ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
北へ行くために南へ
九月一日の朝、真司はキングズ・クロス駅にいた。
足元には大きなトランク。上には、大鍋やら教科書やら、つい数週間前まで自分の生活にはまったく必要のなかった物が詰まっている。
水城家は前日のうちにエディンバラからロンドンへ来て、駅の近くで一泊していた。
ホグワーツ特急は、ここから出る。
そのことについて、父さんには一つだけ納得できないことがあった。
「ホグワーツって、スコットランドなんだよな」
カートを押しながら父さんが言った。
「うん」
「昨日、俺たちエディンバラから南へ来たよな」
「来たね」
「で、今日また北へ行く」
真司も少し考えた。
「……そうなるね」
父さんは駅の案内板を見上げた。
「途中から乗れないのかな」
「知らない」
「だよなあ」
父さんは首をひねった。
母さんが後ろから追いついてきた。
「今さら言っても、列車はエディンバラまで迎えに来てくれないよ」
「それは分かってるけどさ」
父さんはまだ少し不満そうだった。
真司は、ホグワーツへ着いたら誰かに聞いてみようと思った。
*
フィンチから教えられた場所は、
九番線と十番線の間。
そこまでは簡単だった。
問題は、その先である。
九番線と十番線の間には、ホームへ続く通路などなかった。
あるのは柵だけだった。
父さんが、フィンチから渡された案内をもう一度読む。
「『そのまま柵へ向かって進んでください』」
それから柵を見る。
「本当に?」
「そう書いてあるよ」
「ぶつからない?」
「大丈夫って言ってた」
父さんは真司を見た。
「……あんまり信用できないんだよなぁ」
どうやら、まだティースプーンのことを引きずっているらしい。
母さんが周りを見回した。
「ほかの人を見たら?」
それが一番よさそうだった。
少し待っていると、大きなトランクを載せたカートを押す少年がやって来た。
家族らしい大人たちと二、三言話したあと、少年は九番線と十番線の間へ向かった。
歩く。
柵へ近づく。
止まらない。
そして、そのまま消えた。
真司は目を見開いた。
「入った」
「入ったな」
父さんも見ていた。
母さんは案内の紙を覗き込んだ。
「じゃあ、合ってるんじゃない?」
父さんは紙を畳んだ。
「理屈は分からないけど、方法は分かった」
真司はカートの取っ手を握った。
「僕がやる」
「ゆっくり行くなよ」
「なんで?」
「直前で怖くなって止まったら、たぶん痛い」
それはもっともだった。
真司は柵を見た。
普通の柵だった。
一歩。
二歩。
近づいても、やはり普通の柵にしか見えない。
さすがにぶつかりそうになったところで、真司は思わず目をつぶった。
衝撃は来なかった。
代わりに、急に周りの音が変わった。
真司は目を開けた。
目の前に、真っ赤な蒸気機関車があった。
白い蒸気がホームいっぱいに漂っている。
頭上には、
9¾
と書かれた看板。
ローブ姿の大人たち。
大量のトランク。
籠の中で鳴くふくろう。
「おお……」
後ろから父さんと母さんも現れた。
父さんはすぐに振り返った。
「これ、向こうからはどうなってるんだ?」
真司も同じことが気になった。
けれど母さんが、
「今から戻って確かめるのはやめてね。向こうからやってきたカートに轢かれちゃうかも」
と先に言ったので、二人とも諦めた。
*
発車時間が近づくにつれ、ホームはますます騒がしくなった。
黒いローブを着た生徒。
まだ普段着の生徒。
大きな猫を抱えている子もいれば、ふくろうの籠を両手で持っている子もいる。
真司は、自分と同じくらいの年の子どもたちを何度も見た。
あの中の誰かと、これから七年間一緒に学校へ通うのだ。
そう思うと、急にホグワーツが現実の学校らしくなった。
汽笛が鳴った。
母さんが真司の襟元を直した。
「手紙、ちゃんと書くんだよ」
「うん」
「着いたら一度――」
「分かってるって」
真司が答えると、母さんは少しだけ口をつぐんだ。
父さんはトランクを列車へ載せ終えると、真司の肩を二度軽く叩いた。
「分からないことがあったら、ちゃんと先生に聞けよ」
「それは大丈夫」
「言ってみたものの、実は心配してない」
父さんが笑った。
「むしろ聞きすぎる方を心配してる」
「そんなに聞かないよ」
母さんと父さんが同時に、何とも言えない顔をした。
もう一度汽笛が鳴った。
「じゃあ、行ってきます」
真司が言うと、父さんが頷いた。
「行ってこい」
母さんも笑った。
「いってらっしゃい」
真司は列車へ乗り込んだ。
少しだけ胸のあたりが変な感じがした。
寂しい、と言えばたぶんそうなのだろう。
けれど、その向こうにはホグワーツがある。
真司は窓から二人へ手を振った。
*
空いているコンパートメントを見つけた。
真司はトランクを上の棚へ載せようとして、すぐに無理だと分かった。
持ち上がらない。
「手伝おうか?」
後ろから声がした。
振り返ると、同い年くらいの少年が立っていた。
暗い栗色の髪をきちんと整え、灰青色の目をしている。真司より少し細身で、服もどことなくきちんとして見えた。
「お願い」
二人で持ち上げると、ようやく棚へ収まった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
少年は向かい側の席を指した。
「ここ、空いてる?」
「うん」
少年は腰を下ろした。
しばらくすると列車が動き始めた。
窓の外で、父さんと母さんが手を振っている。
真司も手を振り返した。
ホームがゆっくり後ろへ流れ、やがて二人の姿も見えなくなった。
向かいの少年が口を開いた。
「一年生?」
「うん。そっちも?」
「そう」
少年は名乗った。
「マルコム・グラント」
「水城真司」
「ミズキ?」
「そっちは名字。名前が真司」
「シンジ」
マルコムは確かめるように繰り返した。
「日本の名前?」
「うん。日本で生まれた。今はエディンバラ」
「そうなんだ」
マルコムはそれだけ言った。
「昨日、そこからロンドンまで来たんだけど」
「昨日?」
「うん。列車で」
マルコムは少しだけ首を傾けた。
「列車で来たの?」
真司には、何が不思議なのか分からなかった。
「そうだけど」
そこでマルコムは納得したように頷いた。
「ああ。君の家、マグルなんだね」
「うん。父さんも母さんも魔法は使えないよ」
マルコムは特に驚いた様子もなく、「そうなんだ」と答えた。
「うちは今朝来たよ。父さんと一緒に」
「スコットランドから?」
「うん。途中まで姿現しで」
真司が首を傾げる。
マルコムは、その顔を見て少し考えた。
「知らない?」
「知らない」
「場所から場所へ移動する魔法だよ。大人なら使える」
「一瞬で?」
「だいたい」
真司はそこで初めて窓の外を見た。
列車は今、何時間もかけて北へ向かっている。昨日、自分たちはその反対へ何時間もかけてやって来た。
「じゃあ……なんで、わざわざここから列車に乗るの?」
「ホグワーツに行くのに?」
「うん。学校はスコットランドなんでしょ」
マルコムはすぐには答えなかった。
少し考えてから、
「理由はあるんじゃない?」
と言った。
「知ってるの?」
「知らない」
真司は思わず笑った。
「知らないんじゃん」
「知らない。だから、理由がないとも言えないだろ」
マルコムも少し笑った。
*
昼を過ぎると、菓子を載せたワゴンがやって来た。
真司はすぐに席を立った。
カボチャ・パイ。
大鍋ケーキ。
百味ビーンズ。
見たことのないものばかりが並んでいる。
その中で、真司は一つの箱を手に取った。
「蛙チョコレート?」
箱には、確かに蛙らしき絵が描かれていた。
向かいに座っていたマルコムが覗き込む。
「それ、おいしいよ」
「本当に蛙の形してるの?」
「うん」
真司は箱をひっくり返して裏も見た。
「動く?」
「動くよ」
その答えを聞いて少し迷ったが、結局買った。
席へ戻り、箱を開ける。
茶色い蛙が勢いよく飛び出した。
「わっ!」
真司の膝に着地し、そのまま座席の背もたれへ跳ねる。
慌てて両手で捕まえた。
手の中で、蛙がもぞもぞと動いている。ちょっと気持ち悪い。
マルコムはそれを見て笑った。
「逃がすと面倒だよ」
「先に言ってよ」
「動くって言っただろ」
「こんなに動くとは思わなかった」
真司は両手の間から顔を出した蛙を見た。
どう見てもチョコレートなのに、生き物のように動いている。
「これ、いつまで動くの?」
「そんなに長くないよ」
「じゃあ、止まってから食べる」
マルコムが少し不思議そうな顔をした。
「なんで?」
「動いてるのをかじるの、ちょっと嫌じゃない?」
言われて、マルコムも蛙を見た。
どうやら今まで考えたことがなかったらしい。
「……そう言われると、ちょっと変な気もする」
「でしょ?」
「でも、小さいころから食べてるからなあ」
それを聞いて、真司は少し笑った。
自分が今日初めて見たものを、マルコムはずっと前から知っている。
姿現しもそうだった。
動くチョコレートもそうだ。
同じ十一歳でも、知っていることはずいぶん違うらしい。
「魔法使いのお菓子って、みんな動くの?」
「まさか」
マルコムは笑いながら、ワゴンから買った菓子の包みを開いた。
「そんなだったら、食べるのが大変だろ」
それは確かにそうだった。
真司はまだ手の中で動いている蛙を見下ろした。
「これだけでも十分大変だけど」
しばらくすると、蛙はようやくおとなしくなった。
真司は念のため指先でつついてから、一口かじった。
帰ったとき、父さんのことを笑うのはやめておこう。
*
午後になり、二人は制服へ着替えた。
真司は白いシャツにセーターを着て、黒いローブへ腕を通した。
ダイアゴン横丁で試着したときより、今日は少しだけ自分の服らしく感じた。
「ねえ」
袖を直しながら、真司はマルコムを見た。
「組分けって、どうやるか知ってる?」
「知ってるよ」
「何するの?」
「言わない」
真司は振り返った。
「なんで?」
「面白いから」
「フィンチ先生も教えてくれなかった」
「じゃあ、なおさらだ」
「何を基準に決めるの?」
「それも、すぐ分かる」
どう聞いても教えてくれなかった。
真司は納得していなかったが、もうすぐ学校に着くなら、待つしかない。
*
外が暗くなったころ、列車はようやく停まった。
ホームへ降りると、冷たい空気が頬に当たった。
あちこちから上級生の声が飛び交っている。
その向こうから、ひときわ大きな声が響いた。
「イッチ年生! イッチ年生はこっちだ!」
真司は声の方を見た。
そして、見上げた。
大きい。
とにかく大きかった。
髪と髭にはかなり灰色が混じっている。それでも、普通の大人とは比べものにならないほど大きい。
ランタンを掲げた手だけでも、真司の頭くらいありそうだった。
「誰?」
真司が小声で尋ねると、マルコムが答えた。
「ハグリッド。森番だよ」
「先生じゃないの?」
「違うよ」
ハグリッドは集まった一年生を見渡し、大きな声で呼びかけた。
「よーし、こっちだ! 足元に気ぃつけろよ!」
一年生たちは、そのあとについて暗い道を進んだ。
やがて道が下り、その先で急に視界が開けた。
真司は足を止めた。
黒い湖の向こう。
崖の上に、大きな城が建っていた。
いくつもの塔が夜空へ伸び、無数の窓に明かりが灯っている。
あれが。
真司がじっと見上げていると、ハグリッドの声が響いた。
「あれがホグワーツだ!」
湖岸には小さな舟が並んでいた。
四人ずつ乗り込むと、舟はひとりでに岸を離れた。
水の上を静かに滑っていく。
城は近づくほど大きくなった。
この中で寝る。
この中で授業を受ける。
ここで魔法を習う。
真司は、首が痛くなるまで城を見上げていた。
*
城の中へ入ってからも、見るものは減らなかった。
高い天井。
石造りの階段。
壁いっぱいの肖像画。
そのうち一枚の人物が動いた気がして、真司は振り返った。
本当に動いていた。
絵の中の男が、隣の肖像画へ歩いていく。
真司が立ち止まりかける。
「前」
後ろからマルコムに言われた。
「あの絵、動いた」
「動くよ」
「全部?」
「たぶん」
「どうやって?」
「今聞く?」
列は進んでいた。
仕方なく真司も歩いた。
聞きたいことが、また一つ増えた。
やがて一年生は、大きな扉の前で止められた。
この向こうで、組分けをするらしい。
扉が開いた。
*
大広間へ足を踏み入れた真司は、最初に上を見た。
天井が見えなかった。
代わりに夜空が広がっている。
星まで輝いていた。
「外?」
思わずつぶやいたが、列はどんどん前へ進む。
四本の長いテーブルには、大勢の生徒が座っていた。
正面には教師たちの席がある。
その中にフィンチもいた。
目が合うと、フィンチはほんの少しだけ頷いた。
一年生の前に、小さな椅子が置かれた。
その上に載せられたのは、古びたとんがり帽子だった。
真司は帽子を見た。
マルコムを見る。
また帽子を見る。
「……帽子?」
マルコムは口元だけで笑った。
次の瞬間、帽子が歌い始めた。
真司は目を見開いた。
古びた帽子は、四つの寮にはそれぞれ違った気質があり、自分が新入生にふさわしい場所を選ぶのだということを、妙に得意そうな節に乗せて歌った。
歌が終わると、広間いっぱいに拍手が起きた。
真司は拍手しながら、帽子を見た。
気質で分ける。
帽子が。
どうやって?
考えているうちに、名前が一人ずつ呼ばれ始めた。
生徒が椅子に座る。
帽子をかぶる。
しばらくすると、帽子が寮の名前を叫ぶ。
それだけだった。
「帽子が決めるの?」
真司が小声で尋ねると、マルコムがようやく答えた。
「帽子が決める」
「何を見てるの?」
「それは帽子に聞けば?」
「聞けるの?」
マルコムが答える前に、
「グラント、マルコム!」
と名前が呼ばれた。
マルコムは列を抜けて前へ出た。
椅子へ座る。
帽子が頭へ載せられる。
ほんの短い間があった。
「スリザリン!」
右手側のテーブルから歓声が上がった。
マルコムは帽子を外し、そのテーブルへ向かった。
座る前に一度だけ真司を見る。
真司は小さく手を上げた。
次々に名前が呼ばれていく。
真司は、だんだん落ち着かなくなってきた。
帽子は何を見ているのだろう。
性格?
考え方?
本人の希望?
そもそも、どうやってそんなものが分かるのか。
「ミズキ、シンジ!」
考えている途中で、自分の名前が呼ばれた。
*
真司は前へ出た。
大勢に見られている。
できれば、もう少し帽子について考えてから呼んでほしかった。
椅子へ座る。
古びた帽子が頭へ下ろされた。
目の前が暗くなる。
すると、耳ではなく頭の中で声がした。
『ほう』
真司は体を固くした。
『知りたがりだね。ずいぶんと』
――わかるの?
『もちろん』
真司はすぐに次の質問をしようとした。
けれど、帽子の方が早かった。
『だが、君は知って終わりではなさそうだ』
――どういう――
「スリザリン!」
耳元で大声が響いた。
真司はびくっとして、危うく帽子を落としかけた。
*
帽子を外すと、右手側のテーブルから拍手が起きていた。
スリザリン。
それがどんな寮なのか、真司はまだほとんど知らない。
けれど、自分がそこで暮らすことだけは決まったらしい。
テーブルへ向かうと、先に座っていたマルコムが少し横へ詰めた。
「こっち」
真司は隣へ座った。
「同じだったね」
「そうだね」
そう言いながらも、頭の中はまだ帽子のことでいっぱいだった。
どうしてスリザリンだったのだろう。
そもそも、あの帽子は何を見て決めたのか。
性格だろうか。考えていることだろうか。それなら、頭にかぶっただけでどうして分かるのか。
それに、最後に言われた言葉も気になった。
知って終わりではなさそうだ。
どういう意味だったのだろう。
考えている間にも、組分けはどんどん進んでいたらしい。
気がついたときには、もう椅子も帽子も片づけられていた。
正面では、白髪の女校長が何かを話している。
真司は慌てて耳を傾けたが、もう最後の方だった。
そして女校長が席についた、その直後だった。
空だったはずの皿の上に、料理が現れた。
「えっ」
真司はさっきまで考えていたことを、一瞬で忘れた。
ローストした肉。じゃがいも。野菜。パン。いくつもの料理が、長いテーブルいっぱいに並んでいる。
いつ運ばれてきたのかと思ったが、運んできた人など一人もいない。
「今の、どうやったの?」
隣のマルコムが、料理を皿へ取りながら笑った。
「まず食べたら?」
真司は料理を見る。
それから、もう片づけられてしまった組分け帽子のあった場所を見る。
聞きたいことは増える一方だった。
「……そうする」
聞きたいことは山ほどある。
けれど、どうやらホグワーツでそれを全部聞いていたら、夕食を食べる暇もなくなりそうだった。
ようやく組み分けまで終わりました。
ここから、ホグワーツでの生活が始まります。
のんびり更新していこうと思いますので、よろしくお願いします。