ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
翌日の夕方、玄関のベルが鳴った。
真司は居間のソファに寝転がって、本を開いていた。
ただし、ほとんど読んではいなかった。同じところを何度も目で追って、そのたびに昨日のことを思い出していた。
空中で止まった本。
落ちてこなかった棚板。
夜になってから、父さんと母さんの前でいくら念じても動かなかったティッシュの箱。
朝になれば何か分かるかもしれないと思っていたが、朝になっても、昼になっても、分からないものは分からないままだった。
玄関でもう一度ベルが鳴った。
「父さんが出るからいいぞ」
台所から声がして、父さんが玄関へ向かった。
真司は本へ目を戻した。
ほどなくして、玄関の扉が開く音がした。
「こんにちは。突然申し訳ありません。アルフレッド・フィンチと申します」
知らない男の声だった。
「ホグワーツという学校で教師をしております」
ホグワーツ。
聞いたことのない学校だった。
けれど、それだけなら真司には関係がない。
父さんも知らないらしく、少し間を置いてから尋ねた。
「それで、今日はどういったご用件でしょうか」
「水城真司君のことで、お話がありまして」
真司は本から顔を上げた。
自分の名前だった。
真司は本をソファに置いた。
足音を立てないように廊下へ出る。玄関までは行かず、角からそっと顔だけを出した。
父さんの向こうに、見たことのない男が立っていた。
五十歳くらいだろうか。灰色の混じった髪は少し乱れ、茶色いコートはずいぶん着込まれている。片手には、擦れた革の鞄を提げていた。
八月に着るには、そのコートはいくらか暑そうだった。
「どうして真司のことを?」
父さんの声は、さっきより少し固くなっていた。
男――フィンチは、すぐには答えなかった。
「突然こんなことを申し上げるのも妙なのですが」
言葉を選ぶように少し間を置く。
「真司君の身の回りで、普通では説明のつかないことが起きませんでしたか?」
真司は廊下の角で動きを止めた。
父さんも黙った。
そこへ、話し声を聞きつけた母さんが台所からやって来た。
「どうしたの?」
父さんは母さんへ顔を向けた。
「この人、真司のことで話があるそうだ。昨日みたいなことがなかったかって」
母さんの表情が変わった。
「昨日のことを知ってるんですか?」
「いいえ。何があったのかは、まだ」
フィンチは穏やかに答えた。
「ですが、もし何かあったのでしたら、そのことも含めてご説明できると思います。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
父さんと母さんは顔を見合わせた。
父さんはすぐには返事をしなかった。
知らない男が突然やって来て、息子について話があると言っているのである。慎重になるのは当然だった。
やがて父さんは、もう一度フィンチを見た。
「……分かりました。どうぞ」
一歩横へ退いたところで、父さんの視線が廊下の奥へ向いた。
真司と目が合った。
「真司」
見つかった。
「何してるんだ」
「……名前が聞こえたから」
今さら隠れても仕方がない。
真司が廊下から出ていくと、父さんは小さくため息をついた。
「まあ、お前の話らしいからな。来なさい」
*
十分後。
フィンチは居間のソファに座っていた。
父さんと母さんは向かい側に座り、真司もその隣に腰を下ろした。
テーブルの上には、フィンチが革鞄から取り出した封筒が一通置かれている。
少し黄色がかった厚い紙で、表には緑色のインクで、
MR SHINJI MIZUKI
と書かれていた。
その下には、この家の住所まで英語で正確に記されている。
真司は、さっきからそこが気になっていた。
聞いたこともない学校の先生が、どうして自分の名前も住所も知っているのだろう。
「まず、昨日のことを聞かせていただけますか」
フィンチに促され、母さんが図書館で起きたことを説明した。
本棚の金具が外れたこと。
棚板と本が落ちてきたこと。
真司が「止まって」と叫んだこと。
そして、そのすべてが母さんの頭上でぴたりと止まったこと。
フィンチは途中で口を挟まなかった。
話が終わると、少し考えるように頷いた。
「なるほど」
父さんが身を乗り出した。
「何か分かるんですか?」
「おそらく」
フィンチは真司へ目を向けた。
「あれは、魔法です」
部屋が静かになった。
真司は瞬きをした。
魔法。
答えとしては短かった。
短すぎて、何の説明にもなっていないような気がした。
「魔法というのは……」
父さんが慎重に言葉を選んだ。
「手品のようなものですか?」
「いいえ」
フィンチは首を振った。
「魔法使いや魔女が使う、本物の魔法です」
真司には、ますます話が分からなくなった。
魔法使いなら知っている。本や映画の中で、杖を振ったり、空を飛んだりする人たちだ。
少なくとも、家の玄関から入ってきて、母さんの紅茶を勧められている人ではないと思っていた。
「私はホグワーツ魔法魔術学校で、マグル学を教えています」
「マグル?」
真司が首をかしげると、フィンチは父さんと母さんへ目を向けた。
「魔法を使わない人々を、私たちはそう呼びます」
父さんはまだ納得していないようだった。
昨日の出来事が普通ではなかったことは分かっている。
けれど、今日やって来た知らない男が「魔法です」と言ったからといって、それだけで信じられるわけではない。
「昨日のことが妙だったのは認めます」
父さんは言った。
「でも、それとあなたのお話が本当かどうかは別ですよね」
「おっしゃる通りです」
フィンチは少しも気を悪くしなかった。
むしろ、そう言われることには慣れているようだった。
「実際にお見せした方が早いでしょう」
フィンチはコートの内側へ手を入れた。
父さんの肩が、ほんの少し固くなった。
出てきたのは、細長い木の杖だった。
真司は思わず身を乗り出した。
杖。
ようやく知っているものが出てきた。
ただし、本物を見るのは初めてだった。
「何か一つ、お借りしてもよろしいですか?」
フィンチがテーブルを見回した。
母さんが、紅茶のそばに置いてあったティースプーンを指した。
「これなら」
「ありがとうございます」
フィンチはスプーンをテーブルの中央へ置いた。
杖の先を向け、短い言葉を唱える。
銀色のスプーンが、ぐにゃりと曲がった。
真司は息を止めた。
柄が細くなり、四本の小さな脚が伸びた。片方の端は丸みを帯び、反対側から細長い尻尾が生える。
銀色だった表面を、緑色の鱗が覆った。
ほんの数秒後。
テーブルの上には、一匹の小さなトカゲがいた。
真司は何も言えなかった。
トカゲは二、三度瞬きをした。
それから、急に父さんの方へ走り出した。
「うわっ!」
父さんが椅子ごと後ろへ下がった。
その声で真司は我に返り、思わず笑ってしまった。
「父さん、かっこわるい」
父さんは少しむっとした。
「急にこっちへ来たんだぞ」
トカゲの方には父さんを追いかけるつもりなどなかったらしい。テーブルの端で止まり、何事もなかったように喉を動かしている。
フィンチがもう一度杖を振った。
小さな体が縮み、脚と尻尾が消えた。
かちん、と音がした。
元のティースプーンが、テーブルの上に転がった。
父さんはしばらくそれを見つめていた。
やがて慎重に持ち上げ、表を見て、裏返し、柄の先まで確かめる。
「……仕掛けは?」
「ありません」
フィンチは杖をしまった。
「もし今のが手品でしたら、教師よりそちらで生計を立てた方がよかったかもしれませんね」
母さんが小さく笑った。
父さんは笑わなかった。
まだスプーンを見ていた。
ちなみに、その日からしばらく父さんは、スプーンやフォークを使う前に妙に念入りに確かめるようになった。
しまいにはプリンまで豆腐のように箸で食べ始め、母さんに「もういいでしょう」と叱られることになる。
それは、もう少しあとの話である。
*
真司は、父さんが持っているスプーンよりも、フィンチのコートの内側を見ていた。
あそこに、本物の杖が入っている。
「僕も、今のができるんですか?」
真司が尋ねると、フィンチは頷いた。
「きちんと勉強すればね」
もちろん、初めからスプーンをトカゲに変えるわけではない。もっと簡単な魔法から、一つずつ習っていくのだという。
「じゃあ、昨日の本も?」
「おそらく偶発魔法でしょう」
聞き慣れない言葉に真司が首をかしげると、フィンチは説明した。
魔法使いの子どもは、まだ杖も呪文も知らないころから、ときどき自分でも分からないまま魔法を起こすことがあるという。
ひどく驚いたとき。
怖かったとき。
あるいは、どうしても何かを願ったとき。
「昨日は、お母さんを助けたいと思ったのでしょう」
真司は母さんを見た。
あのとき、難しいことなど何も考えていなかった。
危ない。
止まってほしい。
ただ、それだけだった。
「じゃあ、本当に僕が止めたんだ」
「そう考えてよいでしょう」
昨日、三人でいくら考えても分からなかったことに、初めて名前がついた。
魔法。
まだ、どこか本の中の言葉のようだった。
けれど、目の前でスプーンはトカゲになった。
そしてフィンチは、真司にも同じことができると言った。
「じゃあ僕、魔法を習えるの?」
フィンチは少し笑った。
「そのための学校です」
やってみたい。
真司はすぐにそう思った。
自分でも、本当に魔法を使ってみたい。
父さんは、手にしていたスプーンをようやくテーブルへ戻した。
「つまり……」
言い慣れない言葉を確かめるように、フィンチを見た。
「真司は、魔法使いなんですか?」
「はい」
フィンチは、ごく普通のことを答えるように頷いた。
「水城真司君は、魔法使いです」
そう言って、テーブルの端に置かれていた黄色い封筒へ手を伸ばした。
「そして、そのために今日はここへ来ました」
封筒が、真司の前へ差し出された。
昨日まで、自分が魔法使いだなんて考えたこともなかった。
それなのに、どうやらこの学校は、真司より先にそのことを知っていたらしい。