イースター休暇が終わっても、ホグワーツの景色がすっかり変わったわけではなかった。
クリスマスとは違って、休暇中も城に残っていた生徒は多い。それでも、帰省していた生徒が戻ってくると、大広間の空いていた席が埋まり、廊下ですれ違う顔も少し増えた。
外では芝生に緑が戻り、木々にも新しい葉が出はじめている。窓から差し込む光も冬よりずっと明るくなったが、城の中では年度末試験が近づき、教科書や羊皮紙を抱えて歩く生徒の姿が目立つようになっていた。
「やっぱり少し人が増えたね」
朝食を終えて大広間を出たところで、ベアトリスが、行き交う生徒たちを眺めながら言った。
「休暇中の方がよかったな」
エイダが前を歩いたまま、肩越しに振り返る。
「どうして?」
真司が首を傾げた。
「授業がなかったから」
エイダは迷いなく答えた。
「宿題はあったけどね」
ベアトリスがくすりと笑う。
「でも、好きな時間にできたでしょ」
エイダはそう言って、また前を向いた。
「今は試験があるな」
そこでマルコムが、何でもないことのように口を挟んだ。
エイダの足が一瞬だけ鈍った。
「グラント、朝からその話する?」
「僕が黙れば試験がなくなるの?」
「ならないけど」
「じゃあ同じだろ」
「同じじゃないよ。朝から気分が悪くなるかどうかが違う」
ベアトリスが小さく吹き出した。
「じゃあ昼から言ってもらえば?」
「それなら少し考える」
「考えるんだ」
四人は階段の途中で別れ、それぞれの教室へ向かった。
*
その日の午後、闇の魔術に対する防衛術の授業が始まる少し前だった。
真司が教科書を机へ置いていると、隣の列からグリフィンドールのトーマス・ベネットがやってきた。
合同授業で席が近くなれば話すことがある。宿題について訊かれたこともあれば、実技で互いに失敗したのを笑ったこともある。親しい友達というほどではないが、廊下で会えば名前を呼ぶくらいには知っていた。
トーマスは真司の机へ片肘をついた。
「ミズキ、休暇どうだった?」
「ほとんど宿題してたよ」
真司が苦笑すると、トーマスも露骨に嫌そうな顔をした。
「やっぱり。僕もずっとやってた」
「帰っても逃げられなかった?」
「全然。持って帰った本、途中から見るのも嫌になった」
「わかる。僕も何度も文字なんてみたくないって思ったか」
「全くだ」
二人で少し笑った。
「ミズキはずっと城にいたんだよな?」
「うん」
「家には帰らなかった?」
「父さんも母さんも仕事だし、短い休みだからね」
「ああ、そっか」
トーマスは頷いた。それから、ふと思い出したように真司を見直した。
「父さんも母さんも、マグルなんだっけ?」
「うん。二人とも」
トーマスの眉間に少し皺が寄った。
「じゃあ……その……スリザリンで平気か?」
真司は一度瞬きをした。
「平気って?」
「だって、スリザリンって純血ばっかりなんだろ?」
あまりにも当然のように言われたので、真司は考えるより先に答えていた。
「ばっかりじゃないよ」
「え、違うの?」
トーマスの目が丸くなる。
「違うよ。僕だっているし」
「ミズキは一人じゃん」
「……それはそうだけど」
「でも、ほとんど純血なんじゃないのか?」
「そんなことないよ」
また、すぐに答えた。
トーマスは少し考えた。
「じゃあ、どれくらい?」
「え?」
「純血じゃないやつ。何人くらいいるの?」
真司は口を開きかけた。
そこで止まった。
教室には授業を待っているスリザリンの生徒が何人もいる。半年以上一緒に授業を受けてきた、見慣れた顔ばかりだった。
マルコムは純血だ。
自分はマグル生まれだ。
そこまでは分かる。
では、前の列で羊皮紙を丸めている男子は?
窓際で話している女子は?
名前なら知っている。
「……分からない」
「分からないの?」
「うん」
今度はトーマスの方が不思議そうな顔をした。
「同じ寮なのに?」
「同じ寮でも、そんな話ばっかりしてるわけじゃないよ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
そこまで答えてから、真司は少し眉を寄せた。
「でも、何人いるかは本当に知らない」
「へえ」
トーマスはしばらく真司を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「じゃあ、僕が聞いてたのと違うのかもな」
「たぶん」
真司はそう答えた。
そして、また止まった。
「……いや」
「何?」
「その『たぶん』も、今はちょっと怪しい気がしてきた」
トーマスが吹き出した。
「ミズキ、面倒くさいな」
「訊いたのトーマスだろ」
「訊いたけど」
先生が教室へ入ってきたので、トーマスは笑いながら自分の席へ戻っていった。
真司も教科書を開いた。
けれど、授業が始まるまでの短いあいだ、さっき自分が二度も口にした言葉が頭に残った。
そんなことない。
半年以上スリザリンで暮らしてきた。
だから、そう思った。
けれど、何人いるのかは知らなかった。
*
放課後、四人はいつものように図書館へ集まった。
休暇中に始めた試験勉強は、授業が再開しても続いている。窓際の机には四人分の教科書と羊皮紙が広がり、しばらくはページをめくる音と羽ペンの擦れる音だけが続いていた。
真司も魔法史の本を開いていたが、羽ペンはしばらく同じところで止まっていたらしい。
「シンジ」
ベアトリスの声に顔を上げる。
「何?」
彼女は真司ではなく、手元を見ていた。
「インク」
「え?」
見ると、羽ペンの先から落ちた黒い染みが、羊皮紙の端で丸く広がっていた。
「あ」
真司は慌てて羽ペンを持ち上げた。
向かいでエイダも顔を上げる。
「何考えてたの?」
「昼のこと」
「昼?」
エイダが身体ごとこちらへ向いた。
「防衛術で、トーマス・ベネットに変なこと訊かれた」
「誰?」
「グリフィンドールの子。防衛術で一緒になるんだ」
「それで?」
「僕がマグル生まれだから、スリザリンで平気なのかって」
エイダの眉が寄った。
「何それ」
「スリザリンは純血ばっかりだと思ってたみたい」
「ああ」
それなら分かったらしく、エイダの表情が少し戻った。
「で?」
「そんなことないって答えた」
「うん」
「何人くらい純血じゃないのかって訊かれた」
「うん」
「分からなかった」
エイダが目を丸くした。
「え、じゃあ分からないのに『そんなことない』って言ったの?」
「……うん」
「なんで?」
真司は羽ペンを置いた。
「なんでって……半年以上いるけど、純血ばっかりって感じはしないから」
本の上から目だけを上げていたマルコムが、そこで口を挟んだ。
「感じ?」
「うん」
「そう思うのと、実際にそうなのとは別だろ」
少なくとも、真司にはそうは見えなかった。
「じゃあマルコムは何人いるか知ってる?」
真司の問いにマルコムは肩をすくめてみせる。
「全員なんて知らないよ」
真司が少し意外に思って顔を上げると、今度はエイダが身を乗り出した。
「純血なのに?」
マルコムの眉が少し上がった。
「その質問、どういう意味?」
「だって、純血の家なら、ほかの純血の家も知ってるんじゃないの?」
「知っている家はあるよ。でも、それで寮生全員が分かるわけじゃない」
「そっか」
エイダは案外あっさり引き下がった。
ベアトリスは手元の羊皮紙の端を指で揃えながら、少し考えているようだった。
「私も、ハッフルパフのみんなの家のことは知らないな」
真司がそちらを見る。
「仲のいい子なら?」
「話したことがあれば分かるよ。でも全員じゃない」
「レイブンクローも同じ」
エイダが言った。
「同じ寮でも、そんなものなんだ」
真司が呟くと、ベアトリスがくすりと笑った。
「シンジもそうなんでしょ?」
真司は少し考えてから頷いた。
「……うん」
エイダは何か言いかけたが、結局そのまま自分の本へ目を戻した。
マルコムも本を開き直す。
「とりあえず、今分からないなら、試験勉強に戻れば?」
エイダがすぐに顔を上げた。
「まだ試験の話する!?」
「もう朝じゃない」
「そういう問題じゃないよ!」
ベアトリスが声を立てないように笑った。
真司も少し笑ってから、本へ目を戻した。
けれど、さっきの話は、まだ頭の隅に残っていた。
*
その夜、スリザリンの談話室へ戻ると、真司はいつもより少しだけ周りを気にして見た。
暖炉のそばでは何人かの生徒が魔法使いのカードを広げていた。窓際では上級生が本を読み、その近くでは一年生が宿題の答えをめぐって小声で言い合っている。誰かの家から届いたらしい菓子の箱も開いていて、通りかかった生徒が一つつまむたび、持ち主が何か言っていた。
どれも、もう見慣れた光景だった。
入学したばかりのころには、この部屋にいる生徒たちが、自分とはずいぶん違って見えた。
今なら、誰が朝に弱いかも分かる。誰が魔法史を嫌っているかも、誰がクィディッチの話になると急にうるさくなるかも、少しずつ分かるようになった。
けれど、「純血の寮」と言われてから改めて見回してみても、誰が純血なのかはほとんど分からなかった。
同じローブを着ている。
笑い方にも、宿題の忘れ方にも、血統は書いていない。
真司は向かいの椅子で本を読んでいるマルコムを見た。
「ねえ」
マルコムは本の上から目だけを上げた。
「何?」
真司は少し離れたところで話している生徒を見た。
「あの子って純血?」
マルコムの視線が一度だけそちらへ動き、すぐに戻った。
「本人に聞けば?」
「マルコムは知らない?」
「知ってても、僕から言うことじゃないだろ」
真司は少し首を傾げた。
「そういうもの?」
マルコムは本を少し下げた。
「シンジだって、自分がマグル生まれだって僕が勝手に言って回ったら嫌じゃない?」
真司は返事をしかけて、少し止まった。
「……まあ、ちょっと嫌かな」
「じゃあ同じだ」
「でも、訊かれたら普通に答えるよ」
「それは君が答えるんだろ」
真司は小さく頷いた。
「……そっか」
マルコムはまた本へ目を落とした。
真司もしばらく黙って談話室を見回した。
魔法界で育ったらしいことなら、なんとなく分かる場合もある。真司の知らない菓子や遊びを知っていたり、昔のクィディッチ選手について当然のように話したりする。
けれど、それで分かるのは、せいぜい魔法界で育ったらしいということだけだった。
両親が二人とも魔法使いなのか、片方だけなのか。それより前はどうなのか。
見ただけで分かるはずもない。
半年以上この寮で暮らしているのに、真司が知っているのは、そういうことより、誰が朝に弱いとか、誰が宿題を溜めるとか、そんなことの方だった。
*
寝室へ戻ってから、真司は手帳を開いた。
昼間のトーマスとの会話を思い出し、空いているところへ一行だけ書く。
スリザリンは、本当に「純血の寮」なのか?
その下には、まだ何も書かなかった。