妖精が置いていった不可解な真鍮の羅針盤。その真価、あるいはこの世界の戦術における理不尽な絶対性ともいえるものが発揮されたのは、直後に開かれた次期作戦会議の席上であった。
横須賀鎮守府の近海を脅かしていた深海棲艦の戦艦部隊が消滅したことで、息を潜めていた戦線に明確な動きが出始めていた。
前線の哨戒任務に当たっている第六駆逐隊の暁や、軽巡洋艦の天龍らからは、
「小規模な駆逐艦級の敵哨戒部隊と散発的に交戦、これを撃破しつつ海域を確保中」
という景気の良い報告が相次いで上がってきていた。別働隊として動いている響と龍田のコンビも同様に戦果を挙げ、近海の安全度は日を追うごとに高まっている。
「近海の安全が確保されたとなれば、次なる一手は必然的に決まってくる」
ヤン・ウェンリーは、執務室の机に広げられた広域海図の上に一本の指示棒を置き、その先端を日本列島の南西――、すなわち南西諸島から台湾周辺へ広がる海域へと滑らせた。
「ここで一気に南西諸島方面へと戦線を押し上げ、制海権の優勢を確立する。それができれば、これまで細い糸のようだった南方からの補給線を、強固な太いパイプへと作り変えることができる。加えて、南西諸島を確保すれば、地理的に孤立しつつある他の鎮守府……特に佐世保や呉との連絡線(シーレーン)も繋がり、相互支援が現実的なものとなる」
戦術的にも戦略的にも、理にかなった次の一手であった。しかし、ヤンがそう言うと同時に、傍らで海図を覗き込んでいた大淀は、ひどく疲れたような、複雑な溜息を吐いた。
「理屈の上では、提督の仰る通りです。ですが……」
大淀の手元には、佐世保や呉の各鎮守府から送られてきた暗号通信の束が積まれている。ヤンはそれらを一瞥し、ボサボサの黒髪を乱暴に掻き回した。
「わかっているよ。他所から届く報告は、相も変わらず『物資が足りない』『敵の攻勢が厳しい』という悲鳴ばかりだ。それどころか、横須賀が新たな艦娘の建造に成功し、近海の敵主力部隊を撃破したという噂を聞きつけて、『余裕があるなら、こちらに有力な艦を一隻回してくれないか』などというふざけた要望まで来る始末だからな」
ヤンの声には、かつて自由惑星同盟の統合作戦本部に向けていたのと同じ、官僚主義への深い嫌悪が混じっていた。
「兵站を整えずに兵器だけを要求するなど、餓死寸前の人間に純金を持たせるようなものだ。運用する燃料も入渠させるドックの余裕もないのに、艦娘だけを寄越せとは……どこの世界でも、後方で書類をいじるだけの人間は、数字の足し算でしか戦争を考えられないらしい」
ヤンは皮肉を言い捨てたが、すぐに思考を切り替えた。他部署の無能を嘆いても自軍の重油は増えない。
「とはいえ、彼らを見捨てるわけにもいかない。ひとまず、南西諸島……つまりは沖縄周辺の敵拠点を叩くことを最優先目標に設定しよう。ここを抜けば、佐世保への航路も開ける」
ヤンが指示棒の先で沖縄本島をトントンと叩くと、大淀は頷きながらも懸念を口にした。
「しかし提督、その海域は広大すぎます。もっとも地理的に近しいはずの佐世保鎮守府からも、有力な情報は何一つ上がってきてはおりません。敵の主力がどこに潜んでいるのか、正確な位置が掴めないのです」
「……となると、大規模な部隊を動かす前に、入念な哨戒任務が必要になるか」
ヤンがぼやくと、
「その通りですね」
と大淀は同意し、自身のバインダーから数枚の報告書を引き抜いた。
「過去のシーレーン襲撃の記録と、散発的な交戦データから推測するに……おそらく敵の拠点は、沖縄本島の北西、東シナ海の中央あたりに存在すると推察されます」
「根拠は?」
「三つあります。第一に、沖縄周辺での直接的な目撃例が不自然なほど少ない事。第二に、東側(太平洋側)よりも西側(東シナ海側)での目撃例が圧倒的に多い事。そして第三に、台湾寄りの位置では襲撃が極端に少ない事です」
大淀の理路整然とした説明を聞き、ヤンは目を細めて海図を見つめた。敵の動きが少ない空白地帯と、不自然に活発な海域。その分布を地図上で塗りつぶしていくと、自ずと一つの点が浮かび上がってくる。
「ふむ。情報部の根拠としては少々心許ないが、現状の戦力で動くための仮説としては十分だ」
ヤンは海図の上にいくつかの駒を置きながら、具体的な戦術を組み立て始めた。
「と、いうことはだ。我々の主攻ルートは、東回りで太平洋側から突入し、敵哨戒部隊を蹴散らしながら、本命である北西の敵拠点――おそらくは深海棲艦の泊地――を強襲して叩く、という方向性になるな。……あとはそうだな、進軍ルートとして沖縄の北を回るか、それとも南を回っていくかだが」
「艦隊の構成はどうされますか?」
大淀の問いに、ヤンは兵站の数字を脳内で素早く弾き出した。
「燃料の備蓄と航続距離を考えれば、駆逐艦四隻、軽巡洋艦二隻の軽量編成としたいところだ。だが、今回は相手の正確な戦力が読み切れない。万が一、再び敵の戦艦級と遭遇した場合、水雷戦隊だけでは全滅の危険がある。……燃料の消費には目を瞑り、駆逐艦四隻、軽巡洋艦一隻、そして戦艦を一隻編成に組み込むとしよう。『敵泊地殴り込み艦隊』、とでも言うべきかね」
ヤンがそう決断を下し、海図の上にルートを描き込もうとした、まさにその瞬間である。
ガチャリ。
ヤンのデスクの端に置かれていた、あの妖精が持ち込んだ真鍮の羅針盤。その針が、誰の手にも触れられていないにもかかわらず、突如として弾かれたように回転を始め、ピタリと「南」の方角を指して止まったのである。
「……」
執務室に、奇妙な沈黙が落ちた。
「提督、この羅針盤は一体……?」
「さぁ。先ほど、妖精さんがわざわざ持ち込んだものなのだがね……」
ヤンの脳裏に、笑顔で親指を下へ向け、自らの首を掻っ切るジェスチャーをしたあの妖精の姿が鮮明にフラッシュバックした。
『
万が一この方針に逆らえば、オカルト的な強制力によって艦隊が謎の座礁を遂げるか、あるいは妖精たちがストライキを起こして艦娘の艤装が動かなくなるのか。どちらにせよ、この非科学的な世界のルール(UI)に逆らうことは、軍事的敗北に直結する。
ヤンは額に滲んだ冷や汗を拭い、ひどくわざとらしい咳払いを一つした。
「……まぁ、触らぬ神に祟りなしともいうしね。オカルトにはオカルトの理屈があるのだろう。今回は、南ルートで行こう」
不敗の魔術師の戦術的決断が、一個の怪しげな羅針盤によって捻じ曲げられた瞬間であった。大淀は怪訝な顔をしたが、妖精さんがら、ということからそれ以上は追及しなかった。
「そして、もう一つだ」
ヤンは気を取り直し、海図の上に残っていた航空母艦の駒をつまみ上げた。
「主力艦隊をこの羅針盤の言う通りに南から突入させる前に、加賀を動かしたい」
「加賀さんを、ですか?」
大淀が驚いたように声を上げた。加賀は、ヤンが提督になる前の作戦で負傷し、現在も修復中のはずである。
「ああ。今回は相手の正確な位置も戦力も判らないまま、暗闇を手探りで進むような作戦になる。情報不足は部隊を壊滅させる最大の要因だ。修復を終え次第、加賀を四国の道後水道、出来れば、呉の防衛圏内であるギリギリの佐多岬まで配備。そして哨戒機を飛ばさせ、沖縄県の北西、東シナ海一帯を徹底的に索敵させる。敵の拠点を見つけ次第、後続の第一艦隊に通達し、彼女自身は交戦せずに即座に引けばいい。護衛には、練度の高い天龍と龍田をつける」
純粋な『目』としての航空戦力の投入。打撃力としてではなく、広域索敵機の発艦プラットフォームとして空母を先行させるのは、情報戦を重視するヤンらしい手堅い采配であった。
「……素晴らしい用兵です。しかし提督、それでは横須賀司令部の守備が極端に薄くなりますが、よろしいのですか?」
大淀の危惧はもっともであった。主力艦隊と空母機動部隊を同時に外へ出せば、鎮守府に残るのは傷ついた艦や錬度不足の駆逐艦のみとなる。
「ま、致し方ないだろう。なにせこれは、お互いの存亡をかけた正しい消耗戦なのだから」
ヤンは皮肉めいた笑みを浮かべ、椅子に深く寄りかかった。
「それに、司令部を空にしても問題はない。敵は今、こちらへ攻め込んでくることはないよ」
「……なぜそう言い切れるのですか?」
「相手の指揮官の心理を想像してみればいい。まだまだ戦力的には圧倒的に相手が有利なはずなのに、彼らはここ数日、近海に小規模な駆逐艦の哨戒部隊しか送り込んできていない」
ヤンは海図の上に散らばる、撃破された敵駆逐艦の報告書を指先で弾いた。
「先日の反攻作戦で、敵の司令官は『目前まで追い詰めたはずの獲物が、突然牙を剥いて主力戦艦を食い破った』という想定外の事態に直面した。私が敵将なら、こう考える。『敵は未知の増援を得たか、あるいは新兵器を投入した。まだまだ我々が有利とはいえ、下手に戦力を逐次投入して損害を拡大させるのは愚策だ。戦力が完全に再編され、整うまでは、哨戒任務程度に留めて様子を見よう』……とな」
ヤンの黒い瞳に、冷徹な戦術家の光が宿る。
「敵の指揮官が極めて慎重であることは、すでに証明されている。彼らは今、態勢を立て直すために自ら足を止めているのだろうね。近海に小柄な駆逐艦しか現れないのが、その良い証拠さ」
ヤン・ウェンリーは、悪戯を成功させた子供のようにフッと笑った。
物理法則を無視した兵器。羅針盤という名の理不尽な神の意志。それらすべてのオカルトを盤上の駒として受け入れながらも、不敗の魔術師はただ一つ、普遍的な『敵の心理』という絶対法則だけを武器にして、深海棲艦との壮大なチェスゲームを支配しようとしていた。