ボタンが押し込まれてから、ヤン・ウェンリーにとって永遠とも思える数秒の奇妙な空白が流れた。やがて無機質なモニターの画面が暗転し、緑色のフォントで『縁が結ばれました。建造開始』という文字列が浮かび上がる。
「ひとまずはまぁ、第一関門突破といったところか」
ヤンが安堵とともに肩を竦めると、以前と同じようにドックの中央に鎮座する溶鉱炉から凄まじい火柱が立ち上り、小さな妖精たちが歓声を上げながら次々とその猛火の中へ身を投じていった。二度目とはいえ、労働基準法も物理法則も完全に無視したこの狂気の神事には、ヤンの理性はいまだに慣れることができそうにない。
ヤンが眉間を揉みほぐしながらコンソールの表示に目を戻すと、そこに表示されたデジタルタイマーの数字は『02:40:00』であった。
「二時間四十分……。これは随分と長いな。神通の時とは違う」
「はい、確かに」
ヤンと大淀は顔を見合わせた。先の軽巡洋艦・神通が顕現した際の時間は一時間であった。それが今回は倍以上になっている。
「そういえば、大淀さん。この建造にかかる『時間の目安』というものは、過去のデータとして蓄積されていたりするのかい?」
「ええと、確か……。私のうろ覚えで恐縮ですが、駆逐艦などの小型艦で三十分程度、巡洋艦で一時間から二時間。そして、戦艦や正規空母などの大型主力艦ともなれば、四時間からそれ以上の時間を要したかと記憶しております」
「ふむ。後学のために、その統計資料があれば後で執務室に見せてほしい」
「承知いたしました。すぐにお持ちいたします」
有能な秘書艦の淀みない即答に頷きつつ、ヤンは頭の中で先ほどの自身の推論と、提示された建造時間を照らし合わせた。
「まぁ、その時間から察するに、案外悪くはなさそうだな」
ヤンはボサボサの黒髪を掻き回しながら、ひどく理にかなった分析を口にした。
「戦艦ほどには長大な時間を要さず、かといって巡洋艦よりは明確に時間がかかっている。私が入力した資源の偏り――特に航空機のためのボーキサイトの量と、この中間の建造時間を見る限り、小型艦でも大型の主力艦でもない、特殊な艦……つまりは狙い通りの軽空母が顕現する可能性が高い。とはいえ、こればかりは中身を開けてみるまで分からない。当たるも八卦、当たらぬも八卦というやつだ」
オカルトの産物である神頼みの儀式に対してすら、得られた結果から帰納的に法則を導き出そうとするのは、歴史家たるヤンの抜けきらない性であった。
「では、あとでまた来るよ、妖精さん。いい建造を期待している」
ヤンが溶鉱炉に向かって声をかけると、猛火の中でハンマーを振るっていた妖精たちは手を止め、嬉しそうに小さな手を額に当てて一斉に敬礼を返してきた。彼らにとって、この理不尽な世界で自らに敬意と労いを払ってくれる青年提督は、すでに良き雇い主として認識されているらしい。
その無邪気な姿を見ながら、ヤンはふっと柔らかく笑い、靴音を響かせてドックを後にした。
新たな空の力がもたらされるまで、あと二時間四十分。不敗の魔術師の頭脳は、早くも新戦力を組み込んだ次なる艦隊防空の盤面へと向かい始めていた。
■
戦争における国家の真の動脈とは、決して華々しい砲撃戦を繰り広げる主力艦隊などではない。それは、鈍重で、不格好で、しかし何よりも尊い物資を満載して海を渡る「輸送船団」である。ヤン・ウェンリーは、歴史を学ぶ者としてその普遍の真理を誰よりも深く理解していた。
「……なるほど。これが、我々の命を繋ぐ大船団というわけか」
横須賀鎮守府の広大な桟橋に立ち、潮風にボサボサの黒髪を揺らしながら、ヤンは沖合からゆっくりと入港してくる巨大なシルエットの群れを見つめていた。
それは、幾隻もの大型タンカーや輸送船からなる長大な隊列であった。船体には赤錆が浮き、幾度もの敵襲を潜り抜けてきた生々しい弾痕や応急処置の跡が刻まれている。しかし、それらの船の腹部には、喉から手が出るほど欲していた航空機用ボーキサイト、重油、弾薬、鋼材といった戦略物資のみならず、小麦粉や医療品、衣類といった『民生品』がぎっしりと詰め込まれているのだ。
「その通りです、ヤン提督。これこそが、我々が多大な犠牲を払ってでもなんとか守り抜いてきた、人類の命の灯火です」
傍らに立つ秘書艦の大淀が、珍しく感情を昂らせ、誇らしげな声で応えた。輸送船団の周囲には、彼らを深海棲艦の牙から守り抜いた六隻の護衛部隊――人間の少女の姿をした艦娘たちの姿があった。彼女たちの艤装は硝煙と海水に汚れ、激しい戦闘の痕跡を留めていたが、その表情には重要な任務を完遂した者特有の安堵と誇りが浮かんでいる。
やがて、船団が桟橋に接舷し、荷下ろしのためのクレーンが慌ただしく動き始めた頃。護衛艦隊の旗艦を務めていたと思われる一人の艦娘が、軽快な足取りでヤンたちの待つ司令部エリアへと歩み寄ってきた。
「おお! 貴殿が新たな横須賀の提督じゃな? 吾輩は呉鎮守府所属の重巡洋艦、利根じゃ!」
古風な言葉遣いと、重巡洋艦としての重厚な艤装に反するような、快活で人懐っこい笑顔。彼女はヤンの前に立つなり、気風の良い敬礼をして見せた。
「ヤン・ウェンリーだ。提督とは名ばかりの、しがない文官上がりの怠け者だよ」
「はっはっは! 謙遜するでない。貴殿がここへ着任し、卓越した采配で横須賀の門をこじ開けてくれたおかげで物資を届けられたのじゃ。そのせいか、台湾からこっちへ向かう航路は、いつもより深海棲艦の襲撃が少なくて随分と楽だったしの!」
利根は嬉しそうにヤンの肩を叩かんばかりの勢いで笑った。
「しかも、南西諸島に陣取る深海棲艦の背中を、見事に蹴っ飛ばしてくれたと聞いたぞ! おかげで連中の目線が逸れ、吾輩たちの輸送作戦は助けられた。お主、なかなかにやるの!」
「……どうも。出来る範囲で、微力を尽くしているだけです」
ヤンは苦笑しながら頭を掻いた。
彼の仕掛けた四段構えの作戦――空母加賀による陽動と、金剛・神通らによる敵泊地への強襲は、単に敵の戦力を削るだけでなく、広大な太平洋と東シナ海における『敵の戦略的関心』を完全に横須賀側へと引きつけることに成功していたのだ。その結果として、呉から横須賀へと向かうこの大輸送船団の航路の安全が、間接的に担保されたのである。オカルトの世界であっても、戦略の波及効果というものは確実に存在する。
「へぇー? あなたが新しく着任したっていう提督? なんだか、随分と優男って感じね」
利根の背後から、もう一人の艦娘がひょっこりと顔を出した。首元に巻かれたマフラーを風に靡かせ、見るからに血の気が多く、しかしどこか憎めない快活な笑みを浮かべた軽巡洋艦である。
「私は川内(せんだい)。夜戦なら誰にも負けないから、よろしくね!」
ヤンが少しだけ目を丸くしていると、大淀が一歩前に出て静かに補足した。
「ヤン提督。彼女は本来、我が横須賀鎮守府の所属なのですが、輸送船団護衛のために出向していた艦娘です。夜戦のスペシャリストであり……そして、第一艦隊にいる神通の姉でもあります」
「……姉」
ヤンは、歴史家としての思考回路を一瞬だけショートさせ、無意識に呟いた。
軍艦に「姉妹」という概念があるのか。いや、確かに地球の海戦史においても、同じ設計思想と図面から建造された同型艦を指して「姉妹艦(シスター・シップ)」と呼称する文化はあった。しかし、それはあくまで人間側が便宜上、あるいは擬人化の修辞として用いた比喩表現に過ぎない。だというのに、このオカルトめいた世界に顕現した艦娘たちは、かつての工業製品としての分類を、自らの『生物学的な、あるいは精神的な血縁関係』として完全に自己認識しているというのか。
(……一番艦だから姉で、二番艦だから妹? 図面上の分類が、魂の家族関係を構築する? いやはや、哲学と神学が入り混じった、とんでもない形而上学の迷宮だな)
ヤンは、底なし沼のような思索に引きずり込まれそうになる己の理性を、ボサボサの頭をガリガリと掻き回すことで強制的に誤魔化した。理屈はどうあれ、彼女たちが自らを姉妹だと定義し、そこに絆を見出しているのなら、第三者が口を挟む野暮な真似はすべきではない。
ヤンはひとまず思考を放棄し、川内へ向けて右手を差し出した。
「よろしく、川内。君の妹君の働きには、私も随分と助けられているよ。彼女の夜戦での的確な采配がなければ、我が艦隊はとうの昔に海の底だった」
「おっ、そっちからの握手って珍しいね。提督たちって、もっとこう、ふんぞり返ってるもんかと思ってた。よろしくねー、提督!」
川内は少し驚いたように目を瞬かせた後、ヤンの手を力強く握り返し、ニカッと笑った。妹の神通が内気で物静かな深窓の令嬢だとすれば、この姉はまさしく暴れ馬のような武闘派である。姉妹艦とはいえ、性格まで金型通りというわけではないらしい。
挨拶を終えると、利根と川内は、
「荷下ろしが終わるまでは、横須賀のドックでたっぷりと英気を養わせてもらうぞ!」
と言い残し、護衛艦隊の残りの面々――三隻の軽巡洋艦と一隻の軽空母を伴って、入渠施設へと向かっていった。背中を見送るヤンの目には、彼女たちの足取りに隠された深い疲労の色が見て取れた。
「……彼女らが、我々の血肉を運ぶ生命線というわけか」
ヤンが静かに語りかけると、大淀は手元のバインダーに目を落とし、護衛艦隊の陣容を解説し始めた。
「はい。広域の索敵能力と航空指揮に長けた重巡洋艦、利根。夜戦において右に出る者のない切り込み隊長、川内。圧倒的な雷撃の飽和攻撃で敵の群れをすり潰す重雷装巡洋艦、大井。艦隊全体の防空と対潜警戒の要となる五十鈴さん。そして、水雷戦隊として最前線で培った豊富な経験を持つ長良。さらに、艦隊の頭上を守る空の要として、軽空母の祥鳳……」
大淀の列挙する艦名とその役割を聞き、ヤンは心の中で深い感嘆の息を漏らした。
(索敵、夜戦、対潜、防空、雷撃、そして航空直掩。完璧だ。単なる数合わせの護衛ではない。いかなる状況、いかなる敵の奇襲にも即座に対応し、確実に輸送船を逃がすためだけに極限まで洗練された、職人芸のような編成だ)
おそらく、総司令部も、鎮守府も血の滲むような思いでこの六隻を抽出し、シーレーンの維持に投入しているのだろう。
「ふむ。結構だ。この絶望的な海域において、これ以上ないほど頼もしい部隊だ」
ヤンは頷き、そして、最も恐れていた、しかし指揮官として必ず確認しなければならない一つの質問を投げかけた。
「それで? ……以前も少し聞いたような気がするが、彼女たちを休ませるための『交代要員』は、今回も無し、ということかな?」
その問いに対し、大淀は沈痛な面持ちで、ゆっくりと首を横に振った。
「はい。各鎮守府ともに、戦力は完全に底を突いています。彼女たちは、資材の荷下ろしと、ここ横須賀からの艦隊の積み込みが終わり次第……入渠ドックでの急速な回復のみを済ませて、再びあの危険な大海原へと、休む間もなく出撃することになります」
「……」
ヤンは無言のまま、桟橋でクレーンに吊り上げられていくドラム缶の山を見つめた。休む間もない連続出撃。それは人間の神経も、鋼鉄の船体をも確実に摩耗させる。いくら彼女たちがオカルトの力を持つ「艦娘」であろうと、その精神の根底にあるのは人間の感情なのだ。いつか必ず限界が来る。
最前線で戦う者たちにのみ過酷な負担を強いるこの状況は、かつてヤンが憎んだ自由惑星同盟の末期症状と何ら変わりがなかった。
「……そいつは結構。実にブラックな職場環境だ。労働組合があれば、真っ先にストライキを起こされても文句は言えないな」
ヤンは自嘲気味に息を吐くと、ボサボサの頭を掻き回す手を止め、極めて冷静な、しかし有無を言わさぬ用兵家の顔へと切り替わった。
「じゃあ、その過酷な復路の護衛任務に、我が横須賀鎮守府の『第一艦隊』もつけようじゃないか」
「……え?」
大淀が、耳を疑うような顔でヤンを見た。
「第一艦隊を……護衛任務に、ですか? 金剛さんや神通さんたちを?」
「ああ。何か問題でもあるかい?」
ヤンは事もなげに答えた。
「第一艦隊、引いては横須賀の艦隊は先日の激戦から帰還したばかりです。彼女たちの疲労も限界に近いはずです。それに、横須賀の最強戦力をすべて輸送船団の護衛に回してしまえば、この鎮守府の防衛が完全に手薄になってしまいます!」
「司令部の防衛なんてものは、今の状況下では二の次でいい」
ヤンは海図を広げることなく、頭の中の盤面だけで淀みなく戦術的意図を語り始めた。
「考えてもみたまえ。先日の作戦で、我々は敵の泊地に深手を負わせた。だが、連中とて馬鹿ではない。横須賀の艦隊によって顔面を殴られたとなれば、その報復として、あるいは失地回復のために、必ず近海のシーレーンを狙って大規模な戦力を投入してくるはずだ。もしその逆襲に、疲労困憊の利根たち六隻だけで当たることになれば……我々は貴重な物資どころか、かけがえのない歴戦の勇士たちと、この希望の船団を海の底へ沈めることになる」
ヤンの言葉に、大淀は息を呑んだ。
「輸送任務というのは、地味だが戦争の帰趨を決する最重要作戦だ。これを単なる『お使い』と侮る者から順に、歴史の敗者となっていく。……だからこそ、ここは横須賀とシーレーン護衛部隊の戦力を二分するのではなく、完全に一つの強大な打撃群として統合する。利根たちの護衛部隊に、我が第一艦隊の圧倒的な暴力を掛け合わせることで、敵の待ち伏せを正面から粉砕し、安全に呉までの航路を確保するんだ」
ヤンは少しだけ意地悪な笑みを浮かべ、大淀へ視線を向けた。
「それに、ちょうどいいじゃないか。我々はつい先ほど、新たな空の戦力――『軽空母』の建造ボタンを押したばかりだ。彼女が顕現してから、いっそ全員で行けばいい。第一艦隊には敵の目を引きつける役割を負わせながら、新しい空母の習熟訓練を兼ねてね。なんなら、そのまま泊地を襲っても良いかもしれない」
「……提督」
大淀の瞳には、もはや驚きを超えた、深い畏敬の念が浮かんでいた。輸送船団の護衛という地味な任務を隠れ蓑にしつつ、実際には敵の残存勢力を誘い出し、圧倒的な戦力で確実にすり潰すための「攻勢防御」。ヤン・ウェンリーは、後方で休むことなく出撃を強いられる少女たちの命を守るため、自らの手札を惜しげもなく切り裂いたのである。
「さて、そうと決まれば、私はもう少しだけ執務室のソファで昼寝を楽しむとしよう。金剛たちの入渠が終わる頃に、出撃のブリーフィングを行う。資料の準備を頼めるかい、大淀さん」
「……はい。直ちに準備いたします、ヤン提督」
大淀の力強い敬礼を背に受けながら、ヤンは大きく伸びをした。
太平洋の海風は、まだ硝煙の匂いを僅かに含んでいる。不敗の魔術師の紡ぎ出す戦術の糸は、呉の船団という新たな結び目を経て、深海棲艦という見えざる敵の首を確実に、そして冷徹に締め上げようとしていた。