年度自由研究を提出してから三日後、大広間の入口に新しい羊皮紙が貼り出された。
朝食を終えて出てきたところで、先を歩いていたエイダが急に足を止めた。真司は危うく背中へぶつかりそうになり、慌てて横へ半歩ずれる。
「あ、返ってくる」
貼り紙には一年生の名前と、その自由研究を担当した教師の名前が並んでいた。教科を問わない課題なので、提出されたあと、内容に近い教師へ振り分けられたらしい。
エイダは呪文学。ベアトリスは薬草学。マルコムは魔法史。
真司は少し下で自分の名前を見つけた。
水城真司――マグル学 A・フィンチ。
「……マグル学?」
思わず声に出すと、エイダが肩越しに覗き込んだ。
「シンジ、マグル学取ってたっけ?」
「取ってないよ。一年生は取れないだろ」
隣へ来たマルコムは、真司の欄を一度見ただけで、さほど不思議そうな顔をしなかった。
「血統とか、マグル生まれの話を書いたからじゃない?」
「題名はスリザリンの話なんだけど」
「中身はそれだけじゃなかっただろ」
それは否定できなかった。
フィンチとはクリスマスにも話しているし、真司にとって縁の薄い教師でもない。それでも、自分がスリザリンについて書いた自由研究を、まだ授業さえ受けたことのないマグル学の教師が読むことになるとは思っていなかった。
貼り紙の下には、午後から担当教師の教室か研究室へ受け取りに行くよう書かれている。
真司はそこまで読んでから、別のところで困った。
「……マグル学の教室って、どこ?」
*
一度階段を間違えたあと、ようやく見つけたマグル学の教室は、真司が勝手に想像していたほど奇妙な場所ではなかった。
机の上に電話機や電気製品がずらりと並んでいるわけでもない。その代わり、壁際の棚にはマグルの新聞、鉄道の切符、電池、缶詰、プラスチック製のカードなどが、魔法界の新聞や古い法令集と一緒に収まっている。博物館の展示というより、必要になったものを長いあいだ少しずつ集めてきた棚に見えた。
扉を叩くと、聞き覚えのある声が返った。
「どうぞ」
フィンチは窓際の机で羊皮紙を読んでいた。クリスマスに大広間で会ったときと大して変わらず、服装はきちんとしているのに、どこか一日の仕事を半分ほど余計に引き受けたようなくたびれ方をしている。
「ミズキ君。こんにちは」
「こんにちは」
「ここへ来るのは初めてだったかな」
「はい」
「そうでしょうね」
フィンチは机の端へ手を伸ばした。
そこには何本かの巻物が置かれていたが、数は多くない。紐の間から見える名前も、ほとんどが上級生のものだった。その中に一本だけ、少し太めの巻物が混じっている。
フィンチはそれを取り上げた。
「一年生で私のところへ来たのは、今年は君だけですよ」
「やっぱり珍しいんですか?」
「一年生はマグル学を取れないからね。それに、上の学年を含めても、たいへんな人気教科とは言いにくい」
そう言ってから、フィンチ自身も机の上の巻物を眺めた。
「こうして見ると、なかなか説得力がありますね」
真司も同じところを見た。
「少ないですね」
「そこは言わなくてもいいですよ」
「先生が先に言ったんじゃないですか」
「そうでした」
フィンチの口元がわずかにゆるんだ。
向かいの椅子を勧められ、真司は腰を下ろす。巻物が机の上を渡ってきた。
提出したときと同じ一巻きだった。何枚かの羊皮紙をまとめたせいで、普段の課題よりずいぶん太い。紐をほどき、上から少しずつ広げていくと、提出したときにはなかった小さな文字が、余白のあちこちに増えていた。
『最初に自分がどう考えていたかを書いたのはよい。』
『「昔」はいつ頃を指していますか。』
『本人がそう答えたことと、君が確かめたことは同じではありません。』
フィンチの字は細かかったが、どれも短い。
真司は羊皮紙を少しずつ送りながら読み進めた。
血統について答えたくないと言った生徒のところでは、余白に細い線が引かれていた。
『答えなかったことも回答の一つです。理由を勝手に補わなかったのはよい。』
真司はそこを二度読んだ。
「これも回答なんですか?」
問いかけると、フィンチは手元の羊皮紙から顔を上げた。
「何も答えていないのに?」
「君が聞いたことに対して、『答えない』と決めたんでしょう?」
「はい」
「なら、少なくとも『全員が答えた』とは違います」
真司は自分の巻物へ視線を戻した。
「理由は書かなかったです」
「書かなくていいんです。本人が書いてほしくないと言ったことまで、君の推測で説明する必要はないからね」
「分からないものは、分からないまま?」
「そういうこともあります」
フィンチはそれ以上説明せず、また自分の仕事へ戻った。
真司も羊皮紙を送り直す。
四年生に要約を直されたところには、
『本人が「違う」と言ったなら、その違いは残すこと。』
とある。
さらに下へ進み、最後の「まだ分からないこと」まで来ると、フィンチの字で、
『ここから先にも問いはあります。ただし、今回の課題としてはここまででよい。』
と書かれていた。
真司は少し安心した。
「先生」
「うん?」
「これは、続きをやれって意味じゃないですよね」
「違うよ」
フィンチはきっぱり答えた。
「研究というのは、終わったところに次の問いが残ることがある、というだけです。今回の自由研究はもう終わり」
「よかった」
「お疲れ様でした」
真司は巻物をさらに広げた。
そこで筆跡が変わった。
フィンチの小さな文字とは違い、細くまっすぐで、行そのものまできちんとしている。
『良い問いです。「純血の寮」という言葉を、誰が、どこから見て使っているのかを忘れないこと。自分の予想と異なる答えを探し、それを残したこともよいでしょう。これから何かを調べるときにも、自分に都合のよい答えだけで満足せず、反証を確かめる姿勢を大切にしなさい。』
その下に、
M・McGonagall
と署名があった。
真司は一度最後まで読み、署名を確かめてから、もう一度最初から読んだ。
「……フィンチ先生」
「うん?」
「なんで校長先生が書いてるんですか?」
「ああ」
フィンチは、そこを説明するのを忘れていたような顔をした。
「私が見せたからです」
「校長先生に?」
「そう」
真司は巻物から顔を上げた。
「なんでですか?」
フィンチは、真司が広げている巻物の終わり近くを指した。
「君は最初、スリザリンの中で血統がどう考えられているかを調べていた。でも最後には、どうしてほかの寮から『純血の寮』に見えるのか、という問いが残ったでしょう?」
「はい」
「そこまで行くと、マグル学だけの話でも、スリザリンだけの話でもない。ホグワーツの中で、寮がどう見られているかという話になる」
「それで校長先生?」
「一度読んでもらってもいいんじゃないかと思ったんです」
真司はマクゴナガルの文字へ視線を戻した。
「全部の自由研究が校長先生まで行くわけじゃないですよね」
「もちろん違う。全部読んでいたら、校長は夏休みを失うからね」
あまりにも真面目な顔で言われたので、真司は少し笑った。
それから、コメントの最後にある言葉を指した。
「この『反証』って、何ですか?」
「君が今回、途中からやったことに名前をつけるなら、それに近いでしょう」
フィンチは真司の巻物へ手を伸ばし、最初に九人へ聞いた辺りまで少し巻き戻した。
「最初は、君が思っていたことに近い答えが多く集まった。それで、一度は結論を書きかけた」
「はい」
「でも、そのあと聞く相手を変えた。あまり話したことのない人や、上級生にも聞いた」
真司は五年生の回答が書かれた辺りへ目を向けた。
「思ってたのと違う答えが出ました」
「そう。自分の考えが正しいと分かるものだけではなく、違っているかもしれないと分かるものも探した。校長先生が書いているのは、たぶんそのことです」
「それを反証って言うんですか?」
「まずは、そのくらいで覚えておけばいいかと」
真司はもう一度、マクゴナガルのコメントを読んだ。
知らない言葉ではあったが、やったことは知らないことではなかった。
「じゃあ、次に何か調べるときも、自分と違うものを見る」
「そう。ただ、反対の答えが一つあったから、今度はそっちが正しいと決めないこと」
「どっちもすぐ正しいって決めない?」
「それができれば、だいぶいいと思いますよ」
真司は眉を寄せた。
「面倒ですね」
「そうですね」
フィンチの返事は妙に早かった。
「もっと簡単な方法ないんですか?」
「今のところ、私は知りません」
「先生でも?」
「先生でも」
フィンチは肩をすくめた。
先生に訊けばもう少しすっきりするのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。
それでも、今回自分が途中からやったことに名前がついた。それだけは、手帳へ書いておいてもよさそうだった。
フィンチは広がった羊皮紙を端から丁寧に巻き戻し、元の一巻きにまとめた。
「持って帰って、コメントだけもう一度読んでおくといいですよ。書き直して再提出する必要はありませんが」
「書き足しても?」
「提出したものにはやめておこう」
「じゃあ手帳に書きます」
「そうするといい」
巻き終えた羊皮紙を紐で留め、フィンチは真司へ返した。
*
教室を出て大階段へ向かう途中、踊り場でエイダと会った。
手すりにもたれ、自分の返された巻物を眺めていたエイダは、真司を見ると身体を起こした。
「遅かったね」
「ちょっと話してた」
「いっぱい書かれてた?」
「まあまあ」
真司は抱えていた巻物の紐を少し緩め、最後の部分だけを広げて見せた。
マクゴナガルの署名を見つけると、エイダの目が丸くなった。
「校長先生?」
「フィンチ先生が見せたんだって」
「へえ。何て?」
「今回やったみたいに、これからも自分と違う答えもちゃんと見ろって」
「ふうん」
エイダは少し考え、それから自分の巻物を持ち上げた。
「私は『もう少し回数を増やしてみましょう』だった」
「何回やったの?」
「五回」
「少ないよ」
「三回から増やしたのに」
「二回しか増えてないじゃん」
「増えたことが大事なの」
エイダは不満そうに巻物を抱え直した。
真司は笑いながら、その横を一緒に階段へ向かった。
*
その夜には、男子寮のあちこちでトランクが開かれていた。
真司は教科書を底へ並べ、その上へローブを畳んでいく。向かいではマルコムが同じ作業を、真司よりずっと几帳面に進めていた。
その間を縫うように、カラムがベッドの下へ潜り込んだ。
「ない!」
真司は教科書を置きながら顔を上げた。
「今度は何?」
「靴下が片方ない!」
マルコムは畳んでいたローブから目だけを上げ、真司の杖へ視線を移した。
「パックは使うなよ」
「使わないって」
「僕は使ってもいいよ」
ベッドの下から、カラムが顔だけを出す。
「本人がいいって言ってるけど」
真司がマルコムを見ると、彼は眉一つ動かさなかった。
「駄目だ」
靴下は結局、ベッドのカーテンの裏から出てきた。
カラムは埃を払いながら得意そうに掲げた。
「ほら。失くしてなかった」
「場所が分からなかっただけ?」
「そう」
「ベッドの下まで探してたけど」
「結果として分かっただろ」
真司には、一年経ってもその区別だけは理解できなかった。
自分の荷造りへ戻り、余った羊皮紙を教科書の隙間へ差し込む。使いかけのインク瓶は布で包み、トランクの端へ置いた。
返ってきた自由研究の巻物は、一度トランクへ入れかけてから、手を止めた。
少し迷い、皮表紙の手帳と一緒に手元の鞄へ入れる。
それから手帳だけを取り出した。
一年前にはほとんど白かったはずなのに、今では挟んだ紙のせいで少し膨らんでいる。ぱらぱらとめくれば、動く写真、杖、組み分け、羊皮紙、血統と、その時々で気になったものが次々に出てきた。
真司は新しい頁を開き、
反証――自分の考えと違うものも探す。
と一行だけ書いた。
その下には何も続けなかった。
今回の自由研究は、これで終わりだった。
*
翌朝の談話室には、いつもの話し声にトランクの車輪と留め金の音が混じっていた。
湖に面した窓の向こうを、大きな影がゆっくり通り過ぎる。入学したばかりのころなら、真司は荷物を放り出して窓際へ行っただろう。今はトランクの留め金を確かめてから、少し遅れて顔を上げるくらいだった。
窓際の椅子も、暖炉の前のソファも、宿題をするときによく使った机も、一年前ほどよそよそしくは見えない。
入口で待っていたマルコムが、何も言わず天井を見た。
その少し向こうには、自由研究で話を聞いた五年生もいた。
真司と目が合うと、上級生はほんの少し顎を上げる。
真司も同じように返した。
あの「仕方ない」という答えは、今でも好きではない。たぶん、夏休みを挟んだからといって好きになるものでもない。
けれど、あの生徒もこの談話室で一年を過ごしたスリザリンの一人だった。
真司も同じ場所で、一年を過ごした。
考えていることが同じでなくても、同じ寮にはいられる。
少なくとも、この一年でそれは分かった。
「シンジ、行くよ」
マルコムの声が入口から飛んできた。
「今行く」
真司はトランクの取っ手を握り直し、三人のあとを追って談話室を出た。
*
帰りのホグワーツ特急が走り出してしばらくすると、エイダが窓の外を眺めながら、ふいに口を開いた。
「これで一年生も終わりかあ」
向かいの席で、真司も窓へ目をやった。
ホグワーツはもう見えなくなっている。
「まだ今日までは一年生じゃない?」
「そういうところだよ、シンジ」
「何が?」
「細かいところ」
エイダが呆れたように言うと、隣で本を読んでいたベアトリスが小さく笑った。
「でも、次に来るときは二年生だね」
「そうだよ」
エイダは勢いよく頷き、それから急に少しだけ声を落とした。
「しばらく会えないね」
その言葉に、真司は一瞬答えなかった。
学校が始まってからというもの、この三人のうち誰とも長く会わないということは、ほとんどなかった。授業が違う日でも大広間で顔を合わせたし、図書館へ行けば誰かがいた。
二か月。
そう考えると、急に夏休みが長く見えた。
窓側に座っていたマルコムが、外を見たまま口を開いた。
「手紙を書けばいいだろ」
「書くよ」
エイダはすぐに元気を取り戻した。
「いっぱい」
真司は嫌な予感がした。
「いっぱいはいらない」
「じゃあ毎日」
「もっといらない」
「なんで?」
「返事を書くのが大変だから」
「返さなくてもいいよ」
「それはそれで嫌だよ」
ベアトリスが本を閉じ、膝の上に置いた。
「でも、九月にはまた会えるよ」
「そうだね」
真司はそう答えてから、少しだけ不思議な気持ちになった。
九月には、また戻ってくる。
一年前、ホグワーツへ行くことは、それだけで大事件だった。知らない駅へ行き、知らない列車に乗り、知らない城へ向かった。
今は、夏休みが終われば学校へ戻る。
それがもう、ずいぶん普通の予定に思えた。
*
キングズ・クロスに着くころには、車内の空気もすっかり帰宅のものに変わっていた。
荷物を引きずってホームへ降りると、あちこちから家族を呼ぶ声が聞こえる。真司も人の間を探し、すぐに見慣れた二人を見つけた。
母が先に手を振った。
「真司!」
父はその横で、こちらへ歩いてくる真司を上から下まで眺めた。
「少し大きくなったか?」
「分かんない」
母も真司の顔を覗き込む。
「大きくなった気がする! あなた、比べて」
「よし」
父が真顔で真司の頭の上へ手をかざしたので、真司はすぐに一歩下がった。
「やらなくていい」
「まだ測ってないぞ」
「絶対ちゃんと測らないでしょ」
母がまた笑った。
その声を聞いているうちに、さっきまで列車の中にいたことが少し遠くなった気がした。
父がトランクの取っ手を受け取る。
「じゃあ、ここからエディンバラまで帰るか」
「うん」
母が真司の鞄を見てから、顔へ視線を戻した。
「おかえり」
真司は一瞬だけ黙った。
一年前なら、ホグワーツへ行くことばかり考えていた。
今は、帰ってきたと思った。
「……ただいま」
それから三人で、人の流れの中を歩き出した。