ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間   作:汐川

10 / 13
純血という言葉

「ハリー・ポッターだよ」

 

「誰?」

 

 真司がそう聞くと、向かいに座っていたマルコムの手が止まった。

 

 談話室の窓の向こうでは、暗い湖水がゆっくり揺れていた。緑がかった光の中を、ときおり小さな魚の影が横切っていく。少し離れた机からは羽ペンが羊皮紙を擦る音が聞こえ、暖炉では薪が小さくはぜていた。

 

 いつもなら、どれも気に留めるほどの音ではない。

 

 けれど、真司たちの机のまわりだけ、そこへ薄い布を一枚かぶせられたように静かになった。

 

「……本当に知らないの?」

 

 マルコムが聞いた。

 

「知らないから聞いてるんだけど」

 

「ハリー・ポッターを?」

 

「全く知らない」

 

 マルコムは少し困った顔をした。

 

 すぐ隣で宿題をしていた一年生がこちらを見て、「マグルの家なら知らなくてもおかしくないんじゃない?」とだけ口を挟み、また羊皮紙へ目を戻した。

 

 それでマルコムも、ようやく納得したらしい。

 

「そうか。シンジの家じゃ、そもそも話題にならないのか」

 

「だから、何をした人?」

 

 真司は開いていた革表紙のノートの端へ羽ペンを置いた。今すぐ書き取ろうというわけではない。ただ、覚えておいた方がよさそうな話なら、そのうち何かを書くことになるだろうと思っただけだった。

 

 マルコムは少し考えてから口を開いた。

 

「昔、とても強力な闇の魔法使いがいたんだ。その人がハリー・ポッターの両親を殺して、ハリーにも死の呪いを使った」

 

「死の呪い?」

 

「当たれば死ぬ。反対呪文も存在しない」

 

 そこでマルコムは一度言葉を切った。

 

「でも、ハリー・ポッターは生き残った。死の呪いを受けて、それでも生き残ったと知られている唯一の人なんだ」

 

 真司は羽ペンを持つ手を止めた。

 

「唯一?」

 

「うん。それで『生き残った男の子』って呼ばれるようになった」

 

「それで有名なの?」

 

「それだけじゃない。その強大な闇の魔法使いを、最後に倒したのもハリー・ポッターだよ」

 

 なるほど。

 

 それなら、魔法界で名前を知らない方がおかしいと言われるのも、少し分かる気がした。

 

 真司はノートへ短く書いた。

 

 ハリー・ポッター――「生き残った男の子」。死の呪いから生還。闇の魔法使いを倒す。

 

 たった二行だった。

 

 けれど、二行で書けるような話には思えなかった。

 

「それで、その闇の魔法使いは?」

 

 真司が尋ねた。

 

 マルコムの顔から、さっきまで残っていた気軽さが消えた。

 

 ほんの少し離れたところにいた生徒も、一度だけこちらへ視線を向けた。けれど、誰も口を挟まなかった。

 

「……例のあの人」

 

 マルコムが言った。

 

「例のあの人?」

 

「そう呼ぶ人が多い」

 

「名前は?」

 

 マルコムはすぐには答えなかった。

 

 真司は待った。

 

 一週間も一緒にいれば、マルコムが答えを知らなくて黙っているのか、言いたくなくて黙っているのかくらいは、なんとなく分かるようになっていた。

 

 今は後者だった。

 

「ヴォルデモート」

 

 やがてマルコムが言った。

 

「……言っちゃだめだった?」

 

「今は禁句になっていない」

 

 マルコムは少し声を落とした。

 

「でも、父さんたちの世代には、今でも言いたがらない人がいる」

 

「なんで?」

 

「その名前そのものへ魔法をかけられていた時期があるんだ。口にすると居場所を知られた」

 

「ヴォルデモートに?」

 

「うん。それで死喰い人が来た」

 

「死喰い人?」

 

「あの人に従っていた魔法使いたち。そう呼ばれてた」

 

 隣で宿題をしていた一年生が、羊皮紙から顔を上げないまま言った。

 

「うちの叔父さん、それで見つかったって母さんが言ってた。それで――」

 

 そこから先を言うことなく、その子はまた羽ペンを動かし始めた。

 

 真司は何も返せなかった。

 

 名前を口にする。

 

 ヴォルデモートに居場所を知られる。

 

 死喰い人が来る。

 

 そして――。

 

 その先を聞かなくても、今の空気を見れば十分だった。

 

 談話室の暖炉は変わらず燃えているし、窓の向こうでは湖水が揺れている。上級生たちの低い話し声も消えたわけではない。

 

 それなのに、真司にはこの場所が少し静かになったように感じられた。

 

「今もじゃないよね?」

 

 しばらくしてから、真司は聞いた。

 

「今はもうない、と思ってる」

 

 マルコムはそう答えたが、言い切るような声ではなかった。

 

「でも、親とか祖父母の世代は本当に怖かったんだよ。だから今でも言わない人は多い」

 

 真司はノートへ目を落とした。

 

 名前を書くつもりだった場所には、何も書かなかった。

 

 代わりに、

 

 例のあの人――強大な闇の魔法使い。名前は口にしない。

 

 とだけ記した。

 

 それ以上は、今は書く気にならなかった。

 

 ホグワーツへ来てから、魔法界には妙な習慣がたくさんあると思っていた。

 

 羊皮紙を使うこと。

 

 羽ペンで字を書くこと。

 

 階段が勝手に動くこと。

 

 肖像画の人物が額縁の外へ遊びに行くこと。

 

 真司にはまだ、どれも少し変わって見える。

 

 けれど、これはそういうものではなかった。

 

 昔、本当にそうしなければ人が死んだ。

 

 だから今も残っている。

 

 これは習慣ではなく、恐怖の名残なのだ。

 

     *

 

 しばらくして、真司は最初の話を思い出した。

 

「そういえば」

 

「何?」

 

「そのハリー・ポッターの息子が、去年までスリザリンだったって言ってたよね」

 

 マルコムの表情が、ほんの少しだけ元へ戻った。

 

「アルバス・ポッター。去年卒業した」

 

「ハリー・ポッターもスリザリン?」

 

「いや。グリフィンドール」

 

「じゃあ、息子がスリザリンに入ったから話題になった?」

 

「かなり」

 

「そんなに?」

 

 マルコムは椅子へ座り直した。

 

「ポッター家だからっていうのもある。でも、それだけじゃない」

 

「何?」

 

「スリザリンだったから」

 

 真司は首を傾げた。

 

 少し考えてから、聞く。

 

「……うちの寮って、もしかして評判悪い?」

 

 マルコムはすぐには答えなかった。

 

 その沈黙だけで、真司にはだいたい察しがついた。

 

「悪いんだ」

 

「……良いとは言いにくい」

 

「そんなに?」

 

「今は昔ほどじゃないと思う。でも、闇の魔法使いを多く出した寮だっていう印象は残ってる」

 

 真司は何となく談話室を見回した。

 

 深い緑色のソファ。

 

 湖の底を見せる窓。

 

 教科書を何冊も広げ、宿題に頭を抱えている一年生。

 

 少し離れたところでは、上級生が眠そうな顔で羊皮紙を読み返している。

 

 一週間を過ごした真司にとって、ここはもう少しずつ「自分の居場所」になっていた。

 

 そこへ突然、

 

 闇の魔法使いを多く出した寮

 

 という言葉が重なった。

 

 あまり似合わないように思えた。

 

「みんな普通だけど」

 

「そりゃそうだよ」

 

 マルコムは少し眉を寄せた。

 

「寮に入っただけで闇の魔法使いになるわけじゃない」

 

「でも、他の寮からはそう見られることがある?」

 

「人による」

 

 真司は、この一週間を思い返した。

 

 両親がマグルだと知った途端、ほんの少し態度が変わった上級生。

 

 「マグル生まれなのにスリザリンか」と、妙な調子で言った二年生。

 

 あのときは、マグル生まれだから珍しがられたのだと思っていた。

 

 けれど、どうやらそれだけではなかったらしい。

 

「じゃあ、『マグル生まれなのにスリザリン』って、二つとも見られてたんだ」

 

「たぶん」

 

 マルコムが静かに頷いた。

 

「マグル生まれがスリザリンにいるのも珍しい。それに、スリザリン自体にも昔からの印象がある」

 

 真司は少し迷ってから、さっきの話へ戻った。

 

「例のあの人も、スリザリンだったの?」

 

「分からない」

 

 その答えは意外だった。

 

「分からないの?」

 

「どの寮だったかは知られてない」

 

 マルコムはそこで少し間を置いた。

 

「でも、ホグワーツに在籍してたなら、スリザリンだったんじゃないかって思ってる人は多い」

 

 真司は返事をしなかった。

 

 なぜなら、聞く前から、自分もほんの少し同じことを考えていたからだった。

 

 強大な闇の魔法使い。

 

 闇の魔法使いを多く出したと言われている寮。

 

 二つを並べただけで、頭の中では勝手につながりかけていた。

 

「どうして、みんなそう思うの?」

 

「あの人が純血主義者だったから」

 

 マルコムの声が、また少し低くなった。

 

 純血主義。

 

 意味は聞かなくても分かった。

 

 昨日まで耳にしていた「純血」という言葉に、主義がついただけだ。

 

 けれど、たった二文字ついただけで、そこに見えるものはずいぶん違った。

 

「純血の魔法使いを上に置いて、マグルやマグル生まれを迫害した。死喰い人にも、そういう考えの魔法使いが多かった」

 

 真司は黙って聞いた。

 

 昨日まで、「純血」という言葉から思い浮かべていたのは、友人マルコムの家のことだった。

 

 父親も母親も魔法使いで、そのまた両親も魔法使い。

 

 昔から魔法界に暮らしてきた家。

 

 ただ、それだけだった。

 

 けれど今、そのよく似た言葉のそばには、別のものが並んでいる。

 

 迫害。

 

 死喰い人。

 

 名前を口にしただけで見つかり、そのまま帰らなかった人。

 

 両親を殺され、それでも死の呪いから生き残った赤ん坊。

 

 そして、スリザリン。

 

 真司は壁に掛けられた蛇の紋章を見た。

 

 ホグワーツに来てからというもの、何度も見ている。いつもと同じ銀色の蛇だった。

 

 それなのに、今は少し違って見えた。

 

 不思議なことに、真司自身まで思えてくる。

 

 ――それなら、例のあの人もスリザリンだったのかもしれない。

 

 証拠を聞いたわけではない。

 

 むしろ、どの寮だったかは分からないと、たった今聞いたばかりだ。

 

 それでも、ここまでの話を順番に聞いていると、そう思えてしまう。

 

 そのことの方が、真司には少し怖かった。

 

「……だから、スリザリンだったって思われてるんだ」

 

「うん」

 

「闇の魔法使いで、純血主義者だから」

 

「それだけじゃないけどね」

 

 マルコムも一度、壁の蛇へ目を向けた。

 

「スリザリンには昔から純血を重んじる家が多いって言われてる。それに、闇の魔法へ進んだ卒業生も多かった。そういうものが、全部一緒になって見られてるんだと思う」

 

 闇の魔法。

 

 純血主義。

 

 スリザリン。

 

 本当は別々のものだ。

 

 けれど、長い間に何度も同じところへ現れれば、外から見ている人には、一つのもののように見えてしまうのかもしれない。

 

 そして、その話をたった今聞いただけの真司まで、同じように考えかけた。

 

「……ずいぶん、嫌われてるんだね」

 

 真司が言った。

 

 マルコムは否定しなかった。

 

「そういう見方をする人はいるよ」

 

「なんで、そこまで?」

 

 マルコムは少し考えた。

 

「一番古いところまで行くなら、サラザール・スリザリンかな」

 

「寮を作った人?」

 

「そう。ホグワーツを作った四人の創設者の一人」

 

 そこまでは真司も知っている。

 

 グリフィンドール。

 

 ハッフルパフ。

 

 レイブンクロー。

 

 スリザリン。

 

 四つの寮の名が、それぞれ学校を作った四人の魔法使いから取られていることは、入学してすぐに教わった。

 

「サラザール・スリザリンは、マグル生まれの生徒をホグワーツに入れることに反対してた」

 

 真司は壁の蛇から、ゆっくりマルコムへ視線を戻した。

 

「……学校を作ったときから?」

 

「最初からそうだったかまでは知らない。でも、ほかの創設者とそのことで対立して、最後には学校を去ったって」

 

 真司はまた蛇の紋章を見た。

 

 一週間前、初めてこの談話室へ入った夜には、湖の底に部屋があることの方がずっと気になっていた。

 

 窓の向こうを魚が通るたびに目で追った。

 

 どうして水が入ってこないのかも気になった。

 

 けれど、その壁に掛かっている蛇について、深く考えたことはなかった。

 

 ただの寮の印だった。

 

 その名前の主が、自分のようなマグル生まれをこの学校へ入れたくなかったと聞くまでは。

 

「僕、その人が作った寮に入ったんだ」

 

「そうなるね」

 

「本人がいたら、嫌がられそう」

 

 少しだけ冗談めかして言ってみた。

 

 けれど、自分で口にしてみても、あまり笑える感じはしなかった。

 

 マルコムも苦笑しただけだった。

 

「……かもしれない」

 

 それ以上、二人とも何も言わなかった。

 

 千年ほど前に生きていた人間が、今の真司をどう思うかなど、本当のところは分からない。

 

 けれど、自分が気にしなくても、他の人がスリザリンという名前を聞いて何かを思う理由は、少しずつ分かってきた。

 

 創設者。

 

 古い魔法族の家々。

 

 純血主義。

 

 闇の魔法使いたち。

 

 一つ一つなら別の話なのに、長い時間の中で何度も重なってしまった。

 

 そうして出来上がったものが、たぶん「スリザリンの評判」なのだろう。

 

 真司はもう一度、壁の蛇を見た。

 

 一週間前と同じ紋章だった。

 

 けれど、一週間前と同じようには見えなかった。




2026/08/30
 呪いの子を読み返したら、スコーピウスくんが普通に「ヴォルデモートの息子」っていじめられてましたね。禁句の設定を改訂しました。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。