ヤン・ウェンリーが立案した「東シナ海反攻作戦」――その多方面からの同時侵攻という大胆極まりない戦術は、かつて同盟軍の統合作戦本部が紙の上で描いたような空理空論ではなく、極めて精緻な計算と心理的誘導に裏打ちされた芸術的な罠であった。
そして、その罠は見事に、敵の心臓部においてその真価を発揮することとなる。
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東シナ海の最深部、暗雲が常に垂れ込める海域。深海棲艦の絶対防衛線とも呼ぶべきその泊地の中枢において、部隊の指揮を執っていたのは、禍々しい装甲と有機的な流線型を併せ持つ特異な個体――戦艦『レ級』であった。
彼女の思考回路は、かつて人間が用いていたような感情的な揺らぎを持たない。極めて冷徹で、純粋な数学的論理と、ある種の悪意に満ちた戦略的最適解によって構成されている。
そして、そのレ級が現在、その演算能力の大部分を割いて企図していたのは、横須賀から帰還するであろう人類の「輸送船団」の完全なる殲滅であった。
彼女は、横須賀へ物資を運び込んだ船団が、必ず呉や他の鎮守府へと戻るための復路に就くことを正確に予測していた。軍事的な効率のみを考えれば、横須賀へ向かう往路で船団を叩くのが最善である。しかし、レ級はあえてそれをしなかった。彼女の目的は、単に物資を海の底へ沈めることではなく、人類から「戦意という名の精神的資源」を根こそぎ奪い去ることにあったからだ。
一度、最前線の鎮守府に物資を届けさせ、希望を抱かせる。
歓喜に沸く人類が、再び海を取り戻せるかもしれないという幻想を抱いたその絶頂の瞬間。東シナ海から太平洋へと抜け、沖縄の東を通過し、再び油や物資を手に入れるために中東へと航海しようとする帰還船団を、圧倒的な暴力で包囲し、一人残らず海の底へと引きずり込む。
希望を最高潮まで高めた直後に、それを地獄の底まで叩き落とす。それこそが、抗うことをやめない人類の心をへし折るための、最も合理的で残酷な心理戦(サイコロジカル・オペレーション)であると、彼女は計算していたのだ。
『ヨコスカ方面ニテ、不穏ナ活動ノ兆候アリ。』
深海棲艦独特の通信回路を通じて、配下の哨戒部隊から報告が上がる。しかし、レ級の冷たい双眸に焦りの色は浮かばなかった。
(……大局的優勢ハ、依然トシテ我ラニ在リ。揺ルギナシ)
レ級は自身の記憶にある世界地図を俯瞰した。人類は局地的な反抗を試みているが、戦略的視点に立てば、依然として世界の海は深海棲艦の支配下にある。南方海域の激戦地である「鉄底海峡」は完全に彼女たちの庭であり、資源の宝庫であるインド洋の大半もすでに手中に収めている。そして何より、彼ら深海棲艦の兵力は、暗い海の底から尽きることなく湧き上がり続けるのだ。
―――数日前、横須賀近海へ向かわせようとしていた正規空母を含む八隻の機動部隊が、夜間の闇に乗じた敵水雷戦隊の奇襲によって全滅させられた。その事実は、レ級の演算回路にも「痛覚」に似たエラー信号をもたらしたのは確かだ。しかし、それも所詮は局地的な戦術的敗北に過ぎない。
こちらの本陣であるこの泊地には、依然として空母二隻、軽空母二隻、戦艦二隻、重巡一隻、軽巡二隻という、人類の残存戦力では到底太刀打ちできない圧倒的な正規打撃群が手付かずのまま温存されているのだから。
その強固な自信と冷徹な計画が、最初のノイズによって僅かに乱されたのは、まさにその時であった。
『サセボ泊地ヨリ、敵残存艦隊、出撃ノ兆候アリ。』
無機質な報告がもたらされた。長らく兵糧攻めにし、完全に封じ込めたはずの佐世保鎮守府が動いたというのだ。
『……非論理的ナリ。愚カナル自殺行為。』
レ級は即座にその動きを「無意味な足掻き」と断定した。何を馬鹿な真似を、という嘲りがその機械的な思考に混じる。佐世保からこの泊地に至るまでの航路上には、すでに分厚い封鎖網を敷いている。前衛として駆逐艦三隻と軽巡二隻。さらにその後方には、万が一前衛が抜かれた場合に備えて、戦艦一隻、重巡二隻、駆逐四隻からなる重厚な防衛線を構築してあるのだ。
燃料も弾薬も尽きかけている佐世保の残存艦隊――たった数隻のボロボロの艦娘たちが、この二段構えの防衛網を突破して泊地にたどり着く確率など、天文学的なゼロに等しい。
『サセボハ放置セヨ。迎撃網ニテ自動的ニ処理スベシ。』
レ級がそう処理を下し、再び横須賀方面の輸送船団に対する襲撃計画へと演算を戻そうとした、まさに次の瞬間である。
『緊急入電。ヒガシ……キュウシュウ、サタミサキ沖ヨリ、敵大艦隊突入。』
『……何?』
レ級の思考回路が、一瞬だけ硬直した。九州南端、佐多岬の沖合。それは、彼らが現在陣取っている東シナ海の泊地へと直接通じる、東の玄関口である。
『スデニサタミサキヨリ50キロ西。敵艦隊、高速ニテ接近中。ソノ数、ジュウ以上。』
『……虚偽ノ報告ナリ。再演算セヨ。』
レ級は配下のセンサー網に対し、苛立ちすら混じった命令を下した。
馬鹿なことを言うな。前回の夜間奇襲による空母部隊の喪失という『油断』を教訓とし、今回は南よりの太平洋側の航路に対して、これまでとは比較にならないほど高密度の哨戒網(ピケット・ライン)を敷き詰めていたはずだ。
それが、十隻以上もの大規模な大艦隊の接近を、泊地の目と鼻の先である佐多岬を超えて、50キロもの間まで一切探知できなかったというのか。
(……前衛ノ哨戒網ハ、何ヲシテイタ? 何故、迎撃ノ報告ガ上ガラナイ?)
レ級の演算回路が、急速にエラーを吐き出し始める。
彼女は知る由もなかった。ヤン・ウェンリーという男の指揮の下、彼女らは「レ級が取るに足らないと思っていた支援物資の船団と共に水道まで来た」のだ。そして、更にそこから先は、空からの完全な監視網を持つ人類の艦隊が、自らの進路から外れた哨戒部隊を完全に隠蔽・迂回し、進路上の敵のみを最高速で一切の通信を発することなく「物理的かつ瞬間的に消去」しながら進軍してきたという事実を。
点と点で結ばれた哨戒網は、その点そのものを極めて外科的な手口で切除されることにより、本隊へ警告を発する機能すら奪われていたのだ。
『チッ……。全艦、対空戦闘オヨビ水上迎撃ノ態勢ヘ移行セヨ。』
レ級は初めて、自らの完璧な計画が根底から崩れ去る不快感を味わいながら、全軍へ指令を発した。そして思う。東から来る大艦隊と、西で足掻く佐世保の残存部隊。まさか、彼らは連動しているのか、と。
『念ノタメダ。空母群、直チニ索敵機ヲ放テ。敵ノ正確ナ座標ヲ特定――』
彼女がその命令を伝達しようとした、まさにその時である。
頭上の厚い雲を引き裂くようにして、深海棲艦の有機的な器官からは決して発せられることのない、洗練された内燃機関の甲高い咆哮(エンジン・サウンド)が響き渡った。
『……!?』
レ級が、思わず天を仰ぐ。
どんよりと曇った東シナ海の空。その雲の切れ間から、一機の機影が弾丸のように飛び出してきた。それは、深海棲艦の黒く禍々しい艦載機とは全く異なる、濃緑色に塗装された流麗な機体であった。そして、その両翼には、燃え盛る太陽を思わせる鮮やかな『真紅の丸(日の丸)』がくっきりと描かれている。
横須賀艦隊から飛来した、加賀と瑞鳳の放った零式艦上戦闘機であった。
その一機は、レ級の頭上――すなわち、深海棲艦の東シナ海最大泊地のど真ん中を、嘲笑うかのように低空で駆け抜けた。機体の風防越しに、搭乗している小さな妖精が、眼下に広がる巨大な敵艦隊の陣容を正確に視認する。
空母二、軽空母二、戦艦二……。そのすべての戦力と座標が、瞬時に人類側に知られていく。
『撃チ落トセ!!』
レ級が激昂と共に命じ、無数の対空砲火が空を切り裂いた。しかし、その真紅の丸を描いた戦闘機は、対空砲弾の弾幕が形成されるよりも早く、空中で見事な反転(インメルマン・ターン)を打ち、そのまま東の空……水平線の彼方へと、風のように飛び去って消えていった。
静寂が戻った泊地に、致命的な絶望感が遅れて降り注いだ。
敵の偵察機に、完全に本陣を上空から見下ろされたのだ。それはすなわち、自らのすべての座標、戦力、そして防御陣形が、これから突入してくる十隻以上の人類の猛者たちに、丸裸にされたことを意味していた。
絶対の優位を誇っていたはずの深海棲艦の東シナ海泊地は、ヤン・ウェンリーの描いた冷酷な方程式によって、狩る側から「狩られる側」へと、完全にその立場を逆転させられたのである。