ホグワーツは今日も非合理であるーー日本から来たスリザリン生の七年間 作:汐川
ホグワーツへ来て、一週間がたった。
一週間というのは、城を覚えるには短いが、人の癖を覚えるには案外長い。
マルコムは朝に弱い。
同じ寝室の一人は、毎朝なにかを探している。昨日は靴下で、今日は羽ペンだった。昨日の靴下は、なぜか枕の下から見つかったが、今日の羽ペンはどこから見つかるやら……。
そして真司はといえば、廊下で気になるものを見つけると、だいたい立ち止まる。それをマルコムが分かるのには一週間もかからなかった。
「シンジ」
「ん?」
「また止まってる」
朝食へ向かう途中、三歩ほど先を歩いていたマルコムが振り返った。
真司は壁に掛かった肖像画を見上げていた。
昨日は確か、立派な髭を生やした老人が椅子に座っていたはずなのだが、今朝は椅子だけが残っている。
「ここにおじいちゃん、昨日いたよね」
「いるんじゃない?」
「いないよ」
「じゃあ出かけてるんだろ」
マルコムはそう言って、また歩き出した。
真司は慌ててその隣へ追いつく。
「絵が出かけることをそんな普通に言うの、まだ慣れないんだけど」
「一週間もいるのに?」
「一週間しかいないからね」
マルコムが笑った。
初めて列車で会ったころから、真司は分からないことがあれば普通に聞いていた。魔法使いの家で育ったマルコムにとって当たり前のことだからと、質問を飲み込んだこともほとんどない。
ただ、会話はもう少しまっすぐだった。
真司が聞けば、マルコムが答える。マルコムが知らなければ、知らないと言う。
一週間も一緒にいれば、その間に余計なものが混じる。
「急ごう。昨日みたいにソーセージなくなるよ」
「昨日なくなったの?」
「君が三本も食べるから」
「僕だけじゃないでしょ」
「少なくとも三本分は君のせいだよ」
「じゃあ今日は二本にする」
「そういう問題かな」
「じゃあ四本?」
「増やすなよ」
どこまで冗談を言っても怒らないか。面倒そうな顔をしているとき、本当に面倒なのか、それともただそういう顔なのか。
そのくらいのことなら、もう分かる。
城の道も似たようなものだった。
スリザリンの談話室から大広間までは迷わない。呪文学教室への長い道も覚えた。薬草学へ行くときだけ、真司はいまだに一度曲がる場所を迷う。
今は少しずつ、自分の学校になってきていた。
*
その日の夕方、真司とマルコムはスリザリンの談話室で宿題をしていた。
窓の向こうには暗い湖の底が広がっている。
水草がゆらゆら揺れ、ときどき魚の群れが通る。大イカは、まだ姿を見せていなかった。
見たら驚くと思うが、見えなければ、それはそれで気になる。
「シンジ」
「ん?」
「今日、三回目」
向かいからマルコムに言われ、真司は窓から机へ目を戻した。
「何が?」
「外を見るの」
「数えてたの?」
「君の羽ペンが止まるから分かるんだよ」
真司の前には、茶色い革表紙のノートと、提出用の羊皮紙が広げられている。
変身術の宿題だった。
授業で習った内容について、指定された長さにまとめる。
真司には、その「指定された長さ」が少し問題だった。
「これ、本当に『短い説明』なの?」
羊皮紙を持ち上げる。
「教授はそう言ってたよ」
「もう説明することないんだけど」
「あと少しだろ」
「そのあと少しが一番難しいんだよ。書くことがあるなら、もう書いてるし」
マルコムは自分の羊皮紙へちらりと目を落とした。
真司はそれを見逃さなかった。
「終わった?」
「終わったよ」
「何書いたの?」
「見せない」
「写さないよ」
「見たら似るかもしれないだろ」
「じゃあ最初の一行だけ」
「駄目」
「最後は?」
「もっと駄目」
「真ん中なら?」
「場所の問題じゃないよ」
真司は椅子の背にもたれた。
「ケチ」
「真面目と言ってくれ」
「そこ、自分で言う?」
近くのテーブルから笑い声がした。
同じ一年生の少年が、菓子をつまみながらこちらを見ている。
「グラントは真面目だろ。昨日も寝る前に教科書読んでたし」
「読んでただけだよ」
マルコムが言った。
「それを真面目って言うんじゃないの?」
真司も口を挟む。
「シンジだって読んでるだろ」
「僕は分からないから読んでる」
「僕も分からないところがあるから読んでるんだけど」
「マルコムでも?」
マルコムは眉を寄せた。
「君は僕をなんだと思ってるんだ」
真司は少し考えた。
「魔法界の説明書」
今度は周りにいた二、三人まで吹き出した。
「やめてくれ」
マルコムも笑いながら首を振る。
「間違ってても責任取らないからな」
「それ、説明書としては困るね」
「だから説明書じゃないって」
「でも便利だよ」
「人を便利って言うな」
一週間前なら、同じ談話室にいても、こんなふうに周りから勝手に話が飛んでくることはなかった。
今では、誰かが話していれば誰かが口を挟む。
宿題をしていても、菓子を食べていても、魔法チェスをしていても関係ない。
真司は、この少し騒がしい感じがけっこう好きだった。
「でも、グラントは家でも聞けるだろ」
さっきの少年が言った。
「変身術とかさ。うちは姉さんが三年だから、去年までのことなら結構覚えてる」
「まあそうだね」
マルコムは少し考えてから答えた。
「《ルーモス》も知ってた?」
真司が聞く。
「それくらいなら」
「やっぱりちょっとずるい」
「何が?」
「僕、フリットウィック先生が言うまで《ルーモス》なんて言葉も知らなかったよ」
「でも僕も使ったことはなかった」
「知ってるのと知らないのは違うでしょ」
そのやりとりを聞いていた同級生が口を挟む。
「ミズキは仕方ないだろ。両親がマグルなんだから、家で魔法の宿題は聞けないし」
「そうだね」
真司は頷いた。
「マグル生まれってやつでしょ」
「そうそう」
「じゃあ僕はそれだ」
それで話は済んだ。
少なくとも真司にとっては。
父さんも母さんもマグルで、自分だけが魔法使いなのだから、言葉の意味はそのままである。
ところが、少年は少し面白そうに真司を見た。
「でも、マグル生まれでスリザリンって珍しいよな」
「やっぱりそうなの?」
「やっぱり?」
今度はマルコムが顔を上げた。
真司は羽ペンを指の間で転がした。
「この一週間で、何回か似たようなこと言われた」
「誰に?」
「一人は上級生。名前は知らない」
「何て?」
「両親は何してるのって聞かれたから、マグルだって言ったら、『そうか』って」
向かいの少年が首を傾げた。
「それだけ?」
「それだけ」
「じゃあ普通じゃん」
「その前と、そのあとの『そうか』が違ったんだよ」
真司が言うと、マルコムは少し黙った。
「分かるの?」
「分かるよ。それまで色々聞いてきたのに、そのあと話終わったし」
「他は?」
「変身術の教室の前で話した二年生。『マグル生まれなのにスリザリンか』って」
「それはそのままだな」
「うん。でも、ちょっと笑ってた」
真司は肩をすくめた。
怒るほどのことではなかった。
何かひどいことを言われたわけでもないし、物を取られたわけでもない。
ただ、自分が両親のことを話した瞬間、相手の中で何かが少し変わった。
そのくらいは十一歳でも分かる。
「そういう人はいるよ」
マルコムが言った。
今までより、少しだけ声が低かった。
「マグル生まれが嫌いな人?」
「嫌いっていう人もいるし……見下してる人もいる」
近くで宿題をしていた女子生徒が顔を上げた。
「うちのおばあちゃん、そういう感じだよ」
「そういう感じ?」
「マグル生まれがどうとかは私にはあんまり言わないけど、新聞にマグルの話が出ると、すぐ『昔はこんなんじゃなかった』って言う」
「何が昔と違うの?」
「知らない。おばあちゃんの昔に私はいなかったし」
女子生徒はそう言って、また羊皮紙へ目を戻した。
真司は、この一週間に感じた妙な間の正体が、少しだけ分かった気がした。
「じゃあ、珍しいのは本当なんだ」
真司が言う。
「珍しくはあるよ」
マルコムが答えた。
「マグル生まれがスリザリンに入らないわけじゃない。でも、多くはない」
「なんで?」
「そこまでは僕も――」
「グラントの家は純血だっけ?」
向かいの少年が、ふと思い出したように聞いた。
「そうだよ」
マルコムは何でもないことのように答えた。
真司の羽ペンが止まった。
「純血?」
こちらは、聞いただけでは意味がはっきりしなかった。
「昔から魔法使いの家ってこと」
マルコムが言う。
「父さんも母さんも魔法使い?」
「その前も」
「おじいさんとおばあさんも?」
「うん。その前も」
「へえ」
真司はマルコムを見た。
列車で初めて会ったとき、魔法界のことを何でも知っているように見えた理由が、少し分かった気がした。
「じゃあ、家に魔法使いがいっぱいいるんだ」
「その言い方だと、家の中に大勢住んでるみたいだな」
「住んでないの?」
「父さんと母さんと僕だけだよ」
「じゃあ今は三人」
「数えなくていい」
真司は笑った。
その程度なら、話は簡単だった。
マグルの家で育った真司。
昔から魔法使いの家で育ったマルコム。
育った場所が違う。
だから知っていることも違う。
ただ、どうやら魔法界には、それだけでは済ませない人もいるらしい。
「マルコムも気にする?」
真司が聞いた。
「何を?」
「僕がマグル生まれなの」
マルコムは少し目を瞬いた。
「別に」
「ほんとに?」
「列車で会ったときは知らなかっただろ」
「うん」
「知った今も、君は同じシンジだし」
「まあ、そうだけど」
「だったら僕には関係ないよ」
あっさりした答えだった。
真司は頷いて、また羽ペンを持ち直した。
ところが、向かいの少年が菓子を口へ放り込みながら言った。
「でも俺、ミズキがマグル生まれって最初に聞いたときはちょっと驚いたぞ」
「なんで?」
「スリザリンだから」
「だから、なんでスリザリンだと驚くの?」
少年は口を動かしながら、マルコムを見る。
「おーい、説明書ー」
「僕を見るな」
マルコムが嫌そうな顔をする。
「シンジのせいで定着したじゃないか」
「便利だから」
「だから人を便利って言うな」
周囲にまた笑いが起こった。
けれど、真司の質問には誰もすぐ答えなかった。
少しして、マルコムが言う。
「昔のスリザリンには、血筋をすごく気にする人が多かったんだよ」
「今はいないの?」
「いるよ」
答えたのは、マルコムではなく、近くにいた女子生徒だった。
「うちのおばあちゃんみたいなのがいるんだから、その子どもも、そのまた子どももいるでしょ」
「ああ」
それは分かりやすかった。
考え方は、戦争が終わったからといって、翌日いっせいに消えるものではない。
「でも、昔よりは言いにくくなってると思う」
マルコムが続けた。
「少なくとも、堂々とマグル生まれを嫌えって言う家ばかりじゃない。僕の父さんだって、そんなこと言わないし」
「でも言う家もある?」
「あると思う」
マルコムは少しだけ間を置いた。
「僕が知らないだけで」
真司は革表紙のノートを開き、授業のメモの下に少しだけ書いた。
純血――昔から魔法使いの家。
その下で羽ペンが一度止まる。
何かもう一つ書こうと思ったが、うまくまとまらなかった。
結局、
スリザリンでは、マグル生まれは少し珍しい。
とだけ書いた。
「それも書くの?」
マルコムが覗き込んだ。
「忘れないように」
「忘れるかな」
「分からない。今週だけでも覚えること多いし」
「ソーセージ三本食べたことは覚えてるのに?」
「それはマルコムが何回も言うから」
「明日も言うよ」
「じゃあ絶対忘れないね」
真司がノートを閉じようとした、そのときだった。
少し離れたところから、さっきの少年が言った。
「でも、今は昔ほど珍しくないだろ。去年までポッターの息子だってスリザリンにいたんだし」
真司は顔を上げた。
「ポッター?」
少年の手が止まった。
マルコムも止まった。
近くで魔法チェスをしていた上級生まで、なぜかこちらを見た。
真司は周囲を見回した。
「何?」
少年が確かめるように言った。
「ハリー・ポッターだよ」
「誰?」
今度は、談話室の一角がはっきりと静かになった。
真司は少し困った。
魔法界へ来てから、知らないことで驚かれるのには慣れてきたつもりだったが、今回は反応が大きい。
マルコムが、しばらく真司を見つめる。
「シンジ」
「何?」
「君、本当に知らないの?」
「知らないから聞いてるんだけど」
「ハリー・ポッターを?」
「そんなに有名なの?」
マルコムは口を開いた。
何かを言おうとして、閉じた。
それから、机に置かれた真司の羊皮紙を見る。
「宿題、終わった?」
「終わった」
「本当に?」
「なんでそこ疑うの」
「長くなるから」
真司は、閉じかけていた革表紙のノートをもう一度開いた。
「じゃあ聞く」
「そう言うと思った」
一週間たって、ホグワーツのことも少しは分かってきたつもりだった。
城の道も、授業の受け方も、友達との話し方も。
けれど、どうやら魔法界には、みんなに一般的なのに、僕だけわからないことが、まだずいぶん残っているらしかった。