ヤン・ウェンリーの仕掛けた極めて古典的でありながらも冷酷な罠は、見事に敵の警戒網を絡め取った。
足摺岬の沖合、波高き海原において、最初に動いたのは深海棲艦の海上打撃哨戒部隊であった。重巡洋艦一隻、軽巡洋艦一隻、そして駆逐艦三隻からなるその部隊は、加賀が放った哨戒機の影を空に認めるや否や、最高速でこちらへの突撃を開始したのである。
航空戦力という致命的な脅威を前にしては、いかなる化け物といえども無視して通り過ぎることはできない。彼らは本能的に、あるいは理知的な戦術的判断に基づいて、航空母艦の懐へと殺到しようとした。
だが、それを待ち受けていたのは、武闘派を自認する二隻の軽巡洋艦であった。
「あらぁ~? 来たわね? あはははっ♪ 砲雷撃戦、はじめるわね」
龍田が、その妖艶な微笑みを一層深めながら、手に持った薙刀状の艤装を振りかざした。恐怖など微塵もない、むしろ血の匂いを喜ぶような冷酷な歓喜がその声には満ちていた。
「よーし! この天龍様の突撃を見せる時だなぁ!」
姉妹艦である天龍は、龍田とは対照的に、まるで祭りにでも参加するような熱を帯びた声で吠え、抜刀した剣を前方に突き出した。二つの影は、襲い来る深海棲艦の群れに向かって、一切の躊躇なく一直線に突撃を敢行する。防御を捨てた、純粋な暴力の衝突である。
「もう! あの二人ったら、少しは陣形というものを考えてください!」
旗艦を務める阿武隈は、部下たちの独断専行に憤慨の声を上げながらも、その手は寸分の狂いもなく主砲の射撃管制を完了させていた。彼女の放った牽制の砲弾が、天龍と龍田に襲いかかろうとしていた敵軽巡洋艦の足元に着弾し、見事な水柱を上げてその進路を妨害する。
単なる激情ではなく、計算し尽くされた援護射撃。水雷戦隊の華たる阿武隈の判断は、ここでも完璧に機能していた。
一方、激しい砲撃戦が幕を開けた海域の最後尾で、駆逐艦の漣はただ一隻、加賀の周囲に留まり、上空と水中への警戒を厳重に続けていた。彼女の任務は遊撃ではなく、この艦隊の最大の矛を守り抜くことである。
そして、その絶対的な庇護の下で、加賀は二本目の矢を和弓につがえた。
「……鎧袖一触よ。心配いらないわ」
冷たく、しかし確かな自負を込めた呟きと共に放たれた矢は、空中で幾筋もの光へと分かれ、九七式艦上攻撃機の編隊――主力の雷撃隊となって敵艦隊の頭上へと殺到した。水上からの天龍たちの突撃と、阿武隈の的確な砲撃。そこに上空からの無慈悲な雷撃が交差する。三次元的な飽和攻撃を前に、深海棲艦の哨戒部隊は回避の暇すら与えられず、次々と海のもくずへと変わっていった。
■
いっぽうその頃。加賀たちが華々しい囮としての役割を完璧に遂行していたのと同じ時。完全な無線封鎖を敷き、黒潮を避けた大外の南ルート――九州の太平洋側沖合を突き進んでいた金剛たちの主力艦隊もまた、敵の偵察部隊と遭遇していた。
敵は軽巡洋艦を中心とした小規模な部隊であった。本来であれば厄介な遭遇戦となるはずだったが、ここには横須賀鎮守府が誇る最大の火力が揃っていた。
轟音と共に、金剛の三十五・六センチ連装砲が火を噴いた。ほぼ同時に、神通の百四十ミリ連装砲が精密機械のような正確さで放たれる。水上を滑走する敵の軽巡洋艦は、その圧倒的な質量と熱量の前に、反撃の砲の仰角を合わせる間もなく、文字通り鎧袖一触で粉砕された。
「やるネー! 神通!」
「金剛さんも、お見事です」
爆炎を背に、金剛が溌剌とした声を上げると、神通は控えめに、しかし確かな戦意を秘めた瞳で微笑み返した。戦艦と軽巡洋艦、艦種は違えど、互いの技量を認め合う歴戦の魂の共鳴がそこにはあった。
「第六駆逐隊の皆さん。雷撃は昼間はまだ命中率が低く、危険が伴います。今は攻撃を焦らず、敵弾に当たらぬよう回避と陣形の維持に専念してください」
神通は、後方を追従する暁たちに極めて冷静な指示を飛ばした。敵の戦力を侮らず、味方の損耗をゼロに抑えるための的確な用兵。言われた暁や響たちも、
「了解!」
と素直に頷き、愚直なまでにその防御陣形を維持し続けていた。
不敗の魔術師の描いた戦術は、前線で戦う少女たちの技量と結びつくことで、完璧な芸術へと昇華されようとしていた。
見上げれば、天高く昇った太陽が、真っ青な太平洋を眩いばかりに照らし出している。その圧倒的な光は、まるで長きにわたる絶望の夜を抜け出し、反攻へと転じようとする人類の行く末を、力強く祝福しているかのようであった。
■
やがて太平洋の水平線が茜色に染まり、昼と夜の境界が曖昧になる逢魔が時。数度にわたる深海棲艦の散発的な襲撃を、見事な艦隊運動と的確な砲雷撃で退け続けていた阿武隈たちの頭上に、低いプロペラ音が戻ってきた。
加賀が放っていた長距離偵察機である。
幾分か被弾している機体は空母の甲板――否、彼女の弓へと吸い込まれるように舞い降りると、ふたたび一本の矢へと姿を変えた。同時に、加賀の甲板上に妖精が現れ、パタパタと海図を広げ、東シナ海のただ中にある「一点」を小さな指で力強く指し示したのである。
「……ご苦労様」
加賀が静かに労いの言葉をかけると、妖精は満足げに頷いて姿を消した。それを見た阿武隈は、周囲の警戒を解くことなく、極めて事務的な、しかし通る声で艦隊に告げた。
「これ以上の進撃は危険です。全艦、反転。撤退します」
その判断に、加賀も異論はなかった。激しい対空・対艦戦闘と度重なる回避運動により、彼女の航空機及び装甲の損耗はすでに無視できないレベルに達している。呉と横須賀への帰路の安全を考慮すれば、ここが限界の潮時であった。
「……しかし、南ルートを進む金剛さんたちとの合流は叶いませんでしたね」
加賀がわずかに肩を落とし、囮としての役割だけで終わったことへの不完全燃焼な思いを口にすると、阿武隈は潮風に髪を揺らしながら、事も無げに笑った。
「金剛さんたちと合流できなかったこと自体が、作戦通りなんですよ。今回は多分、あのヤン提督は最初から『完全な勝利』なんて目指してはいないと思います」
「どういう意味だよ?」
怪訝な顔で首を傾げた天龍に、阿武隈は手元の海図を丸めながら、まるで今日の夕食のメニューでも語るような普通のトーンで解説を始めた。
「文字通りです。今回の作戦、おそらく四段構えの戦略で組まれています」
「四段構え?」
「ええ。まず第一弾は、二方面からの攻勢という形をとった『政治と兵站の結びつき』です。呉と横須賀の繋がりを強固にするという戦略的側面ですね。私たちは横須賀から貴重な物資を頂き、横須賀は私たち第一水雷戦隊の護衛を借りた。これで両鎮守府の間に、明確な貸し借りとパイプができました」
龍田が「なるほどね」と妖しく微笑む。
「じゃあ、二つ目は?」
「それは純粋な『囮(デコイ)』です。目立つ正規空母を擁する北ルートの私たちが陽動となり、本命である南ルートの金剛さんたちを無傷で通すための布石ですね」
「それは、作戦の動きを見ていればまだわかるわ」
と加賀。
「でも、三つめは?」
阿武隈はふふっと笑い、加賀の手元にある海図を指差した。
「それは、今加賀さんが妖精さんから受け取ったものです」
「私が? ……この海図が?」
「はい。敵の心臓部――深海棲艦の泊地の正確な位置座標です」
加賀はハッとして手元の地図を見下ろした。ヤン・ウェンリーという男は、初めから敵艦隊の撃滅など欠片も期待していなかったのだ。この作戦の真の目的は、敵の目を引きつけながら、次なる大規模反攻作戦のための「決定的な情報(インテリジェンス)」を無傷で持ち帰ることにあった。
「今回、幸いにして加賀さんという正規空母が動いてくれたおかげで、敵の戦力は綺麗にこちらへ吸い寄せられたと思います。その動きは空からなら十二分に追えた事でしょう。索敵機が泊地を見つける目印になったはずです。おかげさまで呉の第一水雷戦隊である我々2隻は被弾、そして横須賀の艦隊も中破とは言いませんが、天龍さん、龍田さんは損害を被っています。空母である加賀さんは守り切りましたし、誰も沈んでないので御の字ですけどね。……まぁ、物資と重油はすっからかんになりそうですけど」
阿武隈は歴戦の指揮官としての顔を覗かせ、快活に笑った。そのあまりにも理にかなった見事な戦略の全容を聞き、駆逐艦の漣が不思議そうに尋ねた。
「じゃあ、無傷で南ルートを抜けた金剛さん達は、一体何をしに行くんですかね?」
「それが四段目。多分、太平洋側の敵索敵網の把握と、東シナ海への威力偵察と戦力把握、じゃないのかな? 横須賀の正面は取り返したけど、じゃあその先の太平洋は? そして、沖縄の西側に、一体どんな強力な敵が潜んでいるのか? 直接叩いて知りたいんじゃないかなって」
阿武隈はいとも簡単にそう答えた。敵の中枢にたった数隻で殴り込みをかける部隊の心配など、微塵もしていない様子である。
「でも、これからは夜よ。敵泊地があると思われる海域に突入するのは、危険だと思うのだけど」
加賀が訝しげに視線を向けると、阿武隈は沈みゆく太陽を背にして、悪戯っぽく片目を瞑った。
「そう。これからの時間は「夜」です。あっちの艦隊には第六駆逐隊と、あの神通さんがいるんでしょ?」
その名前が出た瞬間、天龍も龍田も、そして加賀でさえも、なるほどと深く納得したように息を吐いた。
夜闇の海において、第二水雷戦隊を率いた「華の二水戦」の旗艦、神通の右に出る者はいない。そして忘れられがちだが、第六駆逐隊は、阿武隈が率いた第一水雷戦隊所属の歴戦の猛者だ。不敗の魔術師が放った冷酷な刃は、いよいよ暗黒の海で、その真の切れ味を敵の喉元へと突き立てようとしていた。