新たに顕現した軽巡洋艦・神通。その儚げで物静かな出立ちとは裏腹に、彼女の奥底に眠る魂がかつての熾烈な海戦を潜り抜けてきたことは、ヤン・ウェンリーの歴史家としての直感が正しく告げていた。故に、ヤンは彼女を安全な後方で休ませるような真似はしなかった。
「ひとまず、まずは自身の新しい身体――このオカルトめいた艦娘としての『出力』と『感覚』に慣れてもらう必要がある。というわけで、金剛との合同演習を命じたい」
執務室に戻ったヤンが、一旦射撃訓練から引き揚げ、同席していた戦艦・金剛に向けてそう告げた瞬間である。常に底抜けの明るさと過剰なスキンシップでヤンを振り回していた、あの英国生まれ(を自称する)の高速戦艦が、信じられないものを見るように目を見開き、数歩後ずさったのだ。
「テ、テイトク!?」
金剛の声は、明らかな動揺と、ある種の『畏怖』によって裏返っていた。
「じ、神通とワタシが、演習デースか!?」
「ん? ああ。君は現在、我が鎮守府において最も余裕があり、実践経験も積んでいる。生まれたばかりの彼女に、艦娘としての戦い方の基本を教えるには、君の胸を借りるのが一番だと思ったのだが……何か不都合でもあったかな?」
ヤンが不思議そうに首を傾げると、金剛は助けを求めるように大淀へ視線を向けたが、有能な本日の秘書艦はただ静かに微笑むだけであった。そこに、ヤンの横に控えていた神通が、一歩前へと進み出た。
「金剛さん、お久しぶりです」
神通は、淑やかに両手を前で重ね、深く美しいお辞儀をした。その所作は深窓の令嬢のようであり、声色もまた、春の木漏れ日のように穏やかであった。しかし、次に紡がれた言葉には、決して逆らうことの許されない、鋼鉄のような『芯』と『圧力』が内包されていた。
「―――どうか、よろしくお願い致しますね」
その瞬間、執務室の温度が数度下がったようにヤンは錯覚した。神通の顔には微かな微笑みが浮かんでいるのだが、その背後には、かつて「華の二水戦(第二水雷戦隊)」を率い、最も過酷で狂気じみた夜間猛訓練を指揮した『鬼の神通』としての凄絶な覇気が陽炎のように立ち上っていたのである。
「Y、YES……。ヨロシク、オネガイシマース……」
あの傍若無人な金剛が、まるで蛇に睨まれた蛙のように直立不動となり、引き攣った笑顔で敬礼を返した。その光景を見て、ヤンは己の采配が歴史の妙な地雷を踏み抜いたことを悟った。艦種で言えば戦艦である金剛の方が圧倒的に格上のはずだが、魂に刻まれた「教官と生徒」あるいは「歴戦の武闘派」としてのヒエラルキーは、単純な排水量や火力では計れないらしい。
「まぁ、怪我のない程度に頼むよ」
ヤンが苦笑混じりに送り出すと、神通は、
「はい、提督。金剛さんの練度、しっかりと『拝見』させていただきます」
と、実に丁寧な、しかし金剛にとっては死刑宣告にも等しい言葉を残し、海上演習場へと向かっていった。
■
二人が退出して間もなく、執務室の通信機が鳴り響いた。近海へ物資回収(スカベンジ)任務に出していた第六駆逐隊の二隻――雷(いかずち)と電(いなずま)からの帰還報告であった。
「丁度いい。頭を冷やしがてら、彼女たちの戦果を見に行くとしようか」
ヤンは大淀を伴い、鎮守府の桟橋へと足を運んだ。潮風の吹き抜ける桟橋に到着すると、そこには、自身の体積の何十倍もあろうかという巨大な牽引網をロープで引きながら、元気いっぱいに海面を滑走してくる二人の幼い少女の姿があった。
「司令官! いーっぱいあったわよ!」
雷が、ヤンの姿を認めるなり、ちぎれんばかりに手を振って叫んだ。彼女の顔には煤がつき、衣服も少し汚れていたが、その表情は「お使いを完璧にこなして褒められ待ちの子供」そのものであった。
「物資も、みつけたのです」
電もまた、姉に負けじと胸を張り、牽引してきた巨大なガラクタの山を誇らしげに指し示した。ヤンがその山を見下ろすと、そこにはスクラップ同然の鉄屑の山に混じって、比較的状態の良い重油のドラム缶や、弾薬の入った防水ケース、そして――緑色をした『謎のバケツ』がいくつか転がっていた。
「ご苦労。二人とも、よくやってくれた。怪我がなくて何よりだ」
ヤンは二人の頭を軽く撫でて労うと、背後に控えていた軍人たちに視線で指示を出した。
「ひとまず人をよこすから、皆で品物を点検して、倉庫へ運んでくれ。危険物があるかもしれないから、慎重にな」
「りょーかい!」
雷と電は元気よく敬礼を返し、軍人たちに混じって仕分け作業を手伝い始めた。
この異常な世界においては、このような幼い少女たちが最前線で命を懸け、そして後方の兵站をも支えている。ヤンは生来の人の良さから来る胸の痛みを覚えつつも、それを表には出さず、集められた物資の検品を静かに見守っていた。
と、その時である。仕分け作業を行っていた軍人の一人が、鉄屑の山の下から引き摺り出した「あるモノ」を見て、短い悲鳴を上げた。
「て、提督! これを見てください!」
その声に、ヤンと大淀は顔を見合わせ、すぐさまその場へ歩み寄った。軍人たちが恐る恐る距離を取る中、ヤンはその「残骸」を初めて間近で観察した。
それは、先日の作戦で艦娘たちが撃破した、深海棲艦の駆逐艦級と思しき個体の死骸であった。
「……なるほど。化け物か。化け物だな、これは」
ヤンは、微かな嫌悪感と、それ以上の知的好奇心をもって、その異形の残骸を見下ろした。
人間サイズのシルエットを持ってはいるが、その肌は死人のように青白く、下半身や背中からは深海魚や鮫を思わせる禍々しい装甲やヒレが伸びている。そして何より異様なのは、その大きく裂けた口、あるいは腹部のような部位から、無骨で巨大な『大砲』が直接突き出していることであった。
「生命体と無機物が、最も悪趣味な形で融合している。ますますもってファンタジーだ」
ヤンは苦笑しながら、ボサボサの頭を掻いた。だが、その苦笑の裏で、ヤンの脳内では極めて冷徹な「用兵家としての計算」が高速で弾き出されていた。
(このサイズ感。この禍々しいまでの装甲の厚さ。そして、大砲を抱えた人間サイズの標的……)
ヤンは、かつての地球の海戦史と、現代の物理法則を脳内で照らし合わせた。
例えば、数千トンから数万トンの排水量を持つ近代の巡洋艦や戦艦が、この深海棲艦と遭遇したとする。艦砲射撃というものは、数キロから数十キロ先の「巨大な建造物(敵艦)」に対して放物線を描いて弾を降らせるシステムである。その射撃統制は、相手が数十メートルから数百メートルの全長を持っていることを前提として成立している。
だが、目の前のこの敵は、せいぜい『二メートル』程度の人間サイズなのだ。
「そもそも、このサイズでは、旧来の艦砲の照準システムすらままならないか」
ヤンは、絶望的な事実に行き当たり、思わず独り言を漏らした。巨大な戦艦の主砲から見れば、こんなものは海に浮かぶ芥子粒に等しい。光学照準はおろか、レーダーで捕捉することすら困難だろう。仮に奇跡的に至近弾を与えたとしても、この有機的な流線型の装甲と、水中に半ば沈んだ状態では、爆風や水柱のダメージを殺されてしまう。
逆に、敵の放つ砲弾は、こちらが巨大な軍艦であれば百発百中で命中する。
的が小さく、硬く、そして致命的な火力を持っている。既存の戦闘艦が束になっても太刀打ちできず、人類が一方的に海を奪われた理由が、この異形の死骸を見るだけで完璧に証明されていた。
「大淀さんの言う通りだ。旧来の駆逐艦はおろか、最新鋭の宇宙艦隊ですら、このサイズの的を海上であの距離からピンポイントで撃ち抜くことは不可能だろうし……相手の砲雷撃を回避することすらできないのだろうな」
「はい。その通りです。だからこそ、同じ人間サイズでありながら同等の火力を持ち、かつ『縁』という超常的な力で物理法則を凌駕できる艦娘にしか、彼女たちを倒すことはできないのです」
大淀の補足に、ヤンは深く頷いた。非対称戦の極致。これはもはや「海戦」ではなく、水上を滑走する超人同士の「白兵戦」に近い。
「ちなみに、電」
ヤンは、残骸を前に少しだけ怯えたように立っていた電を振り返り、優しく、しかし指揮官としての冷静な声で尋ねた。
「この敵……深海棲艦の駆逐艦は、海上でどのくらいの『速力』を出すんだい?」
ヤンの問いに、電はビクッと肩を震わせ、小さな声でおずおずと答えた。
「は、はい、なのです。正確にはわからないですが……三〇ノット(時速約五十五キロ)は、出ると、思うのです」
「…………」
その答えを聞いた瞬間、ヤン・ウェンリーは完全に言葉を失い、本日何度目かわからないため息を、地の底から湧き上がるように長く長く吐き出した。
「……そいつは、結構。実に素晴らしいよ」
ヤンは再び頭を抱え、ガリガリと掻き毟った。
水上を時速五十五キロで滑走する、硬い装甲を持った二メートル大の標的。それを波揺れる海上で、同じく時速五十五キロで走りながら撃ち抜かなければならない。
もはや不可能作戦(ミッション・インポッシブル)という言葉すら生温い。神が人類を滅ぼすために設定した、クリア不可能な悪魔のゲームである。彼がかつて指揮した同盟軍の艦隊戦が、いかに物理法則と数学の庇護下にあった「理にかなった戦争」であったかを、痛感せざるを得なかった。
「……まぁ、いい。相手の性能を嘆いていても、今日の夕飯の足しにはならないからな」
ヤンは、どうにか己の理性を立て直し、現実逃避を打ち切った。最悪の現状を正確に認識することからしか、最善の戦術は生まれない。敵の性能が理解の範疇を超えているのなら、こちらも手元にある「理解を超えた手札」を最大限に活用するまでだ。
ふと、ヤンが視線を逸らすと、桟橋の隅の方で奇妙な光景が展開されていた。先ほど雷と電が持ち帰ったガラクタの山の中から、あの緑色をした『謎のバケツ』だけを、いつの間にか現れた数人の妖精たちがキャッキャと歓声を上げながら回収していたのである。
彼らは重そうなドラム缶や弾薬には目もくれず、そのバケツの表面を撫で回し、まるで黄金でも見つけたかのように大切そうに抱え込んでいる。
(……あのバケツは一体何だ? 妖精たちの給料代わりの嗜好品か何かか?)
ヤンは首を傾げたが、今はオカルトの謎解きよりも、目の前の戦力と物資の管理が優先であった。とはいえ、あのバケツが後にヤン・ウェンリーの戦術を根底から支え、この絶望的な兵站線を維持するための「最大の魔法」であることを、今の彼はまだ知る由もなかった。
「さて、大淀さん。仕分けが終わったら、執務室に戻って次の防衛線の計画を練るとしよう。神通と金剛の演習結果も気になるしね」
「はい、提督」
海風に吹かれながら、不敗の魔術師は静かに歩き出した。異世界の狂気じみた戦場にあっても、彼の歩みは決して気負うことなく、ただ淡々と、次なる勝利の方程式を編み上げようとしていた。
■
執務室に一人残されたヤン・ウェンリーは、深々と皮張りの椅子に背中を預け、天井の染みをぼんやりと見上げていた。
優秀な秘書艦である大淀には、今回回収された物資と兵站データの整理を命じてある。
「極上の紅茶はそのあとで構わないから」
と念を押して、彼女を執務室から送り出したのだ。任務を終えた第六駆逐隊の雷と電も、補給と入渠による休息に入っている。
完全な静寂の中、ヤンは先ほど桟橋で目にした異形の残骸を脳内で反芻していた。
人間のサイズでありながら、近代戦闘艦の装甲と火力を備えた存在。知識として話には聞いていたし、理屈の上でも理解したつもりでいた。しかし、実際にこの目でその実体――兵器と生物がグロテスクに融合した残骸――を目の当たりにしてしまうと、どうしても実感が伴わずに理性が拒絶反応を示す。
まさしく、正しく化け物である。
しかも、今回回収された駆逐艦級の残骸はまだ「魚や獣に近い化け物」と呼べる範疇だったが、大淀たちの話によれば、より高位の深海棲艦は「完全に人間の女性の姿をしている」というではないか。
「いやはや、全くもって狂っている」
ヤンは両手で顔を覆い、深い溜息を指の隙間から漏らした。この世界が抱える非常識な物理法則とオカルトのオンパレード。もしも元の世界に帰り、愛弟子であるユリアン・ミンツにこの顛末を語って聞かせたとしたら、あの真面目な少年はどんな顔をするだろうか。
『提督、いくらなんでもブランデー入りの紅茶を飲み過ぎです。アルコールの過剰摂取は脳細胞に幻覚を見せますよ』
呆れ顔で小言を言うユリアンの姿が容易に想像できてしまい、ヤンは思わず天井に向かって苦笑した。平和な時代であれば、三流のSF小説のプロットとしても採用されないような与太話だ。
そんな風に歴史の傍観者としてひとりごちていた、その時である。執務室の重厚な扉の隙間から、ひょっこりと小さな影が入り込んできた。建造ドックで火の海に飛び込んでいた、あの小人――妖精さんの一人であった。
「おや? どうしたんだい、こんなところまで」
ヤンが不思議そうに問いかけると、妖精はトコトコとヤンのデスクによじ登り、彼の目の前に「ある物」をコトリと置いた。
真鍮製の古めかしい枠に収められた、手のひらサイズの
「……これは?」
ヤンが羅針盤と妖精を交互に見比べると、妖精はひどく大真面目な顔で深く頷き、背中に背負っていた小さな黒板(ボード)をヤンに突き付けてきた。そこには、丸っこいチョークの字でこう書かれていた。
『艦娘の進路を決める羅針盤。したがうこと』
「……従う? 作戦司令官である私が、このただの羅針盤に?」
ヤンが信じられないという顔で聞き返すと、妖精は全身を使って「YES」とばかりにめちゃくちゃに頷いた。海図を広げ、潮流を読み、敵の補給線を断つための最適な航路を緻密に計算するのが戦術家の仕事である。行き先をルーレットのように羅針盤の針に委ねるなど、軍事作戦に対する冒涜以外の何物でもない。
「……ちなみに、この羅針盤の指し示した方針に、従わなかった場合はどうなるんだい?」
ヤンが少しだけ意地悪な質問を投げかけると、妖精の動きがピタリと止まった。そして、愛らしい顔のままスッと右手を前に出し、親指を真っ逆さまに下(サムズダウン)へ向けたうえで、自らの首を掻っ切るジェスチャーを極めてスムーズにやってのけたのである。
「……ふむ、いや、まぁ。なるほど」
そのあまりにも直接的で物騒な脅迫に、不敗の魔術師は完全に戸惑い、曖昧な言葉を濁すことしかできなかった。ヤンの顔に浮かんだ恐怖にも似た困惑を見て、妖精は満足げな笑みを浮かべた。そして、仕事は終わったとばかりに短い敬礼を残し、再びトコトコと執務室から出て行ってしまった。
一人残されたヤン・ウェンリーは、デスクの上に残された真鍮の羅針盤を見下ろした。
不思議な事に、針は、どこを指すでもなくフラフラと無機質に揺れている。
「なんだったんだ、今の寸劇は。……というか、この羅針盤の針は一体どういう力学で動いているんだ? いや、そもそも、この針は一定方向を差すものじゃないのかね……」
不敗の魔術師、奇跡のヤン。
数万隻の艦隊を自在に操り、常勝の天才ラインハルトすらも退けたその類稀なる戦術的頭脳は今、「サイコロの出目で進軍ルートを強制される」という、世界で最も理不尽なオカルト・システムの前に、手も足も出ないまま呆然と立ち尽くすのであった。