リアンが妻娘を救ったifです。光のリアンすぎるかもしれません。
指令の通りに北部へと進もうとするその足を、静かに止めた。それは堪えようのない吐き気と動悸が原因だった。
わかっている。このまま指令に従えば一体どうなるのか、俺はわかっている。指令に従って名前を変え、指令に従って姿を変え、指令に従って全てを遂行し、その結果都市の神からの寵愛を受けたのだから。わかっているんだ。
このまま北部に行けば、俺は最愛の家族を失うのだろう。妻の柔らかな眼差しに見つめられることもなくなるのだろう。彼女の美しい髪に触れることも二度と叶うことはないのだろう。そして、どんなものよりも愛おしく愛らしい娘の小さな手を握ることも、絵本を読み聞かせることも、もうできないのだろう。
静かに自分の手を見つめる。その手は僅かに震えていた。ゆっくりと握りしめる。それでもまだその手は震え続けていた。
ここが分岐点だ。これまでと、これから。その全てを含めてなお、最大の分岐点が今この瞬間なのだと、そう悟った。俺は、どちらを選ぶ?
『じゃあおとうさん。いつ幸せになれるの?』
「……はっ。」
声が聞こえた。過去から、そして自分の底の底から響き渡る声だった。それが決定打だった。それが答えだった。
俺は、ゆっくりと踵を返した。一歩。また一歩。歩くたびに全身に絡みついていた糸がちぎれていくような心地がした。宙ぶらりんだった心が地面につく。きっとようやく、俺は地に足がついたのだろう。気づいた時には、走り出していた。
だが、そう簡単にはいかない。家への帰路には代行者がいた。それもまた、よくわかっていたことだった。
「お前は今ここにいるべきじゃないはずだが」
その代行者は無慈悲にそう言い放った。確かに俺は北部に行かなければならなかった。少なくとも、指令に従うならそうするべきだった。
「……まだ作業の真っ最中だ。何よりも繊細に、美しく飾り立てているところなんだ」
拙い言い訳だった。だが、そんな言葉を紡ぐことが今の俺にとっての限界だった。俺は人生で初めて指令を裏切る。その事実に、身体から冷たい汗が滲む。それでも、そうしなければならない。
「……貴様、まさか指令に逆らうつもりか」
「————」
名も知らぬ代行者が、静かに剣を取り出す。白と黒で彩られた流麗な剣。その剣は、都市の意思からの寵愛の証であった。それへ返すように、俺もまた都市の神から授けられた最高の武器であるカドゥケウスを取り出した。
もはや、言葉は必要なかった。互いに駆け出す。狙うは相手の命。代行者である以上手加減はできない。殺す以外の選択肢はなかった。
カドゥケウスから黒い金属のような液体が溢れ出す。瞬きをする間にその液体は変形していき、レイピアとなった。
小さく屈み、首を狙う一撃を避ける。そして剣を振り切ったせいでガラ空きになった相手の懐へと飛び込み、黒いレイピアを何度もその肉へと突き刺した。
脇を三度。胸を二度。腹を二度。首を四度。計十一ヶ所の刺し傷を刻む。その穴からは赤黒い血が噴き出した。名も知らぬ代行者は首元を押さえ、口からはゴポゴポと音を漏らしながらそのまま倒れ込み、自身の血で溺死した。
人差し指の白い外套に赤い血が広がっていく。それを俺は静かに見下ろした。自分の意思で人を殺したのは初めてだった。今奪った命への責任の所在。それは俺にしかない。指令を言い訳にできない。それが、その事実が、へばりつくような恐怖となって全身を覆う。——だが、そんなことに震えている場合ではない。そんな時間は、俺にはない。
代行者の剣を拾い、自宅へと走る。急げ。急げ。間に合わなくなってしまう前に。
「…………ッ」
自宅は静かに燃えていた。火は既に家全体を覆い尽くしている。パチパチと木の水分が熱で蒸発する音が聞こえてきた。そんな有様になっている家の玄関を、火の手も気にせず俺は蹴破った。
「ケホッケホッ……」
「貴方……」
妻と娘は椅子に縛りつけられていた状態で地面に横たわっていた。きっと、縛られた状態でなんとかしようと必死に体を動かし、そのはずみで倒れてしまったのだろう。
火は彼女達のすぐ側まで迫っていた。雪のような肌には既に火傷の痕が幾つか見られる。その痛々しい傷に、なんだか泣きそうになった。
「今、助ける」
縄を剣で切る。しかし、二人はぐったりとしたままだった。火の熱のせい、あるいは煙をいくらか吸い込んでしまっているせいだろう。火に巻かれた家から避難するために、妻を背負い、娘を抱き抱える。
「軽いな……」
妻は、娘は、こんなにも軽かっただろうか。こんなにも儚かっただろうか。命とは、こんなにも不安になる程弱いものだっただろうか。
ガラガラと背後から、燃えて炭化した木が落ちる音がした。この家もいつ崩れるかわからない。さっさと出るべきだ。
蹴破った玄関の扉を潜る。それと同時に玄関口が倒壊した。火の粉が雨のように舞い上がる。夜空に舞う火の粉はまるで瞬く星のようだった。
「安全なところまでこのまま背負って移動しよう。大丈夫か?」
「ええ……」
妻は弱ってはいたが、微かに笑顔を浮かべてそう答えた。
「……すまない。こうなったのは俺のせいだろう。幾つも、言っていないことがあるんだ。言わなければならなかったのに、幾つも……」
「知って、いましたよ」
小さな、けれども力強い言葉だった。その言葉には確たる意思が込められていた。
「貴方が幾つも隠し事をしていることなんて、ずっと知っていました。気づいていないと思っていたんですか?」
「…………」
「ふふ、可愛い。そうやって困った時は無言になる所も好きですよ、リアン」
「どうして、聞かなかったんだ? 俺が何かを隠していると知っていたなら……」
彼女は、俺の肩に回した腕に更に力を込めた。その優しい抱擁が答えだった。
「貴方を、愛していますから。私を愛してくれる貴方を、娘を愛してくれる貴方を、優しい顔で娘を寝かしつける貴方を、穏やかに笑う貴方を、何かを隠している貴方を、貴方の全てを、私は愛しているんです。だからいいんです。きっと貴方なら、言わないといけない時に言ってくれると信じていますから」
「……そうか」
その言葉に自然と涙が出た。嬉しくて、それと同じくらい自分が情けなくて、涙が溢れた。泣いたのは一体いつぶりだろうか。もしかすると、俺は初めて泣いたのかもしれない。
妻が俺のうなじに顔を埋める。息と肌の温度。その熱を感じてようやく俺は、家族の命がまだ繋がっていることを実感した。俺は確かに今この命を握りしめている。その事実がどうしようもなく嬉しかった。だからもう、これ以上は何も要らなかった。
◇◇◇
公園のベンチに妻と娘を寝かせる。煙を吸ってしまった場合の応急処置は綺麗な空気を吸わせること以外にない。だから、呼吸がしやすいように二人の胸元を緩める。
「おとうさん……」
「愛しい娘、ゆっくり深呼吸するんだ。吸って……吐いて……」
小さな胸が静かに上下する。呼吸自体は問題なくできている。倒れていたおかげであまり煙を吸わずに済んだのだろう。ひとまずは大丈夫だ。
「大丈夫か?」
「うん……」
「そうか、いい子だ。水は飲むか?」
娘は小さく頷くと、その小さな手でペットボトルを掴んだ。
「お父さんはお母さんと少し話をする。だからここでゆっくり水でも飲んで休んでいなさい。できるか?」
「うん!」
娘の頭を撫でる。すると彼女は嬉しそうにはにかんだ。ちらと横を見ると、妻が穏やかに笑っていた。
「体調は平気か?」
「ええ、もう大分。呼吸も楽になったし、意識もはっきりしてる。それで、リアン。話って何? きっと、今まで隠していたことなんでしょう?」
率直な質問だった。だからこそ、少し恐ろしくなった。それでも話さなければならない。俺は一度深呼吸をした。
「俺は、人差し指だ」
俺のその告白に、妻は表情を変えなかった。いつも通りの目で俺を見つめていた。
「今日、北部に行かなければならなかったのも人差し指の指令だったんだ。だが、そうしてしまえば……」
「私たちは死ぬ。そうなるはずだったのね」
「……ああ。俺は指令に背いてしまった。これからは代行者たちが俺を追ってくるだろう。指令を遂行できなかった者を殺しに。そんなことに愛しいお前たちを巻き込みたくはないんだ。だから、逃げてくれ」
「……わかったわ」
妻が俺の手を撫でる。
「きっと、私たちが居ても足手纏いなんでしょうね」
「ああ」
「……ねえ、一つ聞いてもいい?」
「なんだ?」
「私たちが出会ったのも指令だったの?」
それは、最も聞かれたくなかったことだった。
「……ああ」
「私と結婚したのも?」
「ああ」
「こんなふうに過ごしてきたのも、全て指令だったの?」
「……そうだ」
「なら、どうして今日は指令に背いたの?」
また、妻の目を見た。その瞳はいつも通りのままだった。穏やかで優しい、美しい青色の眼だった。
「愛している。愛しているんだ。だから、背いたんだ」
俺の言葉に妻は笑った。すごく嬉しそうに、ただ笑った。
「ふふ、それが聞きたかったの。なら、もう何も要らない」
妻が立ち上がる。そして彼女は娘を抱えた。
「ねえリアン。最後に約束して」
「なんだ?」
妻がすっと小指を差し出す。
「必ずまた帰ってきて。生きて、帰ってきて」
「……ああ」
小指と小指を絡ませる。指切りげんまん。二つの小指の間に赤い糸が見えた、気がした。
「さよならは、言わないから」
その言葉を最後に、妻は娘を抱き抱えたまま静かに逃げていった。
誰も居ない夜の公園。そのベンチに座る。ベンチにはまだ妻たちの体温が残っていた。
「月が……綺麗だな」
美しい三日月だった。いつだって変わらず白く輝く月の色。人差し指の色とはまるで異なる美しい白色だった。
「煙草を吸うのは、久しぶりだ」
懐から煙草を取り出す。時折煙草を吸えという指令が来る。でも、自分から吸うの今が初めてだった。なんとなく、そういう気分だった。
「……湿気っているな」
重くて、苦くて、不味い。だが、それで良かった。ジリジリと赤く光る煙草の先端を見つめながら煙草を吸う。肺にゆっくりと煙を入れてから、吐く。その煙はすぐに夜の空へと溶けていった。それでも、まだ煙がそこにあるような気がして夜の闇をじっと眺める。
「お前達は、煙草の最後の一口が持つ美学を……知っているか。自らを燃やし、斬り、消えていきながら放つ一点の光が、最も美しいんだ。だから、この煙草を吸い切るまでは、待ってほしいんだが」
影からそぞろに人差し指の代行者達が現れる。影から現れた白い外套が、美しい月光を反射していた。
「代行者が三人、遂行者が八人、か。随分と多いな」
「神託代行者リアンだな」
「神託代行者、か」
懐から端末機とカドゥケウスを取り出す。試しにカドゥケウスを振ると、スプーンが出てきた。使い物にならない。端末機とカドゥケウスを地面へと捨てる。
「貴様……」
「俺は神託代行者だったが……今は違うな。俺はリアン。ただのリアンだ」
あらかじめ殺して奪っておいた代行者の剣を構える。
「覚悟しろ。今日、再び都市の星が一つ現れることになる」
いくら明るく輝く星でも霞みゆく。だが、それは今日ではない。眩く輝く星は、しばらくの間都市を照らすだろう。傍らの小さな星が、影に呑まれぬように。