五歳の夏、高槻澄は近所に住む宮原灯へ、一本の鍵を「お守り」として渡した。
それから十七年。決まった時刻の帰り道、雨の日の傘、夜九時の通話。灯の暮らしに自分が残り続けるよう、澄は偶然に見える習慣を一つずつ置いていく。
二人は大人になった。
二十二歳の夏、澄は六冊のノートを灯に差し出す。
これは選ばれるために十七年を組み立てた少女と、彼女を選び続けていた少女の小話。
一身上の都合で、最近ハーメルンで投稿できてませんでした。
灯に六冊のノートを渡すと決めた夜、私たちは鍋の蓋を探していた。
「平たい箱、もう閉じた?」
「まだ」
「じゃあ、そっち」
灯は畳んだ段ボールの山を顎で示した。私の部屋なのに、荷物のありかは朝から手伝っている灯のほうが把握していた。私はガムテープを歯で切ろうとして、やめる。さっき同じことをして、灯に汚いと言われたばかりだった。
三月最後の日曜だった。明日の朝八時四十二分の特急に乗れば、斜め裏の宮原家も、楠ヶ丘分館も、八幡社の赤いポストも、列車で四時間の場所になる。
六冊の青いノートは、クローゼットの奥に残してある。
捨てる本と持っていく本。冬物と、もう着ない服。新居ですぐ開ける箱。ひと月は開けなくていい箱。荷物なら分けられた。ノートだけは、どこへ入れても違う気がして、朝から同じ場所に置いたままだった。
「これ?」
灯が、ベッドの下からステンレスの蓋を引きずり出した。鍋より一回り小さい。
「それはフライパン」
「蓋から見て、どっちも鍋でしょ」
「鍋は深いほう」
「澄のそういうところ、新しい会社で嫌われそう」
「蓋の名前で?」
「蓋の名前を訂正するところで」
灯は笑いながら、蓋を箱へ入れた。髪を耳に掛ける指に、細い紙傷があった。段ボールで切ったのだろう。消毒液は洗面所の棚、絆創膏は机の二段目にある。言いかけて、黙った。灯は自分の指くらい自分で見られる。
朝から、黙らなくていいことばかり黙っていた。
「ねえ」
呼ぶと、灯は箱の底へ新聞紙を敷いたまま顔を上げた。
今から、十七年間のことを話したい。言い方を考えてきた。ノートの最後には、話す順番も書いた。けれど、灯の頬にガムテープの切れ端がついているのを見つけてしまった。
「そこ」
自分の頬を指すと、灯は逆側を擦った。
「そっちじゃない」
手を伸ばした。爪の先で剥がせるほどの紙片だったのに、頬へ触れた指を、すぐには引けなかった。灯も動かなかった。
階下で、母が食器棚を閉めた。
私は紙片を丸めて、ごみ袋へ落とした。
「何?」と灯が聞いた。
「ガムテープ」
「それじゃなくて。さっき、何か言おうとしたでしょ」
「あとで」
「今日の澄、あとでが多い」
灯は追及せず、箱の底で浮いた新聞紙の角を、爪の先で何度も押さえた。
インターホンが鳴った。
母が玄関で応対する声に、別の女の声が重なった。灯が立ち上がるより先に、部屋の戸が二度ノックされた。
「差し入れ。あと、借りてたの」
河合紗季が、紙袋と一冊の文庫本を持って入ってきた。薄い緑の傘を廊下に立て掛け、勝手知ったように段ボールを跨いだ。
「まだ終わってないじゃん」
「見れば分かる」と灯が言った。
「昨日、余裕って言ってたの誰?」
「澄」
「言ってない」
「顔で」
紗季は私を見て、納得したように頷いた。紙袋から、商店街の肉屋のコロッケを三つ取り出す。揚げた油の匂いが、段ボールと埃の匂いを押しのけた。
「高槻さん、向こうでちゃんとご飯食べる?」
「食べる」
「その返事、食べない人のやつ」
「冷蔵庫に卵を入れる向きまで決めてる人だよ。食べるよ」
灯はそう言い、コロッケを一つ私へ渡した。私がソースを探す前に、小袋も掌へ載せる。いつも私がかける量より多かった。
紗季は窓際へ腰を下ろした。窓の外では、裏庭の金網が夕方の雨に濡れていた。その向こうに宮原家の二階が見える。灯の部屋のカーテンは開いていた。今日まで、夜になればあそこに明かりがついた。
「明日、駅まで行くの?」紗季が灯に聞いた。
「行くよ」
灯はコロッケを食べながら答えた。私の喉で、まだ飲み込めていない一口が止まった。
「何時?」
「八時二十分には着く。ホームまで入るから」
「私も行こうかな」
「紗季、朝弱いじゃん」
「だから、今来たの。別れって前の日に済ませても有効でしょ」
紗季は文庫本を私に差し出した。二年前、灯と映画を見に行った帰りに買ったという本だった。灯が貸し、紗季が私へ回した。三人の間を一年以上かけて一周したことになる。
「面白かった」と紗季が言った。
「どこが」
「そういう感想文みたいなの、いらないから」
灯が吹き出した。
文庫本を受け取ると、表紙の内側に薄い染みがあった。紗季の部屋でついたものか、灯の家でついたものか、私には分からなかった。染みの縁を親指で一度なぞり、本を閉じた。
高校一年の六月にも、紗季は同じ色の傘を持っていた。
雨のバス停で灯の肩へ傘を傾け、二人で一枚の画面を見て笑っていた。私は道路の反対側に立っていた。信号が変わるまでに、灯が三度、紗季の名を呼んだ。河合さんではなく、紗季、と。
青信号になっても、私は渡らなかった。
その夜のノートには、まず《河合紗季》と書いた。文字の上を何度もなぞり、紙が毛羽立った。翌週、灯が彼女に告白されたと聞いた。何と答えるのか尋ねると、灯は止めてほしい人みたいな顔をした。
止めて、と言えばよかった。
口から出たのは、《灯が決めたらいい》だった。
翌々日、灯は紗季を断った。五時九分、バス停へ現れた。二分遅れた理由を聞かなかった。だからノートには、《待てば戻る》と書いた。
今、窓際の紗季は、衣の剥がれたコロッケを器用に紙で受けながら灯へ言った。
「明日の朝、泣く?」
「誰が」
「二人とも」
「泣かないよ。四時間だし」
「時間の問題なんだ」
「紗季は黙って食べて」
灯が笑っている。紗季も笑った。私はうまく笑えなかった。
四時間だから、灯は明日も駅へ来る。四時間だから、一か月後にも会える。私は、灯が改札にいる朝と、いない朝を交互に思い浮かべた。
紗季はコロッケを食べ終えると、荷造りを手伝うと言って、机の上のペンをまとめ始めた。油のついた指で触らないで、と灯がその手を叩く。紗季は大げさに痛がった。
三人でいるとき、灯は私をあまり見なかった。私は、紗季へ向けられた灯の横顔ばかり見た。
「これ、持っていく?」
紗季が、机の奥から短い青鉛筆をつまみ上げた。私のイニシャルを彫ったものだった。小学生の頃、楠ヶ丘分館で灯が使っていた。
「捨てる」と答える前に、灯が取った。
「私の」
「高槻さんのS、入ってるけど」
「借りたままだから」
「十五年?」
「利息がついて私のになった」
灯は鉛筆を、持ってきた金魚柄の巾着へ入れた。擦り切れて色の薄くなった布の中で、硬いものと当たった。
金属の乾いた音がした。
「まだ入ってるんだ、それ」と紗季が言った。
「何が」
「開かない鍵。中学のとき見せてもらった」
「捨てる理由ないから」
「開かないのに?」
「鍵ではあるでしょ」
灯は巾着の口を結び直した。紐を絞る前、鍵の下から薄い封筒の角が覗いた。私には何も聞かなかった。持っていてほしいと言った五歳の朝から、一度も。
紗季が帰るとき、灯も玄関まで送った。私は部屋に残り、窓から二人を見る。雨はほとんど上がっていた。紗季は傘を開かずに門を出た。灯が何か言い、紗季が振り返って、灯の額を指で弾いた。
灯は紗季の手を払い、笑った。
私は、短くなったコロッケのソース袋を、指の間で丸めた。
机の引き出しを開ける。空にしたはずの二段目から、新品の絆創膏が一枚出てきた。灯の指の紙傷を思い出した。持って階段を下りかけ、やめた。二人が話しているところへ、たった一枚の絆創膏を理由に入っていく自分が嫌だった。
窓からもう一度見ると、紗季は角を曲がっていた。灯が一人で戻ってくる。
私は階段の途中で待った。
「指」
絆創膏を差し出すと、灯は傷を見た。自分でも忘れていたらしい。
「これくらい平気」
「段ボール、汚いから」
「澄、さっき歯でテープ切ろうとしてたけど」
「それとこれは別」
灯は受け取らず、傷のある指を私へ向けた。
「貼って」
廊下の照明は、部屋より暗かった。台紙を剥がし、灯の中指へ巻く。皮膚を引かないようにすると、絆創膏の端が少し斜めになった。
「下手」
「自分でやればよかったでしょ」
「澄が持ってきたんじゃん」
灯の指を離したあと、同じところに自分の指の熱が残った。灯は一階へ降りず、私の横をすり抜けて部屋へ戻った。髪から、雨と、いつも家で使っているシャンプーの匂いがした。
さっき頬に触れたばかりなのに、もう一度触りたかった。
六冊のノートが、クローゼットの扉一枚を挟んで待っていた。
夕飯は四人で食べた。
母は灯の分まで鯖を焼いていた。父は、私が向こうで使う電子レンジについて、五分おきに同じ注意をした。空焚きをするな。上に物を置くな。延長コードは使うな。私は一度ずつ返事をし、灯は三度目から私の代わりに頷いた。
「灯ちゃん、明日の朝も来てくれるんだって?」母が言った。
「はい。ホームまで行きます」
「悪いねえ。平日なのに」
「まだ仕事始まってないので」
「帰り、うちの車で送るから」
「歩いて帰れますよ」
母と灯は、私のいない明日の朝の話を続けた。父が鯖の骨を皿の端へきれいに並べている。テレビでは、週の後半に桜が咲くと言っていた。
八時二十分。私は、灯が来なかった場合に、父へどこまで荷物を運んでもらうかまで考えていた。まだ何も話していないのに。口の中のご飯を、水で流し込んだ。
「向こうで寂しくなったら、いつでも帰ってくればいいからね」
母が私へ言うと、灯が箸を止めた。
「四時間かかるのに、いつでもは無理でしょ」と私は言った。
「言葉のあやよ」
「帰ってきてほしいって言えばいいじゃん」
「はいはい。帰ってきてほしいです」
母は笑った。灯は箸を置いたまま、私を見ていた。
「何」
「別に」
何か言いたそうな顔だった。今なら聞けたのに、父が味噌汁をこぼした。母が台布巾を取り、灯が椀を持ち上げ、話はそこで切れた。
夕食のあと、二人で部屋へ戻った。灯は最後の箱に《新居・すぐ開ける》と書いた。字の最後が少し右上がりになる。何を入れたか尋ねると、延長コードとタオルと答えた。
「延長コード、父さんが使うなって」
「洗濯機の横ならいるよ」
「図面では届いてた」
「内見で測ったの私だけど」
「写真から計算した」
「じゃあ、賭ける?」
灯は油性ペンを置いた。
「届かなかったら?」
「私が夕飯おごる」
「届いたら?」
「灯が」
「どこで」
新居の近くに、灯が食べたがっていたスパイスカレーの店があった。内見の日、地図を送ると、物件より先に見つけた店だった。
「向こうで」と言うと、灯は少し間を置いた。
「行くことになってるんだ」
「来ないの」
「行くよ」
灯はペンの蓋を、片手で強く押して閉めた。
「そのうち」
約束にしたかった。第三土曜、十時二分の列車。そんなふうに決めれば、来る日までの時間を数えられる。口に出しかけたところで、九時を告げるアラームが鳴った。
机に伏せていたスマートフォンが、箱の間で震えた。
灯と私は同時に画面を見た。
《日曜 灯》
大学二年から、週に一度の通話を忘れないために設定した名前だった。三年経っても消していなかった。普段は通話が先に始まるので、鳴る前に止めている。
「まだそれ使ってたんだ」
「消し忘れ」
画面に触れる指が滑った。止めたあとも、掌の中で振動が続いている気がした。
「私、なくても忘れないけど」
「私が忘れる」
「澄が?」
「仕事してたら、時間見るの忘れることあるから」
「へえ」
灯の「へえ」は、一音ぶん長かった。
二年前の秋、私は市外の調査会社へ半年間の実習に出た。
借りた部屋には、幅の狭いベッドと、電気コンロが一口だけあった。初めの一週間は、換気扇の音が自分の家と違うせいで眠れなかった。灯とは日曜の九時に電話をした。毎日ではなかった。毎日なら、話すことがない日まで無理に埋めることになる。週に一度なら、七日分の生活を持ち寄れた。遅れる日は八時半までに連絡する。決めた覚えはないのに、半年のあいだ、どちらも一度も破らなかった。
十月のある日曜、私は午後からずっとスマートフォンを机に置いていた。
灯は大学の製図課題で、二週間続けて通話を短く切り上げていた。前の晩に送られてきた写真には、作業室の床で眠る同級生が映っていた。灯の机の隅に、私の知らない店の紙コップがあった。それだけだった。
九時ちょうど、画面が明るくなった。
《終わった。かけていい?》
私は読んだ。返事をしなかった。
一分経てば、灯はもう一度送るだろうかと思った。
九時三分。
《澄?》
胸の奥が熱くなった。心配させたいと思ったわけではない、とそのときは考えた。ただ、もう一通来るか確かめたかった。
着信が鳴った。画面に灯の名が出た。机の上で振動する端末を、両手を膝に置いたまま見ていた。
鳴り終わる。
部屋が急に静かになった。換気扇の低い音まで聞こえた。
九時六分。
《何かあった?》
その時点で電話を取ればよかった。取らなかった三分を説明するのが嫌で、次の三分まで待った。理由ではなく、遅れそのものに押されていた。
二度目の着信は九時九分だった。
灯は、私が出るとすぐに名前を呼んだ。声が掠れていた。
「ごめん。スマホ、会社に置いてた」
「じゃあ、今どこ」
「取りに戻った。充電も切れてて」
嘘は、考えるより早く口から出た。
灯は怒らなかった。よかった、と言った。その一言が嬉しくて、吐き気がした。
翌週から、通話の三分前には返事をした。灯は一度も、あの夜のことを尋ねなかった。
私はノートに時刻を記した。最初は、《九分で灯は二度電話をした》と書いた。ひどく平らな字だった。頁の下には、《離れても必要とされている》と続けた。
翌朝、それを黒いペンで塗った。
消したいなら、頁を破ればよかった。私は破らず、紙が浮き上がるまで同じ行を塗った。
「澄」
灯の声で、部屋へ戻った。
「ごめん。何?」
「本当に今日、変だよ」
灯は床へ座り、膝を抱えていた。さっきまで動かしていた手が止まっている。
私はアラームの設定画面を開いた。《日曜 灯》の横にあるスイッチを切った。
「何で消すの」
「もう離れて住むから」
「だからいるんじゃないの」
「決め直したい」
「何を?」
灯が眉を寄せる。
これ以上、あとでとは言えなかった。
クローゼットを開けた。上段の衣装ケースを外し、その奥から六冊を出す。青は同じでも、表紙の色は少しずつ違った。小学生の頃に買った一冊目だけ、角が丸く潰れている。
机へ並べると、灯はしばらく見ていた。
「日記?」
「灯のことを書いてる」
「六冊ぜんぶ?」
「十歳から」
灯が笑いかけた。私が笑っていないのを見て、口元が戻った。
「何が書いてあるの」
「読んでほしい」
「今?」
私は頷いた。
「明日の朝までに?」
頷くことができず、一冊目を灯の前へ押した。
灯は表紙へ手を置いた。絆創膏を巻いた中指が、薄い青の上で止まる。
「これを読んだら、何か変わる?」
「分からない」
「澄は、変えたいの」
「変わる前に渡したい」
灯は一冊目を開いた。
最初の頁には、十歳の私の字で、《灯にわすれられない人になる》と書いてある。
灯はそこを二度読んだ。
「何これ」
声に、まだ笑いが残っていた。
「そのまま」
「小学生で?」
「うん」
「重い子ども」
「知ってる」
「知らなかったから言ってるの」
灯は頁をめくった。弟が熱を出した日。図工の先生に嫌な題名をつけられた日。日曜の五時十分。鉛筆を二本置くこと。灯が来なかった祖母の誕生日。
「これ、覚えてる」
机の右に鉛筆を置いた図が描かれた頁で、灯の指が止まった。
「焼肉食べながら、五時十分になったって思った日」
「次の週、教えてくれた」
「それも書いてる」
灯は少し笑った。頁の端を親指で撫でる。その顔を見て、私は渡してよかったと思いそうになった。
二冊目に入る頃、笑わなくなった。
《灯の友だちの悪口を言わない》
《他の人がいても、鉛筆を置く場所を変えない》
《会えない日を作る。次に会ったとき、会わないあいだの話を聞く》
子どもの規則は、年齢と一緒に具体的になった。私がしたことだけでなく、しなかったことも書いてある。メッセージをすぐ返さなかった日。灯が紗季の話をするまで尋ねなかった日。別の大学を勧めた日。
「全部、考えてたの」
灯は頁から目を上げなかった。
「全部じゃない」
「ここにあるのは?」
「考えた」
「私が日曜に図書館へ来るのも?」
「最初は違う。来るようになってから、同じ席を取った」
「私がその鉛筆を使うの、分かってて置いた?」
「うん」
灯は一冊目へ戻り、短い鉛筆のことが書かれた頁を探した。読み直しているあいだ、私は床の木目を見た。
「どうして今まで言わなかったの」
「言ったら、効かなくなると思った」
「効く、って何」
「私を思い出すこと」
灯の指が止まった。
「私、薬か何か?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味」
ノートの最後の三頁に書いた文を、頭の中で一行目から読み始めた。灯に選んでほしかった。嫌がることはしないつもりだった。明日からは隠さない。三行目まで来て、やめた。
「忘れられるのが、嫌だった」
それしか言えなかった。
「私は忘れたことないよ」
「忘れる前は、みんなそう言える」
灯が顔を上げた。
灯の親指が頁の縁を折った。すぐに戻したが、細い筋が残った。
「みんなって誰」
「誰でも」
「私は誰でもなんだ」
「違う」
「でも、私が何をしても信じなかったんでしょ」
「信じたかったから——」
「試した?」
灯の声が変わった。
五冊目を開いていた。コーヒーの輪が残った頁。黒い油性ペンで潰した文字の下に、数字の筆圧が残っている。
九時三分。九時六分。九時九分。
灯は塗り潰しへ爪を当てた。
「これ、何」
答えなければならない。
それなのに、喉の筋肉が動かなかった。
「九分、って何」
「実習のとき」
「いつ」
「十月。電話に出なかった日」
灯の顔から色が引いた。
「会社に忘れた日?」
「忘れてない」
「充電切れてたって」
「嘘」
灯は五冊目を閉じた。音は小さかった。
「最初から、見てたの」
「うん」
「私が送ったのも、電話したのも」
「見てた」
「何で」
「もう一度、かけてくるか知りたかった」
「一回かけたじゃん」
「それでやめればよかった」
「一回じゃ足りなかった?」
「足りないと思った」
灯は立ち上がった。膝に載っていたノートが床へ落ちた。拾おうとした私の手を強く払った。
「私、あのとき終電調べたんだよ」
「え」
「何かあったと思って。次の日、朝いちで行けるかも見た。弟が廊下に出てきて、うるさいって怒鳴った」
知らなかった。
ノートには、灯が二度電話をしたことしか書いていない。
「ごめん」
「私が何してたか、知らないくせに」
「知らなかった」
「それなのに、ここには何て書いたの」
灯が五冊目を開き、黒く塗った行の下を指した。《離れても必要とされている》。消し切れずに残った字を、灯は一文字ずつ読んだ。
「私が怖がったこと、澄の安心にしたんだ」
「そうしたくなくて、消した」
「書いたあとで?」
「うん」
「じゃあ、何で残したの」
「隠したままにしたくなかった」
「今、見せれば隠してなかったことになる?」
「ならない」
「六冊、今夜読むように渡して、明日の朝、澄は行くんだね」
「だから今日——」
「逃げるじゃん」
「逃げない」
「四時間向こうに行くのに?」
「仕事は前から決まってた」
「知ってるよ!」
灯の声が、空になった部屋へ響いた。
階下の食器の音が止まった。母が聞いている。灯も気づいたらしく、唇を噛んだ。
私は扉を閉めた。
「仕事を変えてほしいわけじゃない」と灯は小さな声で言った。「そういうことにしないで」
「してない」
「また」
「何」
「私が言ってないこと、先に決める」
灯は床のノートを拾った。残りも一冊ずつ重ね、鞄へ入れていく。
「持っていくの」
「読んでほしいんでしょ」
「うん」
「今は、澄の前で読みたくない」
鞄のファスナーが閉まる。六冊は重いはずなのに、灯は片手で持ち上げた。
「駅には」
聞いてはいけないと思いながら、口から出た。
灯は答えなかった。
玄関まで追った。母が台所から顔を出したが、私たちを見て、何も言わずに引っ込んだ。灯は靴紐を二度結び直した。絆創膏の巻かれた指が震えていた。
「灯」
「今、触らないで」
私は伸ばしかけた手を下ろした。
灯は傘を持たずに出た。雨は上がっていた。門を閉める音がして、少し遅れて宮原家の玄関が開いた。
玄関のたたきに、灯の靴から落ちた水滴が二つ残っていた。扉を閉めず、それが丸く広がるのを見ていた。
部屋へ戻ると、ノートを置いていた机だけが不自然に広かった。
母が、湯気の立つマグカップを持ってきた。ミルクを入れすぎた紅茶だった。昔から、私が眠れない夜に作る。
「入っていい?」
もう入っている、と言う気にはなれず、頷いた。
母は床に座り、閉じた段ボールへ背を預けた。何があったのか聞かなかった。灯が怒鳴った声は下まで聞こえていたはずだった。
「灯ちゃん、傘は?」
「持ってなかった」
「また降ったらどうするの、あの子」
「家、そこだから」
「そう」
紅茶を一口飲む。甘かった。
「私が、傷つけた」
母はマグカップを見た。私が言い直すのを待っていたが、続きが出ないと分かると、膝の上で手を組み直した。
「謝った?」
「うん」
「何回」
「分からない」
「多いね」
母は紅茶の表面に張った膜を、スプーンで端へ寄せた。
「明日、灯ちゃんは駅に来るの」
「分からない」
「お弁当、二つ作るつもりだったんだけど」
私は返事をしなかった。母は、じゃあ一つにするね、と言った。
立ち上がり、扉の前で振り返る。
「切符は変えられるの」
「まだ」
「そう。聞いただけ」
「お母さんなら、どうする」
「灯ちゃんに聞いて」
「今は聞けない」
「じゃあ、私にも分からないよ」
母は空の手で出ていき、すぐ戻って、私の持っていたマグカップを持っていった。
明日の切符を開いた。変更のボタンは画面の下にあった。新しい会社の人事担当へ送る文章まで考えた。家庭の事情で、入居を一日遅らせたい。
送らなかった。
灯が一人で読みたいと言った。変更画面を閉じた。
残った本を箱へ入れた。小学校の卒業文集、大学の教科書、紗季から返された文庫本。灯が《すぐ開ける》と書いた箱を閉じる。ペンの線に指を載せると、インクはもう乾いていた。
午前一時を過ぎても、宮原家の二階は明るかった。
灯はいま、どこを読んでいるのだろう。一冊目なら、赤いポストの約束。三冊目なら、紗季を断った日。六冊目なら、明日の朝すべてを話すと書いた頁。
私は灯が読む順番まで想像していた。
カーテンを閉めた。
ベッドには布団がなく、横になる場所もなかった。廊下へ出ると、父と母の部屋から寝息は聞こえない。二人とも起きているのかもしれなかった。
上着を着た。スマートフォンだけをポケットへ入れ、玄関を出た。
住宅地の道は、雨を薄く残していた。軒下から落ちる雫が、側溝へ当たる。コンビニの配送車が大通りを走っていった。八幡社までは、歩いて十二分だった。
赤い丸型ポストは、参道の入口に立っていた。
五歳の夏より塗装が新しい。二年前、町内会が塗り直した。古い傷は下に埋まり、投函口の銀色だけが街灯を反している。
私はポストの横へ立った。
灯と離れたら、ここへ戻る。先に言ったのは私だった。けれど、祭りの日、本当に戻ってきたのは灯だった。片方の下駄を手に持ち、裸足で砂利を踏み、私の名を呼びながら走ってきた。
ノートには、《赤いポストで待てば、灯は戻る》と書いた。
私は、待った側のことしか書かなかった。
参道の奥は暗かった。自動販売機の明かりに、小さな虫が集まっている。遠くで車の扉が閉まり、足音が聞こえた気がした。顔を上げても、誰もいなかった。
スマートフォンを出した。灯の名前を開く。
《ポストにいる》
打って、消した。
呼べば戻るかもしれない。そのためにここへ来たのではないと言い切れなかった。
街灯の下で、靴の爪先を見ていた。五分か、二十分か分からない。時刻を確かめたのは一度だけだった。二時十三分。
誰も来なかった。
家へ帰る途中、斜め裏の灯の部屋はまだ明るかった。私は見上げずに門を開けた。
朝、母が作った弁当を持って駅へ向かった。父が運転し、母が助手席に座った。後部座席の隣が空いていた。
駅へ着くまで、三人とも灯の名前を出さなかった。
改札前には、通勤客と、春休みらしい家族連れがいた。八時二十分。灯はいない。
母が弁当を渡した。父は荷物をホームまで運び、発車二分前に降りた。
「じゃあ、行ってくる」
母は頷いて、私の肩を一度叩いた。泣くと思っていたのかもしれない。私は泣かなかった。
八時四十二分、列車は時刻どおりに動いた。
ホームの端まで、灯の姿を探した。薄い緑の傘を持つ女がいた。紗季かと思ったが、知らない人だった。
住宅地は線路から見えない。それでも窓の外に赤いものがあるたび、目が止まった。工事用の柵、自動販売機、ガソリンスタンドの看板。ポストは一つもなかった。
新居へ着いたのは午後一時前だった。
《着いた》
灯へ送った。一時間後、《了解》と返ってきた。句点はなかった。
《ノート、全部読んだ?》
入力し、送らなかった。
冷蔵庫を設置し、父に言われたとおり、上には何も置かなかった。灯が《すぐ開ける》と書いた箱は、玄関脇に残した。洗濯機のコードはコンセントまで届かなかった。
賭けは私の負けだった。
電話で夕飯をおごると言う場面を想像した。四時間離れたことより、その一言を送れないことのほうが、部屋を遠くした。
入社の手続きをし、地図の修正を覚え、昼は同僚と定食を食べた。夜は一人で卵を焼いた。
最初の日曜、八時五十九分に机へ座った。
九時を知らせるアラームは、もう鳴らない。
電気ケトルが沸き、スイッチの跳ねる音がした。九時三分。画面は暗い。九時六分。換気扇を止めると、冷蔵庫の音だけが残った。
九時九分まで待ってから、私はスマートフォンを伏せた。
私には、電話が来ない理由が分かっていた。
あの夜の灯には、暗い画面しかなかった。
六冊を入れた鞄は、門を出ると急に右肩を引いた。
高槻家の門を閉め、斜め裏の自分の家へ戻る。玄関の明かりはついていた。母が待っている。
門扉のラッチを握ったまま、庭の金網越しに澄の部屋を見た。カーテンが開いたままで、空になった本棚と、床に座る澄の背中が見える。名前を呼ばれたらどうするか決めないうちに、澄は立ち上がった。
カーテンが閉まった。ラッチから手を離し、家へ入った。
「おかえり。遅かったね」
母は台所で明日の米を研いでいた。私の顔と、膨らんだ鞄を順に見た。
「澄ちゃんの荷造り、終わった?」
「終わった」
「明日、七時半に起こせばいい?」
駅へ行くなら、七時でも遅いくらいだった。いつもなら、目覚ましを二つかけてある。
「分かんない」
母の手が、米の中で止まった。
「喧嘩した?」
「うん」
「澄ちゃんと?」
私たちが喧嘩らしい喧嘩をしたのは、たぶん初めてだった。
「今は聞かないで」
「分かった。お風呂、まだ温かいよ」
母は追ってこなかった。
部屋の床へ鞄を下ろす。肩紐の跡が赤く残っていた。六冊を机へ並べると、澄の部屋で見たより場所を取った。
一冊目を開く。
《灯にわすれられない人になる》
《わすれられない》の《れ》だけ、二度なぞって濃くなっていた。
一度閉じ、また開いた。同じ一行があった。可愛いと思いかけて、五冊目の黒い頁を思い出した。
頁をめくった。
澄のノートは、覚えていることより、覚えると決めたことが多かった。
ただ、私のことだけが順番に並んでいるわけではなかった。一冊目の途中には九九の七の段が二頁あり、その次は図書館で借りたい本の題名、母親に頼まれた買い物、消しゴムの値段。半年何も書かれていないところもあれば、同じ日付が四頁続くところもある。二冊目の後ろ十頁は、上下を逆にして英単語帳に使われていた。
《灯》の字も一定ではなかった。小学生の丸い字が細くなり、高校に入る頃には、急いで書いた日は《火》に見えた。
私の弟が熱を出した日。図工の先生の話。好きだった給食。嫌いだった歌。後ろ二つには線が引かれ、横に《これは忘れても困らない》とある。思わず鼻で笑った。澄はテレビに出ている人の名前を、何度教えても覚えなかった。
楠ヶ丘分館の頁には、窓際の机が描かれていた。右側に鉛筆。左側に本。五時十分に丸印。
澄は、私が来るように場所を作ったと思っている。
私は日曜になると、母に図書館へ行くと言った。弟が寝ているからでも、家がうるさかったからでもない日もあった。分館へ着く前に文房具店へ寄り、自分の鉛筆を二本買った。そのまま筆箱へ入れて、机の右に置かれた澄の鉛筆を使った。
五時半の閉館音楽が嫌いだった。だから五時十分になると、先に本を閉じた。あと二十分で帰らなければならない、と二人とも知るためだった。
祖母の誕生日で行けなかった日、焼肉屋の壁の時計を三度見た。五時十分に、水の入ったコップが汗をかき、紙のコースターがふやけていた。澄はいま本を閉じただろうかと思った。
次の日曜、それを話した。
澄のノートには、《狙いどおり、会えない日にも思い出した》とあった。《狙いどおり》は鉛筆で消されていた。消し跡の下から読めた。
「違う」
誰もいない部屋で声が出た。
思い出したのは私だ。
製図用のシャープペンシルを取り、余白へ書いた。
水のコップ。焼肉は焦げた。
それだけでは足りず、下へ続ける。
私が時計を見た。
澄の文章に返事をしているみたいで腹が立った。頁の角を摘まみ、半分まで持ち上げた。破らずに戻すと、余白がまだ何行も残っていた。
二冊目まで読んだところで、指の絆創膏が黒く汚れているのに気づいた。澄が貼ったものだった。剥がしてごみ箱へ捨てた。中指に、薄い切り傷だけが残った。
机の時計は一時を回っていた。
三冊目を開く。河合紗季の名前は、最初の頁にあった。
《灯、河合さんと雨のバス停。傘は河合さんが持つ。肩が触れていた》
その下に、《信号を渡らなかった》とある。
澄は反対側にいたのだ。
あの日、私は気づかなかった。紗季が見つけて、信号の向こうを顎で示した。澄は濡れた前髪を額へ貼りつけ、青に変わった信号の前で立っていた。傘を持っているのに開いていなかった。
「呼ばなくていいの」と紗季に聞かれた。
呼べば、澄は来たと思う。
私は呼ばなかった。澄が自分から渡ってくるか見たかった。
信号は赤に戻り、澄は背を向けた。
その週、紗季に告白された。
美術室の流しは、赤や緑の絵の具で汚れていた。窓からグラウンドの照明が見えた。紗季は筆を洗いながら、私と付き合いたいと言った。冗談だと思って笑うと、蛇口を閉めて、もう一度言った。
嬉しかった。
紗季は一緒にいて楽しかった。映画の好みが合った。思ったことを言葉にするのが早く、私がごまかすとすぐに見つけた。付き合えば、日曜以外にも予定が増える。澄としたことのないことを、紗季とはできるかもしれなかった。
返事を待ってもらい、澄へ話した。
止めてほしかった。
嫌だと言ってほしかった。灯が決めればいい、なんて、私のことを大切にしている人みたいな返事ではなく、誰にも渡したくないと困らせてほしかった。
澄は言わなかった。
それでも紗季と付き合おうとは思えなかった。家へ帰ると、道路の向こうで雨に濡れていた澄の顔ばかり浮かんだ。
断ったあと、バス停へ行った。
五時七分に着いていた。角の壁へ背をつけ、澄を見た。澄は時刻表の前で、三度、腕時計を見た。一分目は腹が立っていた。二分目には、出ていって抱きつきたくなった。三分目になる前に、角から出た。
澄の顔から、ほんの少し力が抜けた。
その顔を見たかった。
ノートには、澄が腕時計を見た回数はなかった。私は三度とも覚えていた。
ノートの《五時九分、灯が来た》の横へ書く。
五時七分にはいた。二分、隠れて見ていた。
書き終えたとき、紗季へ連絡したくなった。
《起きてる?》
送ると、一分もせずに着信があった。
「起きてるけど、何時だと思ってる?」
「ごめん」
「謝るなら明日にして。どうした」
紗季の後ろで、映画の音がした。昔一緒に見たことのある音楽だった。
「今日、澄が変なものくれた」
「引っ越しごみ?」
「ノート。私のこと、十歳から書いてる」
音楽が止まった。紗季がテレビを消したらしい。
「日記?」
「私が自分を忘れないように、してきたこと」
「何それ」
「そういうのが六冊ある」
しばらく返事がなかった。
「私のことも書いてある?」
「ある」
「名字の字、合ってる?」
「そこ気にする?」
「高槻さん、最初の頃、河をさんずいで書いてたから」
私は笑った。紗季も少し笑った。先に黙ったのは私だった。
「私、あのとき紗季のこと、ちゃんと好きだったよ」
「知ってる」
「知ってたの」
「知らなかったら、告白してない」
「でも断った」
「それも知ってる。そこは忘れないよ」
紗季の声から映画の音が遠くなった。別の部屋へ移ったらしい。
「ごめん」
「そのごめん、今はいらない」
「じゃあ、何て言えばいい」
「私に決めさせないで。で、高槻さん、何したの」
九分のことを話した。
紗季は途中で一度、「最悪」と言った。最後まで聞いてから、もう一度言った。
「それは最悪」
「うん」
「私の話と混ぜないでね」
「混ぜてない」
「今、少し混ぜたから電話したんでしょ」
黙っていると、紗季が息を吐いた。
「私を断ったところまで、高槻さんにあげないで。そこは灯がやったことだから」
「うん」
「返事、軽い」
「分かった」
「それも軽い」
「じゃあ、どうすればいいの」
「知らない。怒ってるの、私も」
「明日、駅行くの」
「分からない」
「また私に決めさせる?」
「違う。顔見たら、許しそうで嫌」
「私は行かない。高槻さんに会いたくないから」
「行かなかったら、もう会えない気がする」
「四時間でしょ」
「ねえ、紗季」
「何」
「まだ、私のこと嫌い?」
「そういう確認を夜中にするところは嫌い」
「ごめん」
「でも電話には出る。別の話」
映画を再生する音がした。
「明日、起きたら連絡して。駅に行っても行かなくても」
「うん」
電話を切った。
部屋にいると、澄の窓ばかり見てしまう。上着を着て、六冊を鞄へ戻した。行き先を決めずに家を出たはずが、十二分後には八幡社の前にいた。
赤いポストは、塗り直されてつるつるしていた。
祭りへ出る朝、澄から古い鍵をもらった。
「何が開くの」と聞くと、「分からない」と言われた。「じゃあいらない」と返そうとしたら、澄は私の指を一本ずつ握らせた。
「持ってて」
五歳の夏、私はここへ戻るまでに屋台の間を何度も間違えた。下駄の鼻緒が切れ、裸足で砂利を踏んだ。母を呼んでも返事はなかった。巾着の中の古い鍵を握り、ポストへ着いても澄がいなかったらどうすればいいのか、それだけが怖かった。
澄は、ラムネを二本並べて待っていた。
ノートには、その二本のことが書かれている。私の足の裏から血が出ていたことは書かれていない。
街灯の下で五冊目を開いた。黒く塗られた九分を、もう一度見る。
足音がした。
参道脇の石垣へ身を寄せた。隠れる理由を考える前に、体が動いていた。
澄が歩いてきた。
上着の下は、部屋着のままだった。ポストの横で止まり、周囲を見る。私は石垣の影で息を止めた。
名前を呼ばれたら、出ていくつもりだった。
澄は呼ばなかった。
スマートフォンを見て、何かを打ち、すぐ消した。画面の光が頬へ反射した。五分ほどして、一度だけ時刻を見た。そのあとは、両手をポケットへ入れて立っていた。
私は、また隠れて澄の顔を見ていた。
十五歳の二分と違うのは、出ていけば澄が安心することを知っていたことだった。知っていて出なかった。
背中へ抱きつきたかった。石垣の冷たい縁を掴み、足の爪先を地面へ押しつけた。
澄は二時半になる前に帰った。
角を曲がって姿が見えなくなってから、ポストの前へ出た。澄が立っていた場所は、濡れたアスファルトに靴の跡を残していた。自分の靴を重ねてみる。爪先の向きが少し違った。
家へ戻り、六冊目まで読んだ。
最後の頁には、明日の予定が書かれていた。
《全部話す。灯が来なくなっても、追わない。ここから先は決めない》
追わない、の字だけが強かった。
私は余白へ何も書かなかった。
朝七時半、母が扉をノックした。
「起きてる?」
「寝てない」
「駅、どうする」
窓から、高槻家の前に父親の車が停まるのが見えた。澄の父が荷物を積み、母が助手席へ乗る。澄は一度、こちらを見た。カーテンの陰へ下がった私には気づかなかった。
「行かない」
母は少しだけ黙った。
「分かった。味噌汁、温めるね」
八時四十二分、机の時計の秒針を見ていた。
列車が動くところは、ここから見えない。発車ベルが耳に残った。聞こえるはずがないのに、次の列車が出る頃まで消えなかった。
午後一時過ぎ、澄から《着いた》と届いた。
写真はなかった。部屋の広さも、荷物が無事だったかも書いていない。返事の欄に《おつかれさま》《洗濯機のコード届いた?》《朝、行けなくてごめん》と打ち、全部消した。
《了解》
それだけ送った。
窓を開けても、斜め裏の部屋は暗かった。《了解》の送信時刻だけが画面に残った。
四月一日、私は市内の設計事務所へ初出勤した。
住宅と小さな店舗を扱う、十人に満たない会社だった。私の机は窓から遠く、壁を背にしていた。大学の課題で描いた二人暮らしの部屋なら、澄の机を置く位置だった。
先輩の三木さんは、最初にコーヒーメーカーの使い方を教えた。
「図面は間違えても赤入れて返すけど、これ壊すと所長が泣くから」
「高いんですか」
「所長が自分で選んだから」
所長は聞こえていたらしく、奥から、値段も高い、と言った。
午前中はファイルの場所を覚えた。午後、改修図面の寸法を拾った。線種を間違え、建具を一つ数え落とし、三木さんに赤いペンで囲まれた。
「初日に全部できたら、私が困るから大丈夫」
「すみません」
「謝るより、ここ。窓の高さも見て」
「宮原さん」と三木さんに呼ばれ、二度目で返事をした。昼には同期と定食屋へ行き、帰りに名刺入れを買った。夜は家族と餃子を食べた。歯を磨いているとき、今日は一度も、灯、と呼ばれなかったことに気づいた。
澄がいなくても、一日は問題なく終わった。
風呂から上がり、机に六冊があるのを見て、ようやく息が詰まった。
四冊目は、大学受験の年だった。
私は一度、澄と同じ大学の願書を取り寄せた。そこにしかない学科へ行きたいわけではなかった。同じ駅で降り、同じ食堂を使い、課題のあとに一緒に帰れる生活が欲しかった。
募集要項に付箋を貼っていると、澄が自分の大学の資料を持ってきた。
「灯が取りたい資格、ここだと遠回りになる」
「取れないわけじゃない」
「実習先も少ない」
「探せばある」
「同じ大学に来たいだけなら、やめたほうがいい」
募集要項を閉じ、貼った付箋を端から剥がした。最後の一枚は途中で裂けた。
腹が立って、三日間連絡しなかった。その三日で、別の大学の説明会へ行った。製図室の広さと、教授が学生の模型を勝手に触らなかったことが気に入った。
東の大学へ願書を出したのは、私だった。
合格した日、澄と駅前の歩道橋で会った。互いの封筒を見せ、よかったね、と言った。風が強く、澄のマフラーが何度も顔へ掛かった。
私はその端を掴み、澄の手首へ巻きつけた。手袋をしていない手が出ていたので、握った。
澄は驚いた顔をした。離そうとはしなかった。
歩道橋を下りて、家まで四十分。二人とも一度も、手をつないでいることへ触れなかった。私の掌は汗ばんだ。坂道で握り直すたび、澄の親指が動いた。
四冊目には、日付だけが書いてあった。
《二月十四日。灯、東の大学に合格。帰り、手をつなぐ》
誰が先に握ったかも、手袋を外したのが私だったこともない。
余白へ、
私から。汗で滑った。
と書いた。
書き終える頃には、ペンを持つ掌に汗がにじんでいた。
五冊目の九分には、まだ書けなかった。
最初の日曜は、夕食を早く食べた。
八時半に風呂から出て、髪を乾かした。九時まで何かを待っている自分が嫌で、スマートフォンを台所へ置いた。母がドラマを見ていた。
「電話、鳴ったら教えて」
「誰から?」
「誰でも」
部屋へ戻り、仕事で渡された施工図を開いた。一つの寸法を三度読んだ。九時三分まで待ち、台所へ下りた。
画面は暗かった。
九時六分。冷蔵庫から麦茶を出した。九時九分、母がこちらを見た。
「鳴らないね」
「待ってないから」
「そう」
母はドラマへ視線を戻した。
澄から電話はなかった。
肩から力が抜けた。そのくせ通知欄を下まで引き、見落としがないか確かめた。コップを置くと、麦茶が縁からこぼれた。
翌朝、金魚柄の巾着を仕事用の鞄へ移そうとして、薄い封筒を見つけた。
四月十九日、六時十四分発。十時二分着。
澄にノートを見せられる二週間前、駅で買った切符だった。
新居の住所を教えられた夜に、乗換案内を調べた。行くとは言わず、突然改札に立って驚かせるつもりだった。午前中に着き、一泊し、日曜の午後に帰る。澄の好きなカレー店も、新居から駅までのバスも調べていた。
机の引き出しへ切符を入れた。
払戻しは前日までできる。今日決める必要はなかった。
仕事では、三木さんと初めて現場へ出た。改修前の喫茶店は、床に椅子の跡を残していた。図面では直角の壁が、端から端までに三センチずれている。
「古い建物、まっすぐだと思わないでね」
三木さんに言われ、同じ場所をもう一度測った。数字は変わらなかった。三木さんは「そういうもの」と笑って、野帳に三センチと書いた。
昼休み、五冊目を開いた。
黒い九分の次には、翌週の通話が書かれている。
《二分五十秒前に返事。灯は普通。先週のことを疑っていない》
普通ではなかった。
私は翌週、八時五十分からスマートフォンを手に持っていた。澄の返事が早すぎて、かえって妙だと思った。それでも、疑う自分が嫌で、声が聞こえた途端に何も言えなくなった。
その下へ書く。
疑った。信じたかったから聞かなかった。
九分の頁に戻る。
終電はなかった。朝六時五分なら行けた。
ようやく書けた。
文字を囲まなかった。線も引かなかった。
昼休みの終わりを告げる内線が鳴った。ノートを閉じると、指の腹に黒い粉がついていた。
二週目の金曜、紗季と映画を見た。
高校生の頃に通った小さな映画館は、座席を新しくしていた。肘掛けが前より広く、隣と腕が触れない。上映後、紗季は一言も感想を言わず、駅前のうどん屋へ入った。
「面白くなかった?」と私が聞いた。
「灯が上の空だった」
「見てたよ」
「主人公の名前」
「……男の人」
「見てないじゃん」
紗季は七味を振り、私の顔を見た。
「切符、どうした」
電話で話してあった。
「まだある」
「来週でしょ」
「うん」
「行けば」
「簡単に言うね」
「行くのと許すの、別でしょ」
「会ったら、そうできないかもしれない」
「じゃあ、許したくないの」
うどんの湯気が目へ入った。私は箸で葱を沈めた。
「まだ腹が立ってる」
「それは見れば分かる」
「でも、会いたい」
「それも見れば分かる」
「何でも分かるみたいに言わないで」
声が強くなった。
紗季は箸を置いた。
「ごめん」
すぐに謝られ、私のほうが困った。
「私、今、澄に言われたみたいに聞こえた」
「それはもっとむかつく」
「ごめん」
「二回目はいい」
紗季はまたうどんを食べた。しばらくしてから、器を見たまま言う。
「会いたいなら、それだけ送ったら。怒ってることまで文章で全部片づけなくていいじゃん」
「驚かせるつもりだった」
「今それやったら怖いよ」
「分かってる」
店を出ると、風が暖かくなっていた。駅前の桜は半分散り、濡れた歩道へ花びらが貼りついていた。
帰宅して、机から切符を出した。
《十九日、十時二分に着く。都合が悪ければ言って》
送る。
一分経った。既読がついた。
返事はすぐに来なかった。
三分で胸がざわついた。六分で、自分が時刻を数えていることに気づいた。スマートフォンを伏せる。
七分目に、短く震えた。
《分かった。改札にいる》
それから、もう一通。
《会いたい》
私は《私も》と打った。
送るまでに、十分かかった。
十九日の朝、母が駅まで送った。
「帰りは何時?」
「明日の三時くらい」
「泊まるの」
「そのつもり」
母は、改札の上に出ている発車案内を見た。何か言いかけ、やめた。
「何」
「澄ちゃんのお母さんには言ってないよ」
「言わないでよ」
「言ってないって」
母は笑い、売店で買ったおにぎりを二つ寄越した。梅と昆布だった。私が子どもの頃から選ぶ味で、澄はどちらも自分では買わない。
「行ってらっしゃい」
「うん」
六時十四分の列車へ乗った。
鞄には着替えと、六冊のノートと、金魚柄の巾着を入れてある。古い鍵が、歩くたびに鉛筆へ当たった。
発車してすぐ、紗季から《乗った?》と来た。
《乗った》
《映画の主人公、横井だから》
《覚えた》
《嘘。忘れていい》
窓の外へ、まだ人の少ないホームが流れた。
眠ろうとしたが、眠れなかった。澄へ言うことを頭の中で並べる。九分。二分。ノートに私の道がないこと。会いたかったこと。順番を変えては、どれも人から借りた言葉のように聞こえた。
途中の駅で親子が乗ってきた。女の子が窓側を欲しがり、父親と席を替わった。お菓子の袋を開ける音がして、車内にバターの匂いが広がる。私は母のおにぎりを食べた。梅は酸っぱく、海苔が上顎へ貼りついた。
窓の外の屋根が途切れ、山になり、また住宅へ戻った。四時間後、列車は一分も遅れず着いた。
十時二分、改札を出た。
澄は、柱の横に立っていた。
一か月前より髪が短い。灰色のシャツは初めて見るものだった。私を見つけると一歩出て、すぐ止まった。
「来た」
言ってから、もっと他にあったと思った。
「うん」
澄は私の鞄を見た。
「持つ?」
「いい」
「重いでしょ」
「澄のノートが入ってるから」
澄は手を下ろした。
駅前には、低いビルと広い道路があった。中央分離帯を路面電車が走っている。澄の家の近くにはない音でベルが鳴った。
「バス、あと六分」
澄が歩き出す。時刻を調べてある声だった。
「路面電車じゃないの」
「途中で乗り換える。荷物あるからバスのほうが楽」
「持たせてもくれないのに」
澄がこちらを見た。私は自分でも、冗談を言ったのか責めたのか分からなかった。
「持っていい?」
「今はいい」
バス停へ並んだ。
車内で二人掛けに座ると、肩が触れた。離れようと思えば離れられる程度だった。澄は窓の外を見ながら、新しい会社のある方向や、先週測った河川敷の話をした。川が増水した跡は、植生の色で分かるらしい。聞いたばかりの川の名をもう一度尋ねると、澄は指摘せず、同じ名を答えた。降りるまで肩はそのままだった。
住宅街で降り、五階建ての建物へ入った。階段の踊り場に、自転車の空気入れが置かれている。二階のいちばん奥が、澄の部屋だった。
玄関脇に、段ボールが一箱残っていた。
《新居・すぐ開ける》
私の字だった。
「一か月経ってるけど」
「なくても困らなかった」
「延長コードは」
「届かなかった」
「夕飯」
「おごる」
「今日?」
「昼でもいい」
「話、する前に?」
澄は靴を脱いだまま止まった。
「先にする?」
「聞かないでよ」
「でも——」
「ごめん。今の、澄が悪いんじゃない」
来て五分で、もう疲れていた。澄も同じらしく、玄関の壁へ一度背をつけた。
「とりあえず、入って」
部屋は、内見の写真より狭く見えた。机と小さな本棚、ベッド。カーテンは青ではなく生成りだった。冷蔵庫の扉を開けると、牛乳が下段にあり、卵の賞味期限が見える向きで揃っていた。
「何してるの」
「変わってないと思って」
「何が」
「卵」
澄は冷蔵庫を覗き込み、少し笑った。
斜め裏の部屋にいたときと同じ笑い方だった。私の口も先に笑いかけた。頬の内側を噛んで止めると、澄の笑顔も消えた。
「箱、開ける」
カッターを借りた。ガムテープへ刃を入れる。中には延長コード、タオル、台所用のスポンジ、私が荷造りの途中で放り込んだ小さな缶があった。
「これ、何」
澄が缶を開けた。
中から、錆びたヘアピンと、白いボタンと、丸めたバスの整理券が出てきた。どれも私のだった。
「何で入ってるの」
「私が聞きたい」
思い出した。澄の机に溜まっていた細かいものを、捨てていいか一つずつ聞くのが面倒になり、缶ごと箱へ入れた。
「返してもらったやつ」
「いつの整理券?」
「分かんない」
澄は裏を見た。日付は印字されていたが、薄くて読めなかった。
「捨てる?」と聞かれた。
「澄が決めて」
「灯のものだけど」
「もう澄にあげた」
「いつ」
「今」
澄は困った顔で缶を閉め、本棚の一番下へ置いた。
二人で延長コードをつなぎ、タオルを洗濯機へ入れた。澄は端と端だけを洗濯ばさみで留める。風で真ん中が膨らみそうだったので、私は一つ足した。
「お腹空いた?」
「おにぎり食べた」
「じゃあ、お茶にする」
「うん」
マグカップは一つしかなかった。澄は自分の分をグラスへ注いだ。
「買わなかったの」
「来るか分からなかったから」
「誰も来なくても二つくらい使うでしょ」
「洗えば一つで足りる」
「そういうところ、新しい会社で嫌われてない?」
澄は今度こそ笑った。私も笑った。
笑い終えると、部屋が静かになった。
私は鞄から六冊を出し、机へ重ねた。
「全部読んだ」
澄はグラスを置いた。
「うん」
「書いた」
「何を」
「私が覚えてること」
一冊目を渡す。
澄は最初の頁を開き、私の字を見た。
屋台を二度まちがえた。足の裏から血が出た。
読み終えても、すぐに次へ進まなかった。
「知らなかった」
「話してないから」
「痛かった?」
「五歳だよ。覚えてない」
「書いてある」
「血が出たのは覚えてる。痛さは忘れた」
澄は頁の端を持ったまま、私を見た。
「ごめん」
「何に謝ってるの」
「待ってただけで」
「五歳の澄に謝られても困る」
「うん」
澄は次の頁へ進んだ。図書館の水のコップ。雨のバス停。五時七分。歩道橋で私から手を握ったこと。
字を追うたび、澄の眉が少しずつ寄った。
「二分、いたの」
三冊目で止まった。
「いた」
「何で出てこなかったの」
「澄がどんな顔するか見たかった」
「……そう」
「同じだった、とは言わないよ」
澄が顔を上げた。
「同じじゃない」
「分かってる」
「灯の二分で、私は怖い目に遭ってない」
「分かってるって」
「ごめん」
「すぐ謝らないで」
「じゃあ、何て言えばいい」
「分かんない」
自分の声が大きくなった。澄は黙った。
「黙らないで」
「二分、嫌だった」
私は瞬きをした。
「今さら?」
「今、知ったから」
「じゃあ、怒れば」
「怒ってる」
澄の声が少し震えていた。
「でも、九分と同じじゃない」
「比べなくていい」
「比べたくないから言ってる」
「……うん」
マグカップの茶は冷めていた。一口飲んで顔をしかめると、澄も自分のグラスへ口をつけた。
澄は五冊目を開いた。
黒い油性ペンの下に、私が書いた時刻がある。
終電はなかった。朝六時五分なら行けた。
澄は、そこから目を動かさなかった。
「来るつもりだったの」
「分からない。乗換案内を見ただけ」
「朝の列車まで」
「何かあったと思ったから」
「うん」
「それ、やめて」
一か月前と同じことを言った。澄は、うん、と言いかけて口を閉じた。
「あの九分、長かった?」
澄が聞いた。
「長かったよ」
「私も」
「待たせたほうが言う?」
「言わないほうがいいと思う。でも、短かったって嘘つきたくない」
「何考えてたの」
澄は五冊目を閉じた。表紙の角を親指で押す。
「最初は、もう一通来たら、まだ私のことを待ってるって思える気がした」
「一通来た」
「来たら、電話もかかってくるか見たくなった」
「かかってきた」
「鳴ってる途中で、出なきゃって思った。でも、三分見てたことを言えなくて、鳴り終わるまで動けなかった」
「二回目は?」
「灯の声を聞いたら、嬉しかった」
呼吸が浅くなり、舌の裏に金属の味がした。
「私、泣きそうだったんだよ」
「うん。だから、嬉しかった自分が嫌だった」
「嫌だったら、いいの」
「よくない」
「じゃあ、どうしてノートに書いたの」
「書かなかったら、後で、三分しか待ってないことにすると思った」
「九分だよ」
「そう。だから書いた」
澄の親指の爪が、表紙の紙を白くしていた。
「見せるつもりだった?」
「あのときは、なかった」
「じゃあ、何で今」
「このまま離れたら、灯が知らない私だけ、ずっとこっちにいるから」
「知らないままのほうがよかったかも」
「うん」
「私は、澄がスマホを見てたって知らなかった。澄は、私が終電調べたって知らなかった。知らないことなんて、これからもあるよ」
「ある」
「それが怖いたびに、試すの」
「もうしないから」
「どうしてそう言えるの」
「言えない」
「え」
「したくならないとは、言えない。次は灯に言う」
「何て?」
「電話、もう一回かけてほしい、とか」
「そんなこと言える?」
「今は言えた」
笑い声が喉で詰まった。澄も、口元を少し歪めた。
手の甲に一滴落ちた。止めようとすると次も出た。私は顔を背けた。
「ごめん」と澄が言った。
「今は言っていい」
「ごめん」
「遅い」
「ごめん」
「一回でいい」
ティッシュ箱を差し出され、二枚取った。澄は近づかなかった。触らないでと言った夜を、まだ守っている。
泣き止むまで、冷蔵庫が何度か動いた。外の廊下を子どもが走り、隣の部屋で掃除機が鳴った。
顔を拭き、六冊を自分の側へ引き寄せる。
「九分のことだけじゃない」
「うん」
「このノート、ずっと、澄が何をしたかしか書いてない」
一冊目を開いた。
「鉛筆を置いた。ポストで待った。雨の日に何も言わなかった。別の大学を勧めた。そうしたら私が来た、思い出した、戻った」
澄は、私の書き足した余白を見た。
「私がどこから来たか、ない」
「見えなかったから」
「そう。見えなかったんだよ」
澄は、私が書き足した裸足の頁へ戻った。
「なのに、来たところだけ丸で囲った」
「してた」
言い切られ、続きが止まった。
「灯が来るたび、自分がうまくやったからだと思ってた。そう思えば、次も同じようにできるから」
「私が行きたくなくても?」
「そういう日は来なかったから」
「あったよ」
澄の顔が固くなった。
「図書館に行かないで、家でテレビ見たかった日もあった。バス停で待たせようと思った日もあった。大学、同じところにすればよかったって、澄に腹が立った日もあった」
「知らなかった」
「それでも行ったの」
「どうして」
「会いたかったから」
澄は私を見たまま、動かなかった。
言わせたかった言葉を、先に言ってしまった。
「今も」と続けた。「腹が立ってるのに、切符を買って、四時間乗ってきた」
「いつ買ったの」
「ノートを読む前」
「じゃあ、私が——」
「違う」
澄が口を閉じた。
「続きを言わないで」
「言わない」
「会いたかったから」
「会いに来てくれて、嬉しい」
洗濯機が終了を知らせた。
誰も動かなかった。二度目の音が鳴り、私は鼻をすすった。
「タオル、しわになる」
「もうなってる」
立つと、足が痺れていた。澄が手を伸ばしかける。私はその手を掴んだ。
一か月ぶりに触れた掌は、思っていたより乾いていた。
澄が息を止めた。
「立つだけ」
「分かってる」
「分かってるって言っていいとき」
「難しい」
「難しいよ」
手を借りて立った。すぐに離すつもりだったのに、指が動かなかった。澄も握り返さず、逃がしもしなかった。
「ねえ」と私が言った。
「うん」
「私のこと、好きなの」
澄の指が、わずかに動いた。
「それとも、私に好きでいてほしいの」
「どっちも」
答えは早かった。
「ずるい」
「片方だけじゃない」
「十歳のときから?」
「十歳のときは、次の日曜も来てほしかった」
「今は」
「次の日曜だけじゃ足りない」
「また、足りないって言う」
「言う。今度は灯に」
「私は分かる」
「いつ」
「教えない」
澄が眉を寄せた。
「ノートに書けないから?」
「もう書かない」
「七冊目、ないの」
「買ってない」
「そう」
本棚の端まで見た。青い背表紙はなかった。手を離した。
「六冊は、まだ私が持ってていい?」
「いい」
「書き終わってないから」
「うん」
「読みたいときは貸す」
「私のノートなのに」
「私のことが書いてある」
「そうだね」
澄は取り返そうとしなかった。
昼をずいぶん過ぎていた。
澄が賭けに負けたカレーをおごると言い、二人で外へ出た。地図で見つけた店には、五人ほど並んでいた。
「待つ?」と澄が聞いた。
「何分」
二人とも黙り、それから笑った。
列の後ろへ並んだ。
カレーは思っていたより辛かった。澄は一口ごとに水を飲み、私は途中で卵を追加した。話したのは、仕事のことだった。澄は河川敷で靴を泥に埋め、同僚に引き抜いてもらったらしい。私は三木さんのコーヒーメーカーと、三センチずれていた喫茶店の壁の話をした。
帰りにマグカップを買った。色違いを選びかけ、私は白を一つだけ取った。
「同じでいいの」と澄が聞いた。
「私のって書くから」
「ここに置くの」
「嫌?」
「嬉しい」
レジへ持っていく。澄が払おうとしたので、自分で払った。
部屋へ戻り、油性ペンで底に《灯》と書いた。洗えば薄くなる。消えたらまた書けばいい。
夕方まで、段ボールを畳み、本棚の位置を少し変えた。タオルは真ん中まで乾いていた。六冊は、ベッドの横に置いた私の鞄へ戻した。
空が暗くなる頃、澄が机の引き出しを開けた。
小さな白い封筒を出す。
「渡そうと思ってたものがある」
中には鍵が一本入っていた。
「いつ作ったの」
「部屋を決めた日」
「ノートを見せる前」
「うん」
「私が来ると思ってた?」
澄は鍵の刻みを親指で一度撫でた。
「来てほしかった。来ると思うことにしてた」
「今は?」
「渡したい。でも、持っててとは言えない」
私は金魚柄の巾着から、古い鍵を出した。丸い頭に、読めない数字が刻まれている。新しい鍵をその横へ載せると、長さが少し違った。
「借りる」
「うん」
「返したくなったら、返す」
澄が頷いた。
「澄も、返してほしくなったら言って」
「たぶん言わない」
「決めつけないで」
「……今は、言いたくない」
「それならいい」
新しい鍵を巾着へ入れた。古い鍵と触れ、小さな音がした。
「まだ、許してないから」
「うん」
「電話に出ないだけで、疑うかもしれない」
「疑っていい」
「よくないよ」
「じゃあ——」
「今、うまいこと言おうとしないで。疑ったら、そのとき喧嘩する」
「喧嘩するの」
「するよ」
「分かった」
澄は言ってから、少し迷った。
「今のは、言っていい?」
「いい」
「難しい」
「だから練習するんでしょ」
「うん」
部屋の照明をつけると、窓に二人が映った。肩が触れそうで触れていない。
「触っていい?」
澄が聞いた。
「どこ」
「手」
「そこからなんだ」
「嫌なら——」
私は澄の手を取り、自分の頬へ当てた。
掌が冷たかった。絆創膏の剥がれた中指を、その上へ重ねる。澄は私の頬を撫でず、触れた場所へ置いたままにした。
「澄」
「うん」
「キスしたい」
澄の瞳が動いた。私は手を離さず、返事を待った。
「私も」と澄が言った。
近づくと、鼻先がぶつかった。どちらからともなく少し笑い、笑ったせいで息が合わなくなった。最初に触れた唇は短かった。
離れたあと、澄が目を開けた。
「もう一回していい?」
「聞くんだ」
「聞く」
「いいよ」
二度目は、急がなかった。
澄の指が頬から耳の後ろへ動いた。私はシャツの袖を掴んだ。嬉しいのに、九時九分の画面が一瞬浮かんだ。体が固くなる。
澄はすぐに離れた。
「ごめん」
「違う。嫌じゃない」
「でも」
「思い出しただけ」
「うん」
「今は、離れないで」
澄の腕が、ゆっくり背中へ回った。
抱きしめられたのは、五歳の祭り以来かもしれなかった。あのときは私が先にしがみつき、澄は痛いと言った。今は、どちらも何も言わなかった。
澄の肩は細く、背中へ回った腕にはまだ迷いがあった。九時九分の画面は消えなかった。それでも私は腕をほどかず、澄の肩へ額をつけた。
その夜、これからの日曜の通話を何時にするかは決めなかった。
寝る前、スマートフォンの残量が八パーセントになった。澄に充電器を借り、机の上へ置く。コードはベッドまで届かなかった。
澄が床に布団を敷こうとしたので、ベッドへ入れた。狭い、と言いながら背中合わせに横になる。灯りを消しても、知らない街の車の音が窓から入った。
「寝た?」と澄が聞いた。
「まだ一分も経ってない」
「そう」
「時計見た?」
「見てない」
「えらい」
「馬鹿にしてる?」
「少し」
布団の中で笑った。しばらくして、背中に澄の呼吸が当たる間隔が長くなった。
私は振り返った。
澄は目を閉じていた。眠っているのか確かめず、掛け布団を肩まで上げた。
朝、先に起きたのは澄だった。
台所から卵を割る音がした。私はベッドの横で六冊を鞄へ詰めた。金魚柄の巾着を振ると、二本の鍵が鳴った。
朝食を食べ、駅まで一緒に戻った。
改札前で、澄は時刻表を見なかった。私が帰りの列車を告げると、一度だけ頷いた。
「次、いつ会う」と澄が聞いた。
「来月の勤務、まだ出てない」
「出たら教えて」
「澄の休みも」
「教える」
改札を通り、ホームへ下りる階段の前で振り返る。澄は同じ場所にいた。手を振ると、少し遅れて振り返した。
ホームへ着いたところで、スマートフォンがないことに気づいた。
充電器へ挿したままだ。
発車まで二十五分あった。澄へ知らせようにも、その端末がない。階段を駆け上がり、改札の駅員に事情を話して外へ出た。
バスを待てず、タクシーへ乗った。
建物の階段を上がり、二階の廊下でインターホンへ手を伸ばす。
金魚柄の巾着が、鞄の口から見えた。
新しい鍵を出す。
古いほうと一度間違えた。二本を掌へ並べ、長いほうを鍵穴へ差した。
回すと、扉が開いた。
澄は、洗ったマグカップを拭いていた。私を見て、目を丸くする。
「忘れ物」
「何」
「スマホ」
「駅は?」
「次ので帰る」
澄は布巾を置いた。
「鍵、使った」
「うん」
「開いた?」
「開いたよ」
笑うと、澄も布巾を握ったまま笑った。
机の上で、スマートフォンが満充電になっていた。抜いて鞄へ入れる。澄は玄関まで来て、靴を履かずにそこに立った。
「じゃあ、今度こそ」
「うん」
扉を閉める前に、澄の手を一度握った。
鍵は返さなかった。