横須賀鎮守府の地下深くに設けられた、オカルトと狂気の祭壇たる建造ドック。その重厚な防爆扉の向こう側から、完成を知らせる無機質な電子ブザーの音が、司令部全域に響き渡った。
「さて、歴史の女神が私にどんな手札を与えてくれたのか、見に行くとしようか」
ヤン・ウェンリーは、飲みかけの緑茶をデスクに置き、秘書艦である大淀を伴って直ちに地下へと足を運んだ。扉を開けると、先ほどまでもうもうと立ち込めていた溶鉱炉の熱気はすでに引いており、代わりに心地よい潮風のような清浄な空気がドック内を満たしていた。
そして、炉の前には煤で顔を汚した小さな妖精たちが整列し、ヤンの顔を見るなり、満面の笑みで一斉にサムズアップのジェスチャーをして見せたのである。
「……その自信満々な反応は、もしや、最高の結果が出たという解釈で間違いないかな?」
ヤンが問いかけると、妖精たちは誇らしげに胸を張り、力強く何度も頷いた。
彼らが合図を送ると同時に、中央の固定台を覆っていた分厚いキャンバス地のヴェールが、滑車とワイヤーによって勢いよく引き剥がされる。白く立ち込める蒸気の中から姿を現したのは――紅白の矢羽を思わせる古風な袴姿に身を包み、左手に小ぶりな和弓を携えた、一人のうら若き少女であった。
「軽空母、瑞鳳(ずいほう)です。提督、ご命令とあらば、いつでも航空隊、発艦できます!」
彼女は台座から軽やかに飛び降りると、凛とした声で名乗りを上げ、ヤンに向かって美しい敬礼を見せた。その華奢な体躯からは想像もつかないほど、彼女の瞳には歴戦の空母としての強い意志と、空を駆ける者特有の清冽な覇気が宿っていた。
「……これはこれは。軽空母とはいえ、見事な出立ちだ。私の予想以上の戦力が来てくれたよ」
ヤンは感嘆の溜息を漏らし、深く頷いた。正規空母である加賀ほどの搭載量や重装甲はないかもしれない。しかし、その分だけ小回りが利き、何より「艦隊の頭上を守るための防空の傘」としては、これ以上ないほど完璧なピースであった。
「ヤン・ウェンリーだ。着任したばかりの頼りない提督だが、君の翼に大いに期待しているよ。よろしく頼む」
「はいっ! お任せください、提督!」
瑞鳳は、生来の明るさと素直さを示すように、パッと花が咲くような笑顔を返した。しかし、彼女に休息の時間が与えられることはなかった。ヤンが挨拶を交わすや否や、背後に控えていた加賀が進み出て、極めて事務的な、しかし有無を言わさぬ声で瑞鳳に告げたのである。
「挨拶が済んだのなら、すぐに出るわよ、瑞鳳。あなたの新しい身体――この艦娘としての感覚に慣れてもらうため、直ちに近海で習熟訓練を行います」
「えっ? あ、はいっ! 加賀先輩、ご指導よろしくお願いします!」
瑞鳳は慌てて姿勢を正し、歴戦の先輩空母の後を追って小走りでドックを後にした。その背中を見送りながら、ヤンは「手厳しい先輩を持った新人は苦労するな」と、かつてのアスターテ会戦前にアッテンボローが新兵を怒鳴りつけていた光景を思い出し、微かに苦笑した。
■
そこから、横須賀鎮守府はかつてないほどの異様な熱気に包まれることとなった。
輸送船団から降ろされた莫大な支援物資の選別。そして、今度は逆に横須賀から呉へ、さらには作戦が成功した暁には佐世保へと向かうための救援物資を輸送船へ積み込む作業。これらの一連の兵站作業が完了するまでに、丸二日の時間が必要であると見積もられた。
この出撃までの二日間を、艦娘たちは誰に命じられるでもなく、文字通り血の滲むような猛訓練へと費やしたのである。
幸いにして、輸送船団がもたらした重油と弾薬の備蓄は十分に余裕があった。ヤンは、
「演習での消耗は一切気にしなくていい。実戦で血を流さないために、今は惜しみなく燃料と弾薬を燃やせ」
と、全権を現場の指揮官たちに委ねた。その結果として、横須賀近海の演習海域では、朝から晩まで砲声と爆音が途切れることなく響き渡っていた。
水雷戦隊の要である第六駆逐隊(暁、響、雷、電)の四人は、阿武隈に代わって彼女たちの指揮を執る神通の厳しい指導の下、お互いの連携運動をコンマ一秒の世界で極限まで研ぎ澄ましていた。
「探照灯の照射と同時に、散開して雷撃! 少しでもタイミングが遅れれば、敵の反撃で全員が海の底に沈みますよ!」
神通の普段の優しさからは想像もつかない、鬼気迫る号令が海上に飛ぶ。四人の少女たちは互いの視線と呼吸だけで意図を汲み取り、暗闇を想定した視界不良の海域で、まるで一つの生き物のように滑らかな死の舞踏(雷撃戦)を完成させていった。
一方、艦隊の最大火力である戦艦・金剛は、単艦での長距離射撃訓練に没頭していた。
「NOデース! こんな散布界では、敵の装甲を綺麗にブチ抜けまセーン!」
彼女は自身に極めて高いハードルを課し、水平線の彼方に浮かべた標的艦に対し、三十五・六センチ連装砲の精密射撃を何度も何度も繰り返していた。
次期作戦において、敵の中枢に居座るであろう深海棲艦の巨大戦力を一撃で葬り去るため、彼女は自らの火砲を暴力から精密なメスへと昇華させようと必死に汗を流していた。
そして上空では、加賀と瑞鳳による熾烈な模擬空戦と、広域索敵の訓練が展開されていた。
「遅いわ。旋回が甘い。それと、索敵機からの発光信号、読み取りが数秒遅れれば、艦隊は敵の先制攻撃を受けるのよ。もう一度、編隊を組み直しなさい」
「はいっ! 申し訳ありません、すぐにもう一度!」
加賀の放つ無数の零式艦上戦闘機が、瑞鳳の操る航空隊を容赦なく模擬撃墜していく。瑞鳳は何度も海面に叩き落とされる仮想の屈辱を味わいながらも、決して音を上げることなく、加賀の洗練された艦隊運動と航空管制の技術を、スポンジのように吸収していった。
さらに、艦隊の盾となり目となる天龍と龍田の姉妹は、第一艦隊を敵の奇襲から守るための輪形陣の確認と、双眼鏡による超長距離の目視索敵訓練を黙々とこなしていた。
「俺たちが敵を見逃せば、主力に魚雷が突き刺さるんだ。気合入れろよ、龍田!」
「ふふっ、天龍ちゃんに言われなくても分かっているわよ。私の目は、深海棲艦の嫌がる姿を誰よりも早く見つけるためにあるんだから」
二人の軽巡洋艦は、互いに軽口を叩き合いながらも、その眼光は決して水平線から外れることはなかった。
■
鎮守府の司令部庁舎、最上階のバルコニー。
ヤン・ウェンリーは、熱い紅茶の入った紙コップを片手に、眼下に広がる海上で繰り広げられる過酷な演習風景を、ただ静かに見下ろしていた。
轟く砲声、空を切り裂く航空機の航跡、そして水面を滑る少女たちの輝く汗。彼女たちは、理不尽な世界に産み落とされた兵器でありながら、誰よりも強く、誰よりも真摯に生き残るために足掻いている。誰に強制されたわけでもなく、自らの魂に刻まれた使命と、隣にいる仲間を守るために、自らを限界まで追い込んでいるのだ。
ヤンは、海風に吹かれながら、どこか自嘲的な、しかし深い慈愛に満ちた苦笑を漏らした。
「……いやはや、実に優秀だ。これほどまでに自立し、高い練度と覚悟を持った部隊を前にしては、私のような怠け者の戦術家など、ただの『おまけ』に過ぎないかもしれないな」
ヤンは紙コップの紅茶を口に含んだ。彼がやっていることは、机上で海図に線を弾き、確率と推論に基づいて部隊の行き先を決めているだけだ。実際に弾雨の中を駆け抜け、恐怖と戦い、敵の装甲を食い破っているのはすべて彼女たち自身の力である。
優れた指揮官とは、優秀な部下が死なないための舞台を用意する裏方に過ぎないという事実を、ヤンは痛いほどに自覚していた。
「まったく……」
ヤンはバルコニーの手すりに寄りかかり、かつて遠い銀河の果てで自分を支えてくれた、二人の大切な家族の顔を思い浮かべた。
「もし今の私を……安全な後方で紅茶をすすりながら、あんなに若い少女たちを死地に送り出すための算段を立てている私の姿を、フレデリカやユリアンに見つかりでもしたら……」
ヤンは、彼らの呆れたような、しかし自分の本質を誰よりも理解してくれているであろう優しい瞳を幻視して、小さく肩を竦めた。
『閣下。感傷に浸るのは勝手ですが、書類の決裁がまだ山のように残っていますよ。それに、紅茶ばかり飲んでいては胃を悪くします』
『提督、姿勢が悪いです。もっとシャンとしてください。みんな、提督の命令を信じて戦っているんですから』
幻聴のような二人の小言が耳の奥で蘇り、ヤンは思わず「参ったな」と頭を掻いた。
「間違いなく、容赦のない嫌味の一つや二つは言われるだろうね。……だが、彼らの言う通りだ。私が感傷に浸ったところで、彼女たちの装甲が厚くなるわけでも、敵の大砲が小さくなるわけでもない」
ヤンは空になった紙コップをゴミ箱に放り投げ、自身のたるんだ精神を、用兵家としての冷徹な刃へと強制的に切り替えた。
「彼女たちがこれほどの覚悟を見せているのだ。ならば私も、歴史の傍観者などと気取らず、ただの『おまけ』なりに、最高の舞台を整えるという私の義務を果たすとしようか」
バルコニーから執務室へと踵を返した不敗の魔術師の背中は、いつになく真っ直ぐに伸びていた。
決戦の地、東シナ海。
深海棲艦の絶対防衛線を打ち砕き、九州・佐世保への道を開くための血塗られたチェスゲームの開始まで、あとわずか四十八時間。
人類の未来を賭けた壮大な反攻作戦の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。