休憩は、予定より短かった。原因は、リヴァーノ領主である。
「もう、よろしいでしょうか」
まだ十分しか経っていない。日本側の使節団長が水を飲んでいる横で、領主は三枚目の質問紙を手に待ち構えていた。
娘が父の袖を引いた。
「お父様」
「何だ」
「休憩という言葉の意味を、ご存じですか?」
「知っている。質問をしない時間だろう」
「その通りです」
「だから、十分も質問しなかった」
「普通は、もう少し長いものです」
端の椅子で、ガルディオが笑った。
「閣下、海の上なら、十分休めば十分ですよ」
「あなたは黙っていてください」
娘の返答は速かった。
翻訳AIは、そのあたりの会話も、ほぼ遅延なく日本側へ伝えている。日本側の言語担当官が、小さく笑った。
「だいぶ分かるようになりましたね」
携行端末には、こう表示されていた。
『一般会話:高信頼』
『政治・宗教・魔術理論:要注意』
『冗談・皮肉:推定可能』
接触開始から、まだ一日余り。それでもAIは、昨日海上で交わされた会話、ネリオたちが提供した語彙、今日の群衆の発話、港務所の文書、そしてファルネの翻訳魔法の出力を、休むことなく取り込み続けていた。昨日の「単語を並べただけの奇妙な現地語」は、もうほとんど残っていない。
ただし、言葉が分かることと、世界が分かることは別だった。
◇
「では」
領主が紙を持ち上げた。
「日本人は空を飛べるそうですが、どのくらい高くまで?」
使節団長が一瞬、科学担当を見た。科学担当は小さく肩をすくめる。
「どの程度まで説明しましょう」
「一般公開情報の範囲なら、構わないでしょう」
政治担当の答えを受けて、使節団長は領主に向き直った。
「まず、人間自身が翼を持って飛ぶわけではありません」
「それは分かっています」
「機械に乗るのです」
「昨日、聞きました」
「航空機、と呼んでいます」
翻訳AIが、現地語に近い表現を組み立てた。
『空を移動する機械の船』
「鳥のように?」
「方法はいくつか違いますが、結果としては」
「どれほど速いのです?」
日本側が、一瞬黙った。
「民間用の普通の航空機でも、音より速いものがあります」
翻訳AIが止まった。
『“音より速い”という概念に説明が必要』
領主の眉が上がる。
「音より?」
科学担当が、指で机を叩いた。
「今、この音が皆さんの耳に届くまでにも、わずかな時間がかかっています」
「それは知っています」
ギルド代表が言った。
「雷光の後に、雷鳴が遅れて届く」
「その通りです」
科学担当の顔が明るくなった。
「我々は、音が空気の中を進む速さを測ることができます」
「測れる?」
「はい」
「そして、その音より速く飛ぶと?」
「はい」
領主は紙を置いた。
「……普通の乗り物が?」
「種類によります」
娘が父を見た。父は、完全に次の質問を考えている顔だった。
「高さは?」
「通常の航空機なら、雲より遥かに高く」
「山より?」
「はい」
「この大陸の最高峰よりも?」
「十分に」
「では、空のどこまで?」
使節団長は答えた。
「宇宙までです」
翻訳AIが、また止まった。
◇
『対応概念の候補:“天の外”“星々の空間”“上天界”。宗教的な含意を避けるため、再構成します』
数秒後、訳が流れた。
『空気がほとんど存在せず、月や星々の間へと続く空間』
室内が静まり返った。領主の指が止まる。
「……そこへ?」
「はい」
「人が?」
「はい」
「魔法なしで?」
ギルド代表が身を乗り出した。
「はい」
また同じ質問だった。だが今回は、誰も笑わなかった。
領主は窓の外を見た。昼の空に、太陽が輝いている。今は見えないが、この惑星には巨大な月がある。
「月へ行ったことも?」
日本側は、少し答え方を考えた。
「我々の故郷の世界にあった月には、人類はずっと以前から到達しています」
「……到達」
「人間が降り立ち、施設を作り、活動していました」
ガルディオが、ネリオを見た。
「今の、ちゃんと訳されてるか?」
「私に聞かないでください」
翻訳AIは、自信満々だった。
『翻訳信頼度、九六パーセント』
「月は、地面なのですか?」
娘が静かに尋ねた。
「はい。少なくとも我々の世界の月は、岩石でできた天体でした」
科学担当が答えた。
「こちらの月も?」
「まだ調査中です」
「行けば、分かりますか?」
「観測だけでも、多くのことが分かります」
「行くことも?」
「技術的には、我々は宇宙を航行する能力を持っています」
使節団長が答えた。
「ただし現在は、転移の直後です。宇宙の環境も以前とは異なるため、安全の確認が必要です」
領主は口を開き、閉じ、また開いた。
「……少し、待ってください」
娘が驚いた顔をした。父が、自分から質問を止めたのだ。
「どうなさいました?」
「想像が、追いついていない」
ガルディオが笑った。
「閣下でも、そうなるんですね」
「君は黙れ」
◇
ルメリア教の司祭は、予想よりずっと落ち着いていた。
「天へ上がることを、皆様の宗教は禁じなかったのですか?」
今度は、日本側が答えに迷った。
「日本には、複数の宗教があります。また、特定の宗教を国家が強制する制度でもありません」
「神を信じない者も?」
「います」
司祭は少し驚いた様子だったが、怒りはしなかった。
「それでも、空へ?」
「はい」
「月へも?」
「はい」
「神の領域を侵す、とは考えなかったのですか?」
科学担当が答えようとしたが、使節団長が先に口を開いた。
「少なくとも我々の社会では、空も宇宙も、自然界の一部として理解されています」
「なるほど」
司祭は静かに頷いた。
「こちらでは、異端とされることは?」
使節団長の問いに、司祭は首を振った。
「我々の教義でも、世界を知ろうとすること自体は罪ではありません」
「そうなのですか」
使節団長が興味を示した。
「ルメルは我々に理性を与えた、と教えています」
翻訳AIが、新しい宗教用語を保存する。
「知らぬものを調べることを恐れるなら、理性を与えられた意味がない──そう考える者も多いのです」
「科学と、かなり相性が良さそうですね」
科学担当が思わず言った。AIが、それを慎重に訳す。
司祭は微笑んだ。
「あなた方の言う科学が何なのか、まだよく分かりませんが」
◇
「では」
領主が、ようやく宇宙から戻ってきた。
「そのような機械を動かしている力は、何なのです?」
「電気が、非常に重要です」
「昨日も聞きました」
「電気そのものは、こちらの世界にも存在するはずです」
科学担当が言った。
「雷がありますから」
「雷術もあります」
ギルド代表が頷いた。
「……雷術」
今度は、日本側の科学担当が身を乗り出した。使節団長がその袖を引く。
「今は、こちらが質問される番です」
「すみません」
領主が笑った。
「後で、いくらでも聞いてください」
「ありがとうございます」
「それで、電気とは?」
科学担当は、少し考えた。
「雷に含まれる現象の一部を、極めて精密に制御して、機械や照明、計算機、通信などに利用している──そう考えてください」
ギルド代表の顔色が変わった。
「雷を……街中に?」
「安全に制御して、です」
「各家に?」
「はい」
「常に?」
「はい」
領主が、窓の外のリヴァーノの街を見た。
「夜も?」
「もちろんです」
「街全体を照らせる?」
「はい」
「火を使わずに?」
「はい」
「白い船の中、昼みたいに明るかったぞ」
ガルディオがぼそりと言った。誰も反論しなかった。
◇
「その電気は、どこから得ているのです?」
「いくつもの方法があります」
「例えば?」
使節団長は、少しだけ笑った。また長くなる。
「太陽の光、風、水の流れ、地熱、核分裂、核融合などです」
当然、最後の二つで翻訳AIが止まった。
『対応概念なし。説明が必要』
領主が、それを聞き逃すはずもない。
「最後の二つは?」
「原子という、物質を構成している非常に小さなものがあります」
「原子」
「それを分けたり、逆に軽い原子同士を結びつけたりすると、大量のエネルギーを得ることができるのです」
ギルド代表が眉をひそめた。
「石を割るように?」
「もっと、ずっと小さな段階で」
「どれくらい小さい?」
「目には見えません」
「魔力視なら?」
「……それは、我々にも分かりません」
科学担当は、本気で興味を示していた。
「ぜひ後で、試していただきたいです」
娘が父を見た。
「日本側にも、お父様と似た方がいるようですね」
「いいことだ」
騎士は、まったくそう思っていない顔をしていた。
◇
「その、核融合というものは」
領主は、新しい言葉を慎重に発音した。
「日本では、普通に使われているのですか?」
「はい。主要なエネルギー源の一つです」
「燃料は?」
「複数あります」
「どれくらいの量で──」
「申し訳ありません」
使節団長が、柔らかく遮った。
「技術的な詳細については、この段階ですべてをお話しすることはできません」
領主が止まった。騎士が日本側を見る。空気が、少しだけ変わった。
「なぜです?」
「危険な技術も含まれるからです」
「兵器にもなる、と?」
鋭い問いだった。使節団長は、否定しなかった。
「利用の仕方によっては」
騎士の視線が、さらに厳しくなった。
「日本は、その兵器を持っているのか?」
政治担当が端末を見た。回答の方針は、すでに決まっている。
「日本には、自国を防衛するための軍事組織があります」
「兵器は?」
「あります」
「あの白い船より強い船も?」
ガルディオが、こちらを見た。使節団長は、少し間を置いてから答えた。
「『いわみ』は、軍艦ではありません」
室内が止まった。
「……何?」
最初に反応したのは、ガルディオだった。
「違うのか?」
「はい」
「大砲があったぞ」
「海上警察や、沿岸警備に近い組織の船です」
翻訳AIが苦戦した。
『海の上で法を守らせ、救難、警備、犯罪への対処を行う政府の船』
ガルディオは、椅子に深く座り込んだ。
「じゃあ、軍艦は」
「詳細については、回答を控えます」
騎士がガルディオを見た。
「昨日、聞かなかったのか」
「聞いた。答えなかった」
「なぜ報告書に大きく書かなかった」
「書いただろ。“軍事情報は喋らん”って」
「もっと目立つように書け!」
◇
領主は、笑わなかった。
「一つ、はっきりお聞きしておきたい」
これまでとは、声が違った。好奇心だけではない。地方を治める者の声だった。
「日本は」
彼は、言葉を選んだ。
「ヴァレシアを、征服するつもりがありますか」
AIは、ほとんど迷わずに訳した。室内にいた全員の視線が、日本側に集まる。使節団長も姿勢を正した。
「ありません」
即答だった。騎士は表情を変えない。
「日本政府は現在、自国民の安全確保と、この世界の状況把握、そして周辺の方々との平和的な関係の構築を優先しています」
「領土を要求しないと?」
「現時点で、その意図はありません」
「“現時点で”?」
娘が、その言葉を拾った。使節団長は慎重に答えた。
「外交官として、未来永劫について無責任な約束はできません。しかし少なくとも、現在の日本政府に、ヴァレシア王国を征服する政策はありません」
騎士が初めて、ほんのわずかに頷いた。領主も、真剣な顔で日本人たちを見つめている。
「我々が弱いから、そうおっしゃっているのでは?」
「強いか弱いかに関係なく、他国の主権を尊重することが、我々の基本方針です」
「主権」
AIが補足した。
『自らの土地と政治を、自ら決める権利』
「自ら決める権利」
領主の娘が、その言葉をゆっくりと繰り返した。
「はい」
その言葉が、この王国でどれほど重い意味を持つのか──日本側は、まだ知らなかった。ヴァルガニア帝国とベルカディア商王国、条約、港、そして圧力。リヴァーノが、そのはざまで生きていることも。
◇
「では、今度はこちらから質問してもよろしいですか?」
使節団長が言うと、領主の表情がぱっと明るくなった。
「もちろんです」
「答えられる範囲で、です」
娘がすぐに付け加えた。
「分かっている」
「毎回言う必要がありますか?」
「君が毎回言うからだ」
日本側の政治担当が、最初の質問を出した。
「ヴァレシア王国について、基本的なことを教えていただきたいのです」
「何から?」
「まず、この国を統治している方について」
「国王陛下です」
「お名前は?」
「アルヴェリオ三世陛下」
日本側の端末に、その名が記録された。
「リヴァーノ領は、国王から領主閣下に任されているのですか?」
「大まかには」
領主が答えた。
「だが、土地のすべてが私の私有物というわけではない。都市には都市の権利がある。教会にも、商会にも、村にも、それぞれ古くからの権利がある」
政治担当が、一瞬止まった。
「かなり複雑ですね」
「あなた方に言われたくはありません」
領主が即答した。翻訳AIが『軽い皮肉』と表示した。
◇
「周辺国との関係は?」
その問いに、娘の目がわずかに細くなった。騎士も日本側を見る。
ここから先は、歴史ではない。政治だ。
「ヴァレシアは、小さな王国です」
領主が答えた。
「人口百九十万人、でしたね」
「そう」
「近隣には?」
「多くの国があります」
領主は、机の上に大きな紙を広げさせた。
亜大陸東部の地図だった。日本側が初めて目にする、現地の人々自身が描いた地図だ。海岸線、山脈、河川、国境、そして文字。その中に、リヴァーノのある半島が東へ突き出していた。
「ここが、我々です」
領主の指が、半島を示した。
「北東から北にかけてがベルカディア商王国」
指が、別の領域へ動く。
「西から南西へ、影響を伸ばしているのがヴァルガニア帝国です」
日本側のAIが、名称を記録した。
「仲が悪いのですか?」
「それは」
娘が答えた。
「簡単すぎる表現です」
「ヴァルガニア帝国は強い」
騎士が続けた。
「軍事的に、ですか?」
「軍事、経済、人口、すべてにおいて」
「ヴァレシアとの関係は」
一瞬の間があった。
「友好国ではない」
騎士はそう答えた。領主が横から付け加える。
「ただし、現在戦争中というわけでもない」
日本側の政治担当は、その言い回しを記憶に刻んだ。
◇
「ベルカディア商王国は?」
「友好的です」
娘が答えた。
「ですが、無条件の友人ではありません」
「利益がある、と?」
「国家ですから」
使節団長が微笑んだ。
「その点は、我々の世界と変わりませんね」
「安心しました」
「皆さん、それをよくおっしゃいますね」
◇
次は、科学担当の番だった。
「魔法について、伺いたいのです」
ギルド代表が、待っていましたと言わんばかりに姿勢を正した。
「どのくらいの人が、魔法を使えるのですか?」
「“使える”の意味によります」
その答えは、日本側の予想していなかったものだった。
「まったく才能のない人は?」
「います」
「少しなら?」
「かなり多い」
「職業としてなら?」
「もっと少ない」
「訓練で伸びますか?」
「もちろん」
「遺伝しますか?」
「ある程度は」
「環境は?」
「影響します」
「食事は?」
「影響する場合があります」
「年齢は?」
「幼いころから適性は見えますが──」
今度は、日本側の科学担当の質問が止まらなくなった。領主が嬉しそうに娘を見る。
「ほら」
「何がです」
「私だけではない」
「安心しないでください」
◇
数十分後、窓の外で誰かが鐘を鳴らした。時を告げる鐘だった。
使節団長が時刻を確認すると、会談開始からすでに四時間近くが経っていた。当初の予定は九十分。完全に崩壊している。
領主の質問紙は、まだ残っていた。日本側の質問も増える一方だ。
「今日は、ここまでにした方が」
娘が言った。領主は不満そうな顔をしたが、今度は日本側の科学担当まで、少し残念そうだった。
使節団長が笑った。
「続きは、また改めてお願いできますか」
「もちろんです」
領主は即答した。
「明日でも」
「日程は、双方で調整いたします」
騎士が割って入った。
「……そういうことです」
◇
会談が終わり、日本側が席を立った。最後に、領主がもう一度口を開いた。
「一つだけ」
娘が父を見る。
「本当に、一つだけだ」
「どうぞ」
領主は窓の外の、青い空を指さした。
「あなた方が月へ行けるというのなら」
少し間を置いて、彼は尋ねた。
「この世界の月にも、いつか行くおつもりですか?」
使節団長は、すぐには答えなかった。科学担当を見て、政治担当を見て、それから領主に視線を戻す。
「必要があり、安全に行けると分かれば」
翻訳AIが、静かに訳していく。
「行く可能性はあります」
「そうですか」
領主は空を見上げた。その声だけは、好奇心というより、憧れに近かった。
◇
同じころ、リヴァーノ沖。
巡視船「いわみ」のOICでは、上陸班から送られてくる情報の整理が続いていた。
ヴァレシア王国。人口百九十万。国王アルヴェリオ三世。周辺の大国A、海洋商業国B。複数の知的種族、魔術師ギルド、ルメリア教、魔法、そして政治情勢。
『現地側は日本を、単なる漂着集団ではなく、国家として認識し始めている』
三浦は、その要約に目を通した。
「そりゃあ、そうなるか」
「八千三百万人ですものねぇ」
高瀬が横から言った。
「それを最初に教えたのは、早すぎたかもしれんな」
「隠しても、すぐに分かりますよ」
神谷は、別の情報を見ていた。
「ヴァルガニア帝国、ですか」
「気になるか」
「はい」
画面には、現地の手描きの地図を日本側のAIが補正したものが表示されていた。神谷は、それを指で拡大した。
「これ、ヴァレシアだけ見ていれば済む話じゃなさそうですね」
三浦は、何も答えなかった。
白い巡視船の向こうには、リヴァーノの石造りの街がある。さらにその背後には、日本がまだ見たことのない大陸が続いている。
今日、日本は一つの港町と話した。明日は王国と、その次は周辺の国々と。そしてやがては、この世界そのものと話すことになるだろう。
その最初の扉が、ようやく開いたばかりだった。