深夜。
昼間の喧騒が嘘のように、中央の街は静まり返っていた。
石畳の道を照らす街灯。
遠くから微かに聞こえる汽笛。
冷たい夜風が軍服の裾を揺らしていく。
第五研究所を見上げる二つの影があった。
エドワードとアルフォンス。
約束の時間より少し早く到着した二人は、研究所を見上げながら静かに待っていた。
「……まだ来ねぇな。」
腕を組みながらエドが呟く。
アルも研究所から目を離さない。
「ヨキさんのことだから。」
「きっと来るよ。」
「分かってる。」
エドは短く答えた。
その時だった。
「待たせたかな。」
穏やかな声が二人の背後から聞こえた。
「!」
二人が同時に振り返る。
街灯の光の中を、一人の軍人が歩いてくる。
軍服の上から黒いタクティカルベストを着込み、腰には拳銃と警棒。
さらに背中には、銃身を短く切り詰めたライフルを一本背負っていた。
手入れされてきたことが分かる装備は、決して派手ではない。
だが、それだけに実戦で使われる道具としての重みが感じられた。
口元には、いつもの髭。
髪型も普段と変わらない。
それでも。
任務へ向かうために身を包んだその姿は、昼間の穏やかなヨキとはまるで別人だった。
柔らかな笑みはそのまま。
しかし、その立ち姿には軍人特有の引き締まった空気が漂っている。
「ヨキさん……。」
エドは思わず目を丸くした。
「何だよ。」
「ちゃんと軍人だったんだな。」
一瞬、静寂が流れる。
そしてヨキは、小さく肩をすくめた。
「失礼だな。」
「これでも軍人なんだよ。」
三人の間に小さな笑いが生まれる。
「でも。」
エドは改めてヨキを見つめた。
「昼間と全然雰囲気が違うな。」
「そうかな。」
「ええ。」
アルも素直に頷いた。
「とても頼もしく見えます。」
ヨキは少し照れくさそうに頭を掻いた。
「スカーとの一件で苦労したからね。」
「さすがに。」
「何もできないままでは駄目だと思って。」
そう言いながら腰の警棒を軽く叩く。
「あれから少し鍛えてもらっているんだ。」
「もちろん。」
「全然強くはないけどね。」
その言葉にエドが笑う。
「いや。」
「前よりはずっと頼もしそうだぜ。」
「ありがとう。」
「そう言ってもらえるだけで十分だよ。」
ヨキは第五研究所へ視線を向けた。
その穏やかな表情が、少しだけ引き締まる。
「さて。」
「貴重な機会を逃すわけにはいかない。」
「行こうか。」
二人は静かに頷いた。
◇
三人は物陰を利用しながら研究所へ近付いていく。
近くで見る第五研究所は、昼間とは比べ物にならないほど異様な雰囲気を放っていた。
高くそびえ立つ外壁。
その上には何重にも張り巡らされた鉄条網。
巡回する兵士。
廃棄された研究施設とは思えないほど厳重な警備だった。
「……廃墟、なんだよな。」
エドが小声で呟く。
「そう聞いています。」
ヨキも視線を巡らせる。
「ですが。」
「少なくとも外から見る限りでは、廃棄された施設とは思えませんね。」
まるで。
何かを守っているようだった。
いや。
何かを外へ出さないため、と言った方が正しいのかもしれない。
しばらく観察した後、ヨキが静かに口を開いた。
「エド君。」
「錬金術で入口を作ることは可能ですか。」
エドはすぐに首を振る。
「できる。」
「でも、その瞬間に錬成反応の光が出る。」
「見張りに気付かれると思う。」
「なるほど。」
ヨキは小さく頷いた。
「では。」
「正面突破はやめましょう。」
少し考えた後、アルが一歩前へ出る。
「兄さん。」
「ああ。」
二人はすぐに意図を理解した。
アルが両手でエドを持ち上げる。
軽々と外壁の高さまで持ち上げられたエドは、機械鎧の右腕で鉄条網を慎重に押し上げた。
金属が僅かに軋む。
しかし。
夜風の音に紛れる程度だった。
「よし。」
続いてヨキが持ち上げられる。
外壁へ静かに身を乗せると、そのまま音もなく内側へ降り立った。
最後にアルは、ずらした鉄条網を即席のロープ代わりにして、自ら外壁を登ってくる。
わずか数十秒。
見張りは誰一人として異変に気付かなかった。
鼠一匹入り込めないよう設計された堅牢な外壁。
しかし。
鋼の錬金術師。
鎧の巨人。
そして、一人の軍人。
三人が力を合わせれば、その壁も決して越えられないものではなかった。
◇
研究所の敷地内へ侵入した三人は、建物の周囲を慎重に確認していく。
「入口は……。」
「全部閉まってるな。」
エドが小さく舌打ちする。
正面入口。
裏口。
窓。
どれも厳重に封鎖されていた。
「そう簡単には入れてくれませんか。」
ヨキは建物を見上げる。
その視線が、一か所で止まった。
「……あそこ。」
二人も見上げる。
壁の高い位置。
小さな換気ダクトが設置されていた。
「私とエド君なら。」
「ここから侵入できそうですね。」
エドはダクトを見て頷く。
「アルは無理だな。」
「ええ。」
ヨキはアルへ向き直る。
「アル君。」
「私たちが中へ入ります。」
「その間、外の警戒をお願いできますか。」
「はい!」
アルは力強く頷いた。
ヨキは穏やかに微笑む。
「それと。」
「アル君も十分気を付けてください。」
「はい!」
ヨキがダクトの蓋を外す。
ヨキが中へ身体を滑り込ませ。
最後にエドが続く。
ダクトの蓋が静かにアルによって閉じられる。
その瞬間。
アルは一人、夜空を見上げ。
「……気を付けてください……か。」
その小さな呟きは、夜風に乗って静かに消えていった。
◇
狭いダクトの中を、二人は身体を低くして進んでいく。
先頭はヨキ。
その後ろをエドが続く。
金属を擦る音だけが、小さく響いていた。
(こういう時だけは……。)
(小さくて良かったな。)
そんなことを思ってしまったエドの自己嫌悪混じりのぼやきが、ヨキの後方から聞こえる。
ヨキが僅かに口元を緩めていた。
(ああ。)
(この場面か。)
懐かしい記憶が蘇る。
前世で何度も読み返した、鋼の錬金術師。
その一場面を、自分は今、当事者として歩いている。
(本当に。)
(ここまで来たんだな。)
小さな笑みが溢れた後、ヨキは再び真剣な表情へ戻る。
ダクトの先には、薄暗い研究所内部が静かに待っていた。
◇
ダクトを抜けた二人は、音を立てぬよう静かに床へ降り立った。
研究所の内部は薄暗く、冷たい空気が流れている。
廊下には人の気配はない。
だが。
床には新しい靴跡が残り、ところどころ埃の薄い場所も見受けられた。
「……やっぱり。」
ヨキが小さく呟く。
「現役ですね。」
エドも周囲を見回しながら頷いた。
「ああ。」
「廃墟なんてもんじゃねぇ。」
「今でも使われてやがる。」
二人は慎重に廊下を進んでいく。
◇
やがて、一つの大きな部屋へ辿り着いた。
エドがゆっくりと扉を押し開く。
重い音が静寂を破る。
その先に広がっていた光景に、二人は思わず足を止めた。
床一面を覆う巨大な錬成陣。
黒く染みついた床。
言葉では表せない異様な空気が、その部屋を支配していた。
「……ビンゴだ。」
エドが静かに呟く。
ヨキも錬成陣を見つめ、小さく頷いた。
「これだけの規模の錬成陣……。」
「やはり。」
「ここでしたか。」
短い言葉だけが部屋へ落ちる。
ここが。
賢者の石を生み出していた場所。
その事実だけで十分だった。
◇
エドは錬成陣から目を離さず口を開く。
「やっぱり。」
「俺の考えで合ってた。」
ヨキは穏やかに微笑んだ。
「流石ですね。」
「第五研究所へ辿り着いた推理は、正しかった。」
そして、静かに研究所の奥へ視線を向ける。
「ですが。」
「思考実験を思い出してください。」
「証拠を残している以上。」
「守る者も必ずいます。」
エドは静かに頷く。
「ああ。」
「俺もそう思う。」
ヨキは小さく息を吐いた。
(ここまでは。)
(原作通りだ。)
ほんの少しだけ胸を撫で下ろす。
だが。
(だからこそ。)
(油断はできない。)
◇
一方、その頃。
第五研究所の外。
アルフォンスは静かに周囲を警戒していた。
夜風だけが静かに吹き抜ける。
その時だった。
ガシャン――。
アルが音のする方に振り返る。
そこに、一体の鎧が静かに立っていた。
鎧はゆっくりと帯刀している刀へ手を掛ける。
「私は、この施設の守護を任されている者。」
「ナンバー48。」
「悪く思うな。」
「ここへ入り込んだ部外者は、すべて排除するよう命じられている。」
アルも静かに拳を構える。
「……そうですか。」
互いに一歩も動かない。
武人同士が向かい合うような、静かな緊張だけが流れていた。
◇
一方、研究所内部。
静まり返っていた空間へ、突然甲高い笑い声が響き渡る。
「げっへっへっへっ!!」
エドとヨキは素早く振り返る。
研究所の奥。
暗闇の中から、一体の鎧が陽気な足取りで歩いてくる。
「おいおい!」
「侵入者がいるって聞いたから来てみりゃよォ!」
「チビと、おっさんじゃねぇか!」
ヨキはその姿を静かに見つめた。
表情は変えない。
しかし。
(……違う。)
一瞬だけ思考が止まる。
(本来なら。)
(ここに現れるのは。)
(こいつじゃない方――。)
そこで思考を止めた。
未来は。
確かに変わり始めている。
その事実だけを静かに受け入れ、ヨキはライフルへ静かに右手を伸ばした。
深夜の第五研究所。
原作とは異なる運命が、静かに動き始めていた。