午前五時二十九分五十九秒。日本列島では、ごく普通の初夏の朝が始まりつつあった。
北海道東部ではもう朝日が低い雲を照らし、東京では高層建築の谷間へ淡い光が差し込み始めている。関西圏では夜間貨物列車が最後の区間を走り、九州では早朝便の自動貨物機が離陸許可を待っていた。
人々の生活を支える都市設備は、人間が眠っていても止まらない。自動配送網、電力系統、上下水道、道路交通管制、気象観測網──数え切れないほどのAIが、それぞれの仕事を淡々と続けていた。
その日も、そうなるはずだった。
午前五時三十分〇〇秒。
閃光はなかった。轟音もなかった。地震も衝撃波も、奇妙な浮遊感すらなかった。
眠っていた人間はそのまま眠り続け、起きていた者も目の前の風景に何の変化も感じなかった。東京の交差点では信号がいつも通りに切り替わり、新聞の電子版には朝の記事が配信され、コンビニエンスストアの厨房では朝食用の調理機が作動した。
世界は、何事もなかったかのように続いていた。
ただし──日本の外にあった世界だけが、すべて消えていた。
◇
「……再照合」
茨城県にある宇宙観測施設。夜勤明けを待っていた主任観測員の佐伯は、壁面表示に浮かぶ数値を見つめたまま言った。
『実行済みです』
「もう一度」
『同一結果が得られる可能性は九九・九九九九九九八パーセントです』
「いいから」
『了解しました』
施設AIの返答には感情がない。佐伯は冷めかけたコーヒーを机へ戻した。表示されているものは、機械の故障として片付けるには、あまりにも壮大だった。
恒星配置が違うのだ。
最初に異常を検出したのは、全国の天文観測設備だった。地球の自転によって生じる見かけ上の星の移動──その軌道が、午前五時三十分を境に不連続になっている。まるで空そのものが、一瞬で別物に差し替えられたかのように。
「基準星、全部か?」
「全部です」
若い技官が青ざめた顔で答えた。
「太陽は?」
「スペクトル取得中です。ただ……」
「ただ?」
「位置が、おかしいです」
佐伯の指が止まった。
「どのくらいだ」
「観測誤差では説明できません」
その瞬間、警告表示が一斉に増えた。月追尾系統、惑星観測系統、深宇宙航法系統。
一つだけなら故障で済む。十ならサイバー攻撃を疑う。だが今は、日本中の独立した観測機器が、同時に同じ結論を示していた。
『緊急事象候補を検出しました。宇宙座標系の全面的再構築を推奨します』
AIの告知を聞いた佐伯は数秒黙り込み、それから端末を取った。
「内閣危機管理系統につないでくれ。最高優先度で」
「理由は?」
「……理由?」
佐伯は窓の外を見た。見慣れた朝焼けが広がっている。
「星空が全部違う」
◇
同じころ、海でも異常は見つかっていた。
日本海南西部を通常哨戒中だった海上保安庁の巡視船「いわみ」は、転移発生から十一分後、速力を落として状況の確認に当たっていた。
「レーダー再校正、異常なし」
「衛星測位は?」
「国内系統は正常。外部衛星とのリンクは……ほぼ全滅です」
艦橋中央で、船長の三浦直哉は腕を組んだ。百八十五センチの長身は広い艦橋でも目につくが、本人の口調は静かなものだった。
「通信障害にしては妙だな」
「妙どころじゃないですよ」
振り返ったのは、航海・作戦担当の神谷玲司だった。二十九歳。若手幹部としては異例の速さで現場経験を積んできた男だ。
「中国も朝鮮半島もロシアも、全部応答なしです。商船ネットワークまで消えてます。これが攻撃なら相当──」
「神谷君」
柔らかな声が割って入った。兵装担当の高瀬千尋が、自席で情報を確認しながら言う。
「世界中を一瞬で消せる人がいたら、私たちが今こうして浮いている理由が、よく分からないですねぇ」
「高瀬さん、それ慰めになってません」
「慰めてませんよ」
言葉を詰まらせる神谷を見て、三浦は薄く笑った。
「海面状況は」
「正常です。波高、風向、海水温……少なくともこの辺りは、昨日と大差ありません」
「海水組成は?」
「採取艇が分析中です」
OICでは、AIが膨大な観測データを照合し続けている。やがて、一つの報告が上がった。
『西方レーダーマッピング結果に重大な不整合』
「表示しろ」
三浦の前に海図が展開され、全員が黙り込んだ。
あるはずの海岸線がない。いや、海岸線そのものはある。ただしそれは、誰も見たことのない形をしていた。
「……何です、これ」
神谷が呟いた。
日本列島の西、これまで存在しなかった海の向こうに、巨大な陸地が横たわっている。
「距離は?」
「最短で数百キロ圏。現在精査中です」
「ただの島じゃないな」
三浦の言葉を受けて、高瀬が表示を拡大した。遠距離観測画像に、いくつもの直線が浮かび上がる。区画された農地、道路らしき筋、河川沿いに密集する構造物──そして海岸には、明らかに人の手で造られた港があった。
「人がいますねぇ」
そう言った高瀬の声からは、いつもの柔らかさが少しだけ消えていた。
◇
午前六時十二分、総理大臣官邸地下の危機管理センター。
通常なら行政各系統の朝の定時報告が流れる時間帯だが、その日、中央表示に並んでいたのは、どれも国家史上初めて目にする文言だった。
『国外通信網:全面断絶』
『国外衛星系:大規模消失』
『恒星座標:既知データとの一致なし』
『月:観測対象不一致』
『国内測位衛星:一部存続』
『日本近傍海域:未知地形確認』
『大気組成:概ね地球型』
『重力加速度:地球標準値近傍』
首相は表示を見上げたまま口を開いた。
「もう一度確認する。国内の被害は?」
「転移そのものによる直接被害は、現時点では確認されていません」
「地震は」
「有意な増加はありません」
「津波」
「ありません」
「電力」
「全国系統は正常です。海外連系分のみ自動遮断済みです」
「食料」
「直ちに不足する状況ではありません。備蓄の評価を開始しています」
「原油は」
「海外からの供給は当然ながら途絶しています。ただ、備蓄と代替エネルギーがありますので、短期的な問題にはなりません」
首相は息を吐いた。
二十三世紀初頭から、日本は「国外からの供給が一時的に途絶しても国家機能を維持できること」を安全保障政策の柱としてきた。だがまさか、その想定が世界そのものの消失という形で役に立つとは、誰も考えていなかった。
「国外にいた邦人は」
室内の空気が重くなる。
「……通信できません」
その答えだけで十分だった。海外赴任者、旅行者、商船の乗員、宇宙施設の勤務者──日本国外にいた数百万の人々がどうなったのか、誰にも分からない。
首相は目を閉じた。だが、それはほんの数秒のことだった。
「今は国内を守る」
目を開き、首相は続けた。
「非常事態体制に移行する。ただし民生統制は必要最小限にとどめ、物流、エネルギー、食料、医療を最優先とする。自衛隊と海保は警戒態勢を引き上げるが、未知の文明圏に対する先制的行動は禁止だ」
「接触は?」
「勝手な接触は認めない。政府の管理下に置く」
「西方大陸の文明水準は?」
国家安全保障担当補佐官の問いに、情報担当官が答えた。
「まだ分かりません。ただ──」
彼が表示したのは、早朝に取得された高解像度の偵察画像だった。湾と運河、密集した石造建築、帆船、農地、道路、城壁。そして港の先端で、何かが淡く輝いている。
「熱源ではありません」
「電気か?」
「該当しません。既知の発光原理とも一致しません」
首相が目を細めた。
「文明があることだけは、間違いないのか」
「はい」
「人口は?」
「推定不能です。ただし、単なる集落ではありません」
少し間を置いて、担当官は続けた。
「都市です」
◇
午前七時四十分。東京では、ようやく多くの市民が異変を知り始めていた。
『政府は現在、日本国外との通信障害および天文観測上の重大な異常について調査しています』
ニュースキャスターの表情は固い。
『国内の電力、水道、交通、通信インフラは正常に機能しています。政府は不要不急の買い占めを控えるよう呼びかけています』
当然ながら、買い占めは発生した。ただ、二十四世紀の物流AIはそれを数分で検出し、店舗ごとの購入量制限を自動で提案した。
SNSには、情報が津波のように流れている。
「世界終わった?」
「星が違うってどういう意味?」
「海外全部つながらない」
「またデマだろ」
「月デカくない?」
「いやマジで月おかしい」
大阪のマンションでは、九十四歳の男性がニュースを見ながら朝食をとっていた。再生医療と老化抑制治療を受けている彼の見た目は七十歳前後で、今も大学で非常勤講師を務めている。
「別の惑星かもしれんってさ」
「そうか」
妻の言葉に、男性は短く返した。
「驚かないの?」
「いや、驚いてるよ」
「そうは見えないけど」
「九十年も生きてるとね、大抵のことは……」
言いかけて、男性はテレビに映し出された巨大な衛星の画像に目を留めた。
「……いや、これは大抵じゃないな」
◇
午前九時十三分、「いわみ」は新たな命令を受けた。
『西方未知文明圏に対する遠距離観測を実施せよ。接触は原則回避。ただし相手側から接触行動を取った場合は、現場判断による平和的対応を許可する』
命令文を読み終えた神谷が、眉を寄せる。
「平和的対応、ですか」
「便利な言葉ですよねぇ」
「高瀬さんは気楽そうですね」
「気楽じゃないですよ」
「そう見えるんですけど」
「怖いときに怖い顔をしても、怖さが二倍になるだけですから」
二人のやり取りを聞きながら、三浦は西の海を見ていた。肉眼ではまだ何も見えない。だがOICには、港も、帆船も、人も──文明そのものが映っている。そして奇妙なことに、いくつかのセンサーが、ごく微弱な未知の現象を拾っていた。
「船長」
分析担当官が呼んだ。
「何だ」
「沿岸都市の周辺で、既知の電磁現象では説明できない周期的なエネルギー変動があります」
「人工物か?」
「可能性はあります。ただ……」
「ただ?」
「生物反応とも相関しているんです」
三浦が振り返った。
「人間から出ているっていうのか?」
「人間かどうかも、まだ……」
担当官の声を遮るように、OIC中央に警報が表示された。
「新規目標!」
神谷が即座に表示を切り替える。
「方位二七八、距離二十三海里。小型船……いや、帆船です」
拡大された映像には、三本の帆柱を持つ木造の外洋船が映っていた。小さいが、確かに船だ。甲板上には人影も見える。
「こちらへ向かっています」
神谷の声が硬くなった。
「武装を確認。側面に砲門らしき開口部、甲板上にも武器を持った人員がいます」
「数は」
「三十数名。砲は四門から六門」
「射程に入るまでは?」
「まだ相当時間があります」
「30ミリは現状維持だ。指向させるな」
「ですが船長」
「警戒はしろ。威嚇はするな」
神谷は一瞬黙り、それから頷いた。
「……了解」
「向こうも同じことを考えてくれるといいですねぇ」
微笑む高瀬に、三浦は「そう願うよ」とだけ返し、再び映像に目を向けた。
帆船の船首に、一人の男が立っている。望遠映像でも分かるほどの大柄な体躯で、長い髪と髭をたくわえ、腰には刀らしきものを下げていた。片耳では何かが光っている。
数秒の沈黙の後、神谷が言った。
「……海賊じゃないですか?」
高瀬も画面を覗き込む。
「海賊っぽいですねぇ」
「ですよね?」
「でも、旗はちゃんと掲げていますよ」
三浦は、男の姿ではなく船の動きを見ていた。風を読み、波を切り、無駄なくこちらへ近づいてくる。かなり腕がいい。
「海賊かどうかは知らん」
三浦は言った。
「だが、いい船乗りだ」
◇
同じ時刻。その帆船の船首で、リヴァーノの老船長は望遠鏡を目から離した。
「……なるほどな」
「船長?」
若い船員の問いに、老船長は答えなかった。水平線の向こうに浮かぶ物体を、もう一度見つめる。
帆がない。櫂もない。煙も上がっていない。それなのに、海の上で微動だにせず停止している。船体は木でも石でもなく、そして何より、でかい。
「大砲に火を入れますか?」
緊張した声で尋ねる船員に、老船長は即座に振り向いた。
「やめろ」
「ですが──」
「弓も銃も下げさせろ」
「しかし、あれが敵なら」
「敵なら?」
老船長は、歯を見せて笑った。
「あれが俺たちを沈めるつもりなら、もう沈んでる」
船員たちが互いに顔を見合わせる。
「帆を少し落とせ。ゆっくり行くぞ」
「逃げないんですか?」
「ここまで来てか?」
老船長は再び、巨大な異形の船へ望遠鏡を向けた。船体の側面に文字らしきものが見えるが、当然読めはしない。
「東の海には何もない、ってのが俺たちの常識だった」
そう言って、低く笑う。
「どうやら、今日から変わったらしい」
こうして、日本国海上保安庁の巡視船「いわみ」と、ヴァレシア王国リヴァーノの武装帆船は、ゆっくりと互いの距離を縮めていった。
このとき、双方ともまだ知らなかった。この海上で交わされる最初の一言が、人口百九十万の小王国だけでなく、亜大陸六千万の政治秩序を揺さぶり、やがて五十二億の住民が暮らす世界全体へ波紋を広げていくことを。そして日本自身もまた、この世界によって変わっていくことを。
午前九時四十七分。両船の距離、九海里。
人類史上初めての異世界外交まで、あとわずかだった。