ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
数日後、真司は父さんと母さんと一緒にロンドンへ来ていた。
目的は、ホグワーツへ入学するための買い物である。
教科書。ローブ。大鍋。望遠鏡。それから、杖。
どれも少し前までは、自分が買うことになるとは思ってもみなかったものばかりだった。
駅で待っていたフィンチは、先日とほとんど変わらない姿をしていた。
灰色の混じった髪。
擦れた革鞄。
そして、やはり八月には少し暑そうな服。
「ダイアゴン横丁って、ここから近いんですか?」
真司が尋ねると、フィンチは歩き出した。
「ええ。歩いて行けますよ」
四人はロンドンの人混みを進んだ。
バスが走り、信号が変わり、観光客が店先で地図を広げている。
やがてフィンチが足を止めた。
「着きました」
真司も立ち止まった。
二つの店の間に、古びた小さなパブがあった。
煤けた看板。薄暗い窓。ずいぶん昔からそこに挟まっていたような店だった。
「ここ?」
「ええ。漏れ鍋です」
フィンチが答えた。
ところが、父さんが妙な顔をした。
「どこです?」
真司は父さんを見た。
「ここだよ」
目の前のパブを指す。
父さんの視線は、そのまま漏れ鍋を通り越して隣の店へ向かった。
「何が?」
「この店」
母さんも目を細めた。
「……店?」
真司は二人の顔を交互に見た。
こんなにはっきりあるのに、どうして分からないのだろう。
フィンチは少しも驚かなかった。
「マグルには、ひどく気づきにくいようになっているんです」
そう言って入口を指した。
「お二人はこちらを。意識して見てみてください」
父さんと母さんが、その指先を追った。
しばらくして、父さんの眉が上がった。
「……ああ」
母さんも瞬きをした。
「こんなところにあったの?」
「ずっとあったよ」
真司が答えた。
言ってから、少し変な感じがした。
父さんと母さんには見えなかったものが、自分には最初から見えていた。
どうやら魔法使いというのは、杖を振れるかどうかだけの違いではないらしい。
「行きましょう」
フィンチが扉を開けた。
真司はもう一度、煤けた看板を見上げてから中へ入った。
*
漏れ鍋の中は、外の通りとはずいぶん雰囲気が違った。
古びた椅子やテーブルの間を、見慣れない格好の人たちが行き交っている。
長いローブを着た老人。
紫色のとんがり帽子をかぶった魔女。
大きな籠を抱えた男。その籠の中からは、ときどき何かががさがさと音を立てていた。
真司は歩きながら何度も振り返った。
フィンチは店の奥を抜け、小さな中庭へ出た。
そこには煉瓦の壁しかない。
「ここから?」
「ここからです」
フィンチがコートの内側から杖を取り出した。
真司はすぐに黙った。
杖先で煉瓦を何度か叩く。
ごごご、と低い音がした。
煉瓦が動いた。
一つが横へずれ、その隣も動く。次々に回り、引っ込み、さっきまでただの壁だったところに穴が開いていった。
その向こうに、石畳の通りが現れた。
真司はその場で立ち止まった。
両側には店がずらりと並んでいる。
窓辺に箒を飾った店。
大鍋をいくつも積み上げた店。
色とりどりの瓶を並べた店。
籠の中からこちらを見ているふくろう。
頭上にはいくつもの看板が突き出し、その下をローブ姿の魔法使いたちが歩いていた。
「ようこそ」
フィンチが言った。
「ダイアゴン横丁へ」
真司は返事をしなかった。
一つの店を見ていると、その隣にも見たことのないものがある。
そちらへ目を向ければ、今度は反対側で何かが動く。
どこから見ればいいのか分からなかった。
「……すごい」
ようやく出てきたのは、それだけだった。
フィンチが少し笑った。
*
最初に向かったのは、通りの奥にそびえる白い建物だった。
「グリンゴッツ銀行です」
中へ入った真司は、すぐに足を止めた。
高いカウンターの向こうにいるのは、人間ではなかった。
小柄で、細長い指を持ち、尖った顔をした者たちが帳簿をめくり、硬貨を数えている。
「……あの人たちは?」
「ゴブリンです」
フィンチが小声で答えた。
真司はもう一度そちらを見た。
一人のゴブリンと目が合ったので、すぐに前を向いた。
父さんが用意してきたポンドを交換すると、見たことのない硬貨がいくつも渡された。
真司は、その中から大きな金色の一枚を見せてもらった。
「これ、金貨?」
「ガリオンです」
フィンチが答えた。
真司は手のひらに載せた。
ずっしりしている。
模様も細かい。
「高そう」
その一言で、父さんも金貨を覗き込んだ。
「確かに。これ一枚、ポンドだといくらなんですか?」
フィンチが交換窓口に掲げられた案内を示した。
「交換率はこちらです。銀貨のシックルと、銅貨のクヌートもあります」
父さんは表を見た。
真司の手にある金貨を見る。
また表を見る。
「……見た目から想像したほどではないですね」
「金そのものの値段で考えない方がいいでしょうね」
真司はガリオンを裏返した。
どうやら魔法使いの世界では、お金の数え方まで新しく覚えなくてはいけないらしい。
*
次は学校用の制服だった。
洋装店に入ると、店の奥から一人の魔女が出てきて、真司を小さな台の上へ立たせた。
「腕を少し広げてくださいね」
言われた通りにすると、魔女は巻き尺を取り出した。
そして、手を離した。
「え?」
巻き尺は落ちなかった。
ふわりと宙に浮かび、真司の胸の周りを勝手に一周する。
そのまま肩へ上がり、腕の長さを測り、今度は腰へ移っていった。
真司は首を動かして追いかけた。
「じっとしていてくださいね」
店員の魔女は、巻き尺など見もしないで別の布を用意していた。
「これ、勝手に測ってる」
「そうですよ」
「便利だなあ」
足の長さまで測り始めた巻き尺を見ながら、真司は母さんへ顔を向けた。
「家にも欲しい」
「何を測るの?」
「……何か」
「いらないでしょう」
言われてみれば、その通りだった。
採寸が終わると、白いシャツと黒いズボン、それから濃い灰色のセーターを合わせてもらった。
最後に黒いローブを着せられる。
真司は鏡の中の自分を見た。
今まで知っていた学校の制服とはずいぶん違う。
肩から黒いローブが落ちているだけで、急に別の世界の人間になったように見えた。
「……すごく魔法使いっぽい」
思わず言うと、店員の魔女が鏡越しに笑った。
「魔法使いですからね」
「あ、そっか」
自分で言ってから、真司も少し笑った。
胸元を見る。
「ネクタイはないんですか?」
「寮のものは、組分けが済んでからですよ」
真司は鏡から顔を上げた。
「組分け?」
「ホグワーツには四つの寮があります。どこに入るかが決まれば、それぞれの寮の制服を使うんですよ」
真司はすぐに尋ねた。
「何で決めるの?」
店員の魔女が口を開くより早く、次の疑問が出た。
「成績? それとも自分で選ぶんですか?」
フィンチが横で小さく笑った。
「そこは、学校へ行ってから自分で確かめてみては?」
「でも、入るところなのに先に知らなくていいんですか?」
「知らなくても困りませんよ」
「何を基準にするかも?」
「それも含めて、入学の日に分かります」
真司は少し納得がいかなかった。
学校に入る前なのに、自分がどこで暮らすことになるのか、その決め方さえ知らない。
もう少し聞こうとしたところで、巻き尺がまた飛んできて、今度は袖口を測り始めた。
「動かないでくださいね」
店員の魔女に言われ、真司は仕方なく口を閉じた。
けれど、「組分け」という言葉は覚えておくことにした。
*
本屋では、真司だけでなく母さんも足を止めた。
壁という壁が本で埋まっている。
革張りの本。
辞書のように分厚い本。
ずいぶん古そうな本。
勝手にページをめくっている本まであった。
「触っていい?」
「まず教科書を揃えてから」
母さんに言われた。
数日前にも、どこかで似たようなことを言われた気がする。
『標準呪文集・一年生』。
『魔法史』。
『一千種の魔法薬草と茸』。
『魔法薬調合法』。
必要な教科書が一冊ずつ揃えられていった。
真司は袋へ入れられる前に、何冊か中を覗いた。
知らない言葉ばかりだった。
けれど、数日前まで存在すら知らなかった魔法について、こんなにもたくさんの本が書かれている。
それだけで、端から読んでみたくなった。
母さんも一冊を手に取り、紙を確かめるようにページをめくった。
「こういう本って、電子版は……ないですよね?」
フィンチは棚いっぱいの本を見回した。
「少なくとも、私は見たことがありませんね」
「ですよね」
母さんはそれ以上何も言わなかった。
どうやら、最初からあまり期待してはいなかったらしい。
*
大鍋。
真鍮の秤。
望遠鏡。
細かな学用品。
買い物を続けるうちに、父さんと母さんの荷物はずいぶん増えた。
そして最後に、フィンチが小さな古い店の前で足を止めた。
ほかの店より静かだった。
窓には、色褪せたクッションの上に一本の杖が置かれている。
看板には、
オリバンダーの店
とあった。
「ここが杖屋です」
フィンチが言った。
真司は窓越しに薄暗い店内を覗いた。
父さんが尋ねる。
「ここで、本人が好きなものを選ぶんですか?」
フィンチは少し笑った。
「そこが、普通の買い物とは違うところです」
*
扉を開けると、小さなベルが鳴った。
店の中はしんとしていた。
細長い箱が、床から天井近くまでびっしり積み上げられている。
「これ、全部杖?」
真司が小声で言った。
「ええ。すべてですよ」
店の奥から声がした。
真司が振り向いた。
暗がりから、一人の老人がゆっくり姿を現した。
真司がこれまで会った人の中で、たぶん一番年を取っていた。
白い顔に、淡い銀色の大きな目。
薄暗い店の中では、その目だけが妙にはっきり見えた。
真司は、じっと見られていると、何かを調べられているような気がして少し居心地が悪くなった。
「ようこそ」
老人は真司をじっと見た。
「ギャリック・オリバンダーです」
声は、老人の見た目から想像したよりずっとしっかりしていた。
「この店で杖を作っています」
真司は天井近くまで続く箱を見上げた。
「これ、全部作ったんですか?」
「私が作ったものもあれば、先代たちが作ったものもあります。」
オリバンダーは何でもないことのように答えた。
それから真司へ一歩近づいた。
「さて。あなたの杖を探しましょう」
「好きなのを選ぶんじゃないんですか?」
「好きなものを気に入ることはできます」
オリバンダーの目が少し細くなった。
「ただし、その杖があなたを気に入るとは限りません」
真司は棚いっぱいの箱を見た。
「杖が?」
「杖が魔法使いを選ぶのです」
オリバンダーは細長い箱を一つ取り出した。
「杖は木だけでできているわけではありません。中には、魔法を伝える芯が入っています」
箱の蓋を開ける。
「私が主に使うのは、一角獣の尾毛、ドラゴンの心臓の琴線、それから不死鳥の尾羽根です」
「芯で違うんですか?」
「大いに違います」
オリバンダーは楽しそうだった。
「木にも性質がある。芯にも性質がある。そして、魔法使いにもね」
一本の杖が真司へ差し出された。
「右利きですね?」
「はい」
「では、まずはこちらを」
真司は杖を受け取った。
「桜。不死鳥の尾羽根。十二インチ。少々頑固な杖です」
「頑固?」
「力のある組み合わせですが、気難しい。自分が認めない相手には、なかなか思うように働きません」
「どうすればいいんですか?」
「振ってみてください」
真司は、フィンチが杖を使っていたところを思い出した。
軽く振る。
ばたん!
店の奥から、積んであった杖箱が三つまとめて飛び出した。
「うわっ!」
真司が腕を引くより早く、オリバンダーが杖をひったくった。
「違いますね」
「今の、僕がやった?」
「ええ。しかし、あなたの杖ではありません」
オリバンダーはもう次の棚を探していた。
真司は床に落ちた杖箱を見た。
父さんは、さりげなく半歩後ろへ下がっている。
「次はこちら」
二本目が渡された。
「トネリコ。ドラゴンの心臓の琴線。十一インチ。硬め」
真司は今度こそ慎重に振った。
ぱん、と音がした。
店のランプが一斉にかっと明るくなり、一つから赤い火花が散った。
「わっ」
またすぐに杖を取り上げられた。
「これも違います」
「違う杖でも魔法は出るんですか?」
「出ることはあります」
オリバンダーは平然としていた。
「相性のよい杖なら、もっと分かりやすいですよ」
三本目では、机の上の紙が一斉に舞い上がった。
四本目では、棚の杖箱の蓋が次々に開いた。
五本目では、なぜか父さんのコートの裾だけがふわりと持ち上がった。
「今のは何だったんですか」
父さんが裾を押さえた。
「少なくとも、正解ではありません」
オリバンダーは棚を見上げた。
「さて……」
しばらく考えたあと、老人の目が一つの箱で止まった。
「ああ」
細長い箱を引き抜く。
「これを試してみましょう」
蓋が開いた。
中には、赤みを帯びた褐色の杖が入っていた。
「クリの木、一角獣の尾毛。十一インチ半。しなやか」
真司は杖を受け取った。
その瞬間だった。
指先から手のひらへ、かすかに温かいものが広がった。
「……あ」
今までとは違う。
何が違うのかと聞かれても説明できない。
けれど、握ったときに妙に手になじんだ。
オリバンダーも真司の顔を見ていた。
「さあ」
老人が静かに言った。
「振ってみてください」
真司は杖を振った。
ぱっと、杖先から金色の火花が飛び出した。
箱が飛ぶこともない。
ランプが弾けることもない。
小さな光がいくつも宙へ上がり、薄暗い店内をきらきらと漂った。
真司は思わず見上げた。
「今の、僕が?」
「ええ」
オリバンダーは満足そうに頷いた。
「どうやら、見つかったようですね」
真司は手の中の杖を見た。
「この杖って、どんな杖なんですか?」
「面白い杖です」
オリバンダーは答えた。
「クリの杖は、持ち主によってずいぶん性格を変えます。芯との組み合わせにも、持ち主自身にも強く影響される」
真司は杖を少し持ち上げた。
「じゃあ、僕のは?」
「一角獣の尾毛は、安定した芯です。持ち主によく付き、気まぐれも比較的少ない」
オリバンダーは真司と杖を交互に見た。
「ですが、その杖がどんな杖になるかは、これからでしょうね」
「これから?」
「ええ」
オリバンダーは少し笑った。
「十一歳のうちに、杖も魔法使いも全部決まってしまうのでは、つまらないでしょう?」
真司には、まだよく分からなかった。
けれど、その答えは少し気に入った。
「本当に僕が選んだんじゃないんですね」
「ええ」
オリバンダーは静かに答えた。
「杖が魔法使いを選ぶのです」
真司はもう一度、杖を眺めた。
クリの木。
一角獣の尾毛。
十一インチ半。
しなやか。
さっきまで、そのどれも自分とは何の関係もない言葉だった。
今は、自分の杖だ。
*
店を出ると、ダイアゴン横丁はまだ大勢の魔法使いで賑わっていた。
父さんは買った物の袋をいくつも抱えている。
母さんも本の入った袋を持っていた。
真司には、自分で持つように言われた細長い箱が一つあった。
中には杖が入っている。
歩きながら何度も取り出してみたくなったが、フィンチから、むやみに振るものではないと言われたので我慢した。
「どうでした?」
フィンチが尋ねた。
真司は通りを見回した。
ゴブリン。
金貨。
勝手に動く巻き尺。
魔法の本。
箒。
見たことのない薬の材料。
それから、まだ何も知らない「組分け」。
そして、自分を選んだという杖。
「……すごかった」
ほかにちょうどいい言葉が見つからなかった。
フィンチはそれで十分だったらしく、頷いた。
数日前まで、魔法は本や映画の中にあるものだった。
今は、ホグワーツの制服を持っている。
魔法の教科書もある。
杖まである。
けれど、真司はまだ呪文を一つも知らない。
寮がどうやって決まるのかも知らない。
学校がどんなところなのかも、まだ見たことがない。
真司は細長い箱を抱え直した。
九月になれば、それが全部始まる。
そう思うと、ホグワーツへ行く日が、急に待ち遠しくなった。