ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
宴が終わるころには、真司の頭はすっかりいっぱいになっていた。
今日だけで見たものを順番に思い返すだけでも大変だった。
壁の向こうにある駅。
湖を渡る小舟。
天井いっぱいの夜空。
頭の中を読む帽子。
何もなかった皿に、突然現れた夕食。
それから、ゴースト。
組分けを待っていた小部屋では、二十人ほどの半透明な人々が壁を抜けて現れた。彼らは新入生よりも自分たちの話に夢中で、まるで廊下の角から同僚が出てきたような調子で壁から出入りしていた。
そのうち、丸々とした修道士姿のゴーストだけは新入生に気づき、愛想よく声までかけてきた。
真司はそのとき初めて、本当に幽霊がいるのだと思った。
だが驚く暇は長く続かなかった。すぐに扉が開いて組分けが始まったからだ。
宴の最中にも、ゴーストたちは普通に大広間を行き来していた。
グリフィンドールのテーブルには、首がほとんど切れかかった男がいたし、ハッフルパフには先ほどの修道士がいた。
そしてスリザリンのそばにいたのが、血みどろ男爵だった。
白く透き通った衣服の胸元には、銀色に光る染みがいくつも残っていた。
どうして「血みどろ」なのかは、名前を聞くまでもなかった。
もっとも、真司がそれについて考えられたのもほんの少しだった。
目の前にはローストビーフもパイもタルトもあった。
死人より夕食の方が勝ったのである。
*
「スリザリンの一年生。こちらへ」
食器が消え、宴が終わると、胸に銀色のバッジをつけた上級生が立ち上がった。
真司もマルコムと一緒に席を立つ。
大広間では、ほかの寮の一年生たちも、それぞれの級長らしい上級生のところへ集まり始めていた。
ほんの少し前まで全員同じ場所に並んでいたのに、ここから先は四つに分かれるらしい。
大広間を出る直前、真司は一度だけ振り返った。
さっきまで料理でいっぱいだった長机は、もうすっかり片づいている。
高い天井には、相変わらず夜空が広がっていた。
あれが本物ではないと知っていても、見上げると少し迷う。
「行くよ、シンジ」
マルコムの声に呼ばれて、真司は前を向いた。
スリザリンの列は、城の奥へと進んでいた。
*
まず階段を下りた。
それから廊下を曲がった。
また下りた。
大広間の近くにあった賑やかな声は、歩くほど遠ざかっていった。
代わりに聞こえるのは、靴音と、壁にかかった松明が燃える小さな音だけだった。
石造りの廊下は少しずつ冷えていく。
上へ向かう気配がまるでないので、真司は前を歩くマルコムの横まで追いついた。
「スリザリンって、ずいぶん下なんだね」
声を潜めて言うと、マルコムは歩きながら周囲を見回した。
「地下にあるとは聞いてたけど、僕も来るのは初めてだよ。あと知ってることとと言えばーー」
その答えに真司は少し安心した。
マルコムは魔法使いの家で育っている。
けれど、だからといってホグワーツを全部知っているわけではない。
二人とも今日から一年生なのだ。
「ーー地下牢の方にあるとは聞いたことがある。」
それはあまり知りたくなかったことかもしれない。
どうやら、規則違反には気をつけた方がよさそうだ。
それにしても地下牢なんてーー!
*
やがて先頭の上級生が、何の変哲もない石壁の前で立ち止まった。
扉らしいものは見当たらない。
級長は一年生たちが揃ったのを確かめると、低い声で合言葉を告げた。
すると石壁の一部が、音もなく開いた。
今日だけで、壁は抜けられたり、開いたりするものになった。
もう驚かないつもりだったが、それでも真司は少しだけ目を見張った。
「合言葉は定期的に変わる」
級長は入口の脇に立ち、一年生たちを中へ通しながら説明した。
忘れれば入れないこと。
変更された場合は寮内で知らせること。
外でむやみに口にしないこと。
説明自体は、ごく普通だった。
入口だけが普通ではなかった。
真司はマルコムに続いて、壁の向こうへ入った。
そこで、足が止まった。
談話室は思っていたより広かった。
石造りの壁と低い天井。
深い緑色のソファ。
銀色の装飾が施された机や椅子。
全体に薄暗かったが、不思議と息苦しくはない。
むしろ、大広間より静かで落ち着いていた。
そして壁の一方を、大きな窓が占めていた。
窓の向こうには、夜の湖があった。
緑がかった暗い水。
ゆっくり揺れる水草。
小さな魚の群れが、銀色に光りながら横切っていく。
真司は自然と窓の近くまで歩いていた。
「……すごい」
ほかに言葉が出てこなかった。
ついさっきまで、その湖の上を舟で渡っていた。
今はその底から、同じ水を見上げている。
魔法で本が浮くのもすごかった。
壁の向こうに駅があるのもすごかった。
けれど、ここは少し違う。
これから毎日、この景色を見るのだ。
そう考えると、急に「ホグワーツへ来た」という感じがした。
「気に入った?」
後ろから声がして、真司は振り返った。
ソファに腰掛けていた上級生が、こちらを見ていた。
たぶん三年生か四年生くらいだろう。
真司が頷くと、上級生は少し悪そうに笑った。
「夜はもっと面白いぞ。運がいいと大イカが来る」
「大イカ?」
聞き返した真司の横で、マルコムも窓を見た。
上級生は待っていましたとばかりに、片手を大きく広げた。
「黒い湖に住んでる。でかいぞ。触手だけでこの窓をゆうに超える」
近くにいた別の上級生も声色を低くして続ける。
「たまに近くまで来る。窓を叩くことだってあるぞ」
それを聞いて、真司はもう一度ガラスの向こうを見た。
先ほどまではきれいだった暗い水が、ほんの少しだけ深く見えた。
魚のさらに向こうには、何も見えない。
「……そんな大きな生き物がいるのに、ガラスって……本当に大丈夫なんですか?」
真司が尋ねると、上級生は嬉しそうに笑った。
どうやらその反応を待っていたらしい。
「大丈夫、大丈夫。今まで割れたことないから」
言い方が軽い。
真司は窓を見たまま眉を寄せた。
そこへ級長が口を挟んだ。
「保護の魔法がかかってる。大イカも普段は大人しい。毎年一年生を怖がらせて喜んでるだけだから、話半分に聞いておけ」
「半分は本当なんですか?」
真司が振り返る。
級長は一瞬だけ考え、それから答えた。
「大イカがいるのは本当だ。今まで割れたことがないこともーー僕らの知る限りでね」
この人も、どうやらあっち側らしい。
隣を見ると、マルコムはさっきより窓から半歩離れていた。
真司は何も言わなかった。
マルコムも何も言わなかった。
上級生たちだけが楽しそうに笑っていた。
きっと毎年やっているのだろう。
*
寮内の説明が一通り終わると、一年生たちは寝室へ案内された。
男子寮は談話室からさらに奥にあり、石造りの階段を少し下りたところにあった。
天蓋つきのベッドが並び、それぞれ深い緑色のカーテンがついている。
ベッドの足元には、自分たちのトランクもきちんと届けられていた。
真司は自分の名前を見つけ、ようやく肩から力を抜いた。
一日中着ていたローブを脱ぎ、荷物を開く。
荷造りをしたのは少し前のことなのに、見慣れた服が妙に懐かしく見えた。
周囲では、ほかの一年生たちもそれぞれ寝る準備をしている。
誰かがベッドの場所を間違えた。
別の誰かが、明日の時間割がないと騒いで、結局トランクの一番上から見つけた。
マルコムは向かい側のベッドだった。
彼も着替えを終えると、枕元に置かれていた時間割を広げた。
「明日、最初は呪文学だ」
その声に、真司は荷物を整理する手を止めた。
「本当?」
マルコムが時間割をこちらへ向ける。
そこには確かに、朝一番の欄に「呪文学」と書かれていた。
真司はそれをしばらく眺めた。
今日だって魔法はたくさん見た。
けれど全部、誰かが使った魔法だった。
明日は違う。
自分で杖を持って、自分で魔法を使う。
トランクの中には、オリバンダーの店で買った細長い箱が入っている。
真司は一度その箱へ目をやったが、開けるのはやめた。
今取り出したところで、できることはない。
明日になれば、ちゃんと教えてもらえる。
「できるかな」
思わず口にすると、マルコムは時間割を畳みながら少し笑った。
「僕も授業で魔法を使うのは初めてだよ」
その言葉が、真司には少し意外だった。
だがすぐに納得した。
魔法使いの家で育った十一歳と、マグルの家で育った十一歳。
知っていることにはずいぶん差がある。
それでも明日の授業では、二人とも一年生から始めるのだ。
真司はそれが少し嬉しかった。
*
やがて寝室の明かりが落とされた。
カーテンを閉めて、真司は布団に潜り込む。
一日中歩き回った身体は疲れているのに、頭だけはなかなか眠ろうとしなかった。
静かになると、ふと家のことを思い出した。
父さんと母さんは、もうロンドンの宿へ戻ったころだろう。
明日にはエディンバラへ帰る。
自分だけが、この古い城に残る。
朝から今まで、そんなことを考える暇はほとんどなかった。
何もかもが珍しくて、次から次へと新しいものが現れたからだ。
けれど灯りが消えてしまうと、少しだけ寂しかった。
暗闇の向こうで、布団が動く音がした。
「シンジ」
マルコムだった。
真司は天蓋を見上げたまま返事をする。
「何?」
「明日の朝、一緒に行こう」
少し間があってから、マルコムは付け足した。
「教室まで」
真司は小さく笑った。
マルコムも、城の中で迷うのが少し不安なのだろう。
それをわざわざ言う必要はなかった。
「うん。一緒に行こう」
それだけ答える。
しばらくすると、寝室はまた静かになった。
明日は呪文学。
初めて自分で魔法を習う。
その次の日にも授業があって、その次の日にもある。
ここで食事をして、ここへ戻ってきて、ここで眠る。
そうやって七年間を過ごすらしい。
真司はようやく目を閉じた。
今夜はもう、分からないことについて考えなくていい。
――大イカが、本当に窓を叩くのかどうかも。
少なくともその夜、確かめる機会はなかった。