五歳の夏、高槻澄は近所に住む宮原灯へ、一本の鍵を「お守り」として渡した。

それから十七年。決まった時刻の帰り道、雨の日の傘、夜九時の通話。灯の暮らしに自分が残り続けるよう、澄は偶然に見える習慣を一つずつ置いていく。


二人は大人になった。


二十二歳の夏、澄は六冊のノートを灯に差し出す。


これは選ばれるために十七年を組み立てた少女と、彼女を選び続けていた少女の小話。




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一身上の都合で、最近ハーメルンで投稿できてませんでした。




澄み渡る灯

 

 

 灯に六冊のノートを渡すと決めた夜、私たちは鍋の蓋を探していた。

 

「平たい箱、もう閉じた?」

 

「まだ」

 

「じゃあ、そっち」

 

灯は畳んだ段ボールの山を顎で示した。私の部屋なのに、荷物のありかは朝から手伝っている灯のほうが把握していた。私はガムテープを歯で切ろうとして、やめる。さっき同じことをして、灯に汚いと言われたばかりだった。

 

三月最後の日曜だった。明日の朝八時四十二分の特急に乗れば、斜め裏の宮原家も、楠ヶ丘分館も、八幡社の赤いポストも、列車で四時間の場所になる。

 

六冊の青いノートは、クローゼットの奥に残してある。

 

捨てる本と持っていく本。冬物と、もう着ない服。新居ですぐ開ける箱。ひと月は開けなくていい箱。荷物なら分けられた。ノートだけは、どこへ入れても違う気がして、朝から同じ場所に置いたままだった。

 

「これ?」

 

灯が、ベッドの下からステンレスの蓋を引きずり出した。鍋より一回り小さい。

 

「それはフライパン」

 

「蓋から見て、どっちも鍋でしょ」

 

「鍋は深いほう」

 

「澄のそういうところ、新しい会社で嫌われそう」

 

「蓋の名前で?」

 

「蓋の名前を訂正するところで」

 

灯は笑いながら、蓋を箱へ入れた。髪を耳に掛ける指に、細い紙傷があった。段ボールで切ったのだろう。消毒液は洗面所の棚、絆創膏は机の二段目にある。言いかけて、黙った。灯は自分の指くらい自分で見られる。

 

朝から、黙らなくていいことばかり黙っていた。

 

「ねえ」

 

呼ぶと、灯は箱の底へ新聞紙を敷いたまま顔を上げた。

 

今から、十七年間のことを話したい。言い方を考えてきた。ノートの最後には、話す順番も書いた。けれど、灯の頬にガムテープの切れ端がついているのを見つけてしまった。

 

「そこ」

 

自分の頬を指すと、灯は逆側を擦った。

 

「そっちじゃない」

 

手を伸ばした。爪の先で剥がせるほどの紙片だったのに、頬へ触れた指を、すぐには引けなかった。灯も動かなかった。

 

階下で、母が食器棚を閉めた。

 

私は紙片を丸めて、ごみ袋へ落とした。

 

「何?」と灯が聞いた。

 

「ガムテープ」

 

「それじゃなくて。さっき、何か言おうとしたでしょ」

 

「あとで」

 

「今日の澄、あとでが多い」

 

灯は追及せず、箱の底で浮いた新聞紙の角を、爪の先で何度も押さえた。

 

インターホンが鳴った。

 

母が玄関で応対する声に、別の女の声が重なった。灯が立ち上がるより先に、部屋の戸が二度ノックされた。

 

「差し入れ。あと、借りてたの」

 

河合紗季が、紙袋と一冊の文庫本を持って入ってきた。薄い緑の傘を廊下に立て掛け、勝手知ったように段ボールを跨いだ。

 

「まだ終わってないじゃん」

 

「見れば分かる」と灯が言った。

 

「昨日、余裕って言ってたの誰?」

 

「澄」

 

「言ってない」

 

「顔で」

 

紗季は私を見て、納得したように頷いた。紙袋から、商店街の肉屋のコロッケを三つ取り出す。揚げた油の匂いが、段ボールと埃の匂いを押しのけた。

 

「高槻さん、向こうでちゃんとご飯食べる?」

 

「食べる」

 

「その返事、食べない人のやつ」

 

「冷蔵庫に卵を入れる向きまで決めてる人だよ。食べるよ」

 

灯はそう言い、コロッケを一つ私へ渡した。私がソースを探す前に、小袋も掌へ載せる。いつも私がかける量より多かった。

 

紗季は窓際へ腰を下ろした。窓の外では、裏庭の金網が夕方の雨に濡れていた。その向こうに宮原家の二階が見える。灯の部屋のカーテンは開いていた。今日まで、夜になればあそこに明かりがついた。

 

「明日、駅まで行くの?」紗季が灯に聞いた。

 

「行くよ」

 

灯はコロッケを食べながら答えた。私の喉で、まだ飲み込めていない一口が止まった。

 

「何時?」

 

「八時二十分には着く。ホームまで入るから」

 

「私も行こうかな」

 

「紗季、朝弱いじゃん」

 

「だから、今来たの。別れって前の日に済ませても有効でしょ」

 

紗季は文庫本を私に差し出した。二年前、灯と映画を見に行った帰りに買ったという本だった。灯が貸し、紗季が私へ回した。三人の間を一年以上かけて一周したことになる。

 

「面白かった」と紗季が言った。

 

「どこが」

 

「そういう感想文みたいなの、いらないから」

 

灯が吹き出した。

 

文庫本を受け取ると、表紙の内側に薄い染みがあった。紗季の部屋でついたものか、灯の家でついたものか、私には分からなかった。染みの縁を親指で一度なぞり、本を閉じた。

 

高校一年の六月にも、紗季は同じ色の傘を持っていた。

 

雨のバス停で灯の肩へ傘を傾け、二人で一枚の画面を見て笑っていた。私は道路の反対側に立っていた。信号が変わるまでに、灯が三度、紗季の名を呼んだ。河合さんではなく、紗季、と。

 

青信号になっても、私は渡らなかった。

 

その夜のノートには、まず《河合紗季》と書いた。文字の上を何度もなぞり、紙が毛羽立った。翌週、灯が彼女に告白されたと聞いた。何と答えるのか尋ねると、灯は止めてほしい人みたいな顔をした。

 

止めて、と言えばよかった。

 

口から出たのは、《灯が決めたらいい》だった。

 

翌々日、灯は紗季を断った。五時九分、バス停へ現れた。二分遅れた理由を聞かなかった。だからノートには、《待てば戻る》と書いた。

 

今、窓際の紗季は、衣の剥がれたコロッケを器用に紙で受けながら灯へ言った。

 

「明日の朝、泣く?」

 

「誰が」

 

「二人とも」

 

「泣かないよ。四時間だし」

 

「時間の問題なんだ」

 

「紗季は黙って食べて」

 

灯が笑っている。紗季も笑った。私はうまく笑えなかった。

 

四時間だから、灯は明日も駅へ来る。四時間だから、一か月後にも会える。私は、灯が改札にいる朝と、いない朝を交互に思い浮かべた。

 

紗季はコロッケを食べ終えると、荷造りを手伝うと言って、机の上のペンをまとめ始めた。油のついた指で触らないで、と灯がその手を叩く。紗季は大げさに痛がった。

 

三人でいるとき、灯は私をあまり見なかった。私は、紗季へ向けられた灯の横顔ばかり見た。

 

「これ、持っていく?」

 

紗季が、机の奥から短い青鉛筆をつまみ上げた。私のイニシャルを彫ったものだった。小学生の頃、楠ヶ丘分館で灯が使っていた。

 

「捨てる」と答える前に、灯が取った。

 

「私の」

 

「高槻さんのS、入ってるけど」

 

「借りたままだから」

 

「十五年?」

 

「利息がついて私のになった」

 

灯は鉛筆を、持ってきた金魚柄の巾着へ入れた。擦り切れて色の薄くなった布の中で、硬いものと当たった。

 

金属の乾いた音がした。

 

「まだ入ってるんだ、それ」と紗季が言った。

 

「何が」

 

「開かない鍵。中学のとき見せてもらった」

 

「捨てる理由ないから」

 

「開かないのに?」

 

「鍵ではあるでしょ」

 

灯は巾着の口を結び直した。紐を絞る前、鍵の下から薄い封筒の角が覗いた。私には何も聞かなかった。持っていてほしいと言った五歳の朝から、一度も。

 

紗季が帰るとき、灯も玄関まで送った。私は部屋に残り、窓から二人を見る。雨はほとんど上がっていた。紗季は傘を開かずに門を出た。灯が何か言い、紗季が振り返って、灯の額を指で弾いた。

 

灯は紗季の手を払い、笑った。

 

私は、短くなったコロッケのソース袋を、指の間で丸めた。

 

机の引き出しを開ける。空にしたはずの二段目から、新品の絆創膏が一枚出てきた。灯の指の紙傷を思い出した。持って階段を下りかけ、やめた。二人が話しているところへ、たった一枚の絆創膏を理由に入っていく自分が嫌だった。

 

窓からもう一度見ると、紗季は角を曲がっていた。灯が一人で戻ってくる。

 

私は階段の途中で待った。

 

「指」

 

絆創膏を差し出すと、灯は傷を見た。自分でも忘れていたらしい。

 

「これくらい平気」

 

「段ボール、汚いから」

 

「澄、さっき歯でテープ切ろうとしてたけど」

 

「それとこれは別」

 

灯は受け取らず、傷のある指を私へ向けた。

 

「貼って」

 

廊下の照明は、部屋より暗かった。台紙を剥がし、灯の中指へ巻く。皮膚を引かないようにすると、絆創膏の端が少し斜めになった。

 

「下手」

 

「自分でやればよかったでしょ」

 

「澄が持ってきたんじゃん」

 

灯の指を離したあと、同じところに自分の指の熱が残った。灯は一階へ降りず、私の横をすり抜けて部屋へ戻った。髪から、雨と、いつも家で使っているシャンプーの匂いがした。

 

さっき頬に触れたばかりなのに、もう一度触りたかった。

 

六冊のノートが、クローゼットの扉一枚を挟んで待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夕飯は四人で食べた。

 

母は灯の分まで鯖を焼いていた。父は、私が向こうで使う電子レンジについて、五分おきに同じ注意をした。空焚きをするな。上に物を置くな。延長コードは使うな。私は一度ずつ返事をし、灯は三度目から私の代わりに頷いた。

 

「灯ちゃん、明日の朝も来てくれるんだって?」母が言った。

 

「はい。ホームまで行きます」

 

「悪いねえ。平日なのに」

 

「まだ仕事始まってないので」

 

「帰り、うちの車で送るから」

 

「歩いて帰れますよ」

 

母と灯は、私のいない明日の朝の話を続けた。父が鯖の骨を皿の端へきれいに並べている。テレビでは、週の後半に桜が咲くと言っていた。

 

八時二十分。私は、灯が来なかった場合に、父へどこまで荷物を運んでもらうかまで考えていた。まだ何も話していないのに。口の中のご飯を、水で流し込んだ。

 

「向こうで寂しくなったら、いつでも帰ってくればいいからね」

 

母が私へ言うと、灯が箸を止めた。

 

「四時間かかるのに、いつでもは無理でしょ」と私は言った。

 

「言葉のあやよ」

 

「帰ってきてほしいって言えばいいじゃん」

 

「はいはい。帰ってきてほしいです」

 

母は笑った。灯は箸を置いたまま、私を見ていた。

 

「何」

 

「別に」

 

何か言いたそうな顔だった。今なら聞けたのに、父が味噌汁をこぼした。母が台布巾を取り、灯が椀を持ち上げ、話はそこで切れた。

 

夕食のあと、二人で部屋へ戻った。灯は最後の箱に《新居・すぐ開ける》と書いた。字の最後が少し右上がりになる。何を入れたか尋ねると、延長コードとタオルと答えた。

 

「延長コード、父さんが使うなって」

 

「洗濯機の横ならいるよ」

 

「図面では届いてた」

 

「内見で測ったの私だけど」

 

「写真から計算した」

 

「じゃあ、賭ける?」

 

灯は油性ペンを置いた。

 

「届かなかったら?」

 

「私が夕飯おごる」

 

「届いたら?」

 

「灯が」

 

「どこで」

 

新居の近くに、灯が食べたがっていたスパイスカレーの店があった。内見の日、地図を送ると、物件より先に見つけた店だった。

 

「向こうで」と言うと、灯は少し間を置いた。

 

「行くことになってるんだ」

 

「来ないの」

 

「行くよ」

 

灯はペンの蓋を、片手で強く押して閉めた。

 

「そのうち」

 

約束にしたかった。第三土曜、十時二分の列車。そんなふうに決めれば、来る日までの時間を数えられる。口に出しかけたところで、九時を告げるアラームが鳴った。

 

机に伏せていたスマートフォンが、箱の間で震えた。

 

灯と私は同時に画面を見た。

 

《日曜 灯》

 

大学二年から、週に一度の通話を忘れないために設定した名前だった。三年経っても消していなかった。普段は通話が先に始まるので、鳴る前に止めている。

 

「まだそれ使ってたんだ」

 

「消し忘れ」

 

画面に触れる指が滑った。止めたあとも、掌の中で振動が続いている気がした。

 

「私、なくても忘れないけど」

 

「私が忘れる」

 

「澄が?」

 

「仕事してたら、時間見るの忘れることあるから」

 

「へえ」

 

灯の「へえ」は、一音ぶん長かった。

 

二年前の秋、私は市外の調査会社へ半年間の実習に出た。

 

借りた部屋には、幅の狭いベッドと、電気コンロが一口だけあった。初めの一週間は、換気扇の音が自分の家と違うせいで眠れなかった。灯とは日曜の九時に電話をした。毎日ではなかった。毎日なら、話すことがない日まで無理に埋めることになる。週に一度なら、七日分の生活を持ち寄れた。遅れる日は八時半までに連絡する。決めた覚えはないのに、半年のあいだ、どちらも一度も破らなかった。

 

十月のある日曜、私は午後からずっとスマートフォンを机に置いていた。

 

灯は大学の製図課題で、二週間続けて通話を短く切り上げていた。前の晩に送られてきた写真には、作業室の床で眠る同級生が映っていた。灯の机の隅に、私の知らない店の紙コップがあった。それだけだった。

 

九時ちょうど、画面が明るくなった。

 

《終わった。かけていい?》

 

私は読んだ。返事をしなかった。

 

一分経てば、灯はもう一度送るだろうかと思った。

 

九時三分。

 

《澄?》

 

胸の奥が熱くなった。心配させたいと思ったわけではない、とそのときは考えた。ただ、もう一通来るか確かめたかった。

 

着信が鳴った。画面に灯の名が出た。机の上で振動する端末を、両手を膝に置いたまま見ていた。

 

鳴り終わる。

 

部屋が急に静かになった。換気扇の低い音まで聞こえた。

 

九時六分。

 

《何かあった?》

 

その時点で電話を取ればよかった。取らなかった三分を説明するのが嫌で、次の三分まで待った。理由ではなく、遅れそのものに押されていた。

 

二度目の着信は九時九分だった。

 

灯は、私が出るとすぐに名前を呼んだ。声が掠れていた。

 

「ごめん。スマホ、会社に置いてた」

 

「じゃあ、今どこ」

 

「取りに戻った。充電も切れてて」

 

嘘は、考えるより早く口から出た。

 

灯は怒らなかった。よかった、と言った。その一言が嬉しくて、吐き気がした。

 

翌週から、通話の三分前には返事をした。灯は一度も、あの夜のことを尋ねなかった。

 

私はノートに時刻を記した。最初は、《九分で灯は二度電話をした》と書いた。ひどく平らな字だった。頁の下には、《離れても必要とされている》と続けた。

 

翌朝、それを黒いペンで塗った。

 

消したいなら、頁を破ればよかった。私は破らず、紙が浮き上がるまで同じ行を塗った。

 

「澄」

 

灯の声で、部屋へ戻った。

 

「ごめん。何?」

 

「本当に今日、変だよ」

 

灯は床へ座り、膝を抱えていた。さっきまで動かしていた手が止まっている。

 

私はアラームの設定画面を開いた。《日曜 灯》の横にあるスイッチを切った。

 

「何で消すの」

 

「もう離れて住むから」

 

「だからいるんじゃないの」

 

「決め直したい」

 

「何を?」

 

灯が眉を寄せる。

 

これ以上、あとでとは言えなかった。

 

クローゼットを開けた。上段の衣装ケースを外し、その奥から六冊を出す。青は同じでも、表紙の色は少しずつ違った。小学生の頃に買った一冊目だけ、角が丸く潰れている。

 

机へ並べると、灯はしばらく見ていた。

 

「日記?」

 

「灯のことを書いてる」

 

「六冊ぜんぶ?」

 

「十歳から」

 

灯が笑いかけた。私が笑っていないのを見て、口元が戻った。

 

「何が書いてあるの」

 

「読んでほしい」

 

「今?」

 

私は頷いた。

 

「明日の朝までに?」

 

頷くことができず、一冊目を灯の前へ押した。

 

灯は表紙へ手を置いた。絆創膏を巻いた中指が、薄い青の上で止まる。

 

「これを読んだら、何か変わる?」

 

「分からない」

 

「澄は、変えたいの」

 

「変わる前に渡したい」

 

灯は一冊目を開いた。

 

最初の頁には、十歳の私の字で、《灯にわすれられない人になる》と書いてある。

 

灯はそこを二度読んだ。

 

「何これ」

 

声に、まだ笑いが残っていた。

 

「そのまま」

 

「小学生で?」

 

「うん」

 

「重い子ども」

 

「知ってる」

 

「知らなかったから言ってるの」

 

灯は頁をめくった。弟が熱を出した日。図工の先生に嫌な題名をつけられた日。日曜の五時十分。鉛筆を二本置くこと。灯が来なかった祖母の誕生日。

 

「これ、覚えてる」

 

机の右に鉛筆を置いた図が描かれた頁で、灯の指が止まった。

 

「焼肉食べながら、五時十分になったって思った日」

 

「次の週、教えてくれた」

 

「それも書いてる」

 

灯は少し笑った。頁の端を親指で撫でる。その顔を見て、私は渡してよかったと思いそうになった。

 

二冊目に入る頃、笑わなくなった。

 

《灯の友だちの悪口を言わない》

 

《他の人がいても、鉛筆を置く場所を変えない》

 

《会えない日を作る。次に会ったとき、会わないあいだの話を聞く》

 

子どもの規則は、年齢と一緒に具体的になった。私がしたことだけでなく、しなかったことも書いてある。メッセージをすぐ返さなかった日。灯が紗季の話をするまで尋ねなかった日。別の大学を勧めた日。

 

「全部、考えてたの」

 

灯は頁から目を上げなかった。

 

「全部じゃない」

 

「ここにあるのは?」

 

「考えた」

 

「私が日曜に図書館へ来るのも?」

 

「最初は違う。来るようになってから、同じ席を取った」

 

「私がその鉛筆を使うの、分かってて置いた?」

 

「うん」

 

灯は一冊目へ戻り、短い鉛筆のことが書かれた頁を探した。読み直しているあいだ、私は床の木目を見た。

 

「どうして今まで言わなかったの」

 

「言ったら、効かなくなると思った」

 

「効く、って何」

 

「私を思い出すこと」

 

灯の指が止まった。

 

「私、薬か何か?」

 

「そういう意味じゃない」

 

「じゃあ、どういう意味」

 

ノートの最後の三頁に書いた文を、頭の中で一行目から読み始めた。灯に選んでほしかった。嫌がることはしないつもりだった。明日からは隠さない。三行目まで来て、やめた。

 

「忘れられるのが、嫌だった」

 

それしか言えなかった。

 

「私は忘れたことないよ」

 

「忘れる前は、みんなそう言える」

 

灯が顔を上げた。

 

灯の親指が頁の縁を折った。すぐに戻したが、細い筋が残った。

 

「みんなって誰」

 

「誰でも」

 

「私は誰でもなんだ」

 

「違う」

 

「でも、私が何をしても信じなかったんでしょ」

 

「信じたかったから——」

 

「試した?」

 

灯の声が変わった。

 

五冊目を開いていた。コーヒーの輪が残った頁。黒い油性ペンで潰した文字の下に、数字の筆圧が残っている。

 

九時三分。九時六分。九時九分。

 

灯は塗り潰しへ爪を当てた。

 

「これ、何」

 

答えなければならない。

 

それなのに、喉の筋肉が動かなかった。

 

「九分、って何」

 

「実習のとき」

 

「いつ」

 

「十月。電話に出なかった日」

 

灯の顔から色が引いた。

 

「会社に忘れた日?」

 

「忘れてない」

 

「充電切れてたって」

 

「嘘」

 

灯は五冊目を閉じた。音は小さかった。

 

「最初から、見てたの」

 

「うん」

 

「私が送ったのも、電話したのも」

 

「見てた」

 

「何で」

 

「もう一度、かけてくるか知りたかった」

 

「一回かけたじゃん」

 

「それでやめればよかった」

 

「一回じゃ足りなかった?」

 

「足りないと思った」

 

灯は立ち上がった。膝に載っていたノートが床へ落ちた。拾おうとした私の手を強く払った。

 

「私、あのとき終電調べたんだよ」

 

「え」

 

「何かあったと思って。次の日、朝いちで行けるかも見た。弟が廊下に出てきて、うるさいって怒鳴った」

 

知らなかった。

 

ノートには、灯が二度電話をしたことしか書いていない。

 

「ごめん」

 

「私が何してたか、知らないくせに」

 

「知らなかった」

 

「それなのに、ここには何て書いたの」

 

灯が五冊目を開き、黒く塗った行の下を指した。《離れても必要とされている》。消し切れずに残った字を、灯は一文字ずつ読んだ。

 

「私が怖がったこと、澄の安心にしたんだ」

 

「そうしたくなくて、消した」

 

「書いたあとで?」

 

「うん」

 

「じゃあ、何で残したの」

 

「隠したままにしたくなかった」

 

「今、見せれば隠してなかったことになる?」

 

「ならない」

 

「六冊、今夜読むように渡して、明日の朝、澄は行くんだね」

 

「だから今日——」

 

「逃げるじゃん」

 

「逃げない」

 

「四時間向こうに行くのに?」

 

「仕事は前から決まってた」

 

「知ってるよ!」

 

灯の声が、空になった部屋へ響いた。

 

階下の食器の音が止まった。母が聞いている。灯も気づいたらしく、唇を噛んだ。

 

私は扉を閉めた。

 

「仕事を変えてほしいわけじゃない」と灯は小さな声で言った。「そういうことにしないで」

 

「してない」

 

「また」

 

「何」

 

「私が言ってないこと、先に決める」

 

灯は床のノートを拾った。残りも一冊ずつ重ね、鞄へ入れていく。

 

「持っていくの」

 

「読んでほしいんでしょ」

 

「うん」

 

「今は、澄の前で読みたくない」

 

鞄のファスナーが閉まる。六冊は重いはずなのに、灯は片手で持ち上げた。

 

「駅には」

 

聞いてはいけないと思いながら、口から出た。

 

灯は答えなかった。

 

玄関まで追った。母が台所から顔を出したが、私たちを見て、何も言わずに引っ込んだ。灯は靴紐を二度結び直した。絆創膏の巻かれた指が震えていた。

 

「灯」

 

「今、触らないで」

 

私は伸ばしかけた手を下ろした。

 

灯は傘を持たずに出た。雨は上がっていた。門を閉める音がして、少し遅れて宮原家の玄関が開いた。

 

玄関のたたきに、灯の靴から落ちた水滴が二つ残っていた。扉を閉めず、それが丸く広がるのを見ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

部屋へ戻ると、ノートを置いていた机だけが不自然に広かった。

 

母が、湯気の立つマグカップを持ってきた。ミルクを入れすぎた紅茶だった。昔から、私が眠れない夜に作る。

 

「入っていい?」

 

もう入っている、と言う気にはなれず、頷いた。

 

母は床に座り、閉じた段ボールへ背を預けた。何があったのか聞かなかった。灯が怒鳴った声は下まで聞こえていたはずだった。

 

「灯ちゃん、傘は?」

 

「持ってなかった」

 

「また降ったらどうするの、あの子」

 

「家、そこだから」

 

「そう」

 

紅茶を一口飲む。甘かった。

 

「私が、傷つけた」

 

母はマグカップを見た。私が言い直すのを待っていたが、続きが出ないと分かると、膝の上で手を組み直した。

 

「謝った?」

 

「うん」

 

「何回」

 

「分からない」

 

「多いね」

 

母は紅茶の表面に張った膜を、スプーンで端へ寄せた。

 

「明日、灯ちゃんは駅に来るの」

 

「分からない」

 

「お弁当、二つ作るつもりだったんだけど」

 

私は返事をしなかった。母は、じゃあ一つにするね、と言った。

 

立ち上がり、扉の前で振り返る。

 

「切符は変えられるの」

 

「まだ」

 

「そう。聞いただけ」

 

「お母さんなら、どうする」

 

「灯ちゃんに聞いて」

 

「今は聞けない」

 

「じゃあ、私にも分からないよ」

 

母は空の手で出ていき、すぐ戻って、私の持っていたマグカップを持っていった。

 

明日の切符を開いた。変更のボタンは画面の下にあった。新しい会社の人事担当へ送る文章まで考えた。家庭の事情で、入居を一日遅らせたい。

 

送らなかった。

 

灯が一人で読みたいと言った。変更画面を閉じた。

 

残った本を箱へ入れた。小学校の卒業文集、大学の教科書、紗季から返された文庫本。灯が《すぐ開ける》と書いた箱を閉じる。ペンの線に指を載せると、インクはもう乾いていた。

 

午前一時を過ぎても、宮原家の二階は明るかった。

 

灯はいま、どこを読んでいるのだろう。一冊目なら、赤いポストの約束。三冊目なら、紗季を断った日。六冊目なら、明日の朝すべてを話すと書いた頁。

 

私は灯が読む順番まで想像していた。

 

カーテンを閉めた。

 

ベッドには布団がなく、横になる場所もなかった。廊下へ出ると、父と母の部屋から寝息は聞こえない。二人とも起きているのかもしれなかった。

 

上着を着た。スマートフォンだけをポケットへ入れ、玄関を出た。

 

住宅地の道は、雨を薄く残していた。軒下から落ちる雫が、側溝へ当たる。コンビニの配送車が大通りを走っていった。八幡社までは、歩いて十二分だった。

 

赤い丸型ポストは、参道の入口に立っていた。

 

五歳の夏より塗装が新しい。二年前、町内会が塗り直した。古い傷は下に埋まり、投函口の銀色だけが街灯を反している。

 

私はポストの横へ立った。

 

灯と離れたら、ここへ戻る。先に言ったのは私だった。けれど、祭りの日、本当に戻ってきたのは灯だった。片方の下駄を手に持ち、裸足で砂利を踏み、私の名を呼びながら走ってきた。

 

ノートには、《赤いポストで待てば、灯は戻る》と書いた。

 

私は、待った側のことしか書かなかった。

 

参道の奥は暗かった。自動販売機の明かりに、小さな虫が集まっている。遠くで車の扉が閉まり、足音が聞こえた気がした。顔を上げても、誰もいなかった。

 

スマートフォンを出した。灯の名前を開く。

 

《ポストにいる》

 

打って、消した。

 

呼べば戻るかもしれない。そのためにここへ来たのではないと言い切れなかった。

 

街灯の下で、靴の爪先を見ていた。五分か、二十分か分からない。時刻を確かめたのは一度だけだった。二時十三分。

 

誰も来なかった。

 

家へ帰る途中、斜め裏の灯の部屋はまだ明るかった。私は見上げずに門を開けた。

 

朝、母が作った弁当を持って駅へ向かった。父が運転し、母が助手席に座った。後部座席の隣が空いていた。

 

駅へ着くまで、三人とも灯の名前を出さなかった。

 

改札前には、通勤客と、春休みらしい家族連れがいた。八時二十分。灯はいない。

 

母が弁当を渡した。父は荷物をホームまで運び、発車二分前に降りた。

 

「じゃあ、行ってくる」

 

母は頷いて、私の肩を一度叩いた。泣くと思っていたのかもしれない。私は泣かなかった。

 

八時四十二分、列車は時刻どおりに動いた。

 

ホームの端まで、灯の姿を探した。薄い緑の傘を持つ女がいた。紗季かと思ったが、知らない人だった。

 

住宅地は線路から見えない。それでも窓の外に赤いものがあるたび、目が止まった。工事用の柵、自動販売機、ガソリンスタンドの看板。ポストは一つもなかった。

 

新居へ着いたのは午後一時前だった。

 

《着いた》

 

灯へ送った。一時間後、《了解》と返ってきた。句点はなかった。

 

《ノート、全部読んだ?》

 

入力し、送らなかった。

 

冷蔵庫を設置し、父に言われたとおり、上には何も置かなかった。灯が《すぐ開ける》と書いた箱は、玄関脇に残した。洗濯機のコードはコンセントまで届かなかった。

 

賭けは私の負けだった。

 

電話で夕飯をおごると言う場面を想像した。四時間離れたことより、その一言を送れないことのほうが、部屋を遠くした。

 

入社の手続きをし、地図の修正を覚え、昼は同僚と定食を食べた。夜は一人で卵を焼いた。

 

最初の日曜、八時五十九分に机へ座った。

 

九時を知らせるアラームは、もう鳴らない。

 

電気ケトルが沸き、スイッチの跳ねる音がした。九時三分。画面は暗い。九時六分。換気扇を止めると、冷蔵庫の音だけが残った。

 

九時九分まで待ってから、私はスマートフォンを伏せた。

 

私には、電話が来ない理由が分かっていた。

 

あの夜の灯には、暗い画面しかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

六冊を入れた鞄は、門を出ると急に右肩を引いた。

 

高槻家の門を閉め、斜め裏の自分の家へ戻る。玄関の明かりはついていた。母が待っている。

 

門扉のラッチを握ったまま、庭の金網越しに澄の部屋を見た。カーテンが開いたままで、空になった本棚と、床に座る澄の背中が見える。名前を呼ばれたらどうするか決めないうちに、澄は立ち上がった。

 

カーテンが閉まった。ラッチから手を離し、家へ入った。

 

「おかえり。遅かったね」

 

母は台所で明日の米を研いでいた。私の顔と、膨らんだ鞄を順に見た。

 

「澄ちゃんの荷造り、終わった?」

 

「終わった」

 

「明日、七時半に起こせばいい?」

 

駅へ行くなら、七時でも遅いくらいだった。いつもなら、目覚ましを二つかけてある。

 

「分かんない」

 

母の手が、米の中で止まった。

 

「喧嘩した?」

 

「うん」

 

「澄ちゃんと?」

 

私たちが喧嘩らしい喧嘩をしたのは、たぶん初めてだった。

 

「今は聞かないで」

 

「分かった。お風呂、まだ温かいよ」

 

母は追ってこなかった。

 

部屋の床へ鞄を下ろす。肩紐の跡が赤く残っていた。六冊を机へ並べると、澄の部屋で見たより場所を取った。

 

一冊目を開く。

 

《灯にわすれられない人になる》

 

《わすれられない》の《れ》だけ、二度なぞって濃くなっていた。

 

一度閉じ、また開いた。同じ一行があった。可愛いと思いかけて、五冊目の黒い頁を思い出した。

 

頁をめくった。

 

澄のノートは、覚えていることより、覚えると決めたことが多かった。

 

ただ、私のことだけが順番に並んでいるわけではなかった。一冊目の途中には九九の七の段が二頁あり、その次は図書館で借りたい本の題名、母親に頼まれた買い物、消しゴムの値段。半年何も書かれていないところもあれば、同じ日付が四頁続くところもある。二冊目の後ろ十頁は、上下を逆にして英単語帳に使われていた。

 

《灯》の字も一定ではなかった。小学生の丸い字が細くなり、高校に入る頃には、急いで書いた日は《火》に見えた。

 

私の弟が熱を出した日。図工の先生の話。好きだった給食。嫌いだった歌。後ろ二つには線が引かれ、横に《これは忘れても困らない》とある。思わず鼻で笑った。澄はテレビに出ている人の名前を、何度教えても覚えなかった。

 

楠ヶ丘分館の頁には、窓際の机が描かれていた。右側に鉛筆。左側に本。五時十分に丸印。

 

澄は、私が来るように場所を作ったと思っている。

 

私は日曜になると、母に図書館へ行くと言った。弟が寝ているからでも、家がうるさかったからでもない日もあった。分館へ着く前に文房具店へ寄り、自分の鉛筆を二本買った。そのまま筆箱へ入れて、机の右に置かれた澄の鉛筆を使った。

 

五時半の閉館音楽が嫌いだった。だから五時十分になると、先に本を閉じた。あと二十分で帰らなければならない、と二人とも知るためだった。

 

祖母の誕生日で行けなかった日、焼肉屋の壁の時計を三度見た。五時十分に、水の入ったコップが汗をかき、紙のコースターがふやけていた。澄はいま本を閉じただろうかと思った。

 

次の日曜、それを話した。

 

澄のノートには、《狙いどおり、会えない日にも思い出した》とあった。《狙いどおり》は鉛筆で消されていた。消し跡の下から読めた。

 

「違う」

 

誰もいない部屋で声が出た。

 

思い出したのは私だ。

 

製図用のシャープペンシルを取り、余白へ書いた。

 

水のコップ。焼肉は焦げた。

 

それだけでは足りず、下へ続ける。

 

私が時計を見た。

 

澄の文章に返事をしているみたいで腹が立った。頁の角を摘まみ、半分まで持ち上げた。破らずに戻すと、余白がまだ何行も残っていた。

 

二冊目まで読んだところで、指の絆創膏が黒く汚れているのに気づいた。澄が貼ったものだった。剥がしてごみ箱へ捨てた。中指に、薄い切り傷だけが残った。

 

机の時計は一時を回っていた。

 

三冊目を開く。河合紗季の名前は、最初の頁にあった。

 

《灯、河合さんと雨のバス停。傘は河合さんが持つ。肩が触れていた》

 

その下に、《信号を渡らなかった》とある。

 

澄は反対側にいたのだ。

 

あの日、私は気づかなかった。紗季が見つけて、信号の向こうを顎で示した。澄は濡れた前髪を額へ貼りつけ、青に変わった信号の前で立っていた。傘を持っているのに開いていなかった。

 

「呼ばなくていいの」と紗季に聞かれた。

 

呼べば、澄は来たと思う。

 

私は呼ばなかった。澄が自分から渡ってくるか見たかった。

 

信号は赤に戻り、澄は背を向けた。

 

その週、紗季に告白された。

 

美術室の流しは、赤や緑の絵の具で汚れていた。窓からグラウンドの照明が見えた。紗季は筆を洗いながら、私と付き合いたいと言った。冗談だと思って笑うと、蛇口を閉めて、もう一度言った。

 

嬉しかった。

 

紗季は一緒にいて楽しかった。映画の好みが合った。思ったことを言葉にするのが早く、私がごまかすとすぐに見つけた。付き合えば、日曜以外にも予定が増える。澄としたことのないことを、紗季とはできるかもしれなかった。

 

返事を待ってもらい、澄へ話した。

 

止めてほしかった。

 

嫌だと言ってほしかった。灯が決めればいい、なんて、私のことを大切にしている人みたいな返事ではなく、誰にも渡したくないと困らせてほしかった。

 

澄は言わなかった。

 

それでも紗季と付き合おうとは思えなかった。家へ帰ると、道路の向こうで雨に濡れていた澄の顔ばかり浮かんだ。

 

断ったあと、バス停へ行った。

 

五時七分に着いていた。角の壁へ背をつけ、澄を見た。澄は時刻表の前で、三度、腕時計を見た。一分目は腹が立っていた。二分目には、出ていって抱きつきたくなった。三分目になる前に、角から出た。

 

澄の顔から、ほんの少し力が抜けた。

 

その顔を見たかった。

 

ノートには、澄が腕時計を見た回数はなかった。私は三度とも覚えていた。

 

ノートの《五時九分、灯が来た》の横へ書く。

 

五時七分にはいた。二分、隠れて見ていた。

 

書き終えたとき、紗季へ連絡したくなった。

 

《起きてる?》

 

送ると、一分もせずに着信があった。

 

「起きてるけど、何時だと思ってる?」

 

「ごめん」

 

「謝るなら明日にして。どうした」

 

紗季の後ろで、映画の音がした。昔一緒に見たことのある音楽だった。

 

「今日、澄が変なものくれた」

 

「引っ越しごみ?」

 

「ノート。私のこと、十歳から書いてる」

 

音楽が止まった。紗季がテレビを消したらしい。

 

「日記?」

 

「私が自分を忘れないように、してきたこと」

 

「何それ」

 

「そういうのが六冊ある」

 

しばらく返事がなかった。

 

「私のことも書いてある?」

 

「ある」

 

「名字の字、合ってる?」

 

「そこ気にする?」

 

「高槻さん、最初の頃、河をさんずいで書いてたから」

 

私は笑った。紗季も少し笑った。先に黙ったのは私だった。

 

「私、あのとき紗季のこと、ちゃんと好きだったよ」

 

「知ってる」

 

「知ってたの」

 

「知らなかったら、告白してない」

 

「でも断った」

 

「それも知ってる。そこは忘れないよ」

 

紗季の声から映画の音が遠くなった。別の部屋へ移ったらしい。

 

「ごめん」

 

「そのごめん、今はいらない」

 

「じゃあ、何て言えばいい」

 

「私に決めさせないで。で、高槻さん、何したの」

 

九分のことを話した。

 

紗季は途中で一度、「最悪」と言った。最後まで聞いてから、もう一度言った。

 

「それは最悪」

 

「うん」

 

「私の話と混ぜないでね」

 

「混ぜてない」

 

「今、少し混ぜたから電話したんでしょ」

 

黙っていると、紗季が息を吐いた。

 

「私を断ったところまで、高槻さんにあげないで。そこは灯がやったことだから」

 

「うん」

 

「返事、軽い」

 

「分かった」

 

「それも軽い」

 

「じゃあ、どうすればいいの」

 

「知らない。怒ってるの、私も」

 

「明日、駅行くの」

 

「分からない」

 

「また私に決めさせる?」

 

「違う。顔見たら、許しそうで嫌」

 

「私は行かない。高槻さんに会いたくないから」

 

「行かなかったら、もう会えない気がする」

 

「四時間でしょ」

 

「ねえ、紗季」

 

「何」

 

「まだ、私のこと嫌い?」

 

「そういう確認を夜中にするところは嫌い」

 

「ごめん」

 

「でも電話には出る。別の話」

 

映画を再生する音がした。

 

「明日、起きたら連絡して。駅に行っても行かなくても」

 

「うん」

 

電話を切った。

 

部屋にいると、澄の窓ばかり見てしまう。上着を着て、六冊を鞄へ戻した。行き先を決めずに家を出たはずが、十二分後には八幡社の前にいた。

 

赤いポストは、塗り直されてつるつるしていた。

 

祭りへ出る朝、澄から古い鍵をもらった。

 

「何が開くの」と聞くと、「分からない」と言われた。「じゃあいらない」と返そうとしたら、澄は私の指を一本ずつ握らせた。

 

「持ってて」

 

五歳の夏、私はここへ戻るまでに屋台の間を何度も間違えた。下駄の鼻緒が切れ、裸足で砂利を踏んだ。母を呼んでも返事はなかった。巾着の中の古い鍵を握り、ポストへ着いても澄がいなかったらどうすればいいのか、それだけが怖かった。

 

澄は、ラムネを二本並べて待っていた。

 

ノートには、その二本のことが書かれている。私の足の裏から血が出ていたことは書かれていない。

 

街灯の下で五冊目を開いた。黒く塗られた九分を、もう一度見る。

 

足音がした。

 

参道脇の石垣へ身を寄せた。隠れる理由を考える前に、体が動いていた。

 

澄が歩いてきた。

 

上着の下は、部屋着のままだった。ポストの横で止まり、周囲を見る。私は石垣の影で息を止めた。

 

名前を呼ばれたら、出ていくつもりだった。

 

澄は呼ばなかった。

 

スマートフォンを見て、何かを打ち、すぐ消した。画面の光が頬へ反射した。五分ほどして、一度だけ時刻を見た。そのあとは、両手をポケットへ入れて立っていた。

 

私は、また隠れて澄の顔を見ていた。

 

十五歳の二分と違うのは、出ていけば澄が安心することを知っていたことだった。知っていて出なかった。

 

背中へ抱きつきたかった。石垣の冷たい縁を掴み、足の爪先を地面へ押しつけた。

 

澄は二時半になる前に帰った。

 

角を曲がって姿が見えなくなってから、ポストの前へ出た。澄が立っていた場所は、濡れたアスファルトに靴の跡を残していた。自分の靴を重ねてみる。爪先の向きが少し違った。

 

家へ戻り、六冊目まで読んだ。

 

最後の頁には、明日の予定が書かれていた。

 

《全部話す。灯が来なくなっても、追わない。ここから先は決めない》

 

追わない、の字だけが強かった。

 

私は余白へ何も書かなかった。

 

朝七時半、母が扉をノックした。

 

「起きてる?」

 

「寝てない」

 

「駅、どうする」

 

窓から、高槻家の前に父親の車が停まるのが見えた。澄の父が荷物を積み、母が助手席へ乗る。澄は一度、こちらを見た。カーテンの陰へ下がった私には気づかなかった。

 

「行かない」

 

母は少しだけ黙った。

 

「分かった。味噌汁、温めるね」

 

八時四十二分、机の時計の秒針を見ていた。

 

列車が動くところは、ここから見えない。発車ベルが耳に残った。聞こえるはずがないのに、次の列車が出る頃まで消えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

午後一時過ぎ、澄から《着いた》と届いた。

 

写真はなかった。部屋の広さも、荷物が無事だったかも書いていない。返事の欄に《おつかれさま》《洗濯機のコード届いた?》《朝、行けなくてごめん》と打ち、全部消した。

 

《了解》

 

それだけ送った。

 

窓を開けても、斜め裏の部屋は暗かった。《了解》の送信時刻だけが画面に残った。

 

四月一日、私は市内の設計事務所へ初出勤した。

 

住宅と小さな店舗を扱う、十人に満たない会社だった。私の机は窓から遠く、壁を背にしていた。大学の課題で描いた二人暮らしの部屋なら、澄の机を置く位置だった。

 

先輩の三木さんは、最初にコーヒーメーカーの使い方を教えた。

 

「図面は間違えても赤入れて返すけど、これ壊すと所長が泣くから」

 

「高いんですか」

 

「所長が自分で選んだから」

 

所長は聞こえていたらしく、奥から、値段も高い、と言った。

 

午前中はファイルの場所を覚えた。午後、改修図面の寸法を拾った。線種を間違え、建具を一つ数え落とし、三木さんに赤いペンで囲まれた。

 

「初日に全部できたら、私が困るから大丈夫」

 

「すみません」

 

「謝るより、ここ。窓の高さも見て」

 

「宮原さん」と三木さんに呼ばれ、二度目で返事をした。昼には同期と定食屋へ行き、帰りに名刺入れを買った。夜は家族と餃子を食べた。歯を磨いているとき、今日は一度も、灯、と呼ばれなかったことに気づいた。

 

澄がいなくても、一日は問題なく終わった。

 

風呂から上がり、机に六冊があるのを見て、ようやく息が詰まった。

 

四冊目は、大学受験の年だった。

 

私は一度、澄と同じ大学の願書を取り寄せた。そこにしかない学科へ行きたいわけではなかった。同じ駅で降り、同じ食堂を使い、課題のあとに一緒に帰れる生活が欲しかった。

 

募集要項に付箋を貼っていると、澄が自分の大学の資料を持ってきた。

 

「灯が取りたい資格、ここだと遠回りになる」

 

「取れないわけじゃない」

 

「実習先も少ない」

 

「探せばある」

 

「同じ大学に来たいだけなら、やめたほうがいい」

 

募集要項を閉じ、貼った付箋を端から剥がした。最後の一枚は途中で裂けた。

 

腹が立って、三日間連絡しなかった。その三日で、別の大学の説明会へ行った。製図室の広さと、教授が学生の模型を勝手に触らなかったことが気に入った。

 

東の大学へ願書を出したのは、私だった。

 

合格した日、澄と駅前の歩道橋で会った。互いの封筒を見せ、よかったね、と言った。風が強く、澄のマフラーが何度も顔へ掛かった。

 

私はその端を掴み、澄の手首へ巻きつけた。手袋をしていない手が出ていたので、握った。

 

澄は驚いた顔をした。離そうとはしなかった。

 

歩道橋を下りて、家まで四十分。二人とも一度も、手をつないでいることへ触れなかった。私の掌は汗ばんだ。坂道で握り直すたび、澄の親指が動いた。

 

四冊目には、日付だけが書いてあった。

 

《二月十四日。灯、東の大学に合格。帰り、手をつなぐ》

 

誰が先に握ったかも、手袋を外したのが私だったこともない。

 

余白へ、

 

私から。汗で滑った。

 

と書いた。

 

書き終える頃には、ペンを持つ掌に汗がにじんでいた。

 

五冊目の九分には、まだ書けなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初の日曜は、夕食を早く食べた。

 

八時半に風呂から出て、髪を乾かした。九時まで何かを待っている自分が嫌で、スマートフォンを台所へ置いた。母がドラマを見ていた。

 

「電話、鳴ったら教えて」

 

「誰から?」

 

「誰でも」

 

部屋へ戻り、仕事で渡された施工図を開いた。一つの寸法を三度読んだ。九時三分まで待ち、台所へ下りた。

 

画面は暗かった。

 

九時六分。冷蔵庫から麦茶を出した。九時九分、母がこちらを見た。

 

「鳴らないね」

 

「待ってないから」

 

「そう」

 

母はドラマへ視線を戻した。

 

澄から電話はなかった。

 

肩から力が抜けた。そのくせ通知欄を下まで引き、見落としがないか確かめた。コップを置くと、麦茶が縁からこぼれた。

 

翌朝、金魚柄の巾着を仕事用の鞄へ移そうとして、薄い封筒を見つけた。

 

四月十九日、六時十四分発。十時二分着。

 

澄にノートを見せられる二週間前、駅で買った切符だった。

 

新居の住所を教えられた夜に、乗換案内を調べた。行くとは言わず、突然改札に立って驚かせるつもりだった。午前中に着き、一泊し、日曜の午後に帰る。澄の好きなカレー店も、新居から駅までのバスも調べていた。

 

机の引き出しへ切符を入れた。

 

払戻しは前日までできる。今日決める必要はなかった。

 

仕事では、三木さんと初めて現場へ出た。改修前の喫茶店は、床に椅子の跡を残していた。図面では直角の壁が、端から端までに三センチずれている。

 

「古い建物、まっすぐだと思わないでね」

 

三木さんに言われ、同じ場所をもう一度測った。数字は変わらなかった。三木さんは「そういうもの」と笑って、野帳に三センチと書いた。

 

昼休み、五冊目を開いた。

 

黒い九分の次には、翌週の通話が書かれている。

 

《二分五十秒前に返事。灯は普通。先週のことを疑っていない》

 

普通ではなかった。

 

私は翌週、八時五十分からスマートフォンを手に持っていた。澄の返事が早すぎて、かえって妙だと思った。それでも、疑う自分が嫌で、声が聞こえた途端に何も言えなくなった。

 

その下へ書く。

 

疑った。信じたかったから聞かなかった。

 

九分の頁に戻る。

 

終電はなかった。朝六時五分なら行けた。

 

ようやく書けた。

 

文字を囲まなかった。線も引かなかった。

 

昼休みの終わりを告げる内線が鳴った。ノートを閉じると、指の腹に黒い粉がついていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二週目の金曜、紗季と映画を見た。

 

高校生の頃に通った小さな映画館は、座席を新しくしていた。肘掛けが前より広く、隣と腕が触れない。上映後、紗季は一言も感想を言わず、駅前のうどん屋へ入った。

 

「面白くなかった?」と私が聞いた。

 

「灯が上の空だった」

 

「見てたよ」

 

「主人公の名前」

 

「……男の人」

 

「見てないじゃん」

 

紗季は七味を振り、私の顔を見た。

 

「切符、どうした」

 

電話で話してあった。

 

「まだある」

 

「来週でしょ」

 

「うん」

 

「行けば」

 

「簡単に言うね」

 

「行くのと許すの、別でしょ」

 

「会ったら、そうできないかもしれない」

 

「じゃあ、許したくないの」

 

うどんの湯気が目へ入った。私は箸で葱を沈めた。

 

「まだ腹が立ってる」

 

「それは見れば分かる」

 

「でも、会いたい」

 

「それも見れば分かる」

 

「何でも分かるみたいに言わないで」

 

声が強くなった。

 

紗季は箸を置いた。

 

「ごめん」

 

すぐに謝られ、私のほうが困った。

 

「私、今、澄に言われたみたいに聞こえた」

 

「それはもっとむかつく」

 

「ごめん」

 

「二回目はいい」

 

紗季はまたうどんを食べた。しばらくしてから、器を見たまま言う。

 

「会いたいなら、それだけ送ったら。怒ってることまで文章で全部片づけなくていいじゃん」

 

「驚かせるつもりだった」

 

「今それやったら怖いよ」

 

「分かってる」

 

店を出ると、風が暖かくなっていた。駅前の桜は半分散り、濡れた歩道へ花びらが貼りついていた。

 

帰宅して、机から切符を出した。

 

《十九日、十時二分に着く。都合が悪ければ言って》

 

送る。

 

一分経った。既読がついた。

 

返事はすぐに来なかった。

 

三分で胸がざわついた。六分で、自分が時刻を数えていることに気づいた。スマートフォンを伏せる。

 

七分目に、短く震えた。

 

《分かった。改札にいる》

 

それから、もう一通。

 

《会いたい》

 

私は《私も》と打った。

 

送るまでに、十分かかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十九日の朝、母が駅まで送った。

 

「帰りは何時?」

 

「明日の三時くらい」

 

「泊まるの」

 

「そのつもり」

 

母は、改札の上に出ている発車案内を見た。何か言いかけ、やめた。

 

「何」

 

「澄ちゃんのお母さんには言ってないよ」

 

「言わないでよ」

 

「言ってないって」

 

母は笑い、売店で買ったおにぎりを二つ寄越した。梅と昆布だった。私が子どもの頃から選ぶ味で、澄はどちらも自分では買わない。

 

「行ってらっしゃい」

 

「うん」

 

六時十四分の列車へ乗った。

 

鞄には着替えと、六冊のノートと、金魚柄の巾着を入れてある。古い鍵が、歩くたびに鉛筆へ当たった。

 

発車してすぐ、紗季から《乗った?》と来た。

 

《乗った》

 

《映画の主人公、横井だから》

 

《覚えた》

 

《嘘。忘れていい》

 

窓の外へ、まだ人の少ないホームが流れた。

 

眠ろうとしたが、眠れなかった。澄へ言うことを頭の中で並べる。九分。二分。ノートに私の道がないこと。会いたかったこと。順番を変えては、どれも人から借りた言葉のように聞こえた。

 

途中の駅で親子が乗ってきた。女の子が窓側を欲しがり、父親と席を替わった。お菓子の袋を開ける音がして、車内にバターの匂いが広がる。私は母のおにぎりを食べた。梅は酸っぱく、海苔が上顎へ貼りついた。

 

窓の外の屋根が途切れ、山になり、また住宅へ戻った。四時間後、列車は一分も遅れず着いた。

 

十時二分、改札を出た。

 

澄は、柱の横に立っていた。

 

一か月前より髪が短い。灰色のシャツは初めて見るものだった。私を見つけると一歩出て、すぐ止まった。

 

「来た」

 

言ってから、もっと他にあったと思った。

 

「うん」

 

澄は私の鞄を見た。

 

「持つ?」

 

「いい」

 

「重いでしょ」

 

「澄のノートが入ってるから」

 

澄は手を下ろした。

 

駅前には、低いビルと広い道路があった。中央分離帯を路面電車が走っている。澄の家の近くにはない音でベルが鳴った。

 

「バス、あと六分」

 

澄が歩き出す。時刻を調べてある声だった。

 

「路面電車じゃないの」

 

「途中で乗り換える。荷物あるからバスのほうが楽」

 

「持たせてもくれないのに」

 

澄がこちらを見た。私は自分でも、冗談を言ったのか責めたのか分からなかった。

 

「持っていい?」

 

「今はいい」

 

バス停へ並んだ。

 

車内で二人掛けに座ると、肩が触れた。離れようと思えば離れられる程度だった。澄は窓の外を見ながら、新しい会社のある方向や、先週測った河川敷の話をした。川が増水した跡は、植生の色で分かるらしい。聞いたばかりの川の名をもう一度尋ねると、澄は指摘せず、同じ名を答えた。降りるまで肩はそのままだった。

 

住宅街で降り、五階建ての建物へ入った。階段の踊り場に、自転車の空気入れが置かれている。二階のいちばん奥が、澄の部屋だった。

 

玄関脇に、段ボールが一箱残っていた。

 

《新居・すぐ開ける》

 

私の字だった。

 

「一か月経ってるけど」

 

「なくても困らなかった」

 

「延長コードは」

 

「届かなかった」

 

「夕飯」

 

「おごる」

 

「今日?」

 

「昼でもいい」

 

「話、する前に?」

 

澄は靴を脱いだまま止まった。

 

「先にする?」

 

「聞かないでよ」

 

「でも——」

 

「ごめん。今の、澄が悪いんじゃない」

 

来て五分で、もう疲れていた。澄も同じらしく、玄関の壁へ一度背をつけた。

 

「とりあえず、入って」

 

部屋は、内見の写真より狭く見えた。机と小さな本棚、ベッド。カーテンは青ではなく生成りだった。冷蔵庫の扉を開けると、牛乳が下段にあり、卵の賞味期限が見える向きで揃っていた。

 

「何してるの」

 

「変わってないと思って」

 

「何が」

 

「卵」

 

澄は冷蔵庫を覗き込み、少し笑った。

 

斜め裏の部屋にいたときと同じ笑い方だった。私の口も先に笑いかけた。頬の内側を噛んで止めると、澄の笑顔も消えた。

 

「箱、開ける」

 

カッターを借りた。ガムテープへ刃を入れる。中には延長コード、タオル、台所用のスポンジ、私が荷造りの途中で放り込んだ小さな缶があった。

 

「これ、何」

 

澄が缶を開けた。

 

中から、錆びたヘアピンと、白いボタンと、丸めたバスの整理券が出てきた。どれも私のだった。

 

「何で入ってるの」

 

「私が聞きたい」

 

思い出した。澄の机に溜まっていた細かいものを、捨てていいか一つずつ聞くのが面倒になり、缶ごと箱へ入れた。

 

「返してもらったやつ」

 

「いつの整理券?」

 

「分かんない」

 

澄は裏を見た。日付は印字されていたが、薄くて読めなかった。

 

「捨てる?」と聞かれた。

 

「澄が決めて」

 

「灯のものだけど」

 

「もう澄にあげた」

 

「いつ」

 

「今」

 

澄は困った顔で缶を閉め、本棚の一番下へ置いた。

 

二人で延長コードをつなぎ、タオルを洗濯機へ入れた。澄は端と端だけを洗濯ばさみで留める。風で真ん中が膨らみそうだったので、私は一つ足した。

 

「お腹空いた?」

 

「おにぎり食べた」

 

「じゃあ、お茶にする」

 

「うん」

 

マグカップは一つしかなかった。澄は自分の分をグラスへ注いだ。

 

「買わなかったの」

 

「来るか分からなかったから」

 

「誰も来なくても二つくらい使うでしょ」

 

「洗えば一つで足りる」

 

「そういうところ、新しい会社で嫌われてない?」

 

澄は今度こそ笑った。私も笑った。

 

笑い終えると、部屋が静かになった。

 

私は鞄から六冊を出し、机へ重ねた。

 

「全部読んだ」

 

澄はグラスを置いた。

 

「うん」

 

「書いた」

 

「何を」

 

「私が覚えてること」

 

一冊目を渡す。

 

澄は最初の頁を開き、私の字を見た。

 

屋台を二度まちがえた。足の裏から血が出た。

 

読み終えても、すぐに次へ進まなかった。

 

「知らなかった」

 

「話してないから」

 

「痛かった?」

 

「五歳だよ。覚えてない」

 

「書いてある」

 

「血が出たのは覚えてる。痛さは忘れた」

 

澄は頁の端を持ったまま、私を見た。

 

「ごめん」

 

「何に謝ってるの」

 

「待ってただけで」

 

「五歳の澄に謝られても困る」

 

「うん」

 

澄は次の頁へ進んだ。図書館の水のコップ。雨のバス停。五時七分。歩道橋で私から手を握ったこと。

 

字を追うたび、澄の眉が少しずつ寄った。

 

「二分、いたの」

 

三冊目で止まった。

 

「いた」

 

「何で出てこなかったの」

 

「澄がどんな顔するか見たかった」

 

「……そう」

 

「同じだった、とは言わないよ」

 

澄が顔を上げた。

 

「同じじゃない」

 

「分かってる」

 

「灯の二分で、私は怖い目に遭ってない」

 

「分かってるって」

 

「ごめん」

 

「すぐ謝らないで」

 

「じゃあ、何て言えばいい」

 

「分かんない」

 

自分の声が大きくなった。澄は黙った。

 

「黙らないで」

 

「二分、嫌だった」

 

私は瞬きをした。

 

「今さら?」

 

「今、知ったから」

 

「じゃあ、怒れば」

 

「怒ってる」

 

澄の声が少し震えていた。

 

「でも、九分と同じじゃない」

 

「比べなくていい」

 

「比べたくないから言ってる」

 

「……うん」

 

マグカップの茶は冷めていた。一口飲んで顔をしかめると、澄も自分のグラスへ口をつけた。

 

澄は五冊目を開いた。

 

黒い油性ペンの下に、私が書いた時刻がある。

 

終電はなかった。朝六時五分なら行けた。

 

澄は、そこから目を動かさなかった。

 

「来るつもりだったの」

 

「分からない。乗換案内を見ただけ」

 

「朝の列車まで」

 

「何かあったと思ったから」

 

「うん」

 

「それ、やめて」

 

一か月前と同じことを言った。澄は、うん、と言いかけて口を閉じた。

 

「あの九分、長かった?」

 

澄が聞いた。

 

「長かったよ」

 

「私も」

 

「待たせたほうが言う?」

 

「言わないほうがいいと思う。でも、短かったって嘘つきたくない」

 

「何考えてたの」

 

澄は五冊目を閉じた。表紙の角を親指で押す。

 

「最初は、もう一通来たら、まだ私のことを待ってるって思える気がした」

 

「一通来た」

 

「来たら、電話もかかってくるか見たくなった」

 

「かかってきた」

 

「鳴ってる途中で、出なきゃって思った。でも、三分見てたことを言えなくて、鳴り終わるまで動けなかった」

 

「二回目は?」

 

「灯の声を聞いたら、嬉しかった」

 

呼吸が浅くなり、舌の裏に金属の味がした。

 

「私、泣きそうだったんだよ」

 

「うん。だから、嬉しかった自分が嫌だった」

 

「嫌だったら、いいの」

 

「よくない」

 

「じゃあ、どうしてノートに書いたの」

 

「書かなかったら、後で、三分しか待ってないことにすると思った」

 

「九分だよ」

 

「そう。だから書いた」

 

澄の親指の爪が、表紙の紙を白くしていた。

 

「見せるつもりだった?」

 

「あのときは、なかった」

 

「じゃあ、何で今」

 

「このまま離れたら、灯が知らない私だけ、ずっとこっちにいるから」

 

「知らないままのほうがよかったかも」

 

「うん」

 

「私は、澄がスマホを見てたって知らなかった。澄は、私が終電調べたって知らなかった。知らないことなんて、これからもあるよ」

 

「ある」

 

「それが怖いたびに、試すの」

 

「もうしないから」

 

「どうしてそう言えるの」

 

「言えない」

 

「え」

 

「したくならないとは、言えない。次は灯に言う」

 

「何て?」

 

「電話、もう一回かけてほしい、とか」

 

「そんなこと言える?」

 

「今は言えた」

 

笑い声が喉で詰まった。澄も、口元を少し歪めた。

 

手の甲に一滴落ちた。止めようとすると次も出た。私は顔を背けた。

 

「ごめん」と澄が言った。

 

「今は言っていい」

 

「ごめん」

 

「遅い」

 

「ごめん」

 

「一回でいい」

 

ティッシュ箱を差し出され、二枚取った。澄は近づかなかった。触らないでと言った夜を、まだ守っている。

 

泣き止むまで、冷蔵庫が何度か動いた。外の廊下を子どもが走り、隣の部屋で掃除機が鳴った。

 

顔を拭き、六冊を自分の側へ引き寄せる。

 

「九分のことだけじゃない」

 

「うん」

 

「このノート、ずっと、澄が何をしたかしか書いてない」

 

一冊目を開いた。

 

「鉛筆を置いた。ポストで待った。雨の日に何も言わなかった。別の大学を勧めた。そうしたら私が来た、思い出した、戻った」

 

澄は、私の書き足した余白を見た。

 

「私がどこから来たか、ない」

 

「見えなかったから」

 

「そう。見えなかったんだよ」

 

澄は、私が書き足した裸足の頁へ戻った。

 

「なのに、来たところだけ丸で囲った」

 

「してた」

 

言い切られ、続きが止まった。

 

「灯が来るたび、自分がうまくやったからだと思ってた。そう思えば、次も同じようにできるから」

 

「私が行きたくなくても?」

 

「そういう日は来なかったから」

 

「あったよ」

 

澄の顔が固くなった。

 

「図書館に行かないで、家でテレビ見たかった日もあった。バス停で待たせようと思った日もあった。大学、同じところにすればよかったって、澄に腹が立った日もあった」

 

「知らなかった」

 

「それでも行ったの」

 

「どうして」

 

「会いたかったから」

 

澄は私を見たまま、動かなかった。

 

言わせたかった言葉を、先に言ってしまった。

 

「今も」と続けた。「腹が立ってるのに、切符を買って、四時間乗ってきた」

 

「いつ買ったの」

 

「ノートを読む前」

 

「じゃあ、私が——」

 

「違う」

 

澄が口を閉じた。

 

「続きを言わないで」

 

「言わない」

 

「会いたかったから」

 

「会いに来てくれて、嬉しい」

 

洗濯機が終了を知らせた。

 

誰も動かなかった。二度目の音が鳴り、私は鼻をすすった。

 

「タオル、しわになる」

 

「もうなってる」

 

立つと、足が痺れていた。澄が手を伸ばしかける。私はその手を掴んだ。

 

一か月ぶりに触れた掌は、思っていたより乾いていた。

 

澄が息を止めた。

 

「立つだけ」

 

「分かってる」

 

「分かってるって言っていいとき」

 

「難しい」

 

「難しいよ」

 

手を借りて立った。すぐに離すつもりだったのに、指が動かなかった。澄も握り返さず、逃がしもしなかった。

 

「ねえ」と私が言った。

 

「うん」

 

「私のこと、好きなの」

 

澄の指が、わずかに動いた。

 

「それとも、私に好きでいてほしいの」

 

「どっちも」

 

答えは早かった。

 

「ずるい」

 

「片方だけじゃない」

 

「十歳のときから?」

 

「十歳のときは、次の日曜も来てほしかった」

 

「今は」

 

「次の日曜だけじゃ足りない」

 

「また、足りないって言う」

 

「言う。今度は灯に」

 

「私は分かる」

 

「いつ」

 

「教えない」

 

澄が眉を寄せた。

 

「ノートに書けないから?」

 

「もう書かない」

 

「七冊目、ないの」

 

「買ってない」

 

「そう」

 

本棚の端まで見た。青い背表紙はなかった。手を離した。

 

「六冊は、まだ私が持ってていい?」

 

「いい」

 

「書き終わってないから」

 

「うん」

 

「読みたいときは貸す」

 

「私のノートなのに」

 

「私のことが書いてある」

 

「そうだね」

 

澄は取り返そうとしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昼をずいぶん過ぎていた。

 

澄が賭けに負けたカレーをおごると言い、二人で外へ出た。地図で見つけた店には、五人ほど並んでいた。

 

「待つ?」と澄が聞いた。

 

「何分」

 

二人とも黙り、それから笑った。

 

列の後ろへ並んだ。

 

カレーは思っていたより辛かった。澄は一口ごとに水を飲み、私は途中で卵を追加した。話したのは、仕事のことだった。澄は河川敷で靴を泥に埋め、同僚に引き抜いてもらったらしい。私は三木さんのコーヒーメーカーと、三センチずれていた喫茶店の壁の話をした。

 

帰りにマグカップを買った。色違いを選びかけ、私は白を一つだけ取った。

 

「同じでいいの」と澄が聞いた。

 

「私のって書くから」

 

「ここに置くの」

 

「嫌?」

 

「嬉しい」

 

レジへ持っていく。澄が払おうとしたので、自分で払った。

 

部屋へ戻り、油性ペンで底に《灯》と書いた。洗えば薄くなる。消えたらまた書けばいい。

 

夕方まで、段ボールを畳み、本棚の位置を少し変えた。タオルは真ん中まで乾いていた。六冊は、ベッドの横に置いた私の鞄へ戻した。

 

空が暗くなる頃、澄が机の引き出しを開けた。

 

小さな白い封筒を出す。

 

「渡そうと思ってたものがある」

 

中には鍵が一本入っていた。

 

「いつ作ったの」

 

「部屋を決めた日」

 

「ノートを見せる前」

 

「うん」

 

「私が来ると思ってた?」

 

澄は鍵の刻みを親指で一度撫でた。

 

「来てほしかった。来ると思うことにしてた」

 

「今は?」

 

「渡したい。でも、持っててとは言えない」

 

私は金魚柄の巾着から、古い鍵を出した。丸い頭に、読めない数字が刻まれている。新しい鍵をその横へ載せると、長さが少し違った。

 

「借りる」

 

「うん」

 

「返したくなったら、返す」

 

澄が頷いた。

 

「澄も、返してほしくなったら言って」

 

「たぶん言わない」

 

「決めつけないで」

 

「……今は、言いたくない」

 

「それならいい」

 

新しい鍵を巾着へ入れた。古い鍵と触れ、小さな音がした。

 

「まだ、許してないから」

 

「うん」

 

「電話に出ないだけで、疑うかもしれない」

 

「疑っていい」

 

「よくないよ」

 

「じゃあ——」

 

「今、うまいこと言おうとしないで。疑ったら、そのとき喧嘩する」

 

「喧嘩するの」

 

「するよ」

 

「分かった」

 

澄は言ってから、少し迷った。

 

「今のは、言っていい?」

 

「いい」

 

「難しい」

 

「だから練習するんでしょ」

 

「うん」

 

部屋の照明をつけると、窓に二人が映った。肩が触れそうで触れていない。

 

「触っていい?」

 

澄が聞いた。

 

「どこ」

 

「手」

 

「そこからなんだ」

 

「嫌なら——」

 

私は澄の手を取り、自分の頬へ当てた。

 

掌が冷たかった。絆創膏の剥がれた中指を、その上へ重ねる。澄は私の頬を撫でず、触れた場所へ置いたままにした。

 

「澄」

 

「うん」

 

「キスしたい」

 

澄の瞳が動いた。私は手を離さず、返事を待った。

 

「私も」と澄が言った。

 

近づくと、鼻先がぶつかった。どちらからともなく少し笑い、笑ったせいで息が合わなくなった。最初に触れた唇は短かった。

 

離れたあと、澄が目を開けた。

 

「もう一回していい?」

 

「聞くんだ」

 

「聞く」

 

「いいよ」

 

二度目は、急がなかった。

 

澄の指が頬から耳の後ろへ動いた。私はシャツの袖を掴んだ。嬉しいのに、九時九分の画面が一瞬浮かんだ。体が固くなる。

 

澄はすぐに離れた。

 

「ごめん」

 

「違う。嫌じゃない」

 

「でも」

 

「思い出しただけ」

 

「うん」

 

「今は、離れないで」

 

澄の腕が、ゆっくり背中へ回った。

 

抱きしめられたのは、五歳の祭り以来かもしれなかった。あのときは私が先にしがみつき、澄は痛いと言った。今は、どちらも何も言わなかった。

 

澄の肩は細く、背中へ回った腕にはまだ迷いがあった。九時九分の画面は消えなかった。それでも私は腕をほどかず、澄の肩へ額をつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その夜、これからの日曜の通話を何時にするかは決めなかった。

 

寝る前、スマートフォンの残量が八パーセントになった。澄に充電器を借り、机の上へ置く。コードはベッドまで届かなかった。

 

澄が床に布団を敷こうとしたので、ベッドへ入れた。狭い、と言いながら背中合わせに横になる。灯りを消しても、知らない街の車の音が窓から入った。

 

「寝た?」と澄が聞いた。

 

「まだ一分も経ってない」

 

「そう」

 

「時計見た?」

 

「見てない」

 

「えらい」

 

「馬鹿にしてる?」

 

「少し」

 

布団の中で笑った。しばらくして、背中に澄の呼吸が当たる間隔が長くなった。

 

私は振り返った。

 

澄は目を閉じていた。眠っているのか確かめず、掛け布団を肩まで上げた。

 

朝、先に起きたのは澄だった。

 

台所から卵を割る音がした。私はベッドの横で六冊を鞄へ詰めた。金魚柄の巾着を振ると、二本の鍵が鳴った。

 

朝食を食べ、駅まで一緒に戻った。

 

改札前で、澄は時刻表を見なかった。私が帰りの列車を告げると、一度だけ頷いた。

 

「次、いつ会う」と澄が聞いた。

 

「来月の勤務、まだ出てない」

 

「出たら教えて」

 

「澄の休みも」

 

「教える」

 

改札を通り、ホームへ下りる階段の前で振り返る。澄は同じ場所にいた。手を振ると、少し遅れて振り返した。

 

ホームへ着いたところで、スマートフォンがないことに気づいた。

 

充電器へ挿したままだ。

 

発車まで二十五分あった。澄へ知らせようにも、その端末がない。階段を駆け上がり、改札の駅員に事情を話して外へ出た。

 

バスを待てず、タクシーへ乗った。

 

建物の階段を上がり、二階の廊下でインターホンへ手を伸ばす。

 

金魚柄の巾着が、鞄の口から見えた。

 

新しい鍵を出す。

 

古いほうと一度間違えた。二本を掌へ並べ、長いほうを鍵穴へ差した。

 

回すと、扉が開いた。

 

澄は、洗ったマグカップを拭いていた。私を見て、目を丸くする。

 

「忘れ物」

 

「何」

 

「スマホ」

 

「駅は?」

 

「次ので帰る」

 

澄は布巾を置いた。

 

「鍵、使った」

 

「うん」

 

「開いた?」

 

「開いたよ」

 

笑うと、澄も布巾を握ったまま笑った。

 

机の上で、スマートフォンが満充電になっていた。抜いて鞄へ入れる。澄は玄関まで来て、靴を履かずにそこに立った。

 

「じゃあ、今度こそ」

 

「うん」

 

扉を閉める前に、澄の手を一度握った。

 

鍵は返さなかった。


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