ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
昨日まで、真司にとってスリザリンは、自分がたまたま組み分けられた寮だった。
緑色で、蛇が紋章で、湖の底に談話室がある。マルコムがいて、夜になれば戻ってくる場所。それくらいだった。
けれど昨日、その名前の後ろには、思っていたよりずっとたくさんのものがぶら下がっていることを知った。
純血主義。闇の魔法使い。死喰い人。例のあの人。そして、自分のようなマグル生まれをホグワーツへ入れることに反対したという、サラザール・スリザリン。
だから翌朝になっても、真司はなんとなく気が重かった。
眠れなかったわけではない。朝食もきちんと食べたし、最後に一つ残っていたソーセージを、マルコムのフォークよりほんの少し早く自分の皿へ移すくらいの元気はあった。
マルコムのフォークが、何もない皿の上で止まった。
「……それ、僕が取ろうとしてたんだけど」
「早い者勝ちじゃないの?」
「今、僕の手を見てから取ったよね」
「証拠は?」
マルコムは何か言おうとして、やめた。
真司はその間にソーセージを一口かじった。
「あ」
「もう返せない」
マルコムはため息をついて、代わりにベーコンを取った。
そんなこともできるのだから、具合が悪いというのとは違う。
ただ、昨日知ったことが、頭のどこかにまだ居座っていた。
大広間を見渡せば、スリザリンの上級生たちは昨日までと変わらない。新聞を読み、パンを取り合い、宿題のことで揉めている。
普通だった。
ただ、緑と銀の旗に描かれた蛇だけは、昨日までより少し目についた。
「今日、薬草学だよ」
大広間を出てから、マルコムが時間割を見ながら言った。
真司は少し顔を上げた。
「薬草学か」
「何。その顔」
「どんな顔?」
「少し元気になった顔」
薬草学はこれが初めてではない。
数日前の最初の授業では、温室の使い方と、勝手に触れてはいけない植物、それから噛まれたり刺されたりした場合はまず先生へ知らせることを習った。
今日は、《実習》と予告されていた。
「僕、植物は好きなんだ」
真司が言うと、マルコムが時間割から目を上げた。
「そうなの?」
「なんでそんなに意外そうなの」
マルコムは少し考えるような顔をしてから、妙に真面目な顔を作った。
「『ちょっと待って。どうしてこの葉っぱ、こんな形なんだろう』」
近くを歩いていたスリザリンの同級生が、何人かくすっと笑った。
真司はそちらを見てから、マルコムへ眉を寄せる。
「……僕の真似?」
「似てた?」
「似てないよ」
後ろでまた一人、肩を揺らした。後ろーーつまり他の寮まで!
「なんで笑うの」
「いや」
その生徒は笑いをこらえながら首を振った。
「言いそうだなって」
「言わないよ」
真司は言ってから、少し考えた。
「……いや、葉っぱが変な形なら聞くかもしれないけど」
「ほら」
マルコムが得意そうに笑った。
「でも、それと植物が好きなのは別でしょ。観葉植物とか好きだよ」
「カンヨウ?」
「家の中に置く植物。葉っぱを見るやつ」
そう説明しているうちに、真司は昔のことを思い出した。
まだ日本に住んでいた、小学校一年生のころ。
学校で朝顔を育てた。
毎朝水をやるのが自分の仕事だと思っていた真司は、雨の日にも傘を差して、じょうろを持って鉢のところまで行った。
担任の先生は、真司と朝顔と雨空を見比べてから、
『今日は、もう十分お水をもらってると思うよ』
と言った。
少し困ったように笑っていた。
どうして先生が笑ったのか、そのころの真司にはよく分からなかった。
「何?」
マルコムの声で、真司は今の廊下へ戻った。
「何が?」
「笑ってた」
「昔、朝顔を育ててたの思い出した」
「アサガオ?」
「花。日本にいたとき、学校で育てたんだ」
「それで?」
「僕、雨の日にも水やってたんだ。それを思い出した」
マルコムの足が少し遅くなった。
「……雨の日に?」
「一年生だったんだから」
「雨が降ってるのに?」
「だから一年生だったって言ってるでしょ!」
真司は肩でマルコムを軽く押した。
マルコムも笑いながら押し返してきた。
昨日から胸の奥に残っていたものが、それでほんの少しだけ軽くなった。
*
温室へ入ると、湿った土と青い葉の匂いが一度に押し寄せてきた。
「やっぱり好きだな、ここ」
「まだ二回目だよ」
「二回目でも好きなものは好きでいいでしょ」
九月なので外も寒いというほどではない。それでも石の城を出たあとでは、ガラス越しの日差しを受けた温室の空気は少しむっとするほど暖かかった。
棚の一鉢へ真司が近づくと、細長い葉がすっと閉じた。
「マルコム、見て」
二人で眺めていると、葉はゆっくり開いた。
真司がもう一歩近づく。
また閉じる。
「振動かな」
「影かもしれない」
「ああ、それもあるか」
「ミズキ。グラント」
温室の奥から声が飛んできた。
ネビル・ロングボトム教授が、片手に小さな鉢を持って立っている。
「前回、勝手に植物へ触らないようにと言ったね」
「触ってません」
真司はすぐ答えた。
教授は閉じた葉と真司を見比べた。
「それは結構。じゃあ、そのまま席へ」
二人が離れかけると、後ろから声が追ってきた。
「その鉢については、あとで説明するよ」
真司は振り返る。
「本当ですか?」
「だから先に席へ」
「はい」
横でマルコムが笑った。
今日は前回と同じく、スリザリンとハッフルパフの合同授業だった。
黄色と黒のネクタイにも、もういくつか見覚えのある顔がある。
ロングボトム教授が四人ずつ組を作らせると、真司とマルコムの向かいに、ハッフルパフの女子生徒が二人座った。
その一人が、椅子を引きながら先に口を開いた。
「ベアトリス・リード。前の薬草学でも一緒だったけど、ちゃんと話すのは初めてだよね」
明るい茶色の髪が肩のあたりでゆるく波打っている。
「水城真司」
「マルコム・グラント」
もう一人のハッフルパフ生も簡単に名乗った。
真司が「よろしく」と言うと、ベアトリスが少し笑った。
「ミズキは覚えてる。魔法薬学でよく質問してたから」
「そんなに?」
「ほら、また質問した」
「……それは数えないでよ」
ベアトリスが笑った。
「今日はディッタニーの植え替えをします」
ちょうどそこで、ロングボトム教授が授業を始めた。
「前回は温室で植物を扱う際の注意を説明しましたね。今日は実際に触ってもらいます。ただし、魔法は使いません」
「魔法植物なのに?」
真司の口から出た。
ベアトリスがぱっとこちらを見る。
マルコムは目を閉じた。
「ほら」
「まだ二回目だよ」
「この授業では一回目だろ」
「ミズキくん」
教授にも聞こえていた。
「はい。魔法植物なのに、魔法を使わないんですか?」
「使えますよ」
ロングボトム教授は穏やかに答えた。
「でも、君たちはまだディッタニーの根がどのくらい柔らかいのか知らない。知らないものを、杖だけで丁寧に扱うのは案外難しいんだ」
教授は鉢を軽く持ち上げた。
「まず自分の手で触って覚えて。魔法はそのあと」
「なるほど」
真司は手帳へ手を伸ばした。
その手より先に、マルコムが革表紙を押さえた。
「今は植え替え」
「一行だけ」
「君の一行は一行で終わらない」
「私もグラントに一票」
ベアトリスがさらりと言った。
「なんで初対面なのに、もうそっち側なの?」
「魔法薬学で見てたから」
「不利だなあ」
*
植え替えは、思っていたより静かな作業だった。
鉢の縁の土をほぐし、根を傷つけないよう苗を取り出す。教わった通りにすると、白っぽい細い根をまとった土の塊がするりと抜けた。
「こんなに根があるんだ」
真司が顔を近づけると、ベアトリスが指先で額を軽く押した。
「近いよ。葉っぱに当たってる」
「あ、ごめん」
「植物好きなんでしょ?」
「好きだから見てるんだよ」
「近すぎるとかえって見えないよ」
真司は少し離れてみた。
「……たしかに」
「でしょう?」
ベアトリスが笑った。
その横でもう一人の女子生徒が鉢を持ち替えたときだった。
「痛っ」
短い声がして、彼女が手を引いた。
手袋と袖口の間に、細い赤い傷ができている。
ベアトリスの笑顔がすぐに消えた。
「見せて」
「大丈夫。ちょっとだけ」
「いいから」
ベアトリスがハッフルパフ生の手を支える。
真司は作業台へ目を落とした。
鉢の縁が少し欠けている。
「あ、ここ――」
思わず身を寄せかけたところで、ベアトリスに呼ばれた。
「ミズキ。先生」
真司は顔を上げた。
「あ、うん」
「鉢は逃げないでしょ。先にこっち」
「そうだね」
真司はすぐに立ち上がり、ロングボトム教授を呼びに行った。
傷は浅く、手当てはすぐに終わった。教授は欠けた鉢を回収し、授業もそのまま続いた。
*
薬草学が終わると、真司とマルコムは温室を出た。
「図書館、行く?」
真司が聞くと、マルコムはすぐにうなずいた。
「行かないと、君の呪文学が終わらないだろう」
「途中までは終わってるよ」
「十二インチのうち三インチを、途中と言うならね」
「三インチも書いたんだけど」
後ろから、小さく笑う声がした。
振り返ると、ベアトリスがハッフルパフの同級生と一緒に歩いていた。
「呪文学?」
後ろからベアトリスが尋ねた。
「うん。宿題」
「まだ終わってないの?」
「途中」
「十二インチのうち三インチを途中と言うならね」
マルコムが言った。
ベアトリスは少し黙った。
「……頑張って」
「その間が嫌だ」
彼女は笑った。
「私も図書館に行こうかな。薬草学の本、もう少し見たいし」
「来れば?」
真司が言う。
その言葉は、思ったよりするりと出た。
温室から図書館までは近い。城へ戻って少し歩けば着く。
図書館へ入ると、すぐに見覚えのある赤茶色の髪が見つかった。
エイダだった。
一人で座っているのに、机の上には本が何冊も広がり、羊皮紙とインク壺、そのうえ何に使うのか分からない小さな金属片まで置かれている。
「ラブレス」
真司が呼ぶと、エイダが顔を上げた。
「あ。ミズキ。グラントも」
それからベアトリスを見る。
「誰?」
「ベアトリス・リード。ハッフルパフ」
「エイダ・ラブレス。レイブンクロー」
「知ってる」
「どうして?」
「授業で目立つから」
エイダの目が少し輝いた。
「いい方で?」
ベアトリスは少し考えた。
「まだ分からない」
エイダは一度まばたきをして、それから笑った。
「気に入った」
真司も椅子を引き、机の本を覗き込んだ。
「何してるの?」
「呪文学」
エイダは待っていたように本をこちらへ回した。
「ここの杖の動き。最後のところ、もう少し小さくても同じになると思うんだよね」
「また変えるの?」
「普通のでできたから試さなきゃ」
エイダの指が机の端に置いた杖へ伸びた。
その動きを、マルコムが見ていた。
「ここで試すつもり?」
エイダの指が止まる。
「まだ何もしてない」
「しようとしてただろ」
「……少しだけ」
「なら、司書さんに聞いたら?」
ベアトリスが本を開きながら言った。
四人でカウンターを見る。
ちょうど司書と目が合った。
エイダは静かに杖から手を離した。
「今日はやめる」
「それがいい」
マルコムが言うと、エイダは少しだけ眉を寄せたが、今度は何も言わなかった。
真司は笑いながら自分のノートを開いた。
呪文学の課題を始める前に、薬草学のことだけ書いておく。
ディッタニー植え替え。
知らない対象を魔法だけで丁寧に扱うのは難しい。
「何、それ」
すぐ横から声がした。
真司は反射的にノートを引いた。
エイダの顔が思ったより近くにある。
「近い」
「今、何書いたの?」
「見ないで」
「ディッタニー?」
「もう見てるじゃん」
「見えたんだよ」
「そこまで覗いたら、見えたじゃなくて見たって言うんじゃない?」
真司が手帳を右へずらす。
エイダも右へ動く。
左へ。
エイダも左へ。
「やめてよ」
「一行だけ」
「何の一行?」
「その前」
「もっと駄目だよ」
向かいのベアトリスが本から顔を上げた。
「そんなに何を書いてるの?」
「授業のこととか。あと、気になったこと」
「例えば?」
真司は少し考えた。
「なんで羊皮紙を使うのか、とか」
「あ、それ!」
エイダがすぐ反応した。
「この前、図書館で調べてたやつでしょ。羊皮紙の本、何冊も積んで」
「見てたの?」
「見かけたんだよ」
「声かければよかったのに」
「なんかすごく真剣だったから」
「そんな顔してた?」
「してた」
ベアトリスが二人を見比べる。
「それで、分かったの?」
ベアトリスが聞く。
「一応。使う理由はいくつかあった。でも、使う理由があるのと、紙じゃ駄目な理由があるのは別でしょ。そこはまだ分からない」
「分かるまで調べる?」
「分からない。別のことが気になったら、そっちに行くかもしれないし」
ベアトリスは少し首を傾けた。
「じゃあ、何のために書いてるの?」
真司は答えようとして、少し止まった。
研究のため、というほど立派なものでもない。
宿題でもない。
開いた手帳には、授業の注意書きと呪文の発音と、日々思いついた疑問とが、たいして区別もされずに並んでいる。
「忘れるから、かな」
「かな?」
「いや、それで合ってる。気になったのに、あとで忘れるのが嫌なんだ」
「ふうん」
ベアトリスはそれ以上聞かず、自分の本へ戻った。
エイダはまだ手帳を見ている。
「今度ちゃんと見せて」
「嫌だ」
「なんで?」
「今、勝手に見ようとしたから」
「グラントは見てるよね?」
突然話を振られ、マルコムが本から顔を上げた。
「見ようとして見てるわけじゃないよ」
「じゃあ私も偶然見る」
「偶然を予定しないでくれ」
ベアトリスが本の陰で笑った。
真司も少し笑った。
エイダだけが不満そうに口を尖らせていた。
司書の咳払いが聞こえた。
四人は慌てて口を閉じる。
それから、ようやく宿題を始めた。
少なくとも真司は、そのつもりだった。
けれど、しばらくするとエイダが呪文学の本をこちらへ押してきた。マルコムが説明の一箇所を指して、そこはおかしいと言った。ベアトリスは薬草学の本で、どう見ても人の鼻にしか見えない根の挿絵を見つけた。
真司も見に行った。
気づけば、十二インチ必要な呪文学の課題は三行しか増えていなかった。
「全然進まなかった」
真司が羊皮紙を見てため息をつく。
エイダは悪びれもせず肩をすくめた。
「三行も進んだじゃん」
エイダに言わせれば、そういうことらしかった。