ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
次の日には、図書館も広くなった。
いつもの机そのものは少しも変わっていない。椅子は四つあり、窓の外には冬の湖があり、少し離れた席では、休暇中だというのに上級生が分厚い本へ顔を埋めている。それでも真司が一人で座ると、向かいの三席が昨日までより遠く見えた。
静かなことは嫌いではなかった。母さんの働く大学図書館だって静かだったし、宿題をするなら一人の方が早いはずだった。
実際、一時間ほどはよく進んだ。
けれど、ふと顔を上げても向かいには誰もいない。エイダとマルコムの声もせず、ベアトリスの本も置かれていなかった。
真司は羽根ペンを持ち直した。
「ずいぶん熱心ですね」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げると、書棚の間にアルフレッド・フィンチが立っていた。少し薄くなった灰色混じりの髪に、着古したローブ。その脇には、エディンバラの家へ来たときにも持っていた擦れた革鞄が抱えられている。口が少し開いていて、中から羊皮紙の束が覗いていた。
「フィンチ先生」
「こんにちは、ミズキ君」
ホグワーツへ来てから姿を見なかったわけではない。廊下ですれ違ったこともあれば、大広間の教員席にいるところも何度も見た。ただ、真司はまだマグル学を取れないので、家に来てもらったあの日以来、こうしてまともに話すのは初めてだった。
「先生も残るんですか?」
「少なくともクリスマスまでは。そのあと数日は家へ帰ります」
「先生にも休みあるんですね」
フィンチが眼鏡越しに真司を見た。
「その質問は、教師には休みがないと思っていたという意味ですか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「なら安心しました」
フィンチは向かいの空いている椅子へ革鞄を置いた。どさり、と机が少し鳴った。
「重そうですね」
「重いですよ」
「魔法で軽くしないんですか?」
「できます」
「じゃあ、なんで?」
フィンチは自分の鞄を見下ろし、少し困ったように笑った。
「軽くすると、入れすぎるんです」
「ああ」
それなら分かった。
フィンチは鞄から薄い冊子を一冊取り出した。その表紙を見て、真司はすぐに思い出した。
「あ、それ」
「覚えていますか?」
「うちで父さんと母さんに渡してたやつですよね」
マグルの家庭向けに、ホグワーツや魔法界について説明した冊子だった。あの日は中身よりも、フィンチが杖を持っていることの方がずっと気になった。
今では、その杖を自分も毎日制服の内側に入れている。
「来年度版です」
「もう来年度?」
「今から始めて、ようやく間に合うくらいです」
フィンチは冊子を開き、何枚か挟まれた紙片を確かめた。あちらこちらに細かな字が書き込まれている。
「何が変わるんです?」
「今回は、うまくいけば二ページ」
「二ページだけ?」
フィンチが顔を上げた。
「二ページも、ですよ」
「何を書くんです?」
「マグル側から学校へ連絡する場合の案内を少し。それから、保護者向けの用語説明を一つ増やします」
真司は冊子の厚さを見た。二ページ増えたところで、見た目にはほとんど分からなさそうだった。
「それで、そんなに時間かかるんですか?」
「全部通ればね」
「通らないこともある?」
「その方が多いですよ」
フィンチは何でもないことのように答えた。
「嫌になりません?」
「なりますよ」
あまりに早く返事が来たので、真司は瞬きをした。
「なるんだ」
「仕事ですから」
フィンチは冊子を閉じ、また鞄へしまった。
「それでも、必要ならやります」
真司はもう一度、薄い冊子を見た。
フィンチは革鞄を持ち上げた。
「ところで、グラント君たちは?」
「みんな帰りました」
「君は残留ですか」
「はい」
「家には手紙を?」
「出しました」
「なら結構」
フィンチは二、三歩進んだところでもう一度止まった。
「ミズキ君」
「はい?」
「休暇中ずっと、ここにいるつもりではないでしょうね」
「そんなつもりじゃないです」
「なら安心しました」
今度こそフィンチは書棚の向こうへ消えた。
真司はまた教科書を開いた。
十分ほどして、本を閉じた。
*
外へ出て十歩で、図書館に戻ればよかったと思った。
空は晴れていたが、その分だけ風が冷たかった。敷地には二日前に降った雪がまだ残り、踏まれていないところは白いままだ。真司はマフラーへ顎を埋め、せっかく出たのだからと湖の方へ歩いていった。
柵の近くで、見覚えのある大きな背中を見つけた。
ハグリッドは、真司なら両手で抱えるだけでも苦労しそうな木槌を片手で振り、雪の下の地面へ新しい杭を打ち込んでいた。一度振り下ろすたびに太い杭が沈み、周りの雪が少し跳ねる。
「ハグリッド!」
大きな背中が振り返った。
「おう、シンジか」
真司は少し足を緩めた。
名前を覚えられていた。
飛行訓練の帰りや温室の近く、それからハロウィーンの南瓜騒ぎ以来、敷地で顔を合わせれば少し話すくらいにはなっていた。それでも、こうして名前を呼ばれると少し違って聞こえた。
「何してるの?」
「見りゃ分かるだろ。柵の修理だ」
「クリスマス休みなのに?」
「直しとかんと、誰か怪我しちまうかもしれんからな」
真司は柵を見た。
「ありがとう」
ハグリッドは笑って、もう一度木槌を振り下ろしてから、雪のついた手袋を払った。
「おまえさん、残ってたんか?」
「うん」
「家には帰らんのか?」
「帰っても、父さんも母さんも仕事なんだ。それに、ここからだと一回ロンドンまで行って、それからエディンバラまで戻らないといけないし。夏には帰るよ」
「そうか」
ハグリッドは木槌を肩へ担ぎ、小屋の方へ顎をしゃくった。
「茶でも飲んでくか?」
「いいの?」
「俺もちょうど休憩したかったところだ」
ハグリッドは先に歩き出した。
真司もその後を追った。
*
扉を開けた途端、暖炉のそばにいた大きな黒い犬が立ち上がった。
「うわっ」
「大丈夫だ、噛まんよ」
そう言われても、その犬の頭は真司の腰より高かった。真司の胸へやってくると、鼻を押しつけ、ぐいぐいと匂いを嗅いでくる。ハグリッドが首輪をつかんで引き離してくれるまで、真司は入口から二歩も進めなかった。
小屋の中は暖かかった。そして、何もかもが大きかった。
机も、椅子も、鍋も、火かき棒も、壁に掛かった厚いコートも、真司が家で見慣れているものより一回りも二回りも大きい。勧められた椅子へ腰を下ろすと、かかとが床につかなかった。
「大きいね」
湯を沸かしていたハグリッドが振り向いた。
「何が?」
「全部」
ハグリッドは小屋の中を見回した。
「そうか?」
「そうだよ」
本人には、これが普通らしい。
ハグリッドは自分用の大きなマグへ茶を注ぎ、それから棚の奥から欠けた青いカップを取り出して真司の前へ置いた。小屋の中で、そのカップだけは真司が見慣れた大きさだった。
「これも食うか?」
丸い焼き菓子の載った皿が置かれた。
真司は一つ取って、噛んだ。
歯が負けそうになった。
場所を変えてもう一度試してみたが変わらなかったので、茶へ浸すことにした。
「どうだ?」
「……硬い」
「焼きすぎたか」
焼き時間だけの問題ではないような気がしたが、真司は言わなかった。しばらく浸しておくと、どうにか噛めるようになった。
ハグリッドは気にした様子もなく、自分の分を一口で半分ほど食べている。
真司は青いカップを両手で持ち、小屋の中を見回した。
壁には太い綱や大きな革の手袋、形のよく分からない道具が掛けられ、棚には瓶や缶がいくつも並んでいる。種や乾燥した葉らしいものに混じって、白銀色の長い毛が束になって入った瓶があった。
「あれ、何?」
「どれだ?」
「あの白いやつ」
ハグリッドは真司の指した瓶を見た。
「ああ。森にいるユニコーンの尻尾の毛だ」
「ユニコーン?」
真司は椅子から身を乗り出した。
「美しかろう」
「うん」
ハグリッドが棚から瓶を取ってきた。蓋を開け、一本だけ太い指でつまむと、真司の前へ差し出した。
「触っていい?」
「勿論だ」
真司は指先で受け取った。
白いというより、光の当たり方によって銀色に見えた。細いのに思ったより丈夫で、髪の毛とはずいぶん違う。
見ているうちに、真司は思い出した。
「あっ」
「どうした?」
「僕の杖にも入ってるよ!」
制服の内側から杖を取り出す。
ハグリッドは真司の杖を覗き込んだ。
「そうなんか。そりゃ縁があるな」
真司は杖と、指先の銀色の毛を見比べた。当然ながら、外から見ても杖の中身は少しも分からない。
「これが、この中に入ってるんだ」
「まあ、杖作りのことは俺にゃ分からんがな。オリバンダーなら、ちゃんとしたのを選んどるだろ」
真司はユニコーンの毛をハグリッドへ返した。ハグリッドはそれを瓶へ戻し、きちんと蓋を閉めた。
「ハグリッドって、魔法生物に詳しいんだね」
そう言うと、髭の奥が少し持ち上がった。
「まあな。昔っから好きなんだ」
「いっぱいいるの?」
「そりゃもう。あの森にゃ、おまえさんが名前も聞いたことねぇようなのが山ほどおる」
「へえ」
「興味あるか?」
「ある」
ハグリッドは椅子へ座り直した。
「なら、まずボウトラックルってのがおってな――」
そこから話は長くなった。
木の枝のように見える小さな生き物の話から、冬になると活動の仕方が変わるもの、薬草の根元に住みつく虫、森の奥で見かける足跡へと、話題は次々に飛んでいった。真司が一つ質問すると、その答えの途中から別の生き物が出てきて、さらにもう一つ増える。
授業とはずいぶん違った。ハグリッドは順番に教えようとはしないし、覚えるべき名前を区切ってくれもしない。その代わり、どこで見つけたか、どんな鳴き声をするか、近づくなら何に気をつけるかを、まるで昨日見てきたことのように話した。
「森の中のこと、全部知ってるの?」
話が一度途切れたところで真司が聞くと、ハグリッドは首を振った。
「全部は分からん」
「ハグリッドでも?」
「俺でもだ。森ってのは、そんなもんじゃねぇ」
ハグリッドは空になりかけたマグへ茶を足した。
「昨日までいなかったやつが来ることもあるし、ずっといたやつがいなくなることもある。だから毎日見るんだ」
真司も青いカップへ口をつけた。
窓の外では風が雪の表面をさらい、白い粒を小屋の窓へぱらぱらとぶつけていた。
*
クリスマスの朝、真司はいつもより少し遅く目を覚ました。
寝室は静かだった。普段なら誰かのカーテンが開く音や、靴を探す音がするのに、今朝は湖の向こうから届く青白い光が床に揺れているだけだった。
ベッドから起き上がったところで、足元にいくつもの包みが置かれていることに気づいた。
昨夜まではなかった。
いちばん上には、母さんの字で名前が書いてあった。包みを開くと、濃い灰色の厚手の靴下が二足出てきた。
手紙には一行、
『寒いでしょうから、ちゃんと履くこと』
と書いてある。
真司はすぐに一足履いた。暖かくて履き心地がいい。
父さんからの包みは、四角くて少し重かった。
紙を剥がすと、一冊の本が出てきた。
『銀河鉄道の夜』
日本語だった。
真司は表紙を開いた。中には父さんの字で、
『魔法の本ばっかり読んでると、日本語忘れるぞ』
とだけ書かれている。
「忘れないよ」
誰もいない寝室で言った。
とはいえ、ホグワーツへ来てから読んだ本のほとんどは英語だった。何ページかめくると、縦に並んだ日本語を見るのは思っていたより久しぶりだった。
文字を追っているうちに、家の本棚と、その前の床へ座って本を読んでいたことを思い出した。
少しだけ、家に帰った気持ちになった。
その隣には、見覚えのない包みが三つ並んでいた。
一つ目の差出人はすぐに分かった。マルコムの字だ。
開けると、『クィディッチ今昔』が出てきた。最初のページには小さな紙が挟んである。
『次の試合までに。
質問は一章につき三つまでにしてくれると助かる。
マルコム』
真司は紙をしばらく見た。
「少なすぎるよ」
二つ目はエイダだった。
包みの中には、いくつもの金属の輪が複雑に絡んだ小さなパズルが入っていた。引っ張っても外れず、ひねってみても外れない。こちらにも紙がついている。
『暇なら解いて。
壊してもいいけど、どこが壊れたかは教えて。
エイダ』
「解く前から壊す話する?」
もう一度ひねってみた。
やはり外れなかった。
三つ目はベアトリスだった。
丸い缶の中にはショートブレッドが並び、その上に小さな紙が載っていた。
『クリスマスまで開けないこと。
ベアトリス』
真司は窓の外を見た。
「大丈夫。クリスマス」
一枚取って噛む。
さくり、と簡単に割れた。
昨日のハグリッドの菓子を思うと、それだけでかなり立派だった。
*
クリスマスの昼、大広間へ行くと、普段とはずいぶん様子が違っていた。
残っている生徒が少ないので、いつもの四つの寮卓へ分かれて座る必要はなく、中央に置かれた長机へ生徒も教師も一緒に集まっている。休暇に入ったばかりのころは広く感じた大広間も、今日は人のいるところだけが妙に近かった。
真司が空いた席を探していると、少し向こうにフィンチがいた。
「先生、まだいたんですか?」
「まだいました」
「帰るって言ってませんでした?」
「クリスマスまでは、と言ったはずです」
真司は少し考えた。
「そうでした」
「教師の言ったことは、できれば最後まで聞いてください」
「はい」
フィンチの向こうでは、ハグリッドがすでに自分の皿を山のようにしていた。
「おう、シンジ!」
大きな手が上がる。
真司も手を上げ、その近くへ座った。
料理が並び始めると、残っている人数に対して皿の数が多すぎることがすぐ分かった。七面鳥にローストポテト、ソーセージ、野菜、グレービー。それでも皿は次々に現れた。
「これ、全部食べるの?」
真司が聞くと、ハグリッドは当然のように頷いた。
「食えるだけ食え」
「ハグリッド基準じゃないよね?」
「何がだ?」
訊いた相手を間違えた。
食事の途中で、隣に座った上級生から魔法のクラッカーを差し出された。真司が片方を持ち、二人で引っぱると、普通のクラッカーでは考えられないほど大きな音が鳴った。
煙の中から銀色の何かが飛び出し、そのまま弧を描いてフィンチの頭へ落ちた。
幅の広い銀色の帽子だった。先が長く尖り、星までいくつかついている。
フィンチはしばらく食事を止めた。
「先生」
「何です?」
「似合ってます」
フィンチは帽子のつばを指で持ち上げた。
「来学期から、これで授業をしましょうか」
真司は想像した。
「やめた方がいいと思います」
「では、やめます」
向かいでハグリッドが腹を抱えて笑った。フィンチは銀色の帽子をかぶったまま、何事もなかったように七面鳥へ戻った。
*
デザートまで食べ終えたころには、真司はもう何も入らないと思っていた。
ところがハグリッドは、まだ自分の皿へ何かを取ろうとしている。
「食え、食え」
「もう食べたよ」
「まだ入るだろ」
「入らないって」
「ちっこい身体してっからな」
「普通だよ」
少なくとも、ハグリッドと比べなければ。
真司は椅子の背にもたれて一息ついた。それからハグリッドの方を向いた。
「明日も小屋にいる?」
「おう。どうした?」
「また行ってもいい?」
ハグリッドは少し目を丸くしてから、髭の奥で笑った。
「もちろんだ。休みが終わったら、友達も連れてこい。菓子ならまだあるぞ」
真司は昨日の焼き菓子を思い出した。
「それは言わない方が来ると思う」