ホグワーツは今日も非合理である   作:汐川

1 / 24
プロローグ
本が落ちなかった日


 水城真司は、物を手から離せば下へ落ちることくらい知っていた。

 

 鉛筆も、本も、コップも落ちる。どうしてかと聞かれれば、地球が引っぱっているからだと答えることもできた。

 

 だからその日、母さんの頭の上で十数冊の本と棚板がぴたりと止まったとき、何が起きたのかは、まるで分からなかった。

 

     *

 

「真司、その箱には触らないでね」

 

 書架の向こうから声が飛んできた。

 

「触ってないよ」

 

 真司は、ちょうど古い箱の蓋にかけていた指を離した。

 

「今、離したでしょう」

 

 どうやら見えていなくても分かるらしい。

 

 そこはエディンバラにある大学図書館の、さらに奥にある資料保管区画だった。母さんは古い本や手紙、大学に残された記録を整理する仕事をしている。

 

 普段なら子どもがうろうろしてよい場所ではない。今日は夏休みで、仕事が終わるまで隅で待つ、という約束で入れてもらっていた。

 

 真司はこの場所が好きだった。

 

 少し埃っぽいし、窓は小さい。それでも、棚には何百年も前の本や、誰に宛てたのかさえ分からない手紙がぎっしり詰まっている。

 

「母さん。これ、いつの本?」

 

「たぶん十九世紀」

 

 脚立の上から母さんが答えた。

 

「たぶん?」

 

「まだ確かめてないもの」

 

「本に書いてないの?」

 

「書いてあっても、正しいとは限らないでしょう」

 

 真司は本を眺めた。

 

「本なのに?」

 

「本を書いた人だって間違えるわよ」

 

 それは、本に対して少し失礼ではないかと真司は思った。

 

 そのときだった。

 

 かちん、と小さな音がした。

 

 続いて、古い木の軋む音。

 

 真司が顔を上げると、母さんのすぐ脇にある書架の上段がわずかに傾いていた。棚板を支えていた金具が一つ、外れている。

 

「母さん」

 

 母さんが振り向いた。

 

 棚板が沈んだ。

 

 並んでいた本が一斉に滑り出し、分厚い辞書も、ファイルも、金属のブックエンドも続いた。最後には棚板そのものまで、脚立の上の母さんへ倒れかかる。

 

「母さん!」

 

 逃げるには近すぎた。

 

 真司にはどうすればよいのか分からなかった。ただ、当たる、と思った。

 

 気づけば両手を前へ突き出していた。

 

「止まって!」

 

 そして、本は止まった。

 

 十数冊の本も、ファイルも、金属のブックエンドも、斜めに傾いた重い棚板まで、母さんの頭上でぴたりと動かなくなっていた。

 

 開いた本から抜け落ちた紙切れまで浮いている。

 

 母さんは脚立の途中で固まっていた。

 

 真司も動けなかった。

 

「……真司」

 

「うん」

 

「動かないで」

 

「母さんも」

 

「分かってる」

 

 二人とも、ずいぶん当たり前のことを言った。

 

 やがて紙切れが一枚、ゆらりと揺れた。

 

 一冊の本が落ちた。

 

 それを合図に残りも次々と床へ落ち始め、最後に棚板が大きな音を立てた。

 

 母さんは脚立を降りると、すぐ真司のところへ来た。

 

「大丈夫?」

 

「僕は。母さんは?」

 

「大丈夫。どこにも当たってないわ」

 

 そう言う母さんの顔は、少し青かった。

 

 二人は床に散らばった本を見た。

 

「母さん」

 

「なに?」

 

「今の、見たよね?」

 

 母さんは少し間を置いて頷いた。

 

「見たわ」

 

 真司は少しだけ安心した。自分一人なら、見間違いということもあったかもしれない。

 

「どうして止まったの?」

 

 今度は母さんも答えなかった。

 

 しばらく考えてから、

 

「分からない」

 

と言った。

 

 母さんがそう言うのを、真司はあまり聞いたことがなかった。

 

     *

 

 その日の夕食では、食卓の真ん中にティッシュの箱が置かれた。

 

 食事のためではない。

 

「もう一度やってみたらどうだ?」

 

 父さんが言った。

 

「できないと思う」

 

「昨日までなら父さんもそう思ったよ」

 

 それを言われると弱かった。

 

 真司はティッシュの箱を睨んだ。

 

「……浮け」

 

 何も起きなかった。

 

 父さんも母さんも箱を見た。

 

 もちろん、ただのティッシュ箱なので、向こうも黙っていた。

 

 もう二回試しても、スプーンに替えてみても、結果は同じだった。

 

「もういいでしょう。ご飯が冷めるわよ」

 

 母さんの一言で実験は終わった。

 

 食事を再開してから、両親は昔にも妙なことがなかったか話し始めた。

 

 幼いころ、公園の遊具から落ちた真司が、不自然なくらいゆっくり地面へ落ちたこと。

 

 まだ日本に住んでいたころ、高い木に引っかかったボールが、父さんが脚立を取りに行っている間に真司の手へ戻っていたこと。

 

 どちらも、そのときは偶然で済んだ。

 

 今日のあとでは、少しだけ偶然にしておくのが難しかった。

 

「じゃあ……超能力とか?」

 

 真司が言っても、父さんも母さんも笑わなかった。

 

 それが一番、妙だった。

 

     *

 

 翌日の夕方、玄関のベルが鳴った。

 

 真司は居間で本を読んでいた。正確には、本を開いて昨日のことを考えていた。

 

 父さんが玄関へ出た。

 

「こんにちは。突然申し訳ありません。アルフレッド・フィンチと申します」

 

 知らない男の声だった。

 

「ホグワーツという学校で教師をしております」

 

 聞いたことのない学校だった。

 

「水城真司君のことで、お話がありまして」

 

 自分の名前が出たので、真司は本を置いた。

 

 廊下の角から覗くと、玄関には五十歳くらいの男が立っていた。灰色の混じった髪は少し乱れ、茶色いコートは着古されている。片手には擦れた革鞄を提げていた。

 

 八月に着るには、少し暑そうだった。

 

「どうして息子のことを?」

 

 父さんの声は固かった。

 

 男――フィンチは、少し困ったように眉を下げた。

 

「突然このようなことを聞くのも妙なのですが、真司君の身の回りで、普通には説明のつかないことが起きたことはありませんか?」

 

 父さんが黙った。

 

 ちょうどそこへ母さんも来た。

 

「昨日のことを知ってるんですか?」

 

「昨日?」

 

 フィンチは本当に知らない顔をした。

 

「いいえ。何があったのでしょう」

 

 結局、フィンチは居間へ通された。

 

 母さんが図書館での出来事を説明すると、彼は途中で口を挟まずに聞き、最後に一度頷いた。

 

「なるほど。それなら、おそらく間違いありません」

 

「何がです?」

 

 父さんが尋ねた。

 

 フィンチは真司を見た。

 

「あれは魔法です」

 

 真司は瞬きをした。

 

「……魔法?」

 

「ええ。本物の」

 

「手品ではなく?」

 

 父さんが確認した。

 

「残念ながら、私は手品についてはほとんど心得がありません」

 

 フィンチはそう言ってから、少し考えた。

 

「ですので、実際にお見せした方が早いでしょうね」

 

 コートの内側から、細長い木の棒を取り出した。

 

 真司は身を乗り出した。

 

「杖?」

 

「ええ」

 

 魔法使いらしく見えるものが、ようやく出てきた。

 

 フィンチは母さんからティースプーンを借り、テーブルへ置いた。杖を向けて短く唱えると、銀色のスプーンがぐにゃりと形を変えた。

 

 四本の脚が生え、尻尾が伸び、緑の鱗が表面を覆う。

 

 数秒後には、小さなトカゲがテーブルの上にいた。

 

 トカゲは二度瞬きをして、父さんの方へ走った。

 

「うわっ」

 

 父さんが椅子ごと下がった。

 

 真司は吹き出した。

 

「父さん、逃げた」

 

「急に来たら逃げるだろ」

 

 フィンチが杖を振ると、トカゲは元のティースプーンへ戻った。

 

 父さんはそれを持ち上げ、表も裏も確かめた。

 

「仕掛けは?」

 

「ありません」

 

「……本当に?」

 

「もし仕掛けだけで今のことができるなら、私は教師よりそちらの仕事を選んでいたでしょう」

 

 母さんがくすりと笑った。

 

 父さんはまだスプーンを見ていた。

 

 真司が見ていたのは、フィンチの杖だった。

 

「僕も、今のができるんですか?」

 

「勉強すれば」

 

「昨日の本も?」

 

「偶発魔法でしょう。魔法使いの子どもは、杖も呪文も知らないうちから、ときどき魔法を起こします。怖かったときや、強く何かを願ったときなどに」

 

 図書館で止まった本。

 

 公園で落ちなかった自分。

 

 木から戻ってきたボール。

 

 ばらばらだったものが、初めて一つの言葉でまとまった。

 

 魔法。

 

「では」

 

 フィンチは革鞄を開けた。中から取り出したのは、何枚かの書類と、厚い封筒だった。

 

「改めまして。水城真司君。ホグワーツ魔法魔術学校への入学について、ご説明に参りました」

 

     *

 

 それから一時間ほど、父さんと母さんはフィンチに質問をした。

 

 どこにある学校なのか。

 

 寮生活なのか。

 

 十一歳の子どもが魔法を使って危なくないのか。

 

 費用はどうなるのか。

 

 家族と連絡は取れるのか。

 

 医務室はあるのか。

 

 父さんは特に安全についてしつこく聞いた。フィンチは嫌な顔をせず、そのたびに一つずつ答えた。

 

 真司も最初はいくつか聞いていたが、途中から封筒の中の入学案内を読んでいた。

 

 教科書。

 

 ローブ。

 

 大鍋。

 

 望遠鏡。

 

 羽ペン。

 

 そして――杖。

 

「行きたい?」

 

 母さんに聞かれて、真司は顔を上げた。

 

 迷ったのは、ほんの少しだった。

 

「行きたい」

 

 父さんがフィンチを見た。

 

「ずいぶん早いな」

 

「だって、魔法だよ」

 

「それは分かる」

 

「杖もある」

 

「それも今見た」

 

「学校で習えるんだよ」

 

「そこも聞いていた」

 

 父さんはため息をついたが、少し笑っていた。

 

     *

 

 数日後、真司は両親とロンドンにいた。

 

 先を歩くフィンチが、二軒の店の間にある古びた小さなパブの前で足を止めた。

 

「着きました」

 

「どこに?」

 

 父さんが尋ねた。

 

「ここ」

 

 真司はパブを指した。

 

 父さんはその指の先を見て、さらに向こうを見た。

 

「何が?」

 

 母さんも同じような顔をした。

 

 フィンチは、慣れた様子で二人を店へ導いた。

 

 その向こうには、真司がそれまで一度も見たことのない通りがあった。

 

 鍋を積んだ店。箒を並べた店。窓辺で勝手に羽ばたく羽ペン。頭上には梟までいる。

 

「……ここ、ずっとロンドンにあったの?」

 

「ずっと、という言葉をどこから数えるかにもよりますが、かなり長く」

 

 フィンチが答えた。

 

 真司は聞いておいて、もう半分聞いていなかった。

 

 向こうで箒が一本、誰も触っていないのに浮いていたからだ。

 

 買い物は忙しかった。

 

 銀行ではゴブリンを見た。

 

 ポンドをガリオン、シックル、クヌートという硬貨へ替えた。

 

 制服屋では巻き尺が勝手に真司の体を測り、真司が「家にも欲しい」と言うと、母さんから「何を測るの」と聞かれた。

 

 使い道までは考えていなかった。

 

 教科書屋では、本を探している途中で別の本に何度も気を取られた。

 

 父さんは魔法界でもカードで払えないのか尋ね、母さんは教科書の電子版がないのか尋ねた。

 

 そのたびにフィンチは、

 

「ありませんね」

 

と答えた。

 

 三度目になると、少し申し訳なさそうだった。

 

 それでも真司は、魔法界が不便だとはあまり思わなかった。

 

 目の前に飛ぶ箒があるのだから、カードくらいは後でもよかった。

 

 最後に訪れたのは、小さな古い店だった。

 

 窓辺の色褪せたクッションに、一本だけ杖が置いてある。

 

 オリバンダーの店。

 

 扉を開けると、細長い箱が床から天井まで積み上げられていた。

 

「これ全部、杖?」

 

「ええ。すべてですよ」

 

 暗がりから老人が現れた。

 

 淡い銀色の大きな目が、まっすぐ真司を見た。

 

「ギャリック・オリバンダーです。さて、あなたの杖を探しましょう」

 

「僕が選ぶんじゃないんですか?」

 

「選ぶことはできますよ。ただし、杖の方にも意見があります」

 

「杖に?」

 

「大いに」

 

 最初に渡された杖を、真司は恐る恐る振った。

 

 店の奥から杖箱が三つ飛び出した。

 

「うわっ」

 

 すぐに取り上げられる。

 

「違いますね」

 

「今の、僕がやったんですか?」

 

「ええ。ですが、あなたの杖ではありません」

 

 二本目ではランプが急に明るくなり、三本目では机の紙が舞った。

 

 真司はだんだん杖を振るのが怖くなってきた。

 

 父さんはもっと早くからそう思っていたらしく、いつの間にか少し遠くに立っていた。

 

 やがてオリバンダーが棚の一つを見上げた。

 

「ああ。これを」

 

 箱から出てきたのは、赤みを帯びた褐色の杖だった。

 

「クリの木。一角獣の尾毛。十一インチ半。しなやか」

 

 真司が握る。

 

「あ」

 

 今までと違った。

 

 指先から手のひらへ、ほんのり温かいものが広がった。理由は分からない。ただ、最初からそこに収まるはずだったように、手になじんだ。

 

「振ってみてください」

 

 真司は杖を振った。

 

 金色の小さな火花が、ぱっと宙へ飛び出した。

 

 箱も飛ばない。ランプも弾けない。

 

 いくつもの光だけがゆっくり上がり、薄暗い店の中を漂った。

 

「今の……僕が?」

 

「ええ」

 

 オリバンダーが頷いた。

 

「見つかりましたね」

 

 真司は杖を見た。

 

 昨日までは、魔法は勝手に起こるものだった。

 

 怖くなったときに本を止めて、あとでもう一度やろうとしてもできなかった。

 

 けれど今、自分の手の中には魔法を使うための杖がある。

 

「これ、僕のなんだ」

 

「そういうことになります」

 

 真司はもう一度握り直した。

 

「どんな杖なんですか?」

 

 オリバンダーは少し考えた。

 

「それを知るには、まだ早いでしょう」

 

「早い?」

 

「十一歳で杖も魔法使いもすっかり決まってしまうのでは、この先が退屈ではありませんか」

 

 真司は杖を見た。

 

 その答えは、少しだけ気に入った。

 

     *

 

 買い物を終えてエディンバラへ戻ってからも、真司は何度も杖の箱を開けた。

 

 もちろん、勝手に振ることは禁止されていた。

 

 だから取り出して眺め、戻す。

 

 また少しして開ける。

 

 父さんからは三度目で、

 

「増えてないぞ」

 

と言われた。

 

 それくらいは分かっている。

 

 九月一日まで、あと少し。

 

 ホグワーツへ行けば、この杖で本当に魔法を習うのだ。

 

 そして九月一日の朝。

 

 荷物を積み終えた父さんが、ホグワーツの案内とロンドン行きの切符を見比べて、ふと眉を寄せた。

 

「なあ、真司」

 

「なに?」

 

「ホグワーツって、スコットランドにあるんだよな?」

 

 真司は頷いた。

 

「うん」

 

「それで、僕らは今からロンドンへ行くんだな?」

 

「……うん」

 

 二人で切符を見た。

 

 真司は、この夏に入ってから何度目になるか分からない疑問を口にした。

 

「なんで?」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。