静まり返った控室に、紙をめくる音だけが響いていた。
演習棟――ヴィランチーム控室。
部屋の中央に置かれた机には、今回の戦闘訓練で使用される建物の見取り図が広げられている。
飯田天哉は眼鏡を静かに押し上げた。
「では、作戦を確認しましょう。」
向かいに立つ八百万百も静かに頷く。
「はい。」
二人は図面へ視線を落とした。
やがて、八百万が口を開く。
「今回のヒーローチームは、爆豪さんと緑谷さんです。」
「個性、そしてこれまでの授業内容から考えれば、ある程度行動は予測できます。」
飯田は腕を組み、小さく頷く。
「爆豪君は突破役ですね。」
「ええ。」
八百万は建物中央を指差した。
「爆豪さんの個性は爆発。」
「機動力、突破力ともに非常に高く、一度勢いに乗れば止めることは容易ではありません。」
指先が建物中央の通路をなぞる。
「ですから、正面から突破を試みる可能性が高いでしょう。」
続いて、別ルートへ指を滑らせた。
「一方、緑谷さんには個性がありません。」
「考えられる行動は二つ。」
「爆豪さんへ随伴する。」
「あるいは、別ルートから爆弾の確保へ向かう。」
飯田は静かに目を閉じる。
「現実のヴィラン事件なら……。」
八百万は迷いなく頷いた。
「後者です。」
「敵を引き付ける役と、目的を達成する役。」
「役割を分けた方が合理的です。」
少しだけ間を置き、続ける。
「そして、個性の相性だけで考えれば、こちらが有利です。」
「飯田さんなら爆豪さんの突破を止められる。」
「私は距離を保ちながら生成を続ければ、緑谷さんを爆弾へ近付けさせずに済みます。」
飯田は力強く頷いた。
「では、私が爆豪君を抑えます。」
「彼の突破を許せば、一気に戦況を崩されますからね。」
八百万も静かに応える。
「私は緑谷さんを担当します。」
「近付かず、生成した装備で牽制を続けます。」
「時間はこちらの味方になります。」
飯田は小さく笑みを浮かべた。
「奇策は必要ありません。」
「基本に忠実に。」
「互いの役割を全うしましょう。」
「はい。」
二人はもう一度図面へ視線を落とす。
勝機は十分にある。
そう信じられるだけの根拠が、二人にはあった。
一方、その頃。
ヒーローチーム控室。
建物の図面を前に、勝己と出久が並んで立っていた。
「……」
「……」
短い言葉を交わす。
出久が一度だけ頷く。
勝己も短く返事をする。
それだけだった。
長年積み重ねてきた二人には、それだけで十分だった。
コンコン。
「時間だ。」
オールマイトが扉を開ける。
勝己は静かに立ち上がる。
出久も図面から目を離した。
「準備はいいかい?」
「おう。」
「はい。」
二人は並んで控室を後にした。
その背中を見送りながら、オールマイトは小さく笑う。
「さて。」
「どんなヒーロー像を見せてくれるかな。」
観戦スペース。
1年A組の生徒たちが大型モニターの前へ集まっていた。
「いきなり爆豪たちか。」
切島が腕を組む。
「相手も飯田と八百万だ。」
「見応えありそうだな!」
耳郎がモニターへ目を向ける。
「八百万なら、ちゃんと作戦立ててそう。」
麗日も小さく笑った。
「どっちも負けへん気がする。」
オールマイトは中央へ立ち、大きく右手を振り上げる。
「それでは!」
「第一試合!」
「開始!!」
ブザーが演習棟へ鳴り響いた。
建物内。
ヴィランチーム。
飯田は中央通路で静かに構える。
「来ます。」
その瞬間。
ドォン!!
建物内へ爆発音が響いた。
煙の中から飛び出してきたのは――
爆豪勝己。
一人。
飯田は小さく拳を握る。
「読みは当たりました。」
一方。
別ルート。
八百万も足音へ耳を澄ませる。
現れたのは。
緑谷出久。
こちらも一人。
八百万は静かに息を吐いた。
「予定通りです。」
飯田と八百万。
二人の予測は、見事に的中した。
互いの姿は見えない。
二人は同じ確信を抱いていた。
――勝機は十分にある。
飯田は拳を構える。
「ここから先へは通しません。」
爆豪は口元を吊り上げた。
「やってみろ。」
別ルート。
八百万は静かに両手を前へ出す。
「申し訳ありません。」
「ここで止めさせていただきます。」
出久はホルスターから伸縮警棒を取り出した。
ゆっくりとロックを解除する。
「うん。」
「よろしくね。」
静まり返った建物の中で。
二つの戦いが、静かに幕を開けた。
---
「はぁっ!」
試合開始と同時に、飯田が床を蹴った。
鋭い踏み込み。
一直線に爆豪へ距離を詰める。
回し蹴り。
勝己は身体をわずかに捻り、その蹴りを紙一重でかわした。
間髪入れず、飯田の拳が飛ぶ。
勝己は腕で受け流し、距離を取る。
再び踏み込む。
一瞬で間合いが詰まり、攻防が繰り返される。
「さすがですね、爆豪君。」
飯田は僅かに息を整えながら言う。
「近接戦闘も非常に上手い。」
勝己は口元を吊り上げた。
「褒めても何も出ねぇぞ。」
再び激突する。
拳。
肘。
膝。
足運び。
互いに一歩も譲らない。
飯田は確信していた。
(これでいい。)
(爆豪君をここへ留めておけばいい。)
(このままなら、勝機は我々にある。)
(時間はこちらにある。)
その頃。
別ルート。
八百万は右腕を前へ出した。
白い光。
腕から一本の刺股が生成される。
「ここから先へは進ませません。」
踏み込む。
刺股が一直線に出久を狙う。
しかし。
出久は半歩だけ身体をずらした。
刺股は空を切る。
そのまま懐へ入る。
「!」
近い。
八百万は咄嗟に刺股を引き戻そうとする。
その瞬間。
カンッ!
乾いた音が建物内へ響く。
出久の伸縮警棒。
刺股だけが弾き飛ばされた。
「……!」
八百万は距離を取る。
(近接……。)
すぐに次の生成へ移る。
今度は警棒。
しかし。
完成するより早く。
カンッ!
生成途中で弾き落とされる。
「え……?」
もう一度。
生成。
カンッ!
また落ちる。
三度目。
カンッ!
四度目。
カンッ!
出久は一歩も引かない。
決して殴らない。
蹴らない。
ただ。
生成される武器だけを、正確に警棒で叩き落としていく。
初めて経験する戦い方が、少しずつ八百万の心身を追い詰めていく。
八百万は息が少しずつ上がり始めた。
(どうして……。)
(生成の瞬間だけ……。)
距離を取ろうとする。
しかし。
出久はそれを許さない。
一歩。
また一歩。
決して詰め過ぎない。
しかし離れもしない。
生成を妨害できる絶妙な距離を保ち続ける。
(分析されている……。)
その考えが頭をよぎった。
観戦スペース。
「緑谷ちゃん、攻撃しないね。」
麗日が首を傾げた。
耳郎もモニターを見つめる。
「でも。」
「あれ、全部生成だけ狙ってる。」
切島も腕を組んだ。
「地味だけど……。」
「嫌だな、あれ。」
建物内。
飯田は爆豪と拳を交え続ける。
爆豪も爆発は最小限。
建物を傷付けないよう、近接主体で応戦している。
飯田は徐々に確信を深めていた。
(十分だ。)
(爆豪君はここを突破できない。)
(このままなら、勝機は我々にある。)
(時間切れまで――)
八百万も同じだった。
生成。
妨害。
生成。
妨害。
息が上がる。
額へ汗が浮かぶ。
それでも。
(このままなら。)
(時間はこちらにあります。)
(緑谷さんは爆弾へ近付けない。)
(勝機は十分にある。)
「五分。」
勝己の表情が変わった。
飯田はその変化に気付く。
「?」
爆豪の動きが変わる。
今まで互角だった攻防。
その均衡が、一瞬で崩れた。
飯田の拳を外側へ流す。
足払い。
肩で押す。
飯田の体勢が初めて崩れる。
「!」
(速い……!)
違う。
今までとは明らかに違う。
(今まで……。)
(本気ではなかった……!)
勝己は振り返ることなく走り出した。
飯田も慌てて追う。
「待ってください!」
勝己は壁へ視線を走らせる。
柱。
梁。
影響範囲。
一瞬で確認する。
口元が僅かに上がった。
「ここなら問題ねぇ。」
右腕を振り抜く。
ドォンッ!!
爆音。
壁だけが綺麗に吹き飛ぶ。
その他は無傷。
爆弾にも影響はない。
一直線の最短ルートが現れた。
飯田は足を止める。
「壁だけを……。」
爆豪は最初から。
建物全体ではなく。
必要な壁だけを壊すつもりだった。
飯田は初めて理解する。
(倒すことが目的ではなかった。)
(最初から……。)
(突破だけを考えていたのか。)
壁の向こう。
爆音に八百万が顔を上げる。
(まさか……。)
八百万は咄嗟に新たな武器を生成しようとする。
しかし。
警棒が振られる。
カンッ!
未完成の武器が床へ転がった。
八百万は息を切らしながら、初めて悟る。
(違う。)
(私は……。)
(戦っているんじゃない。)
(戦わされている……。)
その瞬間。
八百万の背筋を、冷たいものが走った。
壁の向こうから足音が響く。
現れた勝己が、短く口を開く。
---
「右。」
その一言だけだった。
返事はない。
出久は、すでに飯田の進路へ静かに立っていた。
一方。
「爆豪君!」
飯田はエンジンを全開に吹かし、一直線に駆ける。
突破だけは許さない。
その思いだけで前を見据えていた。
その視界へ、一人の少女が映る。
「緑谷さん……!」
ロープが静かに放たれる。
飯田は咄嗟に体勢を変えようとする。
しかし。
最高速度で駆ける身体は、急には止まれない。
闘牛が闘牛士の布一枚に翻弄されるように。
速さとは、ときに最大の弱点となる。
ロープが両脚へ絡み付く。
「しまっ――!」
勢いそのままに体勢が崩れる。
床を滑る。
その隙を逃さない。
出久は一気に踏み込んだ。
カチリ。
手錠が飯田の両手首を静かに閉じる。
飯田は歯を食いしばる。
立ち上がろうとする。
しかし、もう遅い。
「八百万さん!」
叫び声だけが建物内へ響いた。
その頃。
八百万は飯田の声に振り返った。
「!」
飯田が捕縛されている。
(そんな……。)
助けなければ。
一歩踏み出す。
しかし。
脚が重い。
呼吸が乱れる。
短時間に生成を繰り返した疲労が、全身へ重くのしかかっていた。
それでも前へ出ようとした、その瞬間。
目の前へ勝己が立つ。
右手が静かに伸びる。
寸前で止まる。
「現場なら。」
静かな声だった。
「もう終わってる。」
八百万はゆっくりと目を閉じる。
そして勝己から視線を外した。
その先にいたのは、爆弾へ向かって歩いていく出久だった。
乱れない呼吸。
静かな表情。
最後まで自分を傷付けることなく、個性だけを封じ続けた少女。
八百万は小さく息を吐く。
(無個性だから弱い……。)
(誰が、そんなことを決めたのでしょう。)
静かに微笑む。
「……完敗です。」
勝己は静かに手を下ろした。
出久は爆弾の前へ歩み寄る。
右手をそっと添える。
静寂。
『――ピピーッ!!』
ブザーが演習棟へ響き渡る。
『勝者!
ヒーローチーム!!』
観戦スペース。
一瞬。
誰も言葉を失った。
「え……。」
上鳴が呟く。
「終わった?」
切島も苦笑する。
「最後、何が起きたんだ?」
耳郎はモニターを見つめたまま笑う。
「二人とも……。」
「息が合い過ぎ。」
麗日は胸へ手を当てる。
「出久ちゃんらしい戦い方やね。」
相澤は静かにモニターを見つめたまま、小さく呟いた。
「……無駄がない。」
演習場。
四人がオールマイトの前へ並ぶ。
オールマイトは満面の笑みを浮かべた。
「素晴らしい戦いだった!」
そして勝己を見る。
「爆豪少年。」
「飯田少年を倒し切らなかった理由は何だい?」
勝己は短く答える。
「爆弾を壊すわけにはいかなかった。」
「それに。」
「俺の役目は突破だ。」
オールマイトは満足そうに頷いた。
「なるほど!」
続いて出久へ視線を向ける。
「緑谷少女。」
「武器だけを狙っていたね。」
出久は静かに頷いた。
「八百万さんの個性は、とても強力です。」
「だから。」
「本人ではなく、個性を封じることを優先しました。」
「それが一番被害が少ないと思ったので。」
オールマイトは思わず笑みを浮かべた。
「なるほど!」
「君らしい答えだ!」
そして、二人を見渡しながら、優しく笑った。
「二人とも、よく考えて戦っていた。」
その時だった。
「判断は悪くない。」
相澤が静かに口を開く。
演習場の空気が引き締まる。
「だが。」
静まり返る。
「爆豪。」
「緑谷がいなかったら、お前は同じように動けるか。」
勝己は黙る。
「緑谷。」
「爆豪以外と組んでも、同じように連携できるか。」
出久も静かに俯いた。
「プロは。」
「誰とでも組む。」
「考えておけ。」
二人は小さく頷く。
「はい。」
「……おう。」
放課後。
雄英高校からの帰り道。
並んで歩く二人。
しばらく沈黙が続く。
やがて出久が小さく笑った。
「今日も助けてもらったね。」
勝己は前を向いたまま答える。
「役割だ。」
少し歩く。
出久が空を見上げた。
「でも。」
「相澤先生の言う通りだった。」
「ああ。」
勝己も短く返す。
また少し歩く。
勝己が静かに口を開いた。
「俺らなら勝てる。」
「うん。」
「けど。」
「俺らだけじゃ駄目だ。」
出久は静かに頷く。
「次の課題だね。」
勝己は鼻で笑う。
「潰すぞ。」
「うん。」
春の風が優しく吹き抜ける。
少し照れくさそうに、出久が笑った。
「……ありがとう。」
勝己は少しだけ耳を赤くしながら、ぶっきらぼうに前を向く。
「うるせぇ。」
二人は自然と歩幅を揃え、夕焼けの道を歩いていった。