建造の完了を告げるタイマーがゼロになるまでの約一時間。ヤン・ウェンリーは、本庁舎二階に用意されたばかりの真新しい提督執務室へと戻り、自身の歴史的常識と物理法則を根底から覆すための「特別講義」を受けていた。
講師は、先ほどから彼の補佐として傍らに控えている本日の秘書艦・大淀である。
彼女の口から語られたのは、この世界の海を二分する存在――すなわち「艦娘」と「深海棲艦」についての基礎知識であった。
両者ともに、ある日突然人類の歴史に介入してきた超常現象であることに違いはない。一方はなぜかかつて人類が建造した軍艦の名前と魂、そして記憶を持ち、人類の防衛線として共に血を流す道を選んだ。そしてもう一方の深海棲艦は、いかなる理屈やイデオロギーによるものか、人類を海から完全に駆逐することだけを目的とする、意志を持った災厄であるという。
「……まぁ、最初はどういうことかと思ったが、実際にアレを見れば、嫌でも理解せざるを得ないな」
ヤンは執務室の窓辺に立ち、眩しい陽光を反射する鎮守府の近海へと視線を向けた。そこでは、先ほど彼に熱烈なハグを見舞った戦艦・金剛が、練度向上のための単独海上射撃訓練を行っている最中であった。
彼女の背中や腰に艤装された、人間サイズからすれば少しばかり大きな程度の砲塔が、黒煙を吹き上げて火を噴く。轟音は執務室の窓ガラスを微かに震わせる程度だが、問題はその数秒後であった。遥か水平線の彼方に浮かべられた巨大な標的艦の周囲に、明らかにスケール感のおかしい、天を突くような巨大な水柱が幾本も立ち上ったのである。
ヤンは、片手に持っていたマグカップの縁を無意識になぞりながら、歴史家としての客観的な視点でその光景を分析した。質量保存の法則も熱力学の第一法則も、あのうら若き少女の前では完全に死に絶えている。数十キログラム程度の砲身から放たれたはずの小さな弾頭が、着弾の瞬間に、かつての巨大戦艦が放つ一トン近い徹甲弾と全く同等の破壊力と運動エネルギーを発生させているのだ。
「なるほど……。もし、未知の敵とやらから、あのような出鱈目な火力の集中砲火を人間大のサイズから受けたのだとすれば、確かに既存の戦闘艦や正規軍では太刀打ちできないだろう」
巨大な軍艦は、その大きさゆえにレーダーや目視による発見が容易であり、小回りが利かない。対して、深海棲艦は見つけにくい上に、水上を高速で滑走して弾をばらまいてくるのである。
それは的の大きさと火力のバランスが完全に崩壊した、極めて非対称的な絶望の戦場だ。通常兵器による防衛線が一方的に蹂躙され、人類が海を追われたという歴史的経緯にも、戦術的な観点からは深く納得がいった。
「はい。ヤン提督にすぐにご理解いただけて、なによりです」
大淀は、窓辺から振り返ったヤンに向けて、微かに自嘲の入り交じった笑みを浮かべた。
「……とはいえ、この非常識極まりない光景も、軍が深刻な人材不足に陥っている一端を担っているのです。かつての海軍将官たちにとって、自分たちが信奉してきた大艦巨砲主義や近代戦術が、あのような超常的な存在によって完全に無価値なものに成り下がったという事実は、精神的な崩壊を招くのに十分すぎる理由でした」
「仕方ないだろうね。私も、未だに呑み込めていない部分は多分にある」
ヤンは同意し、自身のボサボサの黒髪をゆっくりと掻き回した。軍人というものは、自身の信じる教義(ドクトリン)が崩壊したとき、現実を直視できずに狂気に走るか、あるいは思考を停止させて逃避する生き物である。ヤンはかつての同盟軍の上層部が、現実の敗北を「戦略的転進」と言い換えて現実逃避していた姿を思い出し、深い溜息を吐いた。
「それに加えて、現実を直視し、この非常識な盤面で戦おうとした優秀な人材は……皆、あの冷たい海に散ってしまいましたから」
大淀の声のトーンが、一段階沈んだ。その言葉の奥には、共に戦い、そして沈んでいったかつての指揮官たちへの哀悼が込められているようだった。
「……だろうね」
ヤンは窓際から離れ、再び自身のデスクへと腰を下ろした。
「勇敢にシーレーンを守り、手探りの状態で深海棲艦を撃滅しようと奮闘したのだろう。その結果として、彼らは最も危険な海域に身を投じ、真っ先に命を落とした。容易に想像が出来る構図だ」
ヤンは再び、ひどく重い溜息を吐いた。
それ以外に、彼らには
「これであれば、まだしも金色の獅子との追いかけっこの方が、よっぽど理にかなっていて楽だったな」
ヤンが思わず口からこぼしたボヤキに、大淀は怪訝な顔をした。
「金色の獅子……ですか?」
「ああ、いや。こっちの身の上話だよ。気にしないでくれ」
ヤンは慌てて手を振り、誤魔化すように話を本筋へと引き戻した。
「で、そういえば、一つ気になっていたことがある。艦娘や深海棲艦が『ある日突然発生した超常現象』であることは、ひとまず事実として受け入れよう。しかし、先ほどのあの建造ドック……
ヤンからの理路整然とした問いかけに対し、大淀は感心したように眼鏡の位置を直した。
「ご推察、流石です。……あれは、最も古い造船所の一つである、浦賀船渠(うらがせんきょ)の使われていない古いドックから、初めて『発現』しました」
「ほう?」
「ある日、その放棄されていた古いドックの炉に自ずと火が入り、そこで一隻の艦娘が発現されたのです。それが……雷(いかずち)です。今、ヤン提督が近海へ物資回収に向かわせている、あの元気な駆逐艦です」
「……それはそれは」
ヤンは何とも言えない、ひどく複雑な顔をして頭を掻いた。自分が先ほど適当な指示を出してスカベンジに送り出したあの騒がしい少女が、まさかこの世界における艦娘の建造システムの「第一号(オリジン)」であったとは。歴史というものは、時にとんでもない役者に重要な役割を割り振るものである。
「雷の誕生後、同時期に他の旧海軍工廠でも、似たような発現が見られました。軍の学者たちは、古いドックに残された設備と、かつてそこに存在した造船の歴史、そして何らかの『縁』が結びついた結果なのだろう、と推察したのです」
「はぁ。なるほど、理屈としてはわからなくもない。過去の記憶が残る場所に、魂が引き寄せられたというわけか」
ヤンは腕を組み、顎を撫でた。
「でも、そうだとすると、先ほどの
ヤンが論理的な矛盾を突くと、大淀はなぜかひどく言いにくそうに、視線を泳がせた。有能な秘書艦らしからぬその態度に、ヤンは嫌な予感を覚えた。
「それが、その……」
「どうかしたかい?」
「……正直に申し上げますと、不明なのです」
「不明?」
ヤンは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「はい」
大淀は観念したように、小さく息を吸い込んでから真実を口にした。
「浦賀で発現が確認された後、司令部は『あの建造設備を、最前線の拠点であるこの横須賀鎮守府内にも建造しよう』という計画を立ち上げました。しかし、原理がオカルトである以上、何をどう設計して、どう組み上げればいいのか、工学的には全く判らなかったのです。司令部が頭を抱え、数ヶ月にわたって意味のない会議を繰り返していた……その矢先の
「……嫌な予感しかしないのだが」
「ある日突然、鎮守府の地下空間に、あの建造ドックが勝手に『建造』されていたのです」
大淀の言葉に、執務室の空気が完全に凍りついた。ヤンは自分の耳を疑い、瞬きを数回繰り返した。
「ある日、突然。勝手に」
「はい。前日の夜までただの空きスペースだった場所に、朝になったら炉が設置され、あの四つのドックが完成していました。そして、そこには大量の妖精さんと……完成したばかりの私、大淀が立っていたのです。以前、お話した国家予算云々は……カバーストーリーですね」
「あー……」
ヤン・ウェンリーは、もはや何の言葉も紡ぐことができず、ただゆっくりと、自身のデスクの上に崩れ落ちるように突っ伏した。
彼が生きた時代において、どんなに無能な政治家であっても、どんなに無謀な軍事作戦であっても、そこには人間の意志と、間違った方向へ向かう「論理」が存在した。だからこそ、ヤンはそれに抗うことができた。
しかし、この世界はどうだ。
困っていたら、ある日突然、軍事基地の地下に魔法の造船所が勝手に生え、妖精が湧き、ついでに極めて有能な秘書艦までがセットでポンと出現したというのだ。もはや物理学はおろか、哲学や神学の領域ですら説明がつかない。世界の創造主がサイコロを振るのをやめて、盤面を直接蹴り飛ばしているような暴挙である。
「……すまない、大淀さん。私の脆弱な脳細胞が、ついにキャパシティを超えてパンクしたようだ」
机に顔を埋めたまま、ヤンは右手を力なくヒラヒラと振った。
「紅茶をくれないか。できれば、ブランデーを少し……いや、致死量の一歩手前くらいまでたっぷりと注いだやつを」
歴史の波に翻弄され、ついに魔法の存在まで受容させられる羽目になった不敗の魔術師の情けない懇願に、大淀はくすくすと上品な笑い声を漏らした。
「ふふ、承知いたしました。ですが提督、残念ながら現在の鎮守府の備蓄に、アルコール類は一切残っておりません。私が淹れる、極上のダージリンのストレートで我慢してくださいね」
有能な秘書艦の、落ち着きつつもどこか楽しげなからかいの声を聞きながら、ヤンは、
「やはりこの世界は禄でもない」
と、もう何度目になるかわからない深いため息を、机の天板に向けて吐き出すのであった。建造の完了を告げるブザーが鳴り響くまで、あと四十分。ヤン・ウェンリーの平穏な年金生活は、今日もまた、果てしなく遠い。