転移から六日目、午前七時十四分。
東京都内のある集合住宅で、一人の少年がコップを落とした。それだけなら、記録にも残らない出来事だった。
「あっ」
十二歳の少年の手から、朝食用のガラスのコップが滑り落ちた。床までは、およそ九十センチ。割れる──母親も少年も、そう思った。
だが、コップは床まで落ちなかった。
落ちる途中で、ほんの一瞬、遅くなったのだ。まるで見えない粘液の中へ落ち込んだかのように速度を失い、そのまま斜めにずれて、少年の膝に当たった。跳ね返って床へ落ち、今度こそ割れた。
「……今の、何?」
母親が言った。
「知らない」
少年も、呆然としていた。
だが、住宅の環境AIだけは、二人とは違う反応を示した。
『局所的な運動異常を記録しました』
「え?」
『物体の落下速度が、〇・一八秒間にわたり、重力加速度から逸脱しています』
母親が黙り込み、少年も黙り込んだ。そして──。
「……お母さん」
「何」
「これって、もしかして」
「言わないで」
「魔法?」
母親は割れたコップを見て、それから息子を見た。
「……とりあえず、学校に行く前に、政府の異常現象報告窓口に送りましょう」
「動画は?」
「SNSには上げない」
「なんで!」
「この六日間で、学習したからよ」
◇
同じ日の午前八時三十一分。愛知県の物流施設。
「ちょっと待って。今の重さ、いくつ?」
「八十七キロです」
「嘘だろ」
「貨物タグの表示は、八十七・四です」
三十二歳の作業員は、自分の手を見つめた。
先ほど、荷役の補助装置が故障した。倒れかけた荷を、彼は反射的に支えた。ただ、それだけのことだった。
だが本来なら、人間一人で保持できるような姿勢ではなかった。しかも彼は、身体強化用の外骨格を装着していなかったのだ。
「腰は?」
「何ともない」
「筋肉の損傷は?」
「出ていません」
施設の医療AIが答えた。
『直前の筋出力は、通常の予測値を二八パーセント上回っています。ただし、代謝負荷の増加は、予測値の一一パーセントにとどまっています』
「……機械、壊れてない?」
『三系統で、相互に検証済みです』
同僚が、彼の顔を見た。
「やってみてよ」
「何を」
「もう一回」
「嫌だよ」
「なんで」
「八十七キロで実験するな」
それは、正しい判断だった。
◇
午前九時〇三分。北海道。
一匹の犬が、雪解け水の流れる冷たい川へ飛び込んだ。飼い主が叫んだが、犬は悠々と泳いで岸に上がり、何事もなかったように身体を振った。
問題は、その瞬間だった。
毛皮の周囲で、水滴が一斉に外側へ弾き飛ばされたのだ。風はない。身体を振っただけでは説明できない方向へ、水滴は飛んでいた。
首輪型の健康センサーは、同じ時刻に、未知の生体周辺場を記録していた。
◇
午前九時四十七分。熊本県の農業研究施設。
「またです」
「何がだ」
「試験区画の七番です」
研究員が表示を拡大した。
転移の前から育てていた、日本原産のイネ。その一部で、根の周辺の未知エネルギー値が上昇している。
日照、温度、水、土壌、栄養条件──すべて同じだ。それなのに、高温ストレスをかけた区画の個体だけが、昨日より明らかに耐性を上げていた。
「遺伝子の発現は?」
「変化しています。ただ、それだけではありません」
研究員は、別の波形を表示した。
「現地の植物で確認されている反応に、似ているんです」
上司は黙り込み、やがて言った。
「中央へ送れ」
「優先度は?」
「最高だ」
◇
午前十時十五分。内閣直属の、未知環境生体影響対策センター。
転移以前には存在しなかった組織である。正確には、既存の感染症、宇宙医学、生体工学、環境安全保障、物理学の研究機関を束ねて、転移から三十六時間で設置された臨時の組織だった。
大会議室の正面に、数字が表示されている。
『一般市民からの生体異常報告:一七万八四四二件』
ただし、その大半は使いものにならない。転移への不安、思い込み、編集された動画、機器の誤差、偶然、既知の身体現象──。
そして何より。
「“なんとなく身体が軽い”が、七万人」
一人の研究者が言った。
「参考になりません」
「“昨日より勘が冴える”が、二万一千件」
「もっと参考になりません」
「“猫が魔法を使った”が、一万三千」
「猫は、昔から人間の理解を超えていますから」
「議事録に残りますよ」
「削除してください」
笑いは起きた。だが、全員の顔には疲れがにじんでいた。
問題は、残りの報告だった。
映像の改竄がなく、複数のセンサーで検出され、既知の現象では説明が難しく、再現性が見込める──AIによる一次評価で、それらの条件を通過した報告は、三百八十七件。
昨日までは、十一件だった。
「増え方が、速すぎる」
生体物理班の班長が言った。
「転移直後から潜在していたものが、閾値を超え始めたのか?」
「可能性はあります」
「現地の環境にさらされたせいか?」
「それだけでは説明できません」
「なぜだ」
「日本列島の内部でも、地域差が小さいからです」
表示が切り替わった。北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州、南西諸島──全国から、満遍なく報告が上がっている。
「魔力の濃度が──」
一人が言いかけると、室内の何人かが反応した。
「それは、まだ正式な用語ではありません」
「分かっています」
「“未知生体結合場”です」
「長いんですよ、その名前」
「科学用語は、格好良さのためにあるわけではありません」
「でも、現地の人たちは魔力と呼んでいますよ」
「現地語の概念と完全に一致している保証がない」
「じゃあ、括弧付きで『魔力』にしません?」
「会議の後でやってください」
六日前なら、誰かが「魔力」と口にすれば、それは冗談になっただろう。だが今は違う。
リヴァーノから送られてきた映像がある。水を浮かせる少女。帆に受ける風を操る航海魔術師。器具を浄化する治癒師。身体能力を強化する職人。
魔法そのものが実在することは、もはや疑う段階を過ぎていた。
今日の問題は、別にあった。
日本人にも、それがあるのか──。
◇
「被験者二十七番、準備完了」
午後一時二十一分。地下の実験区画。
透明な隔壁の向こうに、一人の女性が座っていた。
藤井真帆、二十九歳。生体情報工学の研究員で、この研究施設の職員だ。そして、昨日まで自分が被験者になる予定など、まったくなかった人物でもあった。
「もう一度、確認します」
実験責任者が言った。
「気分は?」
「普通です」
「頭痛は」
「ありません」
「吐き気は」
「ありません」
「発熱は」
「ありません」
「例の感覚は」
「あります」
「どんな感覚ですか?」
藤井は、少し困った顔をした。
「……右手の先に」
「はい」
「手じゃないものが、もう一つある感じです」
「幻肢のような?」
「違います」
「圧力の感覚?」
「それとも違います」
藤井は笑った。
「すみません。専門家なのに、言葉にできなくて」
「未知の現象ですから、当然です」
彼女の前には、密閉された透明な容器が置かれていた。中には、直径八ミリ、質量一・七グラムの小さなガラス球が入っている。
容器は振動を遮断する台に置かれ、空気の流れは止められ、静電気も除去されている。磁場、音響、熱対流の監視に加え、レーザー測距、重力勾配計、高速度撮影。さらに、リヴァーノの魔術師を観測した際に未知の反応を検出した、新設のセンサー群が並んでいた。
「触らずに」
「はい」
「手を、十五センチ離してください」
藤井が右手を置いた。
「まだ、動かそうとしないでください」
「はい」
三十秒が過ぎた。何も起きない。
「では、次です」
責任者が言った。
「昨日感じたように、ガラス球を右へ動かすことを意識してください」
「……やってみます」
藤井は息を吐き、ガラス球を見つめた。
一秒、二秒、三秒。未知生体結合場のセンサーが、跳ね上がった。
「反応あり」
誰かが言った。
「黙って」
五秒。ガラス球は動かない。藤井の眉間に、皺が寄った。
「力まないで」
「分かってます」
「身体じゃありませんよ」
「それが分からないんですって」
七秒。波形が上昇していく。
八秒──ガラス球が、動いた。
右へ、〇・六ミリ。
室内の空気が止まった。
「全系統、記録を保持」
「振動なし」
「磁場の変化なし」
「静電場なし」
「気流なし」
「熱勾配の変化なし」
「未知場、藤井さんの神経活動と同期しています」
藤井本人だけが、まだ気づいていなかった。
「……動きました?」
誰も、すぐには答えなかった。
「動きました」
責任者が言った。
「〇・六二ミリです」
藤井の目が、大きく見開かれた。
「……本当に?」
「もう一度、お願いします」
◇
二回目は、〇・四ミリ。三回目は失敗。四回目は一・一ミリ。五回目は〇・七ミリ。
休憩を挟み、装置を交換した。別のガラス球、別の部屋、別のセンサー。実験の担当者も交代し、藤井には対象の位置を知らせない盲検試験も行われた。
それでも、ガラス球は動いた。
一グラム台の物体を、ほんの数ミリ。
世界を征服できるような力ではない。戦場なら、何の役にも立たない。リヴァーノの魔法学校なら、入学したばかりの子供に笑われるかもしれない。
だが、日本の科学史にとっては、十分すぎる結果だった。
◇
午後三時〇八分。実験責任者は、口を開く前に一度、水を飲んだ。
「確認します」
全員が、彼を見た。
「本現象は、既知の電磁気、空気の流れ、振動、熱、音響、機械的な干渉では説明できません」
表示が切り替わる。
「被験者の意思に応じて、再現性があります」
また、表示が切り替わる。
「現象の発生時には、リヴァーノで記録された魔法使用時の未知場の変動と、共通する特徴が確認されています」
そして、最後の表示。
「したがって」
実験責任者は、そこで言葉を止めた。科学者にとって、それはかなり重い一言だった。
「現時点で我々は、日本人が、現地で魔法と呼ばれている現象を発現する能力を有することを支持する、初めての明確かつ再現可能な証拠を得た──そう判断します」
誰も、拍手はしなかった。それほど簡単な話ではなかったからだ。
「……つまり」
隔壁の向こうから、マイク越しに藤井の声が届いた。
「私、魔法使いってことですか?」
実験責任者は、眼鏡を押し上げた。
「少なくとも、今のところは」
藤井は、しばらく黙っていた。
「二十九歳になって、そんなことを言われるとは思いませんでした」
今度は、少し笑いが起きた。
◇
午後四時、政府の緊急会議。
首相は、その映像を三回見た。一・七グラムのガラス球が、数ミリ動くだけ。地味な映像だった。
「これが?」
「はい」
「魔法なのか?」
「言葉を選ばなければ」
科学顧問が答えた。
「今日は、選ばなくていい」
「では」
科学顧問は言った。
「魔法です」
首相は、椅子に深く座り込んだ。
「分かった」
反応は、それだけだった。
異世界への転移、巨大な惑星、未知の月、異種族、魔法の文明。この六日間で、常識はもう十分すぎるほど壊れている。今さら驚くことが問題なのではない。次に何をするかが問題なのだ。
「人数は?」
「不明です」
「全国からの報告は?」
「強弱はありますが、潜在的な反応自体は、かなり広い範囲に存在する可能性があります」
「全員か?」
「断定はできません」
「遺伝するのか?」
「不明です」
「年齢による差は」
「解析中です」
「地域差は」
「小さいです」
「訓練で伸びるのか?」
「それが、最重要の研究課題です」
「危険性は」
「それも、不明です」
首相は頷いた。
「では、“魔法が使えるようになりました、試してみましょう”とは、絶対に言うな」
「当然です」
「すでにSNSでは、訓練法を名乗る動画が増えています」
警察庁の担当者が口を開いた。
「どんなものだ」
「瞑想、呼吸法、断食、極端な運動、電気刺激──」
「止められる危険行為は、止めろ」
「はい」
「ただし、魔法そのものを犯罪扱いするな」
治安担当が、首相を見た。
「それも重要な点です」
「能力があるというだけで監視対象にするような制度を作ったら、社会が壊れる」
「同意します」
「スポーツは?」
別の担当者が言うと、一瞬、全員が黙った。
「……そこもか」
「身体強化が確認されれば、公平性の問題に直結します」
「競技団体と協議しろ」
「学校教育は」
「まだ、教える段階ではありません」
「子供に自然に発現した場合は」
「安全のための指針が必要です」
「労働は」
「身体強化を使うよう迫る雇用上の圧力が、問題になります」
「自衛隊と警察は」
「別途、規程が必要です」
「医療は」
「治癒の能力が出た場合、無資格治療の問題も出てきます」
「保険は」
「……それは後にしろ」
首相は、額に手を当てた。
「魔法一つで、全省庁の仕事が増えるな」
「自然法則が、一つ増えましたので」
官房長官が答えた。
「嫌な言い方だ」
◇
「もう一つ、ご報告があります」
科学顧問が言った。
「何だ」
「人間だけではありません」
表示が切り替わった。犬、イネ、樹木、昆虫、培養細胞。
「日本由来の生物全体で、類似の反応が出始めています」
「つまり」
「この世界へ来たことで」
科学顧問は、慎重に言葉を選んだ。
「我々の生物が、それまで発現できなかった性質を、発現し始めた可能性があります」
「現地の生物と比べて、どうだ?」
「はるかに弱いです」
即答だった。
「リヴァーノで観察した日常的な魔法と比べても、日本人の現時点での発現レベルは、極めて低いものです」
「六日目だからか?」
「可能性の一つです」
「適応が進むのか?」
「分かりません」
「世代を重ねれば?」
「それも、分かりません」
「……分からないことばかりだな」
科学顧問は、少し笑った。
「六日前に、別の世界へ来たばかりですから」
「それも、そうか」
◇
午後六時、政府は第一報を公表した。
隠すことはできなかった。全国から、すでに大量の報告が上がっている。下手に秘匿すれば、かえって陰謀論を育ててしまう。
ニュース画面に並んだのは、首相ではなく、科学担当大臣と研究責任者だった。
『本日、日本人の生体活動に伴って発生する未知の物理現象について、統制された環境の下で、初めて明確な再現性を確認しました』
全国の家庭で、職場で、駅で、病院で、学校で、船の上で、人々が画面を見つめていた。
『この現象は、現地の文明が“魔法”と呼んでいる現象と、共通する特徴を持っています』
SNSの通信量が、跳ね上がった。
『ただし、現時点で確認されている日本人の能力は、極めて小規模なものです。また、発現の条件、健康への影響、訓練による変化については、まだ分かっていません』
画面には、ガラス球が数ミリ動く映像が流れた。
『政府は、危険な自己実験や、根拠のない訓練法を試さないよう、強く求めます』
そして、こう続いた。
『能力の有無による差別、雇用上の不利益、不当な選別は、認められません』
まだ誰も、自分が何をできるようになるのか分からない。だからこそ、先に線を引いておく必要があった。
◇
東京。朝にコップを落とした少年は、夕食を食べながらニュースを見ていた。
「やっぱり俺、魔法使いじゃん」
「まだ決まってません」
母親が言った。
「政府が、魔法って言ったよ」
「“共通する特徴を持つ現象”です」
「ほぼ同じじゃん」
「じゃあ、もう一回コップを落としてみる?」
「……やめとく」
「賢明ね」
◇
愛知。朝に貨物を支えた作業員は、同僚からのメッセージを受け取り続けていた。
『勇者』
『魔王倒してきて』
『八十七キロの男』
『今度、冷蔵庫運んで』
「うるせえ」
笑いながら、返信を打つ。
だが、自分の手を見る目には、少しだけ不安があった。
もし、これがもっと強くなったら。もっと重いものを持てるようになったら。仕事で、それを求められたら。使いたくないと、言えるのだろうか。
◇
北海道。犬は、何も気にしていなかった。今日も元気だった。
◇
夜。未知環境生体影響対策センターで、藤井真帆は七回目の実験を終えていた。
「今日は、ここまでです」
「はい」
「疲労は?」
「少しあります」
「頭痛は?」
「ありません」
「例の感覚は」
「さっきより、よく分かります」
「どう変わりましたか?」
藤井は、右手を見つめた。
「動かそうとすると」
少し考えてから、彼女は空中へ指を伸ばした。
「手を伸ばすというより、自分の中にある何かを、外に形にする感じです」
その言葉が、記録されていく。
「名前が欲しいですね」
研究員が言った。
「未知生体結合場?」
「それは現象の名前です」
「じゃあ、魔力?」
「現地の言葉を、そのまま使うんですか?」
「分かりやすいですし」
藤井が笑った。
「もう魔法って言っちゃったんですから、今さらじゃないですか」
実験責任者は返事をせず、表示を見つめていた。
今日の最初の記録は、〇・六ミリ。最後は、二・三ミリ。わずか数時間で、少しずつ伸びている。
訓練の効果なのか。単なる慣れなのか。環境への適応なのか。それとも、未知の場との結びつきが強くなっているのか。何一つ、分からない。
「明日は?」
藤井が聞いた。
「休養日です」
「え」
「未知の現象だからこそ、無茶はしません」
「研究者なのに?」
「研究者だからです」
◇
その夜遅く、首相官邸に、リヴァーノ方面から別の報告が届いた。
ヴァレシア王国の中央政府が動いたのだ。国王アルヴェリオ三世は、日本との接触を正式に追認した。そして国王特使として、王女アレシナ・ヴァレシアをリヴァーノへ派遣するという。
日本国内では、日本人自身に魔法が発現し始めている。海の向こうでは、一つの王国が、日本を正式な外交相手として認め始めている。
転移から、まだ六日。
世界は、待ってはくれなかった。
日本が新しい世界を理解するより先に、日本そのものもまた、新しい世界の一部へと変わり始めていた。