ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
飛行訓練の日は、朝からよく晴れていた。
大広間の高い窓から差し込んだ光が、銀の水差しや皿の縁を白く光らせている。
真司はトーストを食べながら、時間割をもう一度見た。
「飛行訓練は午後だ」
隣でマルコムが言った。
「知ってる」
「随分と待ち遠しいようだけど、残念ながら時間割を見ても早くはならないよ」
「わかってるさ」
真司は時間割を畳んだ。
ついに今日、自分は空を飛ぶのだ。
「マルコムは乗ったことあるんだよね?」
「家ではね」
「自分の箒もある?」
「あるにはあるけど、自慢できるような箒じゃない」
真司はトーストを持ったまま彼を見た。
「持ってきてないの?」
「一年生は駄目だよ」
「もったいない」
「校則はそう思ってないらしいね」
マルコムは何でもないようにパンへ戻った。
真司は、箒がどのくらい速いのか聞こうとしてやめた。
午後になれば、どのくらい飛ぶかは分かる。
*
飛行訓練に使われる芝生には、学校用の箒が二列に並べられていた。
前日までの雨を吸った地面にはまだ少し湿り気が残っていたが、空は青く、風も弱い。
箒はダイアゴン横丁で見た新品とはだいぶ違った。くたびれていて、柄には細かな傷があり、枝先の揃っていないものもある。
マルコムは足元の一本を持ち上げる前から、少し眺めていた。
「どう?」
「家のより随分古い」
「飛ぶ?」
「飛ばなかったら授業にならないだろう」
そこへ、マダム・フーチの声が飛んだ。
「箒の左側へ。右手を箒の上へ出しなさい」
話し声が止まった。
マダム・フーチは鋭い黄色の目で列を見渡した。
「命令は短く、はっきり。《上がれ》です。頼み込む必要も、怒鳴りつける必要もありません。箒は耳が遠いわけではありませんからね」
何人かが笑った。
真司も右手を伸ばした。
「上がれ!」
いくつもの声が芝生に重なる。
すぐに持ち主の手へ飛び込む箒もあれば、ごろりと横を向くだけの箒もあった。
隣では、
「上がれ」
マルコムの箒がすっと跳ね上がり、その手へ収まった。
本人は驚きもしない。
真司の箒は、動かなかった。
「上がれ!」
今度は柄が少し震えた。
それだけだった。
マダム・フーチは列の間を歩きながら、手の位置を直したり、聞き取れないほど小さな声の生徒にはもう一度やらせたりしている。
真司は息を吐き、手を出し直した。
「上がれ!」
箒が跳ねた。
ぱしん、と柄が手のひらへ当たる。
「あっ」
真司は思わず笑った。
「上がった」
「ナイス」
マルコムも少しだけ笑っていた。
真司は柄を握り直した。
*
箒を手にするまでは、楽しみで仕方がなかった。
ところがどっこい。実際にまたがると、急に気になることが増えた。
身体の下にあるのは細い柄一本である。
背もたれはない。
身体を留めるものもない。
足元にも、何かへ引っかける場所は見当たらなかった。
「マルコム」
「何?」
「これ、落ちない?」
「ちゃんと乗ってれば」
「その『ちゃんと』を今から習うんだよね?」
「そうだね」
ーー乗ってから『ちゃんと』を習うとはーー! 父さんたちが心配していたことが今になってわかってきた。
マダム・フーチが列の前へ出た。
「最初は数フィート浮くだけです。強く蹴りすぎない。姿勢を保ち、笛が鳴ったらゆっくり降りること」
一人の生徒の箒が少し早く地面を離れた。
「まだです!」
慌てて戻る。
「先に飛び出しても、授業は早く終わりません。合図を待ちなさい」
今度こそ全員が静かになった。
真司は柄を握った。
笛が鳴る。
地面を蹴った。
ふわり、と身体が浮いた。
「うわ」
芝生が足の裏から離れた。
ほんの数フィートだった。
それでも、さっきまで体重を預けていた地面がなくなると、身体は急に頼りなくなる。
真司は柄を強く握った。
箒が少し揺れた。
前の方でマダム・フーチが声を上げる。
「腕に力を入れすぎない!」
真司はそっと指を緩めた。
揺れが小さくなった。
隣を見ると、マルコムはほとんど動かず浮いている。肩にも腕にも力が入っていなかった。
真司ももう少し力を抜いた。
箒が静かになった。
足を一度、空中で動かしてみる。
真司の口元がゆるんだ。
*
全員が一度きちんと浮けるようになると、短い距離を進む練習になった。
少し身体を前へ傾ける。
速度を出しすぎない。
目印のところで向きを変え、戻ってくる。
マダム・フーチの笛が何度も芝生へ響いた。
「前を見なさい!」
「高度をそろえて!」
真司の順番が来た。
身体をほんの少し前へ傾ける。
箒が動いた。
頬へ風が当たる。
もう少し前へ。
速くなる。
芝生が足元を後ろへ流れていった。
最初の目印では、曲がるのが遅れて大きく外へ膨らんだ。
二度目は少しましだった。
三度目には、曲がる前に速度を落とす余裕ができた。
風が耳の横を鳴らし、ローブの裾が後ろへ流れる。
少し先をマルコムが飛んでいた。
速さはそれほど出していない。
けれど、曲がっても姿勢がほとんど崩れず、止まる場所が正確だった。
前の生徒の箒が横へ流れたときも、早めに速度を落としてすっと脇へ避け、相手が戻ると何事もなかったように元の位置へ戻った。
しばらくして、マダム・フーチが経験のある生徒を見回した。
「グラント。停止を見せてください」
「はい」
マルコムは列から出た。
少し速度を上げ、向きを変える。
戻ってくるころにはもう速度を落とし始めていて、白い目印の上へ滑り込むように止まった。
「結構。まず大切なのは速さではありません。箒を、自分の望んだ場所へ動かすことです」
マルコムはそのまま列へ戻ってきた。
「上手いじゃん」
真司が言った。
「家で乗ってたからね」
「コツとかあるの?」
「アクロマンチュラの毒を手に入れたければ、牙に手を伸ばせっていうだろ? 乗っていればわかるよ」
「アクロ……なんだって?」
マルコムが真司を見た。
「あぁ、そうか。君の家では言わないのか」
真司は、なんだか少し悔しかった。
*
学校用の箒を戻し、城へ向かっている途中だった。
敷地の向こうから、大きな人影が歩いてくる。
ハグリッドだった。
肩には太い木材を何本も載せている。近づくにつれて、一年生たちは自然と少し道を空けた。
すれ違うところで、ハグリッドが箒置き場を見た。
「飛行訓練か」
「はい」
何人かが答えた。
真司もその中に混じった。
ハグリッドは空を見上げた。
「今日は風が出る前でよかったな」
それだけ言って、木材を担ぎ直した。
一年生たちの横を通り過ぎ、そのまま森の方へ歩いていく。
城へ戻る道でも、みんなまだ飛行の話をしていた。
誰が一番高く浮いたとか、着地で尻もちをついたとか、次はもっと速く飛ばせてもらえるのかとか。
真司は一度だけ、空を振り返った。
次の飛行訓練は木曜日だった。
それだけは、もう覚えていた。