音が、遠かった。
何かが燃えている。瓦礫が崩れる音もする。どこかではまだ風が吹き荒れているはずなのに、それら全部が厚い壁を一枚挟んだ向こう側から聞こえてくる。
身体を動かそうとした。
「……っ」
動かない。
右腕は瓦礫の下。左脚も感覚が薄い。息を吸うたび胸の奥が痛み、喉には鉄臭いものが張りついている。視界も半分ほど塞がれ、瞬きをするたび砂埃が睫毛へ絡んだ。
それでも意識だけは残っていた。どうして生きているのか、自分でも分からない。
少し離れた場所には、マミさんがいた。
もう動かない。
黄色い衣装は瓦礫と煤に汚れ、頭部の髪飾りにあったはずのソウルジェムは砕けていた。風に揺れるリボンだけが、まだそこに生きているものがあるみたいに僅かに動いている。
さっきまで前にいた。誰よりも多く撃って、俺とまどかを守って、まだ戦えると言っていた。呼吸が荒くなっても、足元が崩れても、最後まで一度も俺たちの前から退かなかった。
それなのに。
「……マミ、さん」
声にならなかった。
その少し先には、まどかも倒れている。桃色の衣装は裂け、握っていた弓はもう消えていた。いつもなら柔らかく動いていた髪も、今は煤と埃に汚れて地面へ広がっている。
駄目だった。
三人で戦った。原作より準備した。マミさんも生きていた。俺もいた。
それでも、ワルプルギスの夜は全部まとめて踏み潰した。
街も同じだった。見える範囲にまともな建物はほとんど残っていない。道路は瓦礫で埋まり、折れた鉄骨の向こうでは火の手が上がっている。さらに遠くには、あの巨大な影がまだ浮かんでいた。
何度撃っても、斬っても、止めても。
あいつは最後まで、俺たちを敵として見ていたのかすら分からなかった。
原作を知っていたって。
何かを少し変えたって。
届かなかった。
その時だった。
「鹿目さん……?」
震えた声が聞こえた。
眼鏡。三つ編み。泥だらけの制服。
暁美ほむらが、瓦礫の間をよろめくように歩いてきた。
「鹿目さん……」
もう一度、まどかを呼ぶ。
返事はない。
途中で一度躓き、膝をついた。手のひらが瓦礫に擦れても気にせず、すぐに立ち上がる。そのまままどかの傍まで来ると、ほとんど崩れ落ちるように膝をついた。
「鹿目さん……起きてください」
肩へ触れる。
「もう……終わったんですよね?」
細い声だった。
「魔女は……もう……」
続かなかった。
まどかは答えない。ほむらの指だけが震えている。
肩を揺らそうとして、できなかった。代わりにまどかの手を握る。
「鹿目さん……」
違う。
もう分かっている。
ほむらだって、分かっている。
それでも呼んでいた。
何度も。
「鹿目さん……」
俺は動けない。声も出せない。
いや。
今は、それでいいのかもしれない。
ここは俺の場面じゃない。
このあと何が起きるのか、俺は知っている。
だから。
ここだけは。
見届ける。
◇
「巴さんも……」
ほむらが少し離れた場所を見た。
マミさん。
視線が止まる。そこに答えがないと分かるまで、数秒かかった。
それから、ほむらは周囲を見回した。
「田中さん……?」
胸が詰まった。
「田中さん……どこですか……?」
瓦礫の隙間へ顔を向ける。
「田中さん……!」
少し声が大きくなる。
答えられない。
俺はここにいる。でも今の俺は、マギカだ。
学校でほむらと話した田中と、魔女の結界で戦ったマギカ。ほむらにとっては別々の二人。
田中は、転校直後の自分へ話しかけてくれた少女。体育で倒れた時も、学校で戸惑っていた時も何となく近くにいて、危険なことをしそうになれば止めた。まどかのことを気にしているのも、たぶん誰より早く気づいていた。
そしてマギカは、魔女の結界で自分を助けた魔法少女。まどかやマミさんと一緒に戦い、最後までワルプルギスの夜へ向かった。
「マギカさん……」
今度は別の名前を呼ぶ。
「……マギカさんも」
その声を、瓦礫の隙間から聞いていた。
一か月。
たった一か月だ。
ほむらはこの街へ来て、まどかと知り合った。マミさんと出会った。田中と話した。マギカにも助けられた。
そして今日、そのほとんどを失ったと思っている。
原作より、失ったものが増えている。
俺がいたから。
胸の奥に、嫌なものが沈んだ。
俺がこの世界へ来たことで、少しは何かを良くできたと思っていた。さやかはまだ普通の女の子のままだった。マミさんとは友達になれた。ほむらにも、前より少しだけ穏やかな時間があったかもしれない。
でも、増やしたものは幸せだけじゃない。
失う対象も増やした。
それが良かったのか悪かったのか、今は考えたくなかった。
「随分、辛そうだね」
白い影が歩いてきた。
キュゥべえ。
瓦礫の上を、いつもと何も変わらない足取りで進んでくる。足元が煤で黒く汚れても気にした様子はなく、まどかの傍で膝をつくほむらへ真っ直ぐ近づいていった。
ほむらが顔を上げる。
「……あなたは」
「僕はキュゥべえ」
街が壊れても。
人が死んでも。
こいつはいつもと同じだ。
「暁美ほむら。君には、まだ可能性がある」
来た。
身体は動かないのに、その瞬間だけ意識が妙にはっきりした。
知っている。
この場面を。
何度も見た。
ここから始まる。
でも。
本当に同じなのか?
自分がいる時点で、もう原作とは違っていた。さやかは契約していない。マミさんはここまで生き残った。田中がいる。マギカもいる。
ほむら自身だって、本来なら出会わなかった人間と出会っている。
なら、この願いまで同じだなんて誰が保証する。
「僕と契約すれば、君の願いを一つ叶えることができる」
キュゥべえの声は、瓦礫の中でも妙に聞き取りやすかった。
「どんな願いでも?」
「ああ。君の素質で実現可能な範囲ならね」
ほむらが、まどかを見る。
長い沈黙だった。
風が瓦礫の間を抜け、燃えているものが弾ける音がする。それでも、ほむらはまどかの手を握ったまま離さない。
その横顔を見ながら、俺の方が怖くなっていた。
もし、違う願いをしたら。
田中を助けたい、と言ったら。
マミさんもまどかも全員生き返らせたいと願ったら。
ワルプルギスを倒したいと願ったら。
どれもおかしくない。むしろ今のほむらなら、そう願っても不思議じゃない。
俺がいるせいで。この一か月が、原作とは違ったせいで。
ここまで変わっていたら、その先だって。
「私……」
ほむらが口を開いた。
声はまだ震えていた。それでも、さっきまでの泣き声とは少し違った。
まどかの手を握ったまま、ほむらが顔を上げる。
「鹿目さんとの出会いをやり直したい」
息が止まった。
「彼女に守られる私じゃなくて……」
俯いたほむらの眼鏡の下から、一粒だけ涙が落ちる。まどかの手を握る指へ力が入った。
「彼女を守る私になりたい」
…………。
同じだ。
胸の奥から、息が漏れた。
未来はもう変わっている。俺が知っていた通りにならなかったことだって、いくつもある。
それでも。
ここだけは変わらなかった。
ほむらが、まどかを救いたいと思うことだけは。
田中を失ったと思っていても。
マミさんを失っても。
マギカを失ったと思っていても。
最後に選んだのは、鹿目まどかだった。
誰かに言われたからじゃない。俺が誘導したからでもない。
まどかに守られた少女が、自分で選んだ。
今度は、自分がまどかを守ると。
それが、少しだけ嬉しかった。
◇
「契約は成立だ」
キュゥべえの声と同時に、光が溢れた。
白い光がほむらの身体を包み込む。彼女が目を閉じると、胸元から抜き出されるように光が集まり、一つの宝石へ形を変えていった。
ソウルジェム。
新しい魔法少女が、生まれる。
暁美ほむら。
眼鏡もある。三つ編みもそのままだ。
見た目だけなら、さっきまでと大して変わらない。
それなのに。
もう同じ少女には見えなかった。
鹿目さん、と何度も呼んで、後ろからまどかについて歩いていた少女。体育で倒れて、学校でも自信がなくて、危ないことをしないよう俺に止められて。
魔女とまともに戦うことすらできなかった。
ずっと誰かに助けてもらう側だった。
本人だって、たぶんそれを一番よく分かっていた。
それでも今、自分から願った。
守られる側ではなく。
守る側へ行くことを。
「……ここからなんだ」
掠れた声が、ようやく漏れた。
誰にも聞こえない。
それでいい。
ここからなんだ。
俺が知ってる暁美ほむらは。
最初から強かったわけじゃない。最初から冷たかったわけでもない。銃を撃てたわけでも、爆弾を作れたわけでもない。
今ここで震えている少女が、何度も失敗して、泣いて、また戻って。
少しずつ。
あの暁美ほむらになる。
知っていた。
知っていたはずなのに、実際に目の前で見ると全然違った。
これは物語の過去じゃない。
一人の少女が、これから自分の人生を全部使ってでも守りたい人を決めた瞬間だった。
◇
最初に変わったのは、音だった。
遠くで燃えていた炎の音が、ふっと遠ざかる。
次に風。
舞い上がっていた灰が空中で不自然に止まった。
「……?」
ほむら自身も異変に気づいたらしい。
新しく生まれたソウルジェムが光る。
空気が歪んだ。
瓦礫も、炎も、煙も。
遠くのワルプルギスの輪郭まで、薄い膜の向こうへ押しやられていく。
来た。
時間遡行。
遂に始まった。
ほむらは過去へ戻る。
鹿目まどかとの出会いを、もう一度。
今度は、守る側になるために。
ほむらの輪郭が遠ざかっていく。瓦礫の向こうへ消えるんじゃない。世界そのものが、彼女を別の時間へ連れていく。
俺は動かない身体のまま、それを見送った。
ここまで見届けられた。それだけで、少しだけ力が抜ける。
やっと。
ほむらが、俺の知っている道へ進み始めた。
でも、もう同じ道ではない。
田中を知っている。マギカを知っている。マミさんと過ごした時間も、まどかと過ごした時間も、俺が知っていたものとは少しずつ違っている。
それでも、ほむらが戻れば次の時間軸が始まる。
そして俺は――
「…………」
そこで。
ようやく。
本当に今さらなことに気づいた。
待て。
ほむらは戻れる。
当然だ。
そのための願いを叶えて、時間を遡る魔法を今手に入れたのだから。
だったら。
世界が、遠ざかっていく。
瓦礫も。
炎も。
暁美ほむらも。
俺はそれを見ながら、一つだけ残った疑問を飲み込めなかった。
ほむらは戻れる。
じゃあ。
俺は?