二日の後。ヤン・ウェンリーが描いた壮大な反攻の図面は、いよいよ机上の海図を離れ、現実の青き海原の上でその真価を問われることとなった。
横須賀鎮守府での莫大な物資の積み込みを終えた大輸送船団は、夕闇が太平洋を赤く染める頃に抜錨した。第一艦隊および空母機動部隊を護衛の要として組み込んだその長大な隊列は、太平洋沿岸を南西へとひた走る。夜間の奇襲を警戒した完全な無線封止と、灯火管制。しかし、艦娘たちという超常の護衛に守られた船団の航海は、驚くほど平穏なものであった。
そして翌朝、昇る朝日が海面を黄金色に照らし出す頃、艦隊は紀伊水道を通過。そして太陽が天頂へと差し掛かる昼前、四国と九州を隔てる豊後水道(ぶんごすいどう)の沖合において、輸送船団と横須賀の打撃艦隊は、ついにその進路を分かつこととなった。
「大儀であった! ここから先は吾輩たちだけで十分じゃ。貴殿らの武運を、心より祈っておるぞ!」
瀬戸内海へと向かう輸送船団の先頭から、重巡洋艦・利根が誇り高く右手を掲げ、声高らかに別れの挨拶を響かせた。その声に応えるように、これから死地へと向かう横須賀艦隊の旗艦から、底抜けに明るい声が返る。
「ありがとうございマース! 利根サンたちも、無事に呉へ帰ってくだサイネ!」
戦艦・金剛が、その豊かな茶髪を潮風に靡かせながら大きく手を振り返した。
互いの航跡がY字に分かれ、輸送船団が安全な内海へと姿を消していくのを見届けると、横須賀の打撃艦隊は一斉にその艦首を西――すなわち、深海棲艦の絶対防衛線たる東シナ海へと向けた。
高く昇った太陽の光を浴びて、空母機動部隊の中核を担う加賀と、新造艦である軽空母・瑞鳳が動いた。
「索敵機、発艦させます。……瑞鳳、遅れないように」
「はいっ! 瑞鳳の航空隊、出撃します!」
加賀の放つ洗練された矢と、瑞鳳の放つ初々しくも鋭い矢が、次々と空中で零式艦上戦闘機へと姿を変え、紺碧の空へと吸い込まれていく。上空からの完全な監視網(レーダー・ネット)の構築である。
かくして、ヤン・ウェンリーの放った東シナ海殴り込み部隊の全容が海上に展開された。
前衛を務めるのは、圧倒的な高速と火力を誇る第一艦隊。戦艦・金剛、軽巡洋艦・神通、そして第六駆逐隊(暁、響、雷、電)の六隻である。
その後方、艦隊の目であり最も保護されるべき中核として続くのが、空母機動部隊。正規空母・加賀、軽空母・瑞鳳、そして彼女たちの直掩を務める軽巡洋艦・天龍と龍田の四隻。
さらに、豊後水道を抜けた直後、少し遅れて後方から凄まじい水飛沫を上げて合流してきた一群があった。
「お待たせしました! 呉鎮守府・第一水雷戦隊、ただいま到着です!」
阿武隈の快活な号令と共に現れたのは、重雷装巡洋艦の北上、そして駆逐艦の吹雪、五月雨、綾波の五隻である。
呉と横須賀の部隊が合流し、総勢十五隻に膨れ上がった人類の反攻艦隊。それは、深海棲艦によって海を奪われて以来、単一の作戦に投入された戦力としては最大規模の威容であった。
そして、大海原を先行するのは、機動力に勝る第一艦隊である。
はるか上空では、加賀と瑞鳳の放った戦闘機が広大な海域を舐めるようにエスコートし、敵の哨戒部隊を発見するや否や、一切の電波を発することなく、翼の瞬きや発光信号によって第一艦隊の金剛へと敵の座標を通達する。
「敵影発見の報告デース! 進路上、距離一万二千!」
「各艦、増速。……すり潰します」
金剛の報告を受け、神通が極めて冷徹な声で号令を下す。
上空からの絶対的な『目』を持つ彼女たちにとって、この海戦はすでにチェス盤の上の駒を一方的に動かすようなものであった。自らの進路から外れた位置にいる敵の哨戒部隊は、あえて手を出さずに完全に隠蔽・迂回し、無用な戦闘を避ける。しかし、自らの進路上に立ち塞がる敵艦隊に対しては、一切の出し惜しみをせず、最高速で肉薄して金剛の三十五・六センチ砲と水雷戦隊の雷撃で一瞬にして海の藻屑へと変えていく。
「暴力の経済学」とでも呼ぶべき、極限まで無駄を省いた進軍。ヤン・ウェンリーの戦術ドクトリンを完全に体現した十五隻の刃は、東シナ海の暗黒を切り裂きながら、敵の心臓部へと真っ直ぐに突き進んでいた。
■
同時刻。
東シナ海の逆側、深海棲艦の勢力圏の最深部に位置し、長らく孤立無援の兵糧攻めに耐え続けてきた佐世保鎮守府からも、三つの影が静かに出撃を果たしていた。
戦艦・陸奥(むつ)。軽空母・龍驤(りゅうじょう)。そして駆逐艦・雪風(ゆきかぜ)。
それが、横須賀からの作戦決行の暗号電文を受け取った佐世保が、燃料タンクの底を削り取って捻り出した、文字通りの全戦力であった。
天高く澄み渡る青空の下、軽空母の龍驤が式神を空へと放つ。彼女の放った数機の戦闘機が上空警戒(CAP)の円を描き、さらに数機の索敵機が、横須賀から事前に指定されていた座標――敵の泊地周辺の絶対防衛海域へと飛んでいく。
「……ほんまに来るんかいな、横須賀と呉の連中は」
龍驤が、独特の関西訛りで、どこか恨み言のようにボヤいた。
それは無理からぬことであった。佐世保はこれまで、他の鎮守府からの援軍はおろか、十分な物資の補給すら受けられず、文字通り見捨てられたに等しい最前線で血を流し続けてきたのだ。今更になって「大規模な反攻作戦を仕掛けるから、陽動として敵の注意を引いてくれ」と言われても、即座に信じられるほど、彼女たちのお人好しな感情は残っていない。
「大丈夫よ、龍驤。信じましょう」
ボヤく龍驤の隣で、戦艦・陸奥が優雅に、しかしどこか凄絶な笑みを浮かべて波を蹴っていた。
「だって、あの巨大な空母の打撃群を、無傷で沈めてのけた艦隊が来るのよ? 歴史が変わる瞬間を、私たちだけが指をくわえて見ているなんて、つまらないじゃない」
「わぁーっとるわ。わかっとるけど、言わんと腹の虫が収まらんのや」
龍驤は忌々しげに吐き捨てつつも、その足取りは決して陸奥から遅れることなく、完璧な歩調を合わせていた。その二隻の前方を、駆逐艦の雪風が、まるで音の無い風のように静かに、そして鋭敏に周囲を警戒しながら進んでいる。奇跡の駆逐艦と称される彼女の索敵能力は、極限の集中力を発揮していた。
その時である。雪風の視界の端、水平線の彼方に、黒い染みのような不自然な影が複数浮かび上がった。
「……前方より敵影。進路上に、駆逐級三隻、軽巡級二隻です!」
雪風の凛とした、しかし緊迫感を孕んだ報告が飛ぶ。自分たち三隻に対し、相手は五隻。数において劣勢である。しかも相手は、佐世保を長年封じ込めてきた精鋭の深海棲艦たちだ。普通であれば、陽動の目的を果たすために距離を取り、遅滞戦闘に持ち込むのがセオリーである。
しかし、佐世保に長らく鬱積していた誇りが、その常識を蹴り飛ばした。
「出し惜しみは無し、よね! 第一砲塔、第二砲塔、目標、敵軽巡洋艦……てぇーっ!!」
陸奥が、敵の射程外からいの一番にその巨大な主砲を咆哮させた。戦艦が放つ四十一センチ砲の圧倒的な質量が、空気を引き裂いて敵陣のど真ん中へと降り注ぎ、凄まじい水柱が天を衝く。
これは遅滞戦闘などではない。最初から、敵を本気で殺しにいく純粋な殲滅戦の幕開けであった。
「そらそうやろ! こっちはすっからかんのタンクの底さろうて来とんねん!」
陸奥の先制攻撃に呼応するように、龍驤が艦載機を次々と空へと蹴り出した。
「連中、補給物資をたっぷり積んで助けに来る言うてんねんから! もし嘘ついて来んかったら、ウチらが直接あっちの鎮守府に殴り込んだらぁ!! ……たのんだで、横須賀ァ!!」
龍驤の叫びと共に、爆音を轟かせた攻撃隊が敵艦隊の頭上へと殺到する。
東シナ海の西の果て、見捨てられていたはずの佐世保の海域で、三隻の歴戦の勇士たちが、圧倒的な数の深海棲艦を相手に壮絶な陽動の戦端を開いた。ヤン・ウェンリーの描いた巨大な包囲網は、今、その両端から敵の心臓部に向けて、燃え盛る炎となって突き進んでいたのである。