夜の帳が下りた海は、昼間とは全く異なる物理法則と死生観が支配する異界へと変貌する。
大艦巨砲主義が信奉される昼間の海戦において、戦場の主役は間違いなく巨大な装甲と圧倒的な火力を誇る戦艦である。しかし、視界が極端に制限され、レーダー等の電子兵装が未発達、あるいは超常的な力によって無効化されるこの狂気の世界において、夜間の海戦は全く別の様相を呈する。
暗闇に紛れて肉薄し、必殺の雷撃と乱戦による砲撃を叩き込む。夜の海の主役は、紛れもなく水雷戦隊――すなわち巡洋艦と駆逐艦であった。
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その事実を、戦艦である金剛は自身の肌を粟立たせるような焦燥と共に痛感していた。
「……夜のミナサンは、まるで別人みたいデース」
波を切って進む金剛の額には、冷たい汗が浮かんでいた。数日前の昼間にはあんなにも無邪気に廃品回収を喜んでいた第六駆逐隊の少女たちが、完全に気配を消している。波音と同化し、漆黒の闇夜に溶け込むその姿は、獲物を狙う飢えた狼の群れそのものであった。
深海棲艦の小規模な哨戒部隊と遭遇するたび、彼女たちは一切の躊躇なく、そして一切の無駄なく砲撃を放ち、的確に敵を海の底へと沈めていく。歴戦の軽巡洋艦である神通が、指示を出す余地すら与えないほどの完璧な連携であった。
「……流石、阿武隈さんの部下ですね」
暗闇の中で、神通は静かにごちた。かつて第一水雷戦隊の旗艦として数々の死線を潜り抜けた阿武隈に鍛え上げられたからか、あるいは彼女たち自身の魂に刻まれた凄惨な夜戦の記憶がそうさせるのか。その練度は、大艦のそれとは次元が違っていた。
特に、第六駆逐隊の長女である暁の戦闘教義(ドクトリン)は、兵法に照らし合わせれば狂人のそれであった。
暗闇の海上で自らの位置を秘匿するのが夜戦の鉄則であるにもかかわらず、彼女は敵の気配を察知するや否や、躊躇なく自らの探照灯(サーチライト)を最大出力で照射するのだ。
それは敵に対して、
「私はここにいる、私を撃て」
と宣言するに等しい、完全な自殺行為である。
しかし、暁の放つ強烈な光の帯が敵の姿を闇から引きずり出した瞬間、息を潜めていた響、雷、電の三人が、一斉に正確無比な集中砲火を浴びせる。光に目を奪われ、暁へと砲門を向けようとした敵は、その直前に無数の砲弾を浴びて沈黙する。
万が一、その一撃で仕留め損なった敵がいたとしても、一拍遅れて放たれる神通の十四センチ砲と、金剛の三十五・六センチ砲が、慈悲なく対象を粉砕した。囮と飽和攻撃、そして重火力による掃討。それは、狂気と隣り合わせの極めてシステマチックな殺戮戦術であった。
やがて艦隊は、沖縄の南方を大きく迂回する海域へと差し掛かった。漆黒の海の向こう、水平線の彼方に、微かながらも確かな光の瞬きが見えた。人々の営みが発する灯りである。圧倒的な暴力を前に海を追われた人類が、それでもなお陸地にすがりつき、今日を生き延びている証であった。
「まだ人の暮らしは、ダイジョブみたいデースね」
金剛が、張り詰めた空気の中でわずかに息を吐き出すように呟いた。彼女たちが自らの命を賭して暗闇を往く理由は、あの小さな灯りを守るためである。その事実が、少女たちの鋼鉄の心臓に確かな熱を与えていた。
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そして、夜も最も深まった深夜二時。沖縄本島から百キロ以上も西へ離れた、東シナ海のただ中。ヤン・ウェンリーが机上で弾き出した敵拠点の心臓部へと足を踏み入れたその時、暁の探照灯が、これまでとは比較にならないほど巨大で、禍々しい影の群れを暗闇の中から暴き出した。
「敵主力艦隊発見!」
光の帯の中央で、暁が夜気を切り裂くような大声を上げた。その声には恐怖ではなく、待ちわびた獲物を前にした戦士の歓喜が混じっていた。
「空母二、重巡二、軽巡二、駆逐二!」
圧倒的な質量。深海棲艦の主力拠点を防衛する、正規の打撃群である。敵が突然の強光に怯み、陣形を整えるよりも早く、艦隊の最後尾から金剛が咆哮を上げた。
「テイトクの戦術通りデース! 一斉射撃……ファイアー!」
暗闇を真昼のように照らし出す巨大な閃光と共に、戦艦の主砲が火を噴いた。三十五・六センチの徹甲弾が、巨人の鉄槌のように敵陣のど真ん中へと叩き込まれ、巨大な水柱と爆炎が夜空を焦がす。
その圧倒的な砲撃の轟音と爆発の光に敵の意識が完全に奪われた、その一瞬の隙。
探照灯の光を最大出力で発光させながら立ち尽くす暁ただ一人を水上に残し、神通と三隻の駆逐艦たちは、ふっと夜の波間へとその姿を消した。
それは、水雷戦隊が最も得意とする必殺の戦術――闇に紛れて敵の懐へと潜り込み、致命の酸素魚雷を放つための死の舞踏の始まりであった。
不敗の魔術師が描いた盤上で、狼たちがついにその牙を敵の喉元へと突き立てたのである。
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夜戦における航空母艦とは、いかに巨大な威容を誇ろうとも、牙と爪をもぎ取られた巨獣に等しい。艦載機という絶対的な投射火力を封じられた深海棲艦の空母二隻は、暗闇の中でただ鈍重な標的として海上に浮かんでいた。
その事実を最も正確に理解していたのは、護衛に当たる敵の重巡洋艦と軽巡洋艦であった。彼らは自らの主、あるいは最大の戦略価値を持つ艦を守るため、暗闇の海で唯一の明確な光源である暁の探照灯へと、その狂気的な殺意と火力を一斉に指向したのである。
暗闇を切り裂き、無数の砲弾が一条の光の帯の根元へと殺到する。
水柱が林立し、轟音と水飛沫が夜の海を支配した。旧来の戦闘艦であれば、数秒で鉄屑に変わっていたであろう飽和攻撃。しかし、その死の嵐の只中を、暁は信じられないほどの敏捷性と平衡感覚で紙一重にすり抜けていく。
「一人前のレディを舐めないでよね!」
暁は啖呵を切りながら、海面を滑るように右へ左へと急旋回を繰り返す。探照灯の光軸は決して敵艦隊から外さない。それは、囮としての自らの役割を完璧に理解し、死の恐怖を強靭な自負心で押さえ込んだ、見事なまでの艦隊運動であった。
敵の砲火が暁一人に集中し、その目と意識が完全に光へと吸い寄せられた、まさにその刹那。
突如として、探照灯の光芒の端に位置していた巨大な敵空母の一隻が、前触れもなく内部から膨張するように大爆発を起こした。
致命的な、そして必殺の酸素魚雷の直撃である。
轟音と共に真っ二つに折れ、轟沈していく空母の断末魔の炎。その赤い光と、旋回する探照灯の光が交差したほんの一瞬、暗闇の波間に一人の少女の姿が浮かび上がった。
それは、ヤンの前で怯えたように縮こまっていた、あの気弱な駆逐艦・電(いなずま)であった。しかし、光に照らし出された彼女の瞳はギラリと冷たく光り、獲物の死を無感情に見届ける暗殺者のそれへと完全に変貌していた。
『……っ!?』
敵の重巡洋艦が、信じられないものを見たかのように砲塔を旋回させようとした瞬間、今度は二隻目の空母が凄まじい水柱と共に爆沈した。混乱。恐慌。暗闇の中に潜む見えない狼の群れに対し、深海棲艦の統制が決定的に崩れた。
その焦燥の只中にある敵重巡洋艦の背後に、いつの間にか、文字通り音もなく忍び寄っていた影があった。
第二水雷戦隊旗艦、神通である。
彼女の姿は、まるで死神のように敵の死角に寄り添っていた。いかなる機関の音も、波の音すらも立てずに肉薄した神通は、流れるような所作で雷撃を放つ。至近距離から放たれた魚雷は、重巡洋艦の分厚い装甲を紙のように食い破り、その腹を無慈悲に粉砕した。これで三隻の撃破。
「これはいけない」
と本能で悟ったのか、残されたもう一隻の重巡洋艦が、反撃を諦めて暗闇へと逃走すべく艦体を翻した。しかし、その逃走経路の先には、すでに絶望が待ち構えていた。
逃げようと振り返った敵の目の前に、飛んでくるように迫ったのは、身の丈ほどもある巨大な鋼鉄の錨(アンカー)を両手で高く振りかぶった雷(いかづち)であった。相対速度で言えば、約50ノット(時速100キロ)は超えていただろう。
ドガァンッ!!
近代海戦の常識を根底から嘲笑うような、鈍く重い金属の衝突音が闇夜に響き渡る。人間大の少女の細腕から放たれたとは到底思えない暴力的な質量が、敵重巡洋艦の顔面、あるいは艦首部を痛打し、その動きを完全に停止させる。そして、敵が体勢を立て直すよりも早く、暗闇の中から致命の雷撃が水面を裂いて直撃した。
大爆発の閃光の中、探照灯の光がまたしても一瞬だけ、再び電の顔を映し出した。雷電姉妹による、物理的な打撃と雷撃を組み合わせた無慈悲な連携。これぞ歴戦の駆逐艦たちが持つ、オカルトと実戦経験が融合した夜戦の極致であった。
主力である空母と重巡洋艦を瞬く間に失い、残されたのは軽巡洋艦と駆逐艦が二隻ずつ。ここに至り、敵の深海棲艦たちもなりふり構っていられなくなった。逃げることも、闇に隠れることも不可能と悟った敵の駆逐艦二隻が、その不気味な双眸をサーチライトのように不気味に発光させ、闇夜の狼たちを逆に照らし出そうとしたのである。
光が灯り、反撃の砲門が開かれようとした、まさにその瞬間。音もなく敵の懐に潜り込んでいた響が、敵駆逐艦の大きく裂けた口へと、自身の魚雷を直接ねじ込むように叩き込んだ。
「ハラショー」
無機質な呟きと共に放たれた至近距離での爆発が、敵の頭部ごとすべてを消し飛ばす。同時に、もう一隻の光を放った敵駆逐艦には、遥か後方で静かに砲門を温めていた金剛の三十五・六センチ砲が、一寸の狂いもなく着弾した。巨大な火柱が上がり、敵のささやかな抵抗の光は完全に海の底へと沈められた。
再び視界を奪われ、完全に盲目となった残存の敵軽巡洋艦二隻は、もはや戦意を喪失し、闇夜に紛れて散り散りに逃走を図ろうとする。しかし、ここまで完璧に囮を演じ切った暁が、それを許すはずがなかった。
「逃げられるなんて思わないでよね!」
暁の操作する探照灯の光が、必死に海面を逃げ惑う二隻の敵影を、まるで舞台上のスポットライトのように冷酷に照らし出し続ける。その光の先で引導を渡すのは、夜戦の鬼たる神通の役目であった。彼女はまず、右へ逃げる一隻に向けて静かに魚雷を放ち、水柱と共にこれを仕留める。そして左へ逃げる最後の一隻には自ら高速で肉薄し、主砲の砲身が触れ合うほどの至近距離から、徹甲弾を正確に撃ち込んだ。
連続する爆発音の後、海上に残されたのは、燃え盛る残骸と、静かに漂う黒煙だけであった。艦隊数において劣勢でありながら、敵の主力打撃群を相手に展開された、文字通りの殲滅戦。不敗の魔術師が描いた盤上で、少女たちはこれ以上ない完璧な死の舞踏を踊り切ったのである。
「完全勝利、デース!」
硝煙の漂う海上で、金剛が両手でVサインを掲げながら高らかに叫んだ。その快活な声に呼応するように、東の水平線の彼方が微かに白み始め、長く激しかった夜の帳が明けようとしていた。
「……撤退しましょう」
神通が、高ぶる戦意を静かに収め、極めて冷静な声で艦隊に告げた。何せ、泊地自体はまだ発見できていない。夜が明ければ、敵の増援がいつ駆けつけてきてもおかしくない状況だ。何より、夜間の圧倒的なアドバンテージを失えば、駆逐艦中心のこの編成では無用な損耗を強いられることになる。
「加賀さんたちと合流することはできまセンでしたしね! でも、これで相手の泊地に空母が配備されていることもバッチリ確認できマシタ!」
金剛も即座に同意し、艦隊は速やかに反転、北上を開始した。日本列島へと向かう巨大な海流・黒潮に乗り、薄明かりに包まれ始めた海を、時速四十ノット近い猛スピードで駆け抜けていく。疲労は極限に達しているはずだが、彼女たちの表情には、確かな戦果を挙げた誇りと安堵が浮かんでいた。
「敵の心臓部である泊地そのものを攻撃することはできませんでしたが……彼らの空母打撃群を叩くことは出来ました。これで、敵の足を大きく止めることができます」
神通の理知的な総括に、金剛は大きく頷いた。
「デースね! 十分、十分デス! テイトクの言う通り、名誉の戦死なんてお断りデス。生きて帰りまショー!」
少女たちの歓声と波の音が、朝日に輝く海に溶けていく。
ヤン・ウェンリーという希代の用兵家が仕掛けた初の反攻作戦は、囮と伏兵、そして彼女たちの超絶的な夜戦能力が見事に噛み合い、戦略的にも戦術的にも比類なき成功を収めた。
深海棲艦という絶対的な恐怖に対し、人類が初めてその喉元に冷たい刃を突きつけた、歴史的な夜明けであった。