東シナ海の波間に放たれていた加賀の索敵機が、母艦の弓へと一本の矢となって帰投を果たした時、司令部から予測されていた敵の陣容は、極めて正確な実数として、艦隊全体に共有された。
「―――無線封止解除。通達します。敵主力泊地、部隊構成判明。正規空母二隻、軽空母二隻、戦艦二隻、重巡一隻、軽巡二隻。その他、周辺に哨戒艇多数」
加賀に無機質に読み上げられたその報告は、常識的な海軍将官であれば絶望で顔を覆うに十分な戦力差を示していた。特に、航空戦力の中核を成す空母群が計四隻という事実は、制空権を完全に掌握されることを意味し、それは水上艦艇にとって一方的な死の雨を浴び続けることに他ならない。
「敵の空母が、ヨン隻デースか……!」
さしもの戦艦・金剛も、その圧倒的な航空火力を想像し、艶やかな額に一筋の冷や汗を流した。昼間の海戦において、上空からの飽和攻撃は戦艦の分厚い装甲をも容易にスクラップへと変える。それが四隻分となれば、いかに彼女たちの練度が高かろうとも、回避運動のみで生き残ることは不可能に近い。
だが、空母機動部隊の旗艦たる加賀の美貌には、焦りの色は微塵も浮かんでいなかった。彼女は流麗な所作で次なる矢をつがえながら、極めて平坦な声で告げた。
「問題ないわ。……敵の航空戦力がどれほど強大であろうと、私たちの脅威にはならない」
「カガ……? それは、どういう意味デスか?」
「今回の出撃に際して、ヤン提督から下された特別な指示があるの。……私と、そして瑞鳳の甲板(スロット)に搭載されている艦載機は、爆装も雷装も一切施されていない。すべて、純粋な『戦闘機』よ」
その言葉に、金剛のみならず、通信帯域を共有していた艦隊の面々が息を呑んだ。航空母艦の最大の存在意義とは、敵の射程外から爆撃機や雷撃機を飛ばし、一方的な打撃(アウトレンジ攻撃)を加えることにある。その打撃力を完全に放棄し、搭載機をすべて空戦用の戦闘機で埋め尽くすなど、近代海戦の教義(ドクトリン)からすれば正気の沙汰ではない。攻撃力ゼロの空母など、巨大な的でしかないからだ。
しかし、加賀の脳裏には、出撃前に執務室で紅茶を啜っていた、あのボサボサ頭の青年提督の姿が鮮明に浮かんでいた。
『地下でふんぞり返っている御老人達に、他の鎮守府から必要分の零戦を手配させた。何、心配いらないとも。我々は敵の艦を空から沈める必要はない。ただ一つ、艦隊の頭上を守る見えない城壁……制空権さえ獲ってくれればそれでいい。敵を物理的に打ち砕く火力は、他にいくらでもいるのだからね』
ヤン・ウェンリーは、いつものようにどこか怠惰な調子で、しかし極めて冷徹な
限られた戦力で、攻撃と防御の双方を中途半端に追及すれば、圧倒的な物量を持つ敵の前に必ず破綻する。ならば、空母の役割を防空網の構築のみに特化させ、攻撃は戦艦と水雷戦隊の突撃に全振りする。それは、自らの手駒の能力を完全に把握し、かつ絶対の信頼を寄せていなければ成立しない、狂気と紙一重の合理主義であった。
「……こういうことだったのね。あの人は最初から、敵の巨大な航空戦力を空中で完全に相殺することだけを私たちに求めていた」
加賀が静かに納得の息を吐くと、事の真意を理解した金剛の表情から不安が完全に消え去り、好戦的な獰猛さと、指揮官への絶対的な信頼を示す輝くような笑みへと変わった。
「流石、私たちの提督デース!!」
金剛は歓喜の声を上げ、第一艦隊の全艦に向けて増速の号令を飛ばした。
「上空の憂いが無いとなれば、あとは私たちの独壇場デス! 私たちはこのまま先行吶喊しマース! ―――全艦、最高速で敵の懐へ突入!! 加賀! 傘の展開をお願いしマース!」
白波を蹴立て、第一艦隊――金剛、神通、そして第六駆逐隊の面々が、矢を放たれたように真っ直ぐに敵泊地へと突進を開始する。その後ろ姿を頼もしく見送りながら、加賀は和弓を天へと掲げた。
「皆、行くわよ。第一艦隊の頭上に、敵攻撃機を入れてはいけないわ。指一本、触れさせるわけにはいかない。―――頼んだわよ」
放たれた無数の矢は、空中で濃緑色の零式艦上戦闘機へと実体化し、凄まじい爆音と共に空を覆い尽くしていった。正規空母・加賀が放つ、八十機を超す巨大な戦闘機集団。それは瞬く間に第一艦隊の上空へと展開し、太陽の光を遮るほどの巨大な防空の傘を形成した。
同時に、後方を進む新造艦の軽空母・瑞鳳もまた、元気いっぱいの声と共に艦載機を発艦させていた。
「瑞鳳の航空隊、上がります! 直掩はお任せを!」
彼女の放った約三十機の戦闘機群は、加賀のそれと比べれば小規模ではあるが、空母機動部隊自身の頭上を守るには十二分すぎる戦力であった。合わせて百十機を超える、完全武装の戦闘機群。一機の攻撃機すら混じっていない、異様にして壮絶な制空部隊の威容が、東シナ海の空を完全に制圧しようとしていた。
「いやぁ、壮観だねぇ、こりゃあ」
少し遅れて合流した呉の第一水雷戦隊。その中核を担う重雷装巡洋艦の北上が、空を埋め尽くす友軍の機影を見上げながら、いつもと変わらぬのんびりとした口調で呟いた。
「これだけ空に味方がいれば、敵さんの爆撃機も近寄る前にハチの巣ってわけだ。ウチの提督も思い切ったことをするもんだけれど、横須賀の提督さんも大概無茶苦茶な采配をするねぇ」
北上が首の後ろで手を組みながら感心していると、艦隊を率いる阿武隈が、極めて冷静な、歴戦の指揮官としての表情で言葉を返した。
「それはそうですよ、北上さん。上空でこれほど大規模な航空戦が起きるのは、おそらく『今日の昼間だけ』ですから。ヤン提督が空母を完全に『盾』として割り切ったのは、戦術的に正しい判断です」
「ん? どういうこと? あぶくまっち」
北上が不思議そうに首を傾げる。昼間の航空戦を凌いだところで、敵の強大な戦力そのものが消え去るわけではない。空母の脅威が去っても、その奥には戦艦や重巡洋艦が待ち構えているのだ。
阿武隈は、前方を進む第一艦隊の航跡を見つめながら、自らの後方に従う一隻の駆逐艦――髪をサイドテールに結い、どこか物静かな少女をチラリと一瞥した。
「今宵、ケリをつけるってことですよ」
阿武隈のその短い言葉に込められた深い殺意と戦術的意図を、北上は瞬時に理解した。
昼間の航空戦は、あくまで敵の矛を凌ぎ、距離を詰めるための通過儀礼に過ぎない。ヤン・ウェンリーが真に敵の心臓を抉り出すために用意した必殺の刃は、空の脅威が完全に消失する時間帯――すなわち『夜』にこそ放たれる。
阿武隈の視線の先にいる駆逐艦・綾波。そして先行する艦隊にいる神通、暁、響、雷、電。
夜の暗闇に紛れ、敵の懐深くに肉薄し、酸素魚雷の飽和攻撃によって巨大な戦艦をも一瞬で海の底へと引きずり込む、狂気と死の体現者たち。人類が深海棲艦に対抗しうる最大の非対称戦力たる「夜戦」の圧倒的な暴力が、今宵、敵泊地を完全な地獄へと変えるのだ。
「……おお怖っ」
北上は、かつてソロモンの鬼神とまで呼ばれた夜戦の猛者たちの静かなる闘志を肌で感じ取り、わざとらしく肩をすくめて見せた。
「そっか、そうだねぇ。日が沈んだら、アタシたちの独壇場ってわけだ。それまでは、空の姐さんたちに、しっかり頭上を守ってもらうとしましょうかねー」
気楽な北上の呟きは、しかし確かな戦意を帯びて海風に溶けていった。天を覆う加賀と瑞鳳の戦闘機群が、深海棲艦の放つ黒い艦載機の群れと激突するまで、あと数分。歴史の分水嶺となる東シナ海海戦の火蓋は、上空での熾烈な制空戦から、その幕を鮮烈に切って落とそうとしていた。
■
空における戦術の基本は、投入された兵力の数と、搭乗員の質の掛け算によって決まる。
ヤン・ウェンリーが加賀と瑞鳳に下した「甲板を戦闘機で埋め尽くせ」という極端な処方箋は、東シナ海の上空において、見事なまでにその数学的、かつ冷酷な正しさを証明することとなった。
敵の正規空母二隻から放たれた深海棲艦の迎撃機群は、数にしておよそ六十機。対する加賀単艦での戦闘機群は八十機を超えている。単純な数の優位に加え、彼らは歴戦の空母によって極限まで鍛え上げられた精鋭の妖精たちであった。空中の三次元的なチェスボードにおいて、濃緑色の零式艦上戦闘機は、禍々しい黒塗りの敵機を一切の慈悲もなく狩り立てていった。
その結果、空戦が始まってから、わずか十五分。
敵の護衛戦闘機は悉く海へと叩き落とされ、主を失って丸裸となった敵の爆撃機や雷撃機もまた、一矢報いる間もなく次々と火ダルマになって墜落していく。東シナ海の空は完全に制圧され、そこには勝者の証である真紅の日の丸だけが誇り高く翻っていた。
「敵が見えまシたー!!」
波を蹴立てて先行する第一艦隊の旗艦、戦艦・金剛が、水平線の彼方へと獰猛な笑みを向けた。
圧倒的な暴力を内包した、深海棲艦の東シナ海最大泊地。その主力艦隊の威容が、ついに肉眼で確認できる距離へと迫ったのである。空の防衛網を破られたことに焦った敵の軽空母が、甲板から慌ただしく新たな艦載機を発艦させようとしているのが見えたが、もはや無意味な足掻きであった。彼らが空に上がった瞬間に、上空で手持ち無沙汰にしている味方の直掩機によってハチの巣にされる運命は決まっている。
大勢は決した。あとは、丸裸となった敵艦隊を、こちらのアウトレンジから戦艦の巨砲ですり潰すだけだ。艦隊の誰もがそう確信した、まさにその瞬間である。
「未確認深海棲艦、一!」
周囲の海域を油断なく睨みつけていた第六駆逐隊の暁が、戦慄の混じった甲高い声を上げた。
彼女の指差す先、敵艦隊の陣形の奥底から、ぬらりと海面を滑るようにして「それ」は姿を現した。戦艦級の巨大なシルエットでもなく、空母級の平坦な甲板を持っているわけでもない。有機的な巨大な尾を持ち、少女の形をした本体が、白く不気味な装甲を纏っている。人類のデータバンクには存在しない、全く新たな異形の敵であった。
すると、その未確認深海棲艦の背部から、無数の黒い影が飛び立った。艦載機の発艦である。
「悪あがきデースね!? 航空戦力ならすでにこちらのものデス! 全門斉射……ファイアー!」
金剛は、いかなる新手の敵であろうと、まずは先手で物理的に粉砕すべく、三十五・六センチ連装砲の引き金を引いた。しかし、金剛が主砲の咆哮を上げたのと全く同刻。空母のように艦載機を放ったはずのその未確認深海棲艦が、前方の巨大な砲門をこちらへ向け、凄まじい閃光と共に『砲撃』を放ってきたのである。
「ワッツ!? 空母なのに、砲撃デースか!?」
金剛は目を剥き、反射的に舵を限界まで切って回避行動を取った。航空母艦と戦艦。近代海戦において、その二つの機能は完全に相反するものである。巨大な飛行甲板を持てば大口径砲の衝撃には耐えられず、重装甲と巨砲を積めば航空機を運用するスペースは失われる。その物理法則と建艦思想の常識を、目の前の怪物は平然と嘲笑っていた。
直後、金剛の横をすり抜けた敵弾が海面を抉り、天を衝くような巨大な水柱を立ち上がらせた。その水柱のあまりの巨大さに、歴戦の戦艦である金剛の背筋に氷のような悪寒が走る。
「あの深海棲艦、金剛さんを超える大口径砲を持ってるわ! みんな絶対に当たっちゃダメよ!」
暁が、即座に敵砲弾の口径を看破し、全艦へ警告を飛ばす。直撃すれば、金剛の分厚い装甲すら一撃で貫徹されかねない暴力的な質量だ。航空機を飛ばし、戦艦を超える火力を投射する怪物。だが、悪夢はそれだけでは終わらなかった。
上空でいくつものゼロ戦が火炎に包まれている。完全制圧したはずの空の戦場が、再び混沌の渦に巻き込まれていた。
あの謎の深海棲艦が放った黒い艦載機群は、これまでの敵機とは次元の違う機動性を誇っていた。彼らは加賀の放った零戦の死角へと奇妙な軌道で入り込み、歴戦であるはずの妖精たちを次々と乱戦に引きずり込んでいる。圧倒的であったはずの制空権が、徐々に、しかし確実に押し戻され始めていた。
「シィイイイイット! 完全に予想外デース!」
金剛は悪態を突きながら、ジグザグの回避運動(コースター・マニューバ)を取りつつ、後退しながらの遅滞戦闘を余儀なくされた。距離を詰めれば、あの四十センチ砲の直撃コースに入る。アウトレンジから砲撃戦を挑むしかないが、敵陣には加えて通常の戦艦級も二隻控えているのだ。雨霰と降り注ぐ敵弾の波を掻き分けながら、金剛の艦体にも至近弾による細かなダメージが蓄積していく。
(このままでは、ジリ貧デースね……!)
空母機動部隊の支援が届かない現状、水雷戦隊の駆逐艦たちは敵戦艦の砲火の前に出ることはできず、金剛一隻に敵の火力が集中している。ヤンの冷徹な方程式が、敵の規格外の能力によって崩されようとした、まさにその時。
轟音と共に、敵陣の左翼を固めていた重巡洋艦が、突如として大爆発を起こし、その体を真っ二つに折りながら轟沈した。
「……え?」
金剛が驚きに目を見開くと、いつの間にか波間に身を潜めていた電が、少しだけ得意げな、しかし獲物を仕留めた狼のような冷たい瞳で、
「当たったのです」
と小さく呟いたのが見えた。そして、驚愕は連鎖する。電だけではない。響、雷、そして暁の四人が装備していた魚雷発射管、そのうちの一つずつが、いつの間にか空になっていたのである。
それに金剛が気付くと直後、敵陣の右翼にいた軽巡洋艦に、時間差で到達した雷と響の酸素魚雷が深々と突き刺さり、またしても水柱と共に敵艦が爆沈した。
「いつの間に……!?」
戦艦の激しい砲撃戦と、水柱による視界不良。そして、未確認深海棲艦という最大の脅威に敵味方すべての意識が釘付けになっていた。その砲撃戦の死角を見極めた第六駆逐隊の少女たちは、昼間の海戦では命中率が著しく下がるはずの雷撃を、その波の乱れと敵の混乱に乗じて敵の横っ腹に叩き込んだのである。水雷戦隊の恐るべき真骨頂であった。
「サンキューデース! おかげで助かりましたヨー!!!」
両翼の巡洋艦を排除され、陣形にわずかな隙間が生じたことで、金剛は砲撃の包囲から逃れるための空間を確保することに成功する。改めて距離を取りつつ、金剛の主砲が火を噴く。相手の駆逐艦、そしてあろうことか新型の深海戦艦からも無数の魚雷が放たれるが、太陽の光の下であれば、白波を立てて進む魚雷の航跡は目視が可能だ。暁たち第六駆逐隊が即座に航跡を割り出し、
「右舷三十度、魚雷接近! んもう! あの深海棲艦、艦載機と砲撃だけじゃなくて、雷撃までしてくるなんて!」
と悪態をつきつつも、的確な回避指示を飛ばす。金剛と神通は、その声に従って艦体を滑らせながら、敵戦艦とのヒリつくような遠距離砲撃戦を継続していく。
■
一方、その後方。空母機動部隊の旗艦である加賀は、被弾して煙を吹きながら母艦へと舞い戻ってきた一機の零戦から降り立った妖精の報告を受け、その優雅な顔を驚愕に歪ませていた。
「……あの子たちが、空戦で押し負けているというの?」
「おいおいマジかよ」
天龍が思わず言葉を発した。加賀にとって、自らの翼たる妖精たちが純粋な制空戦で後れを取るなど、到底信じがたい事実であった。それほどまでに、あの未確認深海棲艦が放った艦載機の性能と練度は異常なのだ。しかし、ここで制空権を完全に手放せば、最前線で敵の猛砲火に耐え抜いている第一艦隊の頭上に、死の雨が降り注ぐことになる。
「まずそうなのかしら? 加賀さん」
「ええ。少し、まずいわ。でも……、負けさせるわけにはいかないわ。……ヤン提督の信頼に、必ず応えるのよ」
加賀は、手元に残された最後の矢――本来であれば予備として温存しておくべき最後の三機分の妖精たちへ、静かに祈りを込めた。
「これが最後の張り子よ。……飛んで」
放たれた三機が、決死の覚悟で激戦の空へと急上昇していく。それに呼応するように、隣を航行する軽空母・瑞鳳の直掩からも艦載機が追従していった。
「瑞鳳の直掩隊から、十機を前線へ回します! 加賀先輩の航空隊を援護して!」
瑞鳳は、自らの頭上を守るための護衛機を削ってまで、最前線の空戦へと戦力を注ぎ込んだ。ギリギリの綱渡りである。空からの奇襲を受ければ瑞鳳自身が致命傷を負いかねないが、今は前線の制空権を維持することがすべてに優先する。
「まだ、負けるわけにはいきません。……もう少し。あと少しだけ、持ち堪えて!」
瑞鳳の祈るような呟きが、硝煙の匂いと共に海風に溶けていく。戦場の空を見上げれば、高く昇っていたはずの太陽はすでに西の水平線へと傾きかけ、空を鮮やかな茜色に染め上げていた。
人類が不利を強いられる、大艦巨砲と航空機の支配する「昼の海」。
その過酷な時間を、第一艦隊は満身創痍になりながらも、決して陣形を崩すことなく耐え抜いている。
太陽が沈み、すべての視界が闇に包まれる時。航空機が機能不全に陥り、狂気と殺意に満ちた水雷戦隊の牙がその真の切れ味を取り戻す「夜の時間」が、すぐそこまで迫っていた。