執務室に戻ったヤン・ウェンリーを待っていたのは、湯上りの熱気と仄かな石鹸の香りを漂わせた戦艦であった。
戦闘用の艤装を外し、涼やかな浴衣姿に着替えた金剛が、湯気を立てるティーカップを盆に乗せてやってきたのだ。普段は背中でまとめられている豊かな髪がそのまま下ろされており、夜の照明に照らされるその姿はどこか神秘的な雰囲気を漂わせている。それでいて、彼女特有の底抜けに元気溌剌とした空気は少しも失われてはいなかった。
入れ替わるようにして、大淀が自身の入渠のために執務室を後にする。第六駆逐隊の電と、軽巡洋艦の龍田は、近海の夜間哨戒任務へと出払っている。静まり返った深夜の執務室には、ヤンと金剛の二人だけが残された。
「テイトクは本当に凄いですよネー。あんな少ない情報から、イロイロな状況を読み取っちゃうんですカラ」
金剛はソファに腰掛け、自身のティーカップを両手で包み込みながら心底感心したように言った。ヤンは自身のカップを口元へ運びながら、片手でひらひらと謙遜のジェスチャーを示す。
「買いかぶりすぎだよ、金剛。私はただ、臆病ゆえに最悪の事態を想定してパズルを組んだに過ぎない」
「そんなこと無いデース!」
ヤンは一口、その琥珀色の液体を啜った。芳醇な茶葉の香りと、完璧な温度が舌の上で広がる。彼は小さく息を吐き、ソファの背もたれに深く体重を預けた。
「……いや、正直に告げよう。大淀の淹れた紅茶も十分に美味いが、やはり金剛の淹れた紅茶が一番旨い」
その真っ直ぐな称賛に、金剛はパッと顔を輝かせ、誇らしげに豊かな胸を張った。
「デショー? お湯の温度と蒸らす時間には、ワタシなりの特別なこだわりがあるのデース!」
深夜の静かで穏やかなティータイム。しかし、そのささやかな平和は、通信機が吐き出した無機質な電子音によって破られた。ヤンが通信の印字用紙を手に取って目を走らせる。
「……佐世保鎮守府からだ。『近隣の深海棲艦撃滅に感謝する。これで次の作戦に参加できそうだ。南西諸島から深海棲艦を完全に追い出す際には、是非お声がけを』とのことだ」
ヤンは紙をデスクに放り投げ、顎を撫でた。
「確か、あそこには戦艦が一隻配備されていたな。彼女たちが動けるようになれば、戦略の幅は大きく広がる」
その独り言を聞いた金剛が、呆けたように目を丸くしてヤンを見つめた。
「……テイトクは、他の鎮守府の艦隊編成も記憶しているんデスネ」
「当然だろう。そのぐらいの頭脳労働はするとも」
ヤンは自嘲気味に苦笑した。
「私をなんだと思っているのかね?」
「お昼寝と紅茶が好きな、怠け者のテイトクデースかね?」
「ご名答だ。だが、それ以外には、静かな部屋で歴史書をゆっくりと読みたいというささやかな欲もある。そのためには、今ある手駒の数を正確に把握しておかないと、枕を高くして眠れないからね」
ヤンが冗談めかして笑うと、金剛はティーカップをソーサーに置き、ふと真剣な眼差しでヤンを真っ直ぐに見据えた。
「じゃあ、テイトクー」
その声のトーンが、いつもの騒がしいそれから一段階落ちる。
「この先、どうなると見ますカ?」
「何がだい?」
「深海棲艦との戦いです。……人間は、私たちは、海を取り戻せますか?」
気づけば、金剛の口調から独特の英語交じりの訛りが消え、極めて流暢で、静謐な日本語へと変わっていた。それは兵器としてではなく、人類の存亡を背負って戦う一人の少女としての、切実な問いであった。
ヤンはボサボサの黒髪をゆっくりと掻き、再び紅茶を一口啜った。
「……歴史を紐解けばね」
ヤンは、講義室で学生に語りかけるような穏やかな声で口を開いた。
「圧倒的な外敵によって失われた領土を、劇的な大勝利によって一気に奪還した例というのは、実は人類史において決して多くはないんだ。
多くの場合、国家が存続できたのは、奇跡的な兵器や英雄の力によるものではない。泥臭い遅滞戦闘によって時間を稼ぎ、地味な兵站を維持し続け、そして敵が自らの巨大な維持コストに耐え切れずに内側から瓦解するのを待つ『忍耐』があったからだ。
戦争を長引かせて勝つのは、いつだって補給線の構築に成功した側だよ」
ヤンはそこで言葉を切り、真っ直ぐに金剛の瞳を見返した。
「だから、私がここで『必ず海を取り戻せる』と断言すれば、それは無責任な政治家のプロパガンダと同じになってしまう。未来を確約する魔法なんて、この世界には存在しない。……だがね」
ヤンは空になったティーカップを置き、ふっと優しく微笑んだ。
「君たちが無事に明日を迎え、またこうして美味い紅茶を淹れてもらえるように……、私にできる微力は尽くすよ」
英雄らしからぬあまりにも現実的で、しかし確かな体温を伴ったその約束に、金剛はふわりと花が咲くような笑みを浮かべた。
「ふふっ。今は、その言葉だけでも十分です」
金剛は再び元の調子を取り戻し、ヤンに紅茶のおかわりを注ぎながら問いを重ねた。
「ですが、太平洋側に敵が全く居ないというのは、私たちにとって大きな僥倖(ラッキー)ではないのデスかネ?」
「確かにね。現状がそうであれば、基本的には南西諸島にさえ目を向けていればいい。戦力の分散を避けられるのは大きい。もちろん、完全な空白地帯だと信じ込んで油断するわけにはいかないがね」
ヤンは肩を竦め、二杯目の紅茶の香りをかいだ。
「そんな提督の次の一手は、何をご予定で?」
「目下、軽空母の建造だろうね」
「軽空母ですか。ですが、うちにはすでに正規空母の加賀がいますヨ?」
金剛が不思議そうに首を傾げると、ヤンは現実的な数字の重みを思い出すように深く頭を掻いた。
「ああ、加賀は極めて有用だ。だが、今回の作戦で実際に運用してみて痛感したよ。……兵站があまりにも重すぎる。あの航空機を飛ばすための資源の消費量では、なかなか簡単に日常の作戦には投入できない。特にボーキサイトだ。シーレーンが完全に機能していない今の状況で、あれを安定して手に入れるのは至難の業だからね」
ヤンは海図の置かれたデスクへと視線を向けた。
「で、まぁ、そうは言ってもだ。これからの海戦において航空戦力が必須であることは、君自身が夜の海で撃退した敵の空母を見れば、火を見るよりも明らかだろう」
「イエス。上空から一方的に攻撃される恐怖は、戦艦の装甲でも防ぎきれるものではありませんカラ」
「だから、軽空母だ」
ヤンは人差し指を立て、自らの割り切った戦略の骨子を語り始めた。
「正規空母ほどの打撃力や搭載数は求めない。新しく迎える軽空母の搭載機は、全て戦闘機に回す。攻撃を捨てて、完全に制空権の確保――君たちの頭上を守るための『傘』として専念させるんだ。そして、空が安全になったところで、敵の息の根を止める主力打撃部隊は、君や神通、駆逐隊の面々に任せればいいと踏んでいる」
ヤンは紅茶を啜り、どこか諦念を含んだような笑みを浮かべた。
「何せ、今の我々には資源も時間も余裕がない。限られた戦力で、すべてを万能にこなす余裕などないからね。攻撃と防御を完全に分業させる、割り切りの戦略さ」
それは見栄も名誉もない、ただ生存と合理性だけを追求した不敗の魔術師の冷徹な方程式であった。しかし、最前線で命を懸ける者にとって、その徹底した合理主義がいかに自分たちの命を重んじている結果であるか、金剛には痛いほどに理解できた。
金剛は心底嬉しそうに、満面の笑みでヤンを見つめた。
「ワタシ、テイトクのそういう所、すごく好きデースよ」
「ありがとう」
ヤンは照れ隠しのように軽く肩を竦めると、まだ温かいティーカップを両手で包み込んだ。オカルトと硝煙に満ちた絶望の世界にあって、この小さな執務室に漂う紅茶の香りだけが、彼を正気に繋ぎ止める唯一の錨であった。次なる歴史の歯車を回すための建造計画を脳内で巡らせながら、ヤン・ウェンリーは静かに夜の更けゆく時間を味わっていた。
■
翌朝、横須賀鎮守府は静かな活気に包まれていた。なにせ、久しぶりに輸送部隊が横須賀に入港する日だからである。
ヤン・ウェンリーは朝食のトーストをかじりながら、各員への本日の日課を淡々と割り振った。圧倒的な練度と破壊力を見せつけた金剛、そして第六駆逐隊の暁と響、そして天龍には、合同演習によるさらなる戦術連携の向上を指示。龍田と電には完全な休養を与え、近海の哨戒任務には、冷静沈着な神通と元気を持て余している雷のペアを指名した。
「さて、現状の戦力と昨夜の戦訓を鑑みるに、どうしても軽空母がほしいところだが」
「軽空母、ですか」
冷めた紅茶のカップを置きながら立ち上がったヤンに、大淀が秘書艦としての真摯な相槌を打つ。二人は薄暗い地下の連絡通路を抜け、あのオカルトじみた建造ドックへと歩みを進めていた。
「ああ。制空権という見えない屋根を構築するために、もう少し空の戦力を手元に置いておきたい。加賀の負担を減らすためにもね」
ヤンはぼやきながら、再びあの非科学的な操作モニターの前に立った。足元には、ヤンの訪問を待ち構えていたかのように、小さな妖精たちがわらわらと集まってきている。ヤンは彼らに向かって、
「軽空母を迎え入れたいんだが、アドバイスをくれないか」
と、まるで熟練の工廠長に意見を求めるような真面目なトーンで尋ねた。すると、妖精たちは一斉にモニターの『ボーキサイト』の項目を小さな指で力強く指し示した。
「なるほど、ボーキサイトを増やすのは必須条件ということか」
ヤンが確認するように言うと、妖精たちは深く頷く。
「逆に、弾薬はどうだ?」
ヤンの問いに、今度は全員が揃って首を横に振った。艦載機を飛ばすことが主眼である空母にとって、自らが火砲を撃ち合うための弾薬はさほど重要ではない、という理屈らしい。
「ふーむ。オカルトとはいえ、ある程度の物理的整合性は取れているわけだ」
ヤンは頭を悩ませつつ、モニターの数値をいじり始めた。
「そうしたら、まずは二百……をボーキサイトに回そう。どれだけの備蓄を消費するのか兵站の観点からは不安が残るが、背に腹は代えられない。弾薬は最低値の三十のままでいいだろう」
残る問題は、燃料と鋼材の配分である。ヤンは腕を組み、歴史家としての視点から「航空母艦とは一体何か」という命題を脳内で定義し直した。
「……空母とは即ち、動く街だ。雄大な海原を往き、多数の航空機と人員を抱え、彼らの生活と命を守るための巨大なプラットフォーム。となれば、機関を回すための燃料もそこそこ必要になる。加えて、敵の航空攻撃や砲撃の余波に耐えうるだけの、強固な装甲も必須条件だ」
「理にかなった推論ですね、提督。航空母艦はその性質上、最も敵から狙われやすい目標でもありますから」
大淀の的確な補足に、ヤンは、
「その通りだ」
と頷いた。
「であれば……燃料、鋼材もそれぞれ二百としてみよう」
ヤンはモニターのテンキーを叩き、燃料二百、弾薬三十、鋼材二百、ボーキサイト二百という数値を入力する。これが、不敗の魔術師が導き出した「空を制するための最低限の方程式」であった。
「さて、この私の勝手な歴史的解釈が、妖精さんたちのオカルトとどう化学反応を起こすか。お手並み拝見といこうじゃないか」
ヤン・ウェンリーは、自らの推論に対する歴史の審判を仰ぐような心持ちで、赤く点滅する『建造開始』のボタンを静かに押し込んだ。