『テートクー! ヤッツケタヨー!』
ノイズ交じりの無線の向こうから鼓膜を叩いたのは、深夜の激戦を制した直後とは思えない、底抜けに喧しい戦艦の歓声であった。ヤン・ウェンリーは顔をしかめて受話器からわずかに耳を遠ざけ、しかし声のトーンだけは極めて平坦に保ったまま応答した。
「よくやってくれた。ひとまず無事の帰投をお待ちしているよ。君たちを労うための補給・入渠用の物資は、十分に確保してある」
通信を切り、ヤンは皮張りの椅子に深く沈み込みながら、肺の底から絞り出すような長いため息を吐いた。
「……局地的な『戦術的勝利』、といったところかね」
ヤンが手元のメモに視線を落とすと、そこには第一艦隊からの被害報告が記されていた。空母二隻を含む敵主力打撃群との夜間戦闘という死地を潜り抜けながら、被害は駆逐艦・暁の小破のみ。囮を務めた呉の護衛艦隊と空母・加賀に関しても、燃料や弾薬の残量は底を突きかけているものの、船体――このオカルトめいた世界においては『身体』と呼ぶべきか――に大きな損傷は見られなかった。
「大戦果ですね、ヤン提督。敵の主力艦隊を無力化し、かつ味方の損耗を最小限に抑えるなど、かつての海軍将官たちにも成し得なかった偉業です」
傍らに控える大淀が、眼鏡の奥の瞳に確かな熱を宿して称賛の言葉を口にした。しかし、ヤンは照れるでも誇るでもなく、ただ困ったようにボサボサの黒髪を掻き回した。
「よしてくれ。敵の艦隊を一つや二つ海に沈めたところで、まったく人類の生存圏など増やせてはいないんだ。せいぜい、上層部の御機嫌を取った程度だよ」
ヤンは苦笑交じりにそう言い捨てたが、すぐに表情を引き締め、机上の海図へと視線を移した。
「でもまぁ、これで敵の心臓部たる泊地の正確な位置はわかったし、おおよその戦力も推察できる。金剛たちが、正規空母を中心とした打撃艦隊を夜の海に沈めたという事実は、極めて大きい」
ヤンの指先が、海図上の東シナ海、台湾と沖縄の間に位置する空白地帯をトントンと叩いた。
「つまり、あそこを抜いて西側の制海権を完全に取り戻すには、正規空母群の航空戦力と真っ向からぶつかる必要があるということだ。なんなら、今回は幸運にも夜の海で出くわさなかっただけで、あの奥には無傷の敵戦艦が手薬煉を引いて待っていると考えるのが自然だろう。空母の艦載機が飛び交う空の下で、巨大戦艦と殴り合う……考えただけでも胃液が逆流しそうだ」
「ですが、それが事前に判明しただけでも御の字、ですよね。もし知らずに主力艦隊を突入させていれば、全滅は免れませんでした」
「ああ。絶望的な暗闇の中に、なんとか針の穴ほどの光は見えている。それに、四国、道後水道までの沿岸ルートはクリアだった、という事実も大きい」
ヤンは冷めかけた緑茶を煽り、再び深い思考の海へと潜っていった。
「とはいえ、やはり決定的に艦艇の数が足らないな。本来の定石であれば、ここでもう一つの遊撃艦隊を出撃させ、帰還中の加賀たちと情報を共有。そして、主力部隊を失って混乱の極みにあるであろう敵の泊地に対して、間髪入れずに波状攻撃を仕掛けるべきなのだ。だが、我が鎮守府にはもう動かせる駒がない」
手持ちのカードの少なさを嘆きかけたヤンだったが、その言葉の途中で、彼の優れた戦術的直感がある致命的な矛盾に気がついた。ヤンの視線が、海図上の東シナ海から、少し北上して九州・佐世保鎮守府の位置へと移動する。
「……つまり、連中は日本近海には、さほど本格的な侵攻戦力を割いていない、ということか?」
「と、いいますと?」
「ああ、いや。確信があるわけじゃあない。ただ、連中はひどく『勿体ない事』をしているなと思ってね」
ヤンは、狐につままれたような顔で苦笑した。
「考えてもみたまえ、大淀さん。敵はあの東シナ海の泊地ではない場所に、正規空母を二隻も配備していた。航空機の航続距離を考えれば、佐世保鎮守府など完全に攻撃圏内だ。もし連中がその気になれば、空母機動部隊を少し北上させるだけで、佐世保の軍港施設を文字通り瓦礫の山に変えることができたはずだ」
大淀がハッとして息を呑む。確かに、これまでの佐世保からの報告は「物資不足による飢餓」や「局地的なシーレーン封鎖」の悲鳴ばかりであり、大規模な空襲を受けたという記録は存在しなかった。
「一体、敵の『真の目的』はなんなのだろうね」
ヤンは椅子に深く背中を預け、薄暗い天井を見上げた。
「どーも、彼らの目的は『人類の完全な殲滅』ではないようにも思える。もし我々を根絶やしにすることが至上命題であるならば、空母の暴力を背景に、とっくに佐世保や呉を火の海にしているはずだからな。彼らは圧倒的な力を持っていながら、意図的に海を封鎖するだけに留め、我々の息の根を止める最後の一撃をためらっている……あるいは、何か別の制約があって『できない』のかもしれない」
ヤン・ウェンリーの脳裏に、かつて対峙した帝国軍の様々な将帥たちの顔がよぎる。戦争において、敵の行動に不合理な点が見られる時、そこには必ず隠された戦略的意図や政治的背景が存在する。オカルトの化け物である深海棲艦に、そのような『理由』が存在するのかは未知数だが、彼らの動きが純粋な殺戮衝動だけに基づいているわけではないことだけは確かであった。
「戦術で勝っても、戦略の底が見えない。やれやれ、この難解な歴史の謎解きは、私のアマチュアじみた頭脳には少々荷が重すぎるよ」
不敗の魔術師は、誰もいない空に向かってお手上げだというように軽く肩を竦めた。しかしその黒い瞳の奥には、不可解な敵の真意を暴き出そうとする、知的な探究の火が静かに燃え上がり始めていた。
■
横須賀鎮守府に帰還した第一艦隊および第六駆逐隊の面々を執務室に迎え入れたヤン・ウェンリーは、報告書と海図を前に、深く、しかしどこか安堵の混じったため息を吐き出した。
「なるほど、概ね私の机上の空論通りに事が運んだというわけか。君たちの奮闘に、心からの敬意を表するよ」
ヤンが労いの言葉をかけると、報告を終えたばかりの戦艦・金剛が、長旅と激戦の疲労を微塵も感じさせない溌剌とした笑顔で、
「オフコース、デース!」
と胸を張った。第六駆逐隊の少女たちも、夜戦での鬼神のような姿からは想像もつかないほど無邪気な顔つきで、ヤンからの賛辞を誇らしげに受け止めている。
報告を総合すると、作戦はヤンが想定した以上の完璧な成果を挙げていた。唯一の想定外であったのは、呉へ帰還するはずだった阿武隈が独断で加賀の護衛を続行したことである。軍律の観点から言えば問題視されかねない行動だが、結果としてその臨機応変な判断が、航空戦力を消耗し切った加賀を無事に生還させる最大の要因となった。
(現場の指揮官が有能かつ独創的であることは、安全な後方で茶をすする怠け者の司令官にとって、何よりの福音だな)
ヤンは内心で阿武隈の采配に惜しみない拍手を送りつつ、大淀へ向けて、
「呉の第一水雷戦隊には、後日改めてたっぷりと物資を融通してやるとしよう。貸し借りはきっちりしておくべきだからね」
と指示を出した。しかし、ヤンの用兵家としての知的好奇心を最も刺激したのは、激戦の報告そのものよりも、金剛が何気なく口にした「道中の海域状況」についての一言であった。
「それにしてもテイトクの予想通り、太平洋側の南ルートは、見事にスッカラカンでしたヨ! 深海棲艦の影どころか、機雷一つ浮いていませんデシタ!」
金剛のその底抜けに明るい報告を聞き、ヤンは手元のマグカップを置いたまま、しばし沈黙した。黒潮のルートを外れたとはいえ、東シナ海の中枢へと通じる太平洋の海域が完全に無人であったという事実は、ヤンにとってひどく不自然に思えたのだ。
(……妙だな。あまりにも不自然だ)
ヤンの視線が、机上に広げられた広大な太平洋の海図へと吸い込まれる。
現在、かつての同盟国であるアメリカ合衆国のハワイ方面からの連絡は完全に途絶している。常識的に考えれば、ハワイをはじめ、その中継地点となるグアムや沖ノ鳥島、ウェーク島といった太平洋上の小さな島々は、すでに深海棲艦によって制圧され、彼らの前線基地(泊地)として運用されていると踏むのが自然である。
もし太平洋の島々が敵の手にあるのなら、そこから日本列島や南西諸島へ向けて、絶えず補給船団や哨戒部隊が行き交っているはずだ。いくら意図的に外郭のルートを通ったとはいえ、駆逐艦レベルの哨戒艇の一つや二つと遭遇しないというのは、軍事戦略上の確率としてあり得ない。
「敵は、太平洋側からのアプローチを全く警戒していない……あるいは、太平洋にはそもそも大規模な戦力を展開していないのか?」
ヤンの呟きに、大淀が怪訝な顔で首を傾げた。もしヤンの仮説が正しいとすれば、それはこれまでの人類の常識を覆す事実となる。人類は「海をすべて奪われた」と思い込んでいるが、実は深海棲艦の勢力圏は、極端に偏った海域――大陸の沿岸部や特定の海流地帯――に集中しているのではないか。
(もしそうなら、彼らの真の目的は……。いや、情報が足りなすぎるな)
ヤンはパタパタと海図を丸め、自らの堂々巡りの思考を強制的に断ち切った。これ以上の推論は、確たる情報を持たない妄想の域を出ない。
「……さて、ま。現実逃避はこの辺りまでとしよう」
ヤンは椅子から立ち上がり、黒髪をガリガリと掻き回した。
「せっかく皆が無事に帰ってきてくれたのだから、司令官として顔を出し、彼女たちの『船体』の無事をこの目で確かめておかねばなるまい。大淀さん、入渠ドックへ案内してくれるかい?」
「はい、承知いたしました。第六駆逐隊の皆さんも、神通さんも、すでに入渠の手続きを済ませておられます」
ヤンは執務室を後にし、大淀と共に地下の連絡通路を歩き始めた。かつて彼が旗艦ヒューベリオンで過ごしていた頃、戦闘後の艦内視察といえば、オイルと焦げた金属の匂いが充満する格納庫や、血気盛んな整備兵たちが怒号を飛び交わせる騒々しい空間へ赴くのが常であった。
しかし、このオカルトと魔法に支配された鎮守府において、艦娘たちのダメージ修復がどのような形で行われているのか、ヤンは未だに正確なメカニズムを理解していなかった。
「そういえば、大淀さん。彼女たちは傷ついた船体を、どうやって修復しているんだい? やはり先ほどの建造ドックのように、妖精さんがカンカンとハンマーを叩いて治すのかな?」
ヤンの素朴な疑問に対し、隣を歩く大淀は、どこか言いにくそうに視線を彷徨わせた。
「ああ、まぁ……原理としては妖精さんが関わっているのですが、外見上のシステムとしては、もっと直接的と言いますか……」
「直接的?」
「簡単に言いますと、お風呂、ですね」
「……風呂」
「はい。特殊な成分を含んだ専用の入渠ドック――つまり大きなお風呂に浸かっていただくことで、心身の疲労と艤装の損傷を癒やすシステムとなっております」
大淀の言葉を聞いた瞬間、ヤンの足が、まるで床に縫い付けられたかのようにピタリと止まった。不敗の魔術師の優れた知能が、現在の状況と向かっている目的地、そしてその空間で展開されているであろう光景を瞬時に結びつけ、完全なる論理的帰結を導き出したのである。
「……ということは、だ」
ヤンは振り返らず、前方にある『入渠ドック』と書かれた分厚い扉を薄目で見つめた。
「私は今から、先ほどの激戦を終えて汗と煤を流している最中の、うら若き女性たちの風呂場へ、何の事前通達もなく踏み込もうとしている……そういう解釈で間違いないかな?」
ヤンの問いかけに、大淀は困ったような、しかし面白がるような微かな笑みを浮かべて答えた。
「……難しいところですね。軍の規定上、彼女たちはあくまで『艦船』ですから、提督がドックを視察するのは正当な業務です。ですが、姿形は間違いなくうら若き『女性』でもあります。女性といえば女性ですし、船と言えば船ですし……提督ご自身の倫理観に委ねられるかと」
「…………」
数秒の重苦しい沈黙の後。ヤン・ウェンリーは、一切の未練も迷いもない、軍の行進訓練のお手本のような完璧な動作で「回れ右」をし、踵を返した。
「わかった。今日のところは止めておこう」
ヤンの歩行速度は、ここへ来る時よりも明らかに三割増しで早くなっていた。
「私の脆弱な精神はただでさえオカルトと激務で摩耗しているんだ。これ以上の修羅場やスキャンダラスな誤解を招くような真似はご免被りたい。兵器の修復状況など書類で報告を受ければ十分に事足りるからな」
逃げるように元来た道を引き返し始めたヤンの背中を見つめ、大淀はついに堪えきれずに、上品な笑い声を地下通路に響かせた。数万の敵艦隊を前にしても決して取り乱すことのなかった青年が、うら若き少女たちの風呂場を前にして見事な戦略的撤退(フルスピードでの逃走)を遂げている。この怠け者で、人間臭く、そして誰よりも部下の命を重んじる指揮官の姿は、冷たい鋼鉄の海に生きる彼女たちにとって、何よりも心地よい日常の風景になりつつあった。
「そうしたら、建造ドックの方へ行くとしようか。あそこなら、少なくとも服を着た妖精さんしかいないはずだからね」
「ふふっ、はい。ご案内いたします、ヤン提督」
足早に逃げ去るヤンの足音と、大淀の楽しげな靴音が交差する。外の海では依然として過酷な生存競争が続いているというのに、この鎮守府の地下には、奇妙なほどに穏やかで、緩やかな日常の時間が流れていた。