ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
翌朝、真司が目を覚まして最初に見たのは、深い緑色の天蓋だった。
しばらくぼんやり眺めてから、ここがエディンバラの自分の部屋ではないことを思い出した。昨日一日の出来事が、寝起きの頭へ少しずつ戻ってくる。
ホグワーツ特急に乗ったこと。
湖を渡ったこと。
組分け帽子をかぶったこと。
そして、自分がスリザリンになったこと。
カーテンを開けると、寝室にはもう起きている生徒が何人かいた。誰かが靴を探し、誰かがまだ枕へ顔を埋めている。向かいのベッドではマルコムがシャツのボタンを掛けながら、大きなあくびをしていた。
「おはよう」
真司が声をかけると、マルコムは眠そうな目を上げた。
「……おはよう」
昨日の列車では、魔法界のことなら何でも知っていそうに見えたのに、朝のマルコムはちっともそう見えなかった。魔法使いでも眠いものは眠いらしい。
それは昨日から知ったことの中では、かなり安心できる部類に入った。
昨晩、寝る前にマルコムから今日の時間割は聞いていた。
最初は呪文学。
それを思い出すと、真司は急に目が覚めた。
昨日までは、魔法は見るものだった。
今日は、たぶん使う。
*
スリザリンの談話室から大広間までは、思っていたより簡単だった。
地下から出て、大階段へ向かう。昨日は上級生の背中について歩いていただけだったが、朝になって改めて通ってみれば、大広間は拍子抜けするほど近い。
「昨日はもっと遠かった気がする」
真司が言うと、隣を歩いていたマルコムが頷いた。
「暗かったし、人も多かったからじゃない?」
「じゃあ、城も案外すぐ覚えられるかも」
真司はそう言った。
この考えは、朝食が終わるまでしかもたなかった。
大広間では、昨夜と同じ四つの長いテーブルが、朝の光の下に並んでいた。高い天井には薄い雲が流れ、皿にはトーストや卵やソーセージが山ほど積まれている。
真司はパンを一枚取り、ジャムを塗った。
その間にも、頭の中では呪文学のことを考えていた。
ダイアゴン横丁で杖を買ってから、何度も手には取っている。けれど呪文を知らないので、振ってみたところで何も起きなかった。
母さんへ本が落ちそうになったときのことは覚えている。
怖かった。
止まれと思った。
そして、本が止まった。
けれど、あれは自分で使ったというより、勝手に出たという方が近い。
今日教えてもらう魔法は、きっと違う。
「シンジ」
呼ばれて顔を上げると、マルコムが自分の皿を指した。
「そろそろ行った方がいいと思う」
「もう?」
「教室の場所、分からないだろ」
真司は手を止めた。
それは忘れていた。
呪文学をやることは知っている。
呪文学教室がどこにあるかは知らない。
急いで残りのトーストを口へ入れた。
*
大広間を出たところまではよかった。
問題は、そこからだった。
大階段の近くで、マルコムが足を止める。
「天文学棟の方らしい」
「らしい?」
「昨日、先輩がそう言ってた」
「天文学なのに呪文学?」
「棟の名前だよ」
「それは分かってるけど」
分かってはいる。
ただ、大広間の隣に呪文学教室があっても、真司としては何も困らなかった。
二人は、大階段から渡り廊下へ向かった。
地下とは違い、そこへ出ると急に視界が開けた。窓の向こうには中庭があり、その先にはいくつもの塔が空へ突き出している。
真司は思わず歩調を緩めた。
「すごい」
「何が?」
「城」
マルコムも外を見た。
「昨日も見ただろ」
「昨日は暗かったし」
昼間のホグワーツは、昨夜とはまるで違って見えた。
一つの巨大な建物というより、いくつもの古い建物を、塔と廊下と橋でつないだような造りをしている。これを全部ひとまとめにして「城」と呼んでいいのか、真司には少し自信がなくなった。
「行くよ」
マルコムに言われて、真司は慌てて追いついた。
渡り廊下を抜けると、今度は図書館の近くへ出た。
大きな扉の前を、本を抱えた上級生たちが行き交っている。
「図書館だ」
真司が言うと、マルコムが振り返った。
「入るの?」
「今は入らないよ」
そう言いながら、場所だけは覚えておこうと思った。
ところが目的地は、まだ先だった。
「もう一つ渡るみたいだ」
マルコムが言った。
「また?」
「また」
二本目の渡り廊下を渡る。
こちらは先ほどより細く、両側から空が見えた。風が吹き抜けるたびにローブの裾が揺れる。
真司は歩きながら、何度も外を見た。
こんなところを毎日通って授業へ行くのだ。
それは少し楽しい。
もっとも、毎朝遅刻しそうになりながら通るのでなければ、である。
渡り廊下を抜けて天文学棟へ入り、そこから甲冑の並ぶ廊下へ進む。
左右に立つ甲冑は、どれも似ているようで少しずつ違った。剣を持つものもいれば、長い槍を握っているものもいる。
二人が横を通ると、そのうち一体がほんの少しだけ頭を動かした。
真司もそちらを見た。
甲冑もこちらを見る。
数歩進んでから振り返ると、まだ見ていた。
「今の、動いたよね」
「動いたね」
「普通?」
「ホグワーツでは普通なんじゃない?」
便利な言葉だ、と真司は思った。
ホグワーツでは普通。
それを言えば、昨日から見たことの大半は片づいてしまう。
もっとも、説明になっているかどうかは別だった。
甲冑の廊下を抜けると、今度は上へ続く階段が待っていた。
真司は見上げた。
「まだ上がるの?」
「教室は上」
「朝食からずっと歩いてるんだけど」
「僕もだよ」
「毎回これ?」
「たぶん」
真司は少し考えた。
「朝ごはん、いっぱい食べても大丈夫そうだね」
マルコムが笑った。
階段を上がりきったところで、ようやく青と銀のローブを着た一年生たちが見えた。
レイブンクローだ。
二人はほとんど同時に息をついた。
「ここだ」
「ここだね」
大広間から教室まで来ただけなのに、もう一仕事終えたような気分だった。
ホグワーツでは、魔法を習う前に教室へたどり着くことが最初の壁のようだ。
*
教室へ入ると、真司とマルコムは並んで空いている席へ座った。
真司は鞄から教科書と杖、それから一冊のノートを取り出した。
少し大きめで、茶色い革の表紙がついている。
ホグワーツへ来る前、母さんがマグルの文房具店で買ってくれたものだった。
『学校に行くなら、ノートくらいいるでしょう』
改めて見てみると、革の装丁が妙にそれらしく思えた。中身は普通の紙なのに、閉じてしまえば古い魔法の本にも見えなくはない。
真司はすっかり気に入っていた。
その横へ、ダイアゴン横丁で買った羽ペンを置く。
見た目は普通の羽ペンだが、羽軸の中にインクを溜めておけるようになっている。いちいちインク瓶へ浸さなくてよいので、学生向けにはずいぶん便利な品らしい。
便利ではある。
ただし、鉛筆やボールペンと同じというわけではなかった。
真司は羽ペンを持ち、ノートへ日付を書いた。
かり、かり、と羽先が紙を擦る。
エディンバラの学校では、鉛筆ならもっと滑らかに書けたし、ペンならこんな引っかかる感じはしなかった。
「やっぱり書きにくい」
真司が小さく言うと、マルコムが隣から覗いた。
「何が?」
「羽ペン」
「そう?」
マルコムは自分の羽ペンを何の苦もなく走らせている。
「鉛筆の方が楽」
「慣れれば普通だよ」
「それ、慣れてる人の言い方だよ」
真司は少し慎重に、その下へ、
呪文学
と書いた。
文字は読める。
ただし、自分のいつもの字より少しだけよそ行きだった。
羽ペンまで含めて、まだホグワーツの生徒になりきれていないような気がする。
そのとき、教室の前が静かになった。
小柄な教授が入ってきたからだった。
フィリウス・フリットウィック教授は教壇の横まで歩くと、そこへ積まれていた何冊かの大きな本へ、慣れた様子で上った。
真司は思わず本の山を見た。
なるほど。教科書というものには、読む以外の使い道もあるらしい。
「おはようございます」
フリットウィック教授の声は高かったが、教室の後ろまでよく通った。
「皆さんにとって、これがホグワーツで最初の呪文学ですね」
教室が静かになる。
「魔法使いの家庭で育ち、幼いころから魔法を見てきた人もいるでしょう。昨日まで、魔法というものをほとんど見たことがなかった人もいるでしょう」
真司はこちらだった。
「ですが、ここでは皆さん、同じ一年生です」
教授はにこりと笑った。
「ですから、同じところから始めましょう」
そう言って、杖を取り出す。
「ルーモス」
杖の先に白い光が灯った。
真司は、開いていたノートのことを一瞬忘れた。
炎ではなかった。火花でもない。白い光が杖先に丸く宿り、教授が腕を動かすと、それも一緒についていく。
教室のあちこちから、小さなため息が聞こえた。
「杖灯りの呪文です」
黒板に《LUMOS》の文字が記される。
真司は慌ててノートへ写した。
「大変基本的な呪文ですが、基本的だから役に立たないということではありません。七年生になっても使いますし、卒業したあとにも使います」
教授は続けて杖を掲げた。
「ノックス」
白い光が、ふっと消えた。
今度は《NOX》と書かれる。
「こちらは灯りを消す呪文です。今日は、この二つを練習します」
真司は顔を上げた。
二つなのか。
光らせるだけでは終わりではないらしい。
「魔法は、起こせればそれでよいというものではありません」
教授は、もう光っていない杖先を示した。
「自分の意思で始めたものは、自分の意思で終わらせる。まずはそこからです」
*
すぐに杖を振らせてもらえるわけではなかった。
まず持ち方。
次に発音。
そして手首の動かし方。
真司が思っていたより、魔法の授業はずっと地道だった。
前の方にいた少年が勢いよく腕を振ると、フリットウィック教授がその横で足を止めた。
「そこまで力いっぱい振らなくても大丈夫ですよ。魔法は腕相撲ではありませんから」
教室に笑いが起きた。
少年は耳を赤くし、今度はずっと小さく杖を動かした。
真司も自分の杖を持ち直す。
手首。
大きく振らない。
ルーモス。
教授の発音を思い出しながら、声に出さず何度か口だけ動かした。
隣ではマルコムも真剣な顔をしている。
昨日まで、魔法界については真司よりずっと多くのことを知っていた。それでも、杖を握れば二人とも同じ一年生だった。
それが少し嬉しかった。
「では、やってみましょう」
教室中で杖が持ち上がった。
真司も自分の杖を構える。
「ルーモス」
何も起きなかった。
周囲からも、
「ルーモス」
「ルーモス!」
と声が重なっている。
どこかでぱちんと火花が散り、別の席では一瞬だけ白く光った。
真司はもう一度杖を構えた。
「ルーモス」
やはり何も起きない。
少し焦った。
簡単な呪文だと教授は言った。
簡単なら、もっと簡単にできると思っていた。
その隣で、
「ルーモス」
とマルコムが唱えた。
杖先に、ほんの小さな光が灯った。
「あ」
言ったのはマルコム本人だった。
針の先ほどの光だったが、確かに見えた。
「ついた」
真司が言うと、マルコムは自分の杖へ目を落とした。
「うん」
少しだけ口元が緩んでいる。
ところが、その光はすぐに消えてしまった。
「消えたね」
「分かってる」
マルコムはもう一度試した。
今度は何も起きなかった。
一度できたからといって、急にできるようになるものでもないらしい。
真司は自分の杖へ目を戻した。
さっきは腕まで動かしていた気がする。
教授は、もっと小さくと言っていた。
力も入りすぎていた。
肩を少し落とす。
手首だけ。
「ルーモス」
杖の先が、一瞬だけ白く瞬いた。
真司は息を止めた。
もう暗い。
けれど今、確かに光った。
もう一度。
今度は、さっき偶然できた動きを無理に真似しようとはしなかった。教授に教えられた通りに、最初からやり直す。
握り直し、肩の力を抜き、手首を小さく動かした。
「ルーモス」
白い光が灯った。
今度は消えなかった。
真司はしばらく何も言えなかった。
白い光が、自分の指を照らしている。机の木目も、教科書の端も、さっき開いた革表紙のノートも、全部が自分の杖の光で少し明るくなっていた。
本が止まったときとは、まるで違う。
こうしたいと思って、教わった通りに杖を持って、呪文を唱えた。
その結果として、光が灯った。
「……できた」
小さく言うと、マルコムがこちらを見た。
ちょうど彼の杖にも、今度はさっきより少し明るい光が灯っていた。
二人の杖が並んで机を照らす。
真司は思わず笑った。
マルコムも笑った。
ただ暗いところを照らすだけの魔法だった。
それでもよかった。
これは魔法だった。
しかも、自分で使った魔法だった。
*
「いいですね、ミスター・ミズキ」
声をかけられ、真司は顔を上げた。
いつの間にかフリットウィック教授が机の横まで来ていた。
「はい」
「では、終わらせてみましょう」
真司は自分の杖を見た。
「あ」
嬉しさのあまり、すっかり忘れていた。
まだ半分だった。
「ノックス」
光は消えなかった。
「もう一度。今度は、光を消すことだけを考えて」
教授は笑わず、落ち着いて再びやってみることを促してきた。
真司は頷いた。
つけるときと同じだ。
余計なことを考えない。
「ノックス」
白い光がふっと消えた。
急に杖先が黒く見える。
「よろしい」
教授は満足そうに頷き、次の机へ歩いていった。
真司は消えた杖を見つめた。
光らせたときほど派手ではない。
それでも、こちらも自分でやった。
始めて、終わらせた。
試しにもう一度やってみる。
「ルーモス」
灯る。
「ノックス」
消える。
二度目は、どちらも一回でできた。
嬉しくなって三度目をやろうとしたとき、前の席から声がした。
「ねえ」
真司が顔を上げると、レイブンクローの女子生徒が椅子の背越しにこちらを見ていた。
赤茶色の髪に、細かなそばかすがある。
手にした杖の先には、すでに白い光が灯っていた。
「今、二回目の方が杖の動き小さかったよね?」
「僕?」
「うん」
彼女は真司ではなく、真司の右手を見ていた。
「たぶん」
「どのくらい?」
「どのくらいって……」
そんなことまで考えていなかった。
「最初より小さくしただけ」
「そっか」
女子生徒はすぐ自分の杖へ目を落とした。
そして右手から左手へ持ち替える。
真司は何をするのかと思って見ていた。
「ルーモス」
何も起きない。
もう一度。
「ルーモス」
今度は、ほんの弱い光が灯った。
女子生徒の顔も一緒に明るくなる。
「左でもできた」
「なんで左でやってるの?」
「右と同じか知りたかったから」
あまりに普通の顔で言うので、真司は一瞬、聞いた自分の方がおかしいのかと思った。
隣のマルコムまで振り向く。
「まず右で練習した方がいいんじゃない?」
「右はできたよ」
「毎回?」
女子生徒は黙った。
ちょうどそのとき、教室の向こうから声が飛んできた。
「ミス・ラブレス」
「はい」
フリットウィック教授だった。
「まずは利き手で、同じ結果を三回続けて出せるようにしましょう」
叱っているわけではない。
それでも女子生徒――ラブレスは、少しだけ残念そうに杖を右手へ戻した。
「はい、先生」
そして本当に三回続けようと、すぐ練習を始めた。
真司はその後ろ姿を見た。
少し変な子だと思った。
ただ、面白い子でもありそうだった。
*
授業が終わるころには、教室のあちこちで白い光が灯ったり消えたりするようになっていた。
もちろん、毎回うまくいくわけではない。
真司も失敗したし、マルコムも失敗した。前のラブレスはかなり上手だったが、一度だけ杖先を明るくしすぎて、自分でまぶしそうに目を細めていた。
フリットウィック教授は机の間を歩きながら、何度も同じことを言った。
急がない。
大きく振りすぎない。
呪文を怒鳴らない。
できたら、同じやり方をもう一度やる。
最後に教授は全員の杖を下ろさせた。
「魔法を一つ覚えると、すぐ次のことをしたくなる人もいます」
前の席でラブレスの背中が、ほんの少しだけ小さくなった。
近くのレイブンクロー生がくすりと笑う。
「ですが、一度できたことと、いつでもできることは違います。今週は《ルーモス》と《ノックス》を練習してください。明るさを競う必要はありません。確実につけて、確実に消せるようになること」
そこで鐘が鳴った。
最初の授業が終わった。
真司はノートへ、
つけるだけでは駄目。消せるところまで。
と書いた。
少し考えて、その下にもう一つ足す。
一回できても、できるようになったとは限らない。
それからノートを閉じた。
「シンジ」
マルコムがもう立っている。
「行こう。次、変身術だ」
「うん」
二人が席を立ったところで、前にいたラブレスが振り返った。
「シンジっていうの?」
どうやら、マルコムが呼んだのを聞いていたらしい。
「うん。水城真司」
「ミズキ?」
「そう」
彼女は一度だけ口の中で名前を繰り返した。
「私はエイダ。エイダ・ラブレス」
続いてマルコムを見る。
「マルコム・グラント」
「覚えた」
エイダは教科書を鞄へ押し込みながら言った。
「ねえ、あとで試さない?」
「何を?」
「どこまで杖を動かさなくても《ルーモス》がつくか」
真司は少し考えた。
まだ決められた動きすら、毎回できるわけではない。
「普通にできるようになってからじゃない?」
エイダは一瞬、きょとんとした。
「僕もそう思う」
マルコムまで加わる。
エイダは二人を交互に見た。
「じゃあ、普通にできるようになったら」
「そのころには次の呪文を習ってるんじゃない?」
真司が言うと、エイダはぱっと笑った。
「じゃあ、それも試せる」
どうやら止めたことにはならなかった。
三人で廊下へ出ると、少し先から、
「エイダ!」
と声がした。
レイブンクローの生徒たちが手を振っている。
「あ、行かなきゃ。またね!」
エイダも手を振り返し、そのまま駆けていった。
三歩ほど行ったところで、鞄の口から羽ペンが一本落ちた。
後ろを歩いていた生徒が拾い、
「ラブレス!」
と追いかける。
真司はそれを見送った。
「変な子だったね」
するとマルコムがこちらを見た。
「君も似たようなものじゃない?」
「どこが?」
「授業が終わってからも、ずっと杖を見てた」
「それは普通でしょ」
真司はローブの内側にしまった杖へ触れた。
「初めて魔法を使ったんだから」
そのことについては、マルコムも反論しなかった。