横須賀鎮守府、地下の作戦会議室。
巨大な海図が広げられたテーブルの中心には、無数の駒と進行ルートを示す赤い矢印が書き込まれている。ヤン・ウェンリーは、その端に置かれたマグカップの縁を指でなぞりながら、集まった艦娘たち――金剛、神通、加賀、そして大淀を前に、静かに戦況の分析を語り始めた。
「さて、今回の反攻作戦と、その後の哨戒任務で得られた情報を総合して、敵の『基本戦略』の全容が概ね見えてきた」
ヤンは指示棒を手に取り、海図上の太平洋沿岸から、四国と九州を隔てる豊後水道(ぶんごすいどう)までのラインをスッと引いた。
「今回判明した最大の収穫は、道中から豊後水道に至るまでの沿岸部、そして太平洋の大海原には、深海棲艦の主力戦力が『全く配置されていなかった』という事実だ」
その言葉に、神通が静かに目を伏せて思考を巡らせる。ヤンは彼女たちの反応を確かめるように頷き、海図の西側――東シナ海へと指示棒を移した。
「彼らの戦略は、極めて合理的かつ一点豪華主義だ。まず、彼らの最大拠点は間違いなく東シナ海に存在する。ここから圧倒的な戦力で九州を封鎖し、佐世保鎮守府の首根っこを完全に押さえ込んでいる。そして、日本列島の南を流れる巨大な海流『黒潮』を天然の高速道路として利用し、一撃離脱の速攻で瀬戸内海への入り口を脅かし、呉鎮守府を封じ込めてきた」
「なるほど……。では、横須賀の近海に戦艦部隊が居座っていた理由はなんデースか?」
金剛が真剣な顔つきで尋ねると、ヤンは指示棒で横須賀周辺の製油所地帯をトントンと叩いた。
「距離の問題だよ、金剛。東シナ海の拠点から黒潮に乗ったとしても、横須賀まで部隊を移動させるにはどうしても時間がかかるし、兵站線(シーレーン)が延びきってしまう。だからこそ敵は、横須賀の喉元にある製油所地帯をピンポイントで占拠し、そこに戦艦を中核とする強力な打撃部隊を『駐留』させていたのだろう。燃料を現地調達させながら、強力な門番として横須賀を物理的に蓋をするためにな」
ヤンの解説は、見えない敵の指揮官の思考を丸裸にしていくようであった。大淀も加賀も、その理路整然とした戦略の読み解きに深く息を呑む。
「そして……ここからが本題だ」
ヤンは指示棒を置き、両手をテーブルについて金剛たちを見渡した。
「金剛。君たちが激戦で撃破した、空母を中心とする敵の打撃部隊だがね。……あれは、偶然の遭遇ではあったが、我々にとって背筋が凍るほど『幸運』な出来事だった」
「どういう事デス? 幸運、とは?」
「つまり、あの部隊は単なる哨戒部隊などではない。これからまさに黒潮に乗って出撃しようとしていた、敵の大艦隊そのものだったということさ」
その言葉に、会議室の空気がピタリと凍りついた。
「恐らくは、先行した加賀の陽動に引っかかって慌てて追撃に出たか、あるいは横須賀の封鎖網が破られたことを察知し、再び横須賀の海を閉じるために急遽編成された制圧部隊だったのだろう。彼らが航空機の使えない『夜』にわざわざ出撃したのが、その何よりの証左だ。こちらの目撃情報を極力減らし、夜陰に乗じて黒潮を一気に駆け抜けるつもりだったのだろうね」
ヤンはそこで言葉を区切り、自嘲気味な笑みを浮かべた。
「だが、今回は我々が同じ『夜の強襲』という作戦を、彼らよりほんの数日、いや数時間速く実行したおかげで、出撃直前の彼らの出鼻を見事に挫き、潰すことができた。太平洋に敵がいなかったのは単なる偶然だが……そのおかげで、我々は敵の喉元へ『ドンピシャ』のタイミングで刃を突き立てることができたわけだ。……いやはや、全く。我々はよほど、幸運の女神に愛されているらしい」
「テイトクの戦術が完璧だったからデース! 幸運だけじゃありませんヨ!」
金剛が身を乗り出して抗議するが、ヤンは苦笑しながら首を横に振った。
「買いかぶりだよ。それに、昔から言うだろう。『幸運の女神には、前髪しかない』とね」
ヤンは歴史家らしい古い格言を引用しつつ、肩を竦めた。
「通り過ぎてから慌てて後ろ髪を掴もうとしても、彼女の後頭部はつるつるに禿げ上がっているから掴めない。幸運とは、向かってきた瞬間にその前髪を正面から掴み取るしかないんだ。……故に、我々はこの幸運なタイミングを逃すわけにはいかない。敵が態勢を立て直し、再び黒潮に乗って新たな艦隊を送り込んでくる前に、今一度、敵の心臓部たる東シナ海へと突撃をかける」
ヤンの黒い瞳に、用兵家としての冷徹な光が宿った。彼は新たな駒を海図の上に配置しながら、具体的な作戦のフェーズを語り始めた。
「現在、横須賀の桟橋では輸送艦隊の荷下ろしと積み込みが急ピッチで進められている。これが終わり次第、作戦開始だ。利根の率いる輸送護衛艦隊と共に、我々も出撃する。道中の護衛を兼ねて豊後水道まで同行し、そこで艦隊を二手に分ける。利根たちはそのまま輸送船団を呉へと寄港させる役割。そして我々横須賀の部隊――第一艦隊と加賀、さらにもう間もなく顕現する新造艦の軽空母を加えた戦力で、そのまま東シナ海へと展開する」
「……横須賀単独での、敵泊地への強襲ですか」
神通が、その作戦の重さを推し量るように静かに確認した。ヤンは微かに頷きながらも、手元から二通の暗号電文の束を取り出した。
「いや、単独ではない。今回はすでに、呉と佐世保の両鎮守府にも共同の出撃要請をかけて、了承を得てある。三方面からの同時作戦だ」
「神通が尋ねます。……現在、その二つの鎮守府に出撃可能な戦力は残っているのですか?」
「まずは、敵の喉元に最も近い佐世保鎮守府だ」
ヤンは海図の西端、佐世保の位置に三つの駒を置いた。
「佐世保から出撃するのは、戦艦・陸奥(むつ)、軽空母・龍驤(りゅうじょう)、そして駆逐艦・雪風(ゆきかぜ)の三隻だ」
「……たったの三隻、ですか?」
「ああ。あそこは現在、シーレーンを完全に封鎖されている。陸上輸送で細々と物資を送ってはいたようだが、艦隊を動かすための重油と弾薬は常に枯渇状態だ。この三隻を動かすのが、佐世保の燃料タンクの底を文字通り削り取った限界の戦力だよ。彼女たちには、我々が突入する直前に、敵の注意を引きつける『決死の陽動』として動いてもらう」
自らを犠牲にしてでも反攻の糸口を掴もうとする佐世保の覚悟に、会議室の艦娘たちは粛然と居住まいを正した。
「じゃあ、呉鎮守府からは誰が出るんデス?」
金剛の問いに、ヤンは瀬戸内海の出口へと複数の駒を配置した。
「呉からは、阿武隈、北上、吹雪、五月雨、綾波の五隻が出撃する。利根たちが帰還した直後に、豊後水道を抜けて我々の後詰めとして展開してもらう手はずだ」
「……呉には、戦艦の長門さんや、空母の赤城さんが在籍しているはずですが。主力は温存するのですか?」
加賀が、かつての同僚である正規空母の名を挙げて疑問を呈した。ヤンは深く頷いた。
「その通りだ。彼女たちは、我々の作戦が万が一失敗した時の『ケツモチ』……すなわち人類の最終防衛線(戦略予備)として温存してもらう。もし我々が東シナ海で全滅し、敵の逆襲が始まった場合、長門や赤城がいなければ呉は一日で火の海になるからね。だからこそ、呉からは機動力のある駆逐艦と軽巡洋艦の協力を要請した。彼女たちの役割は、我々の艦隊防空と、夜戦時における敵残存部隊の掃討だ」
ヤンはマグカップを手に取り、完全に冷めきった緑茶を喉へと流し込んだ。
佐世保の決死の陽動。横須賀の主力による強襲。そして呉の水雷戦隊による防空と追撃。それぞれの鎮守府が持つ残り僅かな血の一滴までを搾り取り、一つの巨大な刃へと練り上げる。それは机上の計算としては完璧であったが、同時に、一つでも歯車が狂えば人類の戦力が一瞬にして崩壊する、極めて薄氷を踏むような総力戦の図面であった。
「……以上が、次期作戦『東シナ海反攻作戦』の全容だ」
ヤンはマグカップをコトリと置き、静かに告げた。
「私たちは幸運の女神の前髪を掴んだ。だが、その髪を引っ張り続けて勝利の女神を我々に振り向かせるためには、君たち歴戦の勇士の力が必要不可欠だ。……厳しい戦いになる。だが、必ず生きてこの鎮守府へ帰ってきてほしい」
ヤンの言葉に、金剛、神通、加賀は言葉を発することなく、しかしそれぞれの魂に宿る鋼鉄の意志を込めて、一斉に深く、そして美しく敬礼をした。
不敗の魔術師が描いた人類反攻のマスタープランは、いよいよその実戦の時を迎えようとしていた。建造ドックのタイマーがゼロになるまで、あと僅かである。