうとしても、昼間の光景が何度も頭に浮かんでくる。

 

 空中で止まった本。

 

 浮かんだ棚板。

 

 驚いた母さんの顔。

 

 真司は布団から片手を出した。

 

 目覚まし時計へ向ける。

 

 誰も見ていないのを確認する必要はなかった。

 

 自分の部屋なのだから。

 

「……浮け」

 

 小さな声で言ってみた。

 

 もちろん、時計は浮かなかった。

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