ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
テーブルの上に、自分宛ての手紙がある。
それだけなら、別に珍しいことではない。
誕生日には日本の祖父母から届くことがあるし、学校から封筒を渡されることだってある。
ただし、それが魔法学校からの手紙となれば、話は別だった。
真司は封筒を持ち上げた。
厚い紙は少しざらざらしている。裏には赤い蝋で封がされ、中央の大きな文字を囲むように、獅子と鷲と穴熊と蛇が刻まれていた。
「開けていい?」
父さんはすぐには答えず、フィンチを見た。
「開けても大丈夫なんですか?」
「ええ。何も危ないものではありません。どうぞ開けてください」
それを聞いて、父さんが頷いた。
真司は蝋のところをなるべく壊さないように封筒を開けようとした。
端からそっと爪を入れてみる。
うまくいかない。
もう一度やると、今度は赤い蝋が真ん中からぱきりと割れた。
少しもったいない気がしたが、手紙を読む方が大事だった。
中から何枚かの羊皮紙を取り出す。
一番上には、立派な文字で、
ホグワーツ魔法魔術学校
と書かれていた。
その下には、真司の入学を認めること、新学期が九月一日に始まることなどが続いている。
真司は最初からもう一度読んだ。
「本当に学校なんだ……」
向かいに座っていたフィンチが、少しだけ笑った。
「先ほどから、そう申し上げていますよ」
「でも、魔法学校ですよ」
「ええ」
フィンチにとっては、魔法学校であることなど当然で、少しもおかしくないらしい。けれど真司にとっては、学校が魔法を教えるということ自体、簡単には受け入れられないほど不思議なことだった。
真司は続きを読んだ。
やがて、見慣れない言葉のところで止まった。
「寄宿学校って、学校に住むんですか?」
「そうです」
フィンチが答えた。
「学期中はホグワーツで生活します。生徒は四つの寮に分かれて暮らして、長い休みには家へ戻ります」
今度は母さんが手紙を覗き込んだ。
「十一歳から?」
「はい」
母さんの表情が少し変わった。
さっき本物の魔法を見せられたときよりも、真司が家を離れて暮らすと聞いたときの方が、ずっと心配そうだった。
真司もそこで初めて、そのことを考えた。
学校に通うのではなく、学校で寝起きする。
父さんも母さんもいない。
知っている友達もいない。
それは少しだけ不安だった。
けれど、その学校では魔法を習う。
「ホグワーツって、どこにあるんですか?」
「スコットランドです」
真司は少し安心した。
「じゃあ、そんなに遠くないんだ」
少なくとも外国へ行くわけではない。真司はそれでひとまず納得した。
それより、もっと気になっていることがあった。
「どんな魔法を習うんですか?」
フィンチの顔に、ほんの少し教師らしい笑みが浮かんだ。
「いろいろですよ。呪文学、変身術、魔法薬学、薬草学、天文学――一年生なら、ほかにもいくつかあります」
「変身術って、さっきのトカゲみたいなの?」
「そうです。ただし、あれは一年生には少し早いですね」
「じゃあ、物を浮かせるのは?」
「習います」
真司は身を乗り出した。
「昨日みたいに?」
「昨日のものとは少し違いますが、自分の意思で物を浮かせる魔法はありますよ」
それは聞き捨てならなかった。
昨日は、どうして本が止まったのか分からなかった。
けれど、ホグワーツへ行けば、今度は自分でそういうことができるようになるらしい。
「ほかには?」
「まだありますよ」
「火とか出せる?」
「そういう魔法もあります」
「透明になったり?」
フィンチは少し考えた。
「それは、もう少し複雑ですね」
「空を飛ぶのは?」
「一年生には飛行訓練があります」
「飛行訓練?」
「箒に乗ります」
真司は思わず母さんを見た。
「箒で飛ぶんだって!」
「聞こえてる」
母さんの返事はあまり楽しそうではなかった。
父さんも気になるところが違ったらしい。
「それ、落ちたりしませんか?」
「落ちないように練習するんです」
フィンチは落ち着いて答えた。
父さんと母さんは揃って微妙な顔をした。
真司には、その顔の意味がいまひとつ分からなかった。
空を飛べるなら、まず飛んでみたいと思うのが普通ではないだろうか。
*
それからは、父さんと母さんの質問が続いた。
怪我をしたらどうするのか。
病気になったら。
家族とはどうやって連絡を取るのか。
食事はどうなるのか。
休みはいつなのか。
フィンチは一つずつ答えていった。
真司も最初は聞いていたが、だんだん追いつかなくなった。
そこでフィンチは革鞄を開き、何冊かの薄い冊子を取り出した。
『マグル生まれの生徒とご家族へ』
『ホグワーツでの生活について』
『休暇中の規則と保護者へのお願い』
父さんは一番上の冊子を手に取った。
「こういうものもあるんですね」
「ええ。昔は、もっと簡単なものでした」
フィンチは少し疲れたように笑った。
「分からないと言われるたびに説明を足して、必要なものを増やしてきたんです」
父さんは何ページかめくった。
「それでも、先生が家まで来る必要がある?」
「ありますね」
フィンチはあっさり答えた。
「『あなたのお子さんは魔法使いです』と紙に書いて送るだけでは、なかなか信じていただけませんから」
父さんは、テーブルの上に戻されたティースプーンを見た。
「でしょうね」
今度は母さんも少し笑った。
真司は、大人たちが話している間に残りの羊皮紙を読んでいた。
どうやら、学校へ行く前に揃えなければならないものがあるらしい。
黒いローブ。
とんがり帽子。
防護手袋。
冬用のマント。
教科書。
大鍋。
望遠鏡。
真鍮の秤。
そして、杖。
その文字を見た瞬間、真司の指が止まった。
杖。
フィンチが持っている、あの細長い木の棒。
ただの棒ではない。あれを振るだけで、ティースプーンが宙に浮き、トカゲが別の姿に変わった。
自分も、あれを持つことになる。
真司は、一覧の中でも杖という二文字を何度も見返した。
どんな形をしているのだろう。
木の種類によって違うのだろうか。
フィンチの杖のように、振れば何かが起きるのだろうか。
見たことのないものもあれば、知っているものもある。
けれど、同じ「教科書」でも、そこに書かれている題名は、今まで学校で使ってきたものとはまるで違った。
『標準呪文集・一年生』
『魔法史』
『一千種の魔法薬草と茸』
『魔法薬調合法』
名前を眺めているだけで、中身を開いてみたくなる。
そして、その本を読むときには、自分の杖を手にしているのだ。
「これ、全部どこで買うんですか?」
真司が一覧を差し出すと、フィンチが覗き込んだ。
「ダイアゴン横丁です」
「ダイアゴン横丁?」
「魔法使いの店が集まっている通りですよ。教科書も、ローブも、大鍋も、杖も、必要なものはほとんどそこで揃います」
杖も、そこで買う。
真司はそのことを思い浮かべた。
店の中には、何本もの杖が並んでいるのだろうか。
その中から、自分の杖を選ぶ。
フィンチが持っているものとは違う、自分だけの杖。
それを手にして呪文を唱えたら、昨日の本のように、今度は自分の意思で物を動かせる。
そう考えると、胸の奥が少し熱くなった。
真司は少し想像してみた。
本屋がある。
魔法薬の材料を売る店もあるのだろう。
箒を売っている店もあるかもしれない。
そして、杖を売る店もある。
何より、そこを歩いている人たちは、みんな今のフィンチのように魔法が使えるのだ。
「見に行けるんですか?」
「もちろん。その必要がありますからね」
「どこにあるの?」
「ロンドンです」
「ロンドンかあ」
思っていたより遠かった。
けれど、夏休みに一度行くくらいなら、それほど大変でもない。
そのときには、自分の杖を手に入れる。
真司は、まだ見ぬ杖の重さを想像してみた。
「初めてでは入口も分からないでしょうから、私がご案内します」
フィンチはそう言って、革鞄の留め金を閉じた。
父さんと母さんは、その日程について話し始めた。
真司はもう聞いていなかった。
もう一度、入学案内へ目を落とす。
呪文。
変身術。
魔法薬。
箒。
杖。
魔法使いだけが買い物をする通り。
昨日までは、本がどうして落ちなかったのか、それだけが知りたかった。
答えが分かったら、今度はその何倍もの疑問が増えた。
その中には、自分の杖はどんなものになるのかという疑問もあった。
真司は、一番上の羊皮紙に書かれた名前をもう一度読んだ。
ホグワーツ魔法魔術学校。
九月から、そこで魔法を習う。
そして、その前に、自分だけの杖を手に入れる。
そのことを考えると、じっと座っているのが少し難しくなった。