六月に入ってしばらくすると、とうとう年度末試験が始まった。
イースター休暇からこちら、真司たちはずっとそのために勉強してきたはずなのに、月曜日の朝になってみれば、まだ何か一つくらい忘れているような気がした。
大広間でも同じことを考えている生徒は多いらしい。いつもなら朝食の皿しかないところに教科書や羊皮紙が並び、トーストを片手に最後の確認をしている者までいた。
真司も一度は鞄から呪文学の教科書を出したが、向かいのマルコムはいつも通り朝食を取っていた。
「読まないの?」
「朝までに覚えられなかったものは、たぶんもう仕方ない」
「嫌なこと言うね」
「君が訊いたんだろ」
真司は開いたページをしばらく眺めてから、教科書を閉じた。今になって知らないことを見つける方が怖い気がしてきたからだ。
大広間を出ると、玄関広間には試験へ向かう一年生たちが集まっていた。
レイブンクローの生徒のそばにいたエイダは、呪文学の本を開いたまま立っている。
「浮遊術の失敗するところだけ、もう一回見てる」
「昨日もやったでしょ」
「昨日できても、今日忘れてたら意味ないじゃん」
近くにいたベアトリスが笑った。
「歩きながら読む方が危ないよ」
エイダは前を歩いていた生徒へぶつかりそうになり、慌てて立ち止まった。
「……それはそう」
本を閉じたところで、それぞれの試験室へ向かう時間になった。
*
最初は呪文学だった。
午前の筆記では、呪文の名前や効果だけでなく、魔法がうまく働かなかった場合に何が原因として考えられるかまで問われた。
最初の数問は順調だった。ところが浮遊術について、物体が上昇せず意図しない方向へ動いた場合の原因を書け、という問題で、真司の羽ペンが止まった。
授業でも扱ったし、試験勉強でも見直した。知らないわけではない。
それなのに、問題用紙の上で改めて訊かれると、杖の動き、発音、向き、集中の仕方が一度に頭へ浮かんできて、どこから書けばよいのか分からなくなった。
斜め前の席から、羽ペンを猛烈な勢いで走らせる音が聞こえた。
真司はそちらへ目をやりかけ、やめた。他人が速く書いていても、自分の羊皮紙に答えが増えるわけではない。
もう一度、問題を読む。
物体が横へ動いたのなら、まず杖の軌道を確かめるべきだろう。そこを起点にすると、ほかにも考えられることが少しずつ出てきた。
真司は二つ書いて、次の問題へ進んだ。
筆記が終わったあと、廊下の曲がり角でエイダと行き合った。
彼女は真司を見つけるなり足を止めた。
「三問目、最初に何書いた?」
「もう答え合わせするの?」
「一個だけ」
「間違ってたら午後まで気になるよ」
エイダは口を開きかけ、そのまま閉じた。
「……それは嫌だな」
二人は階段へ向かった。
ところが半分ほど下りたところで、エイダがまた口を開いた。
「杖の動き?」
「言ってるじゃん」
「シンジも?」
「うん」
「よかった」
それだけで終わればよかった。
後ろから追いついてきたマルコムが、二人の間を通りながら言った。
「午後まで、その答えが正しかったことにしておけば?」
エイダはすぐそちらを向いた。
「何それ」
「答えはもう変えられないだろ」
「分かってるよ」
「なら実技の方を考えればいい」
珍しくもっともだったので、エイダは何も返さなかった。
午後の実技は、筆記とは違う緊張があった。
名前を呼ばれた生徒から順に前へ出て、一年間に習った魔法を実演する。前の生徒が終わるたび、自分の番だけが一人分ずつ近づいてくるのがよく分かった。
「水城」
呼ばれて、真司は立った。
試されたのは何度も練習した浮遊術だった。
杖を動かし、呪文を唱える。
対象物はきちんと浮いた。
ただし、まっすぐ上ではなく、少し右へ流れた。
午前の問題が頭をよぎる。
真司はいったん動きを止め、杖の向きを直した。宙に浮いた物体もそこで静まり、それから指示された場所までゆっくりと動いていった。
落とさずに済んだ。
席へ戻ったとき、ようやく肩の力が抜けた。
*
翌朝は魔法史だった。
試験室へ入る前から、あちこちで人物名や年号が飛び交っていた。
エイダは額へ指を当てたまま、昨日から思い出せなかった人物の名前をぶつぶつ言っている。
「出来事は分かるんだけどなあ」
「何をした人かは?」
真司が訊いた。
「それも分かる」
「じゃあ名前だけ?」
「だから困ってるの!」
少し離れたところでマルコムがそれを聞き、口元だけで笑った。
試験が始まると、真司にも同じようなことが起きた。
出来事そのものは覚えている。誰と誰が争ったのかも、そのあと何が起きたのかも分かる。
ところが年号だけが曖昧だったり、人物名の綴りで手が止まったりする。
逆に、苦労して覚えたところがそのまま出て、驚くほど簡単に書ける問題もあった。
真司は頭の中で出来事の順番をたどりながら、一つずつ答えを埋めていった。
昼前、試験室を出たところでエイダが近づいてきた。
「出たよ」
「何が?」
「朝の名前。書けた」
「よかったじゃん」
「でも、その次の年が怪しい」
真司が何年と書いたのか訊こうとすると、すぐそばを歩いていたマルコムが顔だけこちらへ向けた。
「昨日と同じことになるぞ」
真司は口を閉じた。
エイダもしばらく黙ってから、
「……じゃあ、やめる」
と言った。
昨日一度やってみて、答え合わせをしても試験が楽になるわけではないことくらいは分かっていた。
*
午後の薬草学では、筆記のほかに実物を見て答える問題があった。
授業で見たことのある植物なのだから大丈夫だろう、と真司は思っていた。
ところが机の上に並べられると、普段なら似てもいなかった葉が、妙に似て見える。
葉の縁を見て、次に茎を見る。色だけで決めかけ、思い直して葉の裏も確かめる。
少し離れたところでは、ベアトリスが一つ答えると、もう次の鉢へ移っていた。
真司は一度だけそちらを見た。
彼女が薬草学で困っているところは、これまであまり見たことがない。
だからといって、自分まで急ぐ必要はなかった。真司はもう一度、目の前の葉へ顔を近づけた。
最後の方には、危険な植物を扱う場合の最初の注意を書く問題があった。
真司は少し迷った末、
素手で触らない。
と書いた。
簡単すぎるようにも見えたが、消す理由もなかった。
試験が終わって図書館へ行くと、先にベアトリスが来ていた。
「薬草学、どうだった?」
向かいに座る真司へ、ベアトリスは本から顔を上げた。
「たぶん大丈夫」
「やっぱり」
「何が?」
「ほとんど止まってなかったから」
「見てたの?」
「ちょっとだけ」
ベアトリスは困ったように笑い、本へ戻った。
少ししてエイダもやってきた。試験の話を聞くと、ベアトリスはまた「たぶん大丈夫」と答えた。
「ベアトリスがそう言うなら、大丈夫そうだね」
「そうかな」
「私は三鉢目で、急に全部同じ葉っぱに見えたよ」
「私も一回あったよ」
ベアトリスが言うと、エイダは少し驚いた。
「あるんだ」
「あるよ」
それを聞いて、真司は少し安心した。
*
水曜日は魔法薬学だった。
筆記の途中で、真司は忘却薬の材料が一つ、どうしても思い出せなくなった。
昨日までなら答えられたし、今も頭のどこかには名前が残っている気がする。
けれど、そこから先へ出てこない。
真司はしばらく粘ったあと、いったんその問題を飛ばした。他の問題を解いてから戻ってみても、空欄は空欄のままだった。
実技の方は、まだやりやすかった。
材料を量り、切り、順番に加えていけば、自分がいま何をしているのかが目で分かる。時間を気にして急ぎたくなるのを抑えながら進めると、最後には見本にかなり近い色になった。
昼食へ向かう途中で、その名前は突然戻ってきた。
真司は階段の途中で足を止めた。
「あ」
隣を歩いていたマルコムも止まる。
「何?」
「思い出した」
「何を?」
「忘却薬の材料」
マルコムは少しだけ真司を見た。
「遅いな」
「分かってるよ」
二人はまた階段を下り始めた。
「忘れたままなら、まだ名前通りだったのに」
真司は横を見る。
マルコムは前を向いたままだった。
「今の、ちょっと嬉しそうだったよ」
「気のせいだろ」
「絶対違う」
*
木曜日の午前は、闇の魔術に対する防衛術だった。
問題用紙を開くと、真司が予想していたよりも呪文の綴りを書く問題は少なかった。
代わりに、状況を読んで最初にどう行動するかを問う問題がいくつも並んでいる。
正体の分からない魔法生物を廊下で見つけた場合。
呪いを受けているかもしれない品物が落ちていた場合。
友人に異常が起きたものの、原因が分からない場合。
最初の問いで真司は羽ペンを止めた。
杖を抜くのか。近づいて種類を確かめるのか。それとも先生を呼ぶのか。
問題には「最初に」とある。
正体が分からないなら、まず距離を取る。
そう書いたあとで、教師へ知らせる、と続けた。
呪われているかもしれない品物には、
触らない。
と書いた。
昨日の薬草学を少し思い出したが、それだけだった。
実技でも、すぐに魔法を使うことより、合図を聞き、対象との距離を確認してから動くことが求められた。
真司は一度、合図より早く杖を上げかけた。
途中で止まる。
やり直した二度目には、きちんと待つことができた。
試験後、廊下へ出たところでマルコムと一緒になった。
「どうだった?」
「一つ怪しい」
真司は足を少し緩めた。
「マルコムでも?」
「何だよ、それ」
「魔法史だと全然困ってなかったから」
「これは魔法史じゃないだろ」
「まあ、そうだけど」
今度はマルコムが訊いた。
「君は?」
「一回、合図より先に動きかけた」
「やったの?」
「止まった」
「ならいいんじゃない?」
「たぶん」
そのまま二人は午後の試験へ向かった。
*
変身術の実技で、真司の前に置かれたのは一本のマッチだった。
春休みに何度も針へ変えようとした、見慣れた課題である。
最初のころは先が太く、木の部分もかなり残っていた。
最後に手首が下がることを、マルコムに指摘された。
前より木の部分が減っていることを、ベアトリスに言われた。
真司は杖を構えた。
あれもこれも思い出そうとすると身体が固くなるので、目の前のマッチだけを見る。
杖を動かす。
最後のところで、手首を下げない。
木の表面から色が消え、銀色へ変わっていった。形も少しずつ細くなる。
変化が止まったとき、机の上には一本の針があった。
少し太い。
先端も、本物の縫い針ほど鋭くない。
それでも、春休みにできたものより、ずっと針らしかった。
変身術の先生が近づいて出来を確かめ、次の机へ移っていく。
真司はそこでようやく息を吐いた。
夕方、図書館で会ったベアトリスは、自分のマッチには少しだけ木の部分が残ったと言った。
「じゃあ、マッチとしても使える?」
「使わないよ」
「火をつける方だけ木なら――」
「シンジ」
「はい」
ベアトリスが笑った。
そこへエイダが椅子を引きながらやってきた。
「私は全部銀色になったよ」
「細さは?」
真司が訊く。
エイダは椅子へ座りかけた姿勢のまま止まった。
「……ちゃんと針だったよ」
「今ちょっと考えた?」
「考えてない!」
*
金曜日の昼には、ほとんどの試験が終わった。
それでも、一科目だけ残っていた。
天文学である。
試験は夜だった。
夕食までの時間、校内には妙な空気が流れていた。終わったつもりで外へ出ている生徒もいれば、星図を抱えたまま廊下を歩いている生徒もいる。
真司は一度中庭へ出た。
空にはまだ雲が残っていた。
隣にいた生徒がそれを見上げて、「これで試験できるのかな」と言った。
真司にも分からなかった。
昼に降った雨の名残で石畳はまだ少し濡れており、六月の空は、試験があることなど知らないようにゆっくり明るさを失っていった。
夕食のころには雲が切れ始めた。
夜になると、一年生たちは順番に天文塔へ上がった。
指定された天体を望遠鏡で探し、その位置を星図へ記していく。
いつもの授業なら、どこかしらから小声や笑いが聞こえるのに、その夜は羊皮紙の擦れる音と、望遠鏡を動かす音、それに教師の足音ばかりが耳についた。
真司は望遠鏡を少し動かし、目当ての星を視野の中央へ入れた。
この一年で、ずいぶん妙なものを見た。
空中に浮いた羽根も、勝手に動く階段も、箒で飛ぶ人間も見た。ほんの数時間前には、自分の杖でマッチを針へ変えたばかりだ。
それでも、望遠鏡の向こうにある星は、エディンバラから見上げたものと同じだった。
真司は星図へ位置を書き込み、次の天体を探した。
やがて試験終了が告げられると、塔のあちこちから一斉に小さな息が漏れた。
階段を下りたところで別の組と合流し、エイダとベアトリスの姿も見つかった。
エイダは三人を見るなり、両腕を高く上げた。
「終わったー!」
前を歩いていた上級生が振り返った。
エイダは腕を上げたまま、声だけを小さくする。
「……終わったー」
ベアトリスが吹き出し、真司も笑った。
四人はそのまま階段を下り始めた。途中でベアトリスが明日の予定を訊くと、エイダはほとんど間を置かず答えた。
「何もしない」
マルコムが横で口を開いた。
「別に――」
「試験は終わったからね」
「まだ何も言ってない」
「言う前に止めたの」
マルコムはエイダを一度見たあと、そのまま前を向いた。
「そう」
今度は本当に何も言わなかった。
途中の窓から、六月の夜の校庭が見えた。冬のような真っ暗な空ではなく、西の端にはまだわずかに明るさが残っている。
明日は試験がない。
真司は窓の外を一度見てから、三人のあとを追って階段を下りた。